子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
960918 いじめ自殺 2001.1.8 2001.2.1 2001.2.25 2002.2.8 2003.7.1 2005.6.8更新
1996/9/18 鹿児島県知覧町立知覧中学校の村方勝己くん(中3・14)が、近所の公民館の外壁の非常用梯子に、自分の布製ベルトをかけて首吊り自殺。
遺書・ほか 学生服のポケットに遺書が残されていた。

(便箋に横書きで)

「生きていきたくない。学校がいやだ。家では自分の好きなことはできない。
×× ×× ×× ×× ×× ×× (6名の少年の氏名)この6人がいやだった。なぐられたりけられたり、いろんなことをしてくれた。死んで、きさまらをのろってやる。○○(いじめられている1人の名前)なんか僕以上にかわいそうだ。僕みたいに死なないでがんばってくれ。おれが死ねばいじめはかいけつする。(弟への言葉)」

(便箋の左上の余白に横書きで)
「おれはなんども傷をつくった。」

(左下の余白に縦書きで)
「いままでにパシリにされた人やうたれた人は何十人もいる。こいつらには合計五万ぐらいはつぎこんだ。」


※6名の少年の氏名の頭に二重丸がつけてあった。その他に2名の少年の氏名が書いてあった。
調査と経緯
1995/ 勝己くんは、2年生の1学期から、上級生の2つのグループからいじめられたほか、同級生からも集団的ないじめを受けていた。

2年生になってから、いじめグループのたまり場になっていた2年2組に、日常的に呼びだされては、集団的な暴行を受けた。他の生徒たちも目撃していたが、誰も止めなかった。

3年になってからも、3年3組の前、あるいは部室の前あたりが、いじめグループのたまり場になっており、そこに日常的に呼びだされて、集団的な暴行を受けた。

1996/4/26 
11人のいじめグループに呼びだされ、一人が殴り疲れると他の者に替わるという形で次々に暴行を受けた。そばに流れているクリークに転落すると、そこに駆け下りて暴行を続け、更に、はい上がってきたところを棒で頭を思いっきり殴られた。その結果、勝己くんは20〜30秒気を失った。気が付いてからも口から泡を吐いた。【霜出事件】

9/4 ひどい暴行を受けた。

9/10 昼休みに勝己くんは、同級生3人から、「プラモデル用の塗料を買ってこいと言ったのに、なぜ買ってこないのか」などと言われて、2人から腹部を4回ずつ殴られた。

9/11 以降、勝己くんは登校していなかった。
親の認知と経緯(裁判で明らかになったことを含む) 1996/ 春休み頃から、勝己くんに同学年の生徒から頻繁に呼び出し電話がかかる。

春頃から、小遣いの前借りをすることが多くなっていたが、テレビゲームのソフトを買っているのかと思っていた。

4/ 家庭訪問の時、母親は担任教師に「息子が(呼び出し電話を)嫌がっている」と相談。担任は、これらの同級生とは付き合わないようにとだけ言った。

担任はクラス生徒に注意し、勝己くんにも声をかけるようにしたが、「いじめは一切ない」と答えていた。

夏休みにも、呼び出し電話が毎日何度もかかっていた。

9/ 2学期の始業式の日。勝己くんからの電話で学校に迎えに来た父親が、下校する生徒の集団から一人離れて息を切らし走っている息子の姿を目撃。「なんで急いどるのか」と聞くと「あいつらにあうから」と応えた。父親は「一緒に遊びたくないのだろう」と軽く考えていた。


9/11 自殺する一週間ほど前から、両親に内緒で学校を休み始める。

9/17 教師からの連絡で勝己くんが登校していないことを
両親が知る。問いただしたところ「学校が恐かった。同級生に打たれるから」と言って、このことを勝己くんは電話を代わって、教師に話した。
両親に初めて、9/10に暴行を受けたことを打ち明けた。
両親は、勝己くんに暴行を働いた少年のうち1人とその両親を呼びだして話した。加害少年の母親は最後に、自分の息子と勝己くんを握手させて終わった。
父親は夜、勝己くんと弟を呼んで「学校に行くことはお前たちの使命じゃないか」と諭した。

9/18 自殺直前に勝己君は母親に「自殺するからね」と言っていた(母親は、勝己君が親に無断で学校を休んだことの言い訳だと思った)。
制服を着て家を出たまま命を絶った。
事件後の親の対応 9/20 学校や町教委の調査に懸念をもち、両親が遺書をマスコミに公開。
警察の対応 1996/9/22 知覧署が、遺書に名指しされた生徒らを事情聴取。
10/25 少年事件として取りあげられ、少年6人を暴行容疑で書類送検。
1997/3/17 4人が保護観察処分。他2人は不処分。
学校の対応 9/19 学校側が3年生の生徒に聞き取り調査をした結果、勝己くんが1学期に集団暴行を受けたり、ジュース代の支払いを要求されたりしたことなどがわかった。

学校側は3回のいじめのみ公表。それ以外について、ほぼすべてを「知らない」とした。
校長はいじめだけが原因の自殺とは断定せず、他の要因も考えられるとしていた。

校長が町教育委員会に対する報告を怠っていたことが後に判明。

10/ 下旬に校長は数回、いじめたとされる生徒らを呼んで「君たちのやったことは殺人未遂事件だから、話はするな」などと口止めをしたと生徒が証言。対して校長は、「子どもたちには憶測で話をするなとは言った」と反論。
市民団体の関与 初七日が過ぎたころ、市民団体・「子どもの人権を守る鹿児島県連絡会」(内沢朋子事務局長)が両親と会い説得。独自に調査を始める。

遺書でいじめたと名指しされた生徒たちを親と一緒に自宅へ呼び、話を聴く。
3人の生徒の両親が「やったことに向き合わないと、立派な大人になれない」と協力するようになり、実態が明らかになっていった。ま
た、同級生19人の証言を集めた結果、2年生の1学期から自殺の直前までいじめが続いたことが判明。
学校の調査
(作文)
学校は、3年生全員に作文を書かせ調査。
作文には「この学年に村方君をいじめたことのある人は半分近くいる」などの記述もあったが、真相解明には至らなかった。
学校・ほかの対応 校長や町教育長は、両親と「子どもの人権を守る鹿児島県連絡会」に対して、「生徒や親を動揺させたくない」と調査中止を求めた。生徒には「しゃべると新聞に出るぞ」と口止め。
会の事務局には「何の資格があって調査まがいのことをするのか」と匿名の手紙も届いた。

1996/9/24 鹿児島県教育委員会が緊急いじめ対策会議を開催。


12/5 教育長は県議会で「(村方勝己くんの)自殺はいじめの影響を受けていた」と、自殺と学校でのいじめの因果関係を認めた。また、「知覧中では昨年から今年にかけて上級生が下級生に万引やけんかを強要する事件が起きている。村方君も4月と9月に集団暴行を受け、使い走りをさせられていた」などと、いじめの具体例にも言及した。
また、教育長は、10月現在、鹿児島県内の小、中、高校などで計403件のいじめがあると報告。その大半が「からかい」や「冷やかし」とし、「いじめ防止に力を注いでいる」と説明。


1998/4末 鹿児島地方法務局から、学校に対し実効性のある措置を取るよう、異例の勧告。
背 景 知覧中学校には、2つのいじめグループがあり、上級生が下級生に対して集団的な暴行を行うのが伝統になっていた。その事実について、学校側も認識していた。

1994-1995 鹿児島県内でいじめを苦にした中学生の自殺が3件あった。当時、学校には文部省や町教育委員会からいじめに関する通知や資料が次々と送られていた。
関 連 1996/9/30 午後4時頃、遺書でいじめをしていたと名指しされた生徒の父親(45)が、自宅裏で農薬を飲んで自殺。翌日死亡。

9/20 知覧署は一度だけこの加害者の父親からも、いじめに関して事情を聴いていた。
事件があってからは仕事を休んでいた。勝己くんの通夜以降、ほとんど一日おきに遺族宅を訪れ、「申し訳ありません」などと謝罪。いじめの実態が分かるにつれ、落胆の様子が大きくなっていたという。


町教委は、勝己くんの両親の始めた独自のいじめ調査に対し、「これ以上犠牲者を出したくない」として、中止を要請した。
裁 判 1998/1/21 両親が町と加害少年5人(遺書に挙げた二重丸の6人中の5人)を相手どって、「自殺の原因はいじめで、学校もいじめを放置した」として、総額9205万円の損害賠償を求めて民事訴訟を起こした。

22回にわたる口頭弁論で、元同級生や当時の校長、担任らが証言台に立った。

2001/5/9−6/11 鹿児島地裁は、双方に和解を勧めたが不調に終わる。
原告側の主張 両親は、同級生19人分の陳述書を提出し、独自の調査結果と合わせて「当時、学校内外で暴力事件やたかり行為が横行しており、学校側も把握していた」(いじめ自殺が多発し社会問題化していた当時の社会背景から)「学校は重大ないじめの存在や、それによる自殺の可能性を容易に予想できた」と主張。生徒5人についても、「継続的な暴行を加え、自殺に追いやった」と訴えた。
被告側の主張 町は、「暴行は一過性のものとしか判断できず、断続的いじめの存在は発見できず、そのつど可能な限りの対応をした。自殺を学校として予見することはできなかった」として学校側の責任を否定、全面的に争う考えを示した。
町は、そのような暴行を知ることはできなかったし、両親ですら自分の子どもがいじめられていることがわからなかったのだから、まして学校側がわかるはずがないと主張。

生徒5人も、いじめを認めつつも自殺は予想できなかったとし、「自殺直前に助けを求めた勝己君を放置した両親に比べれば、責任ははるかに小さい」などと主張。

被告側は両者とも、「両親が自殺直前に冷たい対応をしたことが直接の原因」と主張。

少年たちは一部の事実を認めているが、原告側が訴状・準備書面で展開した非常に過酷で継続する暴行については否定。ただし、それまでの加害少年からの聞き取り書の中ですでにいろいろ語っているほか、家庭裁判所の少年事件調書の中で、原告が主張するような事実はほぼ含まれていた。

少年5人のうち4人は、事実関係をほぼ否定せず和解を提案。1人は「自殺は予見できなかった」と全面的に争う。
証 言 同級生20人ほどが、目撃した事実を克明に記した陳述書を寄せた。その中で、勝己くん以外のいろいろな少年に対する暴行などの事実関係も明らかにした。

裁判で、元同級生だった少年(17)人が法廷で証言。
・勝己くんへのいじめは、3年生のゴールデンウィーク明けから本格化した。
・勝己くんが朝の自習時間、教室で暴行グループにいじめられるのは、ほとんど毎日だった。
・自殺直前、学年主任が授業中、暴行グループの生徒に「勝己くんに謝ったか」と聞いていたことから、先生たちはいじめを知っていたと思う。
・担任は、何かあればすぐゲンコツが飛んでくる先生で、皆、体罰におびえていた。目撃したいじめを相談できなかった。

また、勝己くんと同様、被告・いじめグループの1人からいじめを受けていた(勝己くんの遺書にも、被害者として名前が挙げられていた)が、一方で、霜出事件では加害者として暴行に加わっていた同級生も証言。勝己くんへの暴力、たかり等のいじめの実態や霜出事件の状況が明らかにされた。
・2年生の時の担任は、勝己くんが暴行を受けている現場を目撃して、その場で、「やめなさい」と言ったが、その後は特別な指導を行わなかった。
・この同級生のいじめ関わる家出の原因になった、まゆげ剃り落とし事件に関する校長ら教育委員会への事故報告書に記載されている学校側の指導は、実際には行われていなかった。

学校側は、同級生が勝己くんに暴力を奮っていたのは知っていたが、継続性はなく、いじめとは認識していなかったと証言。
判 決 2002/1/28 鹿児島地裁で、いじめを認め、被告の町と生徒5人に計約4480万円の支払いを命じた。
過失相殺4割。
判決要旨 裁判では、
(1)自殺についての学校側の予見可能性
(2)両親と被告の過失の割合、
などが争点になっていた。

榎下義康裁判長は、
1.加害生徒は、少なくとも2年生2学期終わりごろから3年生2学期当初までの間、勝己君に対し、
長期間にわたり、生命および身体の安全に重大な危険を及ぼす暴行を反復継続して加えていた。この間、勝己君の様子や行動等から精神的かつ肉体的にも次第に追いつめられていたことを認識していたと推認できる。
また世間では、中学生が熾烈な暴行等を反復継続して受けた場合に
自殺した事例が報告されていたことなど併せて考慮すると、勝己君の自殺を予見することができ、加害行為と自殺との間には相当因果関係があった

2.確かに勝己君は、自殺前日の夜まで、直接まちは間接的に知覧中の教員らに対し、加害生徒から暴行等を受けていることを申告していないが、(認定した)事実を総合すると、遅くとも3年生(96年)の6月ごろには勝己君が加害生徒から暴行を受けていた兆候があり、教員らは暴行を受けていたことは予見可能だった
教員らは暴行等の兆候を見過ごし、自殺までの間、速やかに実態を調査し、事実関係の把握に努め、加害生徒に適切な指導を行っていないから、勝己君の
生命や身体等の安全を確保する義務を怠った過失
がある。
教員らが少なくとも加害生徒のうち3人による
暴行の事実を把握したのは自殺前日の夕方から夜にかけて担任が勝己君の母親から受けた電話がきっかけ。その内容は単発的な暴行を受けたというもので、勝己君の生命や身体に差し迫った危険があったことをうかがわせる事情は伝えられていない。自殺の前日や当日などの勝己君の無断欠席を考慮しても、担任を含む教員らが、直ちに自殺に至ることを予見し、または予見できたとまでいうことは困難従って、自殺と教員らの過失の間に相当因果関係を認めることはできない。知覧中は暴行等を防止できなかった限度で、国家賠償法の責任を負う。

3.原告(両親)は、自殺前日、3人から暴行を受けたことを勝己君から聞くと、うち1人の生徒宅に電話をかけた。生徒とその両親が原告方を訪れ、生徒と勝己君に形だけの仲直りをさせたことで、問題は解決したと考え、父親が学校に行くよう諭した。自殺当日の朝、原告はそれぞれ勝己君に登校するように言った。さらに母親は、自殺の約1時間前、自殺場所付近で勝己君が自殺の意思を表わしたにもかかわらず、冗談だろうと取り合わなかったことが認められる。
これらの事実は
自殺の一因をなしていることも否定できず、死亡に伴う損害の公平な分担の観点からすれば、これらの事実を過失相殺に準じて斟(しん)酌するのが相当。過失相殺の割合は、本件一切の事情を斟酌すると、4割が相当。
参考資料 「子ども白書」1997年版/日本子どもを守る会編/草土文化発行、1998/3/16毎日新聞、季刊教育法2000年9月臨時増刊号「いじめ裁判」の中の「鹿児島・知覧中いじめ自殺事件」/亀田徳一郎(弁護士)/2000年9月エイデル研究所2002/1/28朝日新聞・夕、2002/1/29朝日新聞・夕2002/1/29南日本新聞1996/9/20、9/21西日本新聞(月刊「子ども論」1996年12月号/クレヨンハウス)1996/12/15西日本新聞(月刊「子ども論」1997年3月号/クレヨンハウス)



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