子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
920110 暴行殺人 2001.10.10. 2002.1.13 2003.7.21 2003/9/更新
1992/1/10 長野県下伊那郡上郷町の県立飯田高校で昼休み、小野寺仁くん(高2・17)が生物班部室の温室で応援団長の男子生徒(高3・18)に「態度が大きい」と刺殺された。
経 緯
(裁判で判明したことを含む)
1991/4 この頃からA少年は仁くんに応援団に入るよう説得していたが、断られていた

1992/1/8 A少年は昼休みに、睨み付けた仁くんに「態度が悪い」と因縁をつけたが、言い換えされるなど、反発された。

1/10 制裁として、腕か足に一生残る程度の傷をつけてやろうと考え、同棲していた女性のアパートにあった文化包丁をもって登校。

仁くんは昼休みに、ほかの2年生の班員5人と所属する生物班部室(校舎中庭の温室)で雑談していた。

午後0時30分頃、仁くんが呼び出しに応じなかったことから、応援団4人と包丁と金属バットを持ったA少年が突然あらわれ、金属バットで仁くんの頭を殴った。その際、逆に手で殴られたため、文化包丁(刃渡り約16センチ)で仁くんの左背中、左わきの下、左ももなど3カ所を刺した。

Aは犯行直後に自ら119番通報。近くにいた者に止血を指示した。
仁くんは近くの病院に運ばれたが、間もなく出血多量で死亡。
加害者の言い分 A少年は、「小野寺君はふだんから態度が大きかった」「応援団員になるよう勧誘していたが断られたため悪感情を持ち続けていた」「8日校内ですれ違った際に注意したが反発したので腹が立ち、思い知らせてやろうと思って、8日中に文化包丁と金属バットを準備しておいた「口論の末、小野寺君の頭をバットで小突いたところ殴り返されたため、『死ぬかもしれない』と思いつつ仁くんの左背部などを包丁で刺した」と話した。
加害者 小中学校を通して優等生だった。しかし、高校入学後、早い段階で学力面でつまずいた。
以前は目立たないほうだった。

中学校時代は野球部に所属。高校でも野球部にいたが、2年生の終わり頃から、右肩を痛めて退部。「それでも野球しているところにいたい」と、名前だけだった応援団を再建。

1991/春 A少年は女友だちと一緒のときに、市内の喫茶店で暴力関係者と知り合う。
3年生になったこの頃、学校では応援団員になり、髪をパンチパーマにし、すその長い学生服で通学。一方、「服装は変わっていたが、態度や性格は1、2年の時と変わらなかった」「生き生きと応援団で活動していた」という生徒の証言も。

1991/4 A少年は暴力事件を起こして停学処分になっていた。

応援団は5〜6人で、県大会でベスト8まで進出した野球部の応援活動を熱心に行っていた。

1991/夏 以降、A少年は自分が再建させた応援団を継続させようと、2年生以下の後継者探しにやっきになっていた。中学校時代にやはり野球をしていた2年生の仁くんらに再三、入団を勧めていた。しかし、進学希望で野球とは縁のない仁くんからは無視されたり、断られたりしていた。また、仁くんが馴れ馴れしい言葉遣いをしたりするのを内心、面白くないと思っていた。

応援団長をしていて、目立つ服装をしていたところ、飯田市内で暴力団組員から声をかけられた。上下の規律を重んじる点で応援団と共通するものがあるとあこがれを抱いていたため、舎弟となり、関係を誇示するようになる。(少年審判の判決要旨より)

1991/夏休み明けから、遅刻・欠席が増え、それまで欠席がなかったが、2学期は授業の3分の1を休んだ。 

1991/秋 暴力団組事務所のポケットベルを持ち、呼び出されては組事務所の掃除や使い走りをしていた。応援団活動は終わったが、黒っぽい服でネックレスをするなど、目立つ姿で外出を繰り返していた。

高校入学以来、両親はA少年が大学に進学するものだと思っていたが、本人は、進路話が持ち上がる頃から、「早く社会に出たい」と担任や父親に漏らしていた。近くの塾に通ったこともあったが、1992/1 この頃、進路がはっきり決まっていないのはA少年だけだった。
加害者の親の認知(事件前) 父親は教師。
1991/春 息子の身なりの急変に驚き理由を尋ねると、「応援団として威厳をつけるんだ」と答えた。

1991/夏 以降、A少年は「友だちの家に行く」と言っては出かけ、深夜や朝帰りもあった。父親は、「一人っ子の息子に女友だちができて、家内と(その女性とで)いい関係が続くように見守っていた」。

1991/暮れ 「暴力団と付き合っているのではないか」と問い質したが、「関係はない」と否定。父親はその言葉を信じていた。

父親は専門学校に進学するよう息子に言い聞かせており、本人も納得していると思っていた。
加害者の処分 A少年と一緒にいた4人の応援団員は登校を禁止する家庭反省の処分。

事件後、両親が退学届けを出し、A少年は自主退学。
長野地検飯田支部は、A少年を殺人と銃刀法違反の罪で起訴。家裁送致となったが、刑事事件相当として地検に逆送。
裁 判
(刑事)
1993/3/23 長野地裁飯田支部で、Aに懲役5年以上7年以下の判決。

生田治郎裁判長は、「動機は、被告が上級生や応援団長としての立場を維持したいという自己満足から出、一方的に押しかけて金属バットで殴ったことが発端で、被告の虚勢を張った態度に由来する。しかも素手の被害者に対し、執拗に刃物で3回にわたって攻撃し、尊い生命を奪った行為は悪質極まりなく、刑事責任は重大である。
しかし、計画的でないこと、下級生から予想以上の反撃を受けてうろたえるなど偶発生が高いこと、被害者の刺激的挑発的な言動が犯行を誘発したという面もうかがえることなど、被告に有利な情状も認められる」とした。


また、争点となった殺意に関しては、「興奮状態にあったとはいえ第一撃は包丁を腰に構え、正面の至近距離から左わき腹をめがけて力を込めて真っすぐ突き刺したこと、被告も殺意を否定する供述をしていないことから、第一撃においては殺意を抱いていたと認定できる」としたが、一方、犯行直後に自ら119番通報し、被害者の近くにいた者に止血を指示したことや取り調べに対する供述から、「犯行は偶発的、激情的」と傷害致死罪を適用
被害者 仁くんは医学部を志望していた。
被害者遺族 1992/1/23 同校体育館で開かれた生徒会主催の「故・小野寺仁君追悼の会」のあいさつで、仁くんの父親は、「学校は何で、一見してヤクザと分かる生徒を野放しにしていたのか。気付かなかったはずはない」と話した。
事件前の学校・ほかの対応 学校側は、加害生徒が暴力団事務所に出入りしていることを知っていた。
1992/1/7 担任教師は、3学期の始業式の前日、A少年の自宅を訪れ、就職か進学か決まっていなかった少年を「何とか卒業させたい」と学校に来るよう、説得していた。A少年のクラスは45人中42人が進学希望。A少年を含む3人が就職希望だった。
事件後の学校・ほかの対応 1992/1/10 事件のあった日は、3年生は大学入試センター試験を前に午前中だけの授業で、1、2年生は実力テスト。生徒には、昼休みに起きた事件は全く知らされず、午後も予定通りテストが行われた。教師の中にも、午後3時から開かれた緊急職員会議で初めて知った人が少なくなかった。

事件後、連日職員会議を開き対応を検討。
・全校生徒にアンケートをとって情報収集をする
・応援団の廃止を打ち出す
アンケート 学校側は生徒全員にアンケート用紙を配り、加害者のA少年や事件に少しでもかかわりのある情報を集めようとした。結果は明らかにされていない。(1992/2/2信濃毎日)
背 景 同校は県下でも有数の進学校。制服がなく、「自由と自治」を理念としていた。
関 連 応援団では過去にも暴力事件が起きていた。新団員の勧誘に行き過ぎがあった。
事件をきっかけに、応援団を廃止。
警察の対応 飯田署は、A少年が出入りしていた山口組系掛野組の暴力団組事務所など4カ所を殺人と銃刀法違反の疑いで家宅捜査。ポケットベルの請求書などを押収。組とのつながりが、殺人の動機に結びついていないかを調査。
調査ほか 県高教組が、大学教授や弁護士、高校教師ら8人で、「飯田高校問題調査研究委員会」をつくる。飯田高校への現地調査や加害少年や被害少年の両親、加害少年の同級生、地域のひとなど関係者延べ数十人から聞き取り調査、ほか。
その後 1997/1/10 自殺現場の生物班室 の跡地に、遺族側の長谷川洋二弁護士と学校側が協議して、教員が実行委員会をつくり、約120人の募金で鎮魂碑を建立。除幕式が行われた。
裁 判 1992/3/27 遺族は、学校の管理責任をめぐって、計7500万1978円の損害賠償を求めて長野県・校長・加害者の担任教師を提訴。

1998/4/14 長野地裁は殺人事件の予見可能性を否定して、「学校および県に責任なし」と棄却判決。遺族上告。
裁 判 1999/9/28 東京高裁は、公立高校における在学契約上の安全配慮義務の肯定
学校側に「犯行は十分に予見できた」として「管理者責任あり」と判決。
長野県、最高裁に上告。
参考資料 1992/1/11河北新報、1/12中国新聞、1/14信濃毎日1/21毎日新聞・夕(月刊子ども論1992年3月号/クレヨンハウス)、1992/2/1信濃毎日、2/2信濃毎日(月刊「子ども論」1992年4月号/クレヨンハウス)、3/5毎日新聞、3/27朝日新聞(月刊「子ども論」1992年5月号/クレヨンハウス)「子ども白書」1993年版/日本子どもを守る会/草土出版、季刊教育法 2000年9月臨時増刊号 「いじめ裁判」/エイデル研究所1993/3/24信濃毎日新聞、1993/3/23(月刊「子ども論」1993年5月/クレヨンハウス)、1993/1/11信濃毎日新聞(月刊「子ども論」1993年3月/クレヨンハウス)、1997/1/19信濃毎日新聞(月刊「子ども論」1997年4月/クレヨンハウス)



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