子どもに関する事件【事例】



注 :
被害者の氏名は、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
830122 体罰事件 2005.1.15.新規
1983/1/22 埼玉県所沢市立向陽中学校で、サッカー部M顧問が、部活をさぼった男子生徒(中2)にたびたび暴行。サッカー部を破門の上、毎日反省文を書かせ、給食もクラスで食べさせず、鼻柱が変形するほど暴行。
経 緯 1982/9/8 サッカー部のAくんが、日曜日に友だちと釣りに出かけて部活動を休んだことを理由に、顧問のM教師から整列する部員の前で、暴行を受けた。M教師は、Aくんをグランド整地用のトンボで殴ったり、けったり、フェンスに頭をぶつけるなどした。

12/31−1983/1/3 冬休みに届けを出して、家族でスキーに出かけた。
帰ってきたら、M教師から部活を休んだのが悪いと部活を破門。
「てめえ!どういうつもりなんだ」と小突かれたり、けられたり、毎日、反省文を書かされた。
給食もクラスで食べることを許されず、午後1時か2時になってから、冷えた給食を職員室で一人で食べさせられた。

1983/1/22 Aくんが約束どおり午前8時20分頃までに職員室に反省文を持ってこないとして、M教師は2年8組の教室に行って、反省文を持っていたAくんに、「この野郎!」とつかみかかり、殴るける、突き飛ばすなどの暴行を働いた。Mは、Aくんが倒れてもけり続け、周囲の机やイスが壊れ、床や生徒のカバンにAくんの血が飛んだ。
さらにMはAくんを裏校庭に引きずり出して、髪をつかんでバレーボールの鉄柱に頭をぶつけた。「男同士の対決だ」と言って、無抵抗のAくんの股間をけりあげた。また、ヤギの糞捨て場にAくんを投げ込んだりした。
この暴行でAくんの鼻柱は変形し、治療に1カ月通院したが、完治しなかった。

1/24 Aくんの両親が、診断書をもって、学校に話し合いに行った。Mは話し合いに応じようとせず、担任教師と学年主任と話す。
学年主任はAくんの両親に対して、「この学校に在学を希望するなら、学校の方針に従ってもらいます」と発言。

翌日からAくんは2ヶ月半、教室に入れてもらえず1人で監禁学習。友だちとの接触は一切許可されず、トイレは他の生徒の授業中に行き、外出も禁止。登下校は親が送り迎え。

1984/12/25 両親がテレビに訴え、事件が公になる。
加害教師 Mは1983/1/22の暴行のことを、担任には「お前のような奴は帰れ!」と言って2、3回殴ったら、Aは家に逃げ帰った」と話していた。

Mはサッカー部日常的に暴行を加えていた。部員以外の生徒にも、往復ビンタや殴るけるなどの暴行を働いていた。
学校の対応 マスコミ報道後、Mくん宅を校長と主任、M教師が訪れるが、謝罪の言葉はなかった。

学校側は、「体罰というけれど、教師は体をはってやっているのであり、これは指導の一環で、子どもが実際に悪いことをしているので、指導するのが当然」と言う。
事故報告書 市教委あての「職員事故報告書」には、
「1月22日(土)、朝、職員室でM教諭が待ったが来ないので教室に行くと、1〜2行書いた作文帳を友人の前に広げ、ふざけながら書こうとしていた。この態度をみてM教諭は、折角2〜3日話し合い、本人がしっかりやるといった翌日だったので強く叱って平手で顔をたたいた。Aは他人の目を気にする生徒なので校舎裏へつれていき、注意し、反省をうながすがふてくされた態度をとったので、平手で2回ほど顔をたたいた。その後Aは家へ帰る」
と書いてあった。
PTAほかの対応 Mくんの保護者がPTA総会の席で発言しても、「そういう意見は、ごく一部の人で、大多数は学校を信頼している」という意見が出て、取り上げられない。
教育委員会の対応 教育委員会は、「厳しい指導のおかげで、非行がないのだ」と、学校の暴力・体罰を肯定するような態度。
他の教師による暴力体罰事件 体育の授業中、並び方が遅いと言って、男子生徒(中2)がF体育教師に膝蹴りをされた。同生徒は腸管破裂で開腹手術。1カ月の入院。生徒たちには盲腸で入院したと報告された。
ほかにも、暴力体罰で、頭突きによる頭部異常、ビンタによる眼球損傷等の傷害を負った生徒がいた。

1984/9/1 Fは向陽中学を退職。所沢教育センターで7ヶ月間、教師としての資質向上のための研修。
1985/4/1 市内、別の中学校に復職。
背 景 向陽中学校は16年前に新設。着任した校長は「体育の名門校にしよう」と、力量があると見込んだ体育専門の資格をもった教師を着任させた。6、7人の体育関係教師が、体育館のそばに「体育教官室」を持ち、体育行事、授業、部活動の指導に当たった。結果、陸上、バスケットんぢだ、好成績を納めた。

向陽中学校は、スポーツ万能優秀校、非行のない優秀校、進学率100パーセントの優秀校と言われるようになっていた。

一方で、体育関係の教師がもてはやされ、「体育教官室」は「第二の校長室」と呼ばれるようになり、徹底した暴力・体罰体質が信念となった。

教師間でも、「厳しく指導していかなければだめだ、そうでない人の学級は、生徒になめられて、授業にならない」「先生方が静かに授業ができたり、女の先生がスカートで登校できるのも、体を張って指導のあたっている先生がいるお陰です」と言われる。

教師であっても、体罰反対の声をあげることができない雰囲気があった。心ある教師は他校へ転勤希望を出したり、教職を去っていった。
裁 判 両親とAくんが告訴・告発。
1985/6/11 略式起訴で教諭に傷害罪。罰金3万円。

Aくんが、二度と思い出したくないというため、民事裁判を断念。
その後 1984/6/3 父母有志と教育委員会との交渉で、教育長が「過去に暴力体罰があったのは事実だが、今回再度充分なる指導を行ったので、今後はこのような不祥事は起こらない」「(暴力体罰は)根絶した」と報告した後も、同中学校では暴力体罰が行われた。

1984/9/11-12 向陽祭で販売された食物を生徒が所定以外の場所で食べたとして、空手の心得のある教師が中味の入っているボンド缶で生徒の頭部を殴打。手の甲でビンタを数回、足げり数回、拳で鳩尾を殴り、急所をけった。

1985/5/13 バスケットの朝練時、顧問教師が、シュートが悪いとして、生徒にビンタを数回、足げり数回。しばらくして再度、「たるんでいる」として殴るけるの暴行。放課後、当該生徒は、左大腿部内側に痛みを訴え、接骨院で診療。

ほかにも、2年生の生活指導の教師が、生徒4人にビンタをし、内1人の唇もしくは口周辺が切れ、出血した。
その後 何人かの父母が、「有志の会」をつくり、体罰の即時禁止を訴える。1週間で3730人分の署名を集めて、要望書とともに、県・市教育委員会に提出。

1985/3/10 「子どもの人権を守る会」設立。
参考資料 「教師の体罰と子どもの人権」/「子どもの人権と体罰」研究会編/1986.9.5学陽書房



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