子どもたちは二度殺される【事例】



注 :
被害者の氏名は、一人ひとりの墓碑銘を私たちの心に深く刻むために、書籍等に掲載された氏名をそのまま使用させていただいています。ただし、加害者や担当教師名等については、個人に問題を帰すよりも、社会全体の、あるいは学校、教師全体の問題として捉えるべきではないかと考え、匿名にしてあります。
また、学校名については類似事件と区別するためと、隠蔽をはかるよりも、学校も、地域も、事実を事実として重く受けとめて、二度と同じ悲劇を繰り返さないで欲しいという願いを込めて、そのまま使用しています。
S.TAKEDA
790909 いじめ自殺 2000.9.10. 2000.11.23 2001.12.7 2002.7.7更新
1979/9/9 埼玉県上福岡市立第三中学校の在日朝鮮人3世・林賢一くん(中1・12)が、いじめを苦にカラテ着姿でマンションから投身自殺。
遺 書 1979/6/18 自殺未遂をしたときに遺書を残していた。
「A、B、Cなどにいじめられて、学校に行くのがいやになって生きているのもいやになりました。ぼくは自殺します。さようならみなさん」
経 緯 1979/4 入学式のあと、クラスで担任が賢一くんの名前を呼ぶと、小学校時代の級友の何人かが、「おい、林と同じクラスになっちゃったぞ」と言いあってニヤニヤし、「臭えな、お前はあっち行け」「あっ、こりゃ臭え」などと小声ではやしたてた。

1979/4/20 同級生の一人とけんか。相手に加勢が入り5対1となり、賢一くんが相手の腕に噛みついた。そのことをきっかけにいじめが始まる。
いじめはクラスから卓球部、学年にまで広がる。

1979/6/18 上記の遺書を残し自殺未遂。自殺時と同じマンションから飛び降り自殺を図ろうとしたが、決心がつかず、8時過ぎに泣きながら家に戻ってきていた。

両親は同級生3人の名前をあげ、担任女性教師に指導を依頼したが、自殺未遂をネタに「死ね」など更にいじめがエスカレートする。

自殺未遂後、賢一くんは「強くなりたい」とカラテ練習場に通っていた。夏休みには一旦、賢一くんは元気を取り戻したように見えたが、2学期が始まり、学校で再び激しいいじめにさらされる。

9/8 自殺の前日、「クラスメイトにいじめられるのがいや」と登校拒否。両親に「もっと強く生きなさい」と諭され、「あと1年もすれば、空手で強くなり、いじめられることもない」と励ましされたばかりだった。

9/9 朝、「空手の練習に行く」と家を出た足で、午前8時に自殺。
いじめの態様
(後の調査で判明)
仲間はずれにされる。

同級生から
「壁」(何をされても反応がない)と呼ばれた。
蹴られたり、殴られたりして抗議をすると、
「壁のくせに文句を言うな」と言われた。
「ぞうきん」「林屋こじき商店」「こじき二世」とあだなをつけられた。

プロレスごっこ
と称して、皆で押さえつけて、上から飛び膝蹴りをしたり、膝蹴りで腹や胸のあたりを蹴り上げられることもあった。

誰かがわざと足をひっかけ、「なんで俺の足を蹴るんだ」といいがかりをつけ、皆で賢一くんを取り囲み、「謝れ、謝れ」と口々に責め立て、突っついたり蹴ったりした。

数人で無理矢理壁際に押さえつけられて、
「ブタブタチンコ」遊びを強要される。
1人を教室の隅に立たせて、その周りを皆が足を投げ出して座って取り囲み、立っている生徒の足を蹴る。立っているものは蹴られまいとして飛び上がって避ける。
取り囲んだ生徒が手を後ろについて、足を高くあげ、股間を蹴り上げられることもある。(そのことからブタチンコという名前がついた?)


自殺未遂後は、「おい、弱虫の家出野郎」「自殺未遂」「死にぞこない」と言われるようになった。
学校・ほかの対応 学年主任は同クラスに対し、「1日も早く、この不幸な自殺事件のことは忘れるように」と指導。
また、「生徒が動揺するから」と事件のことを子どもたちが勝手に話さないようにと、緊急連絡網を通じて保護者に要請。

学校側は、いじめた子どもたちから話を聞くのは、彼らを傷つけるからという理由で、調査を何もしなかった。

賢一くんの自殺について全職員の職員会議がもたれたのは、9/11、13、14の3回のみで、外部への対策に終始する。教師たちにも詳しい事情は知らされない。
教育委員会の対応と、調査報告書 1979/9/10 上福岡市教育委員会は、賢一くんの自殺の翌日、「第三中学事故調査対策委員会」を設置。しかし、学校側の言い分を一方的に聞くのみで、3カ月かかりでまとめた報告書の大半は、学校長の作文で占められていた。

1979/12/1 教育委員会の『調査報告書』には、「クラスの中では、特別に陰惨ないじめの状況はなかった。友だち間のトラブル、お互い同士のいざこざはあったが、集団で一人を一方的にいじめつくすというような点は認められなかった。林賢一君自身かなりきかん坊な面もあり、やったりやりかえしたりする場面は多く見られた」とあり、「学校及び担任教師はあらゆる指導と対策を講じたが自殺を防止できず、学校および教師に責任はないこと、自殺は種々の複雑な要因が噛み合っており、直接原因は不明」と発表。また、民族差別はなかったことを強調

1980/2/27 真相を究明する市民運動「上福岡中の教育を糺す共闘会議」の人びとが市教育委員長と会見し、『報告書』にいささかの事実誤認があると、再調査を要請。

1980/3/21 教育委員会の「見解」で、賢一くんに対する「いじめ」が存在したこと、学校の指導が適切でなかったことを認める。民族差別についてはあいまいさを残す。

1980/5/15 学校から2度目の報告書で、自殺の主要な原因はいじめにあったことを認める。ただし、独自の調査はなく、遺族が調べた内容を追認するにとどまる。
両親の認知と対応 賢一くんは、日本人である母親にたびたび、「ぼく、どうして朝鮮人なの?」と問うことがあった。

1979/6/18 自殺未遂のあった日、母親は夕方5時頃、賢一くんの家出に気づき、何人かの生徒の家に電話を入れる一方で、車で行方を探していた。担任にも連絡した。
自殺未遂をして帰宅した後、賢一くん、両親、担任の4人でいろいろ話し合った。

両親が担任に遺書を見せ、「クラスで賢一がいじめられることのないように指導してほしい」と頼んだ。さらに
「自殺未遂のことは、いじめっこたちには、くれぐれも言わないで欲しい」と念を押した。
担任の対応 賢一くんが自殺未遂した直後、女性担任(29)は、「いじめられないように、私も、皆によく言い聞かせておきますから、賢一くん、君も自殺なんてバカなことを考えないでちょうだいね」と話した。

担任は自殺未遂のあった翌日、「これ以上いじめると林は自殺するよ。昨日、自殺未遂をしているのだから」と話した。(裁判で、5人の生徒が証言。担任教師はあくまで否定)

賢一くんの自殺後、教師立ち会いのもと両親が、主犯格の3人から事情を聞くが、担任教師は「君たち、朝早くからこんなところに呼び出されてかわいそうに。先生が早く帰るようにしてあげるからね」と発言。

担任教師は、賢一くんの自殺後3日目に入院し、約30日後に退院。退院時に1回焼香をしただけで、7月まで何のあいさつも、電話もない。

金賛汀氏のインタビューに対して、「『いじめられた』といわれているのですが、子供同士のいじめというのが死に至らしめるほどのものであったか、という点になると、私にはそれが見えなかった」「子供同士にみられるふざけあいにしか見られなかった」「自殺の原因というのはいろんなことがからみあっていたでしょうし、わからないですね」と答える。
加害者 賢一くんが自殺した翌日、いじめっこの1人が「あいつ死んじゃった」「バンザイ」と叫び、1人でニコニコ飛び回っていたと、クラス生徒の何人かが証言。

更に自殺から2日後、賢一くんと仲のよかった生徒を「こんどはお前の番だ。バカ、死ね」と追い回し、ショックで入院させる。

ある取材記者がいじめた側の生徒に「なぜ、彼ひとりだけを目の仇(かたき)のようにいじめたのか?」と問うと、「あいつは朝鮮人だから」とためらいのない言葉が返ってきた。

事件後、親は「ウチの子だけが悪かったわけじゃない。みんなやっていたんでしょ」「学校が謝罪文を出して、謝ったんだから、もういいじゃない」「今度のことでは、ウチの子だって傷ついた。早く忘れて欲しい」と発言。
被害者 賢一くんは、朝鮮国籍を有する在日朝鮮人3世。林賢一と書いて、正式には「イム・ヒョンイル」と読む。
3人兄弟の真ん中。身長1メートル35センチで、クラスで一番小柄なほう。
卓球部に所属しており、成績は学級で中ぐらい。性格は、無口で大人しかったが、とても明るい面もあった。
誹謗・中傷 PTAの要請で開かれた父母会で、「自殺は林さんの方にも責任がある」「マスコミに騒がれて大変迷惑」「先生にも言い分があるでしょう」との意見が出て、拍手があがる。
「事件以来、上福岡市のイメージ・ダウンになり、地価が下がった」という父母の声。
林家にイタズラ電話が、多い時は1日30件、深夜1時過ぎまでかかることもあった。
作 文 賢一くんが自殺した翌日、クラス生徒たちに書かせた「作文」(追悼文)を両親が土下座までして渡して欲しいと学校に頼むが、職員会議で渡さないことを決める。その後、教育長が「作文」を預かるが態度を保留。
在日朝鮮人団体・朝鮮総連からの抗議を受けて初めて、クラス名・氏名を切り取ったもの(41人クラスで33枚分)を両親に渡す。

作文には、「ごめんなさい」「やすらかにねむれ」のほか、「ぼくらがいじめたので君は死んだのか、しかし何も死ぬことはないじゃないか」「死ぬゆう気があれば、がんばってほしかった」等、書かれていた。
調 査 遺族が子どもたち一人ひとりに聞いて回った。

賢一くんは、毎日のようにひと気のない技術室や昇降口で集団暴行を受けたり、命じられて他のいじめられている生徒と決闘をさせられたりしていた。
9/7には、のべ70回くらい、みんなで賢一くんを殴ったり蹴ったりしていた。

学校側は、「賢一くんが朝鮮籍であることを知らなかった」「いじめと国籍は無関係」と言っているが、民族差別に根ざす子どもたちの陰湿ないじめにその主要な原因があったこと、それを学校側が無責任に放置した事実を、朝鮮総連が数多く集める。

また、両親の調べでは、明らかに賢一くんが朝鮮国籍だということを知っていた子どもたちまでもが、「全然知らなかった」「初めて聞いた」と答えていた。
5月末の社会科で朝鮮についての授業を受けてから、いじめが激しくなったという証言もあり、いじめた子どもたちも、賢一くんが「朝鮮人だから、いじめてもいいんだと思っていた」と認める。
調 査 遺品の小学校の卒業サイン帳の21名のサインのうち10枚に男女クラスメイトから、「林のバカ、アホ、トンマ、マヌケ、早く死ネ!」「一生のお願いです。死んで下さい」「中学がちがうからよかった」「嫌いな人 林」「林がするもの→自殺→田宮二郎」など悪意を込めたものや、「にんにく」と書いた暗示的なイラストが見つかる。

小学校の同級生たちから話を聞いた結果、小学校4年生頃から、仲間外れにされたり、「臭い」「汚い」「乞食」など言われ、いじめられていたことが判明。

ケンカのときには、上級生や5〜6人相手でも負けないで向かっていく、心の強く激しい子どもだった。一方、ほかの子に対して乱暴な行為をしたり、いじわるするようなことは一切なかった。
教師は自分も生徒たちも朝鮮籍のことは知らなかったと民族差別を否定するが、賢一くんが朝鮮人であることをクラスの多くの生徒が知っていた。
その後 取材に対していろいろな事実を話した少年が、それを理由に殴られる事件が発生。

1980/7/21 市教委・学校から「謝罪文」が林家に届けられる。いじめの具体的な内容や、教師の不適切な指導、監督のもと賢一くんが自殺においやられたことが読み上げられる。

1980/8/22 夏休み中に朝鮮総連中央本部教育局から講師を招いて、在日外国人生徒についての講演。9/5から延べ4時間、各学年クラス単位で在日朝鮮人の作文をテキストに学級指導を行った。

1980/9/6 一周忌に遺族抜きで追悼集会を実施。
その後 父親は、賢一くんの死後、残る2人の弟を大宮市の朝鮮学校に転校させた。

1981/5/18 市の一般財源から慰謝料を「見舞金」という名目で500万円支払うという条件で、上福岡市教委市と両親との間で和解が成立。
事件の影響 新聞、テレビがこの問題を再三にわたってとりあげ、マスコミの真相究明の動きは非常に活発だった。金賛汀(キム・チャンジョン)氏、小中陽太郎氏、小泉譲氏ほか、多くのルポライターや作家がルポ、評論などを雑誌に発表した。
NHKが「ルポメタージュ・にっぽん」で大きくとりあげた。
日本のマスコミ報道でこの事件を知った韓国のKBSもドキュメンタリー番組を製作。ソウルで、賢一くんの死を悼(いた)み、差別に抗議する「故林賢一君追悼集会」が開かれた。
TAKEDA私見 賢一くんは、「壁」と呼ばれていたという。何も感じなかったわけではない。何も感じないふりをしていたのだろう。いじめっこたちをこれ以上、喜ばせないための、いじめをエスカレートさせないための自己防衛として。そして、賢一くんなりに必死にプライドを保とうとしていたのではないだろうか。いじめられも笑っていた中野区立富士見中学校の鹿川裕史(ひろふみ)くん(860201)とも相通じる。

林賢一くんのいじめ自殺は、いじめ事件に社会が最初に注目するきっかけとなった。朝鮮人ジャナリストである金賛汀(キム・チャンジョン)氏が、遺族とともに丁寧な調査を行っている。
しかし、この頃から、学校は何を学んできたのか。隠蔽工作ばかり巧みになり、以降、調査しても、学校から口止めされていて誰も何もしゃべらない、何もわからない状況が続く。

この事件には大きな教訓がある。一度、
自殺未遂を起こした人間は、死への恐怖心から二度と自殺未遂はしないという風説のウソ。むしろ、死への道筋ができて、再び自殺を試みやすいということだ。そして、罪悪感の薄い子どもたちに対して、「自殺するかもしれない」という脅し文句は、いじめへの抑止力にならない。むしろ、その人間の一番弱い部分を突く残酷性を子どもたちは持っている。本気で死を考えている人間にさえ、平気で「死ね」と言える。
「死にたい」と思う子どもの気持ちをまず、周囲の大人たちが真剣に受け止めてやらなくてはならない。そのうえで、対策を行いたい。

いじめの根源にある差別意識は、子どもたちが最初から持ち合わせていたものというよりは、大人社会の反映である。私たち大人社会の在日の人たちに対する差別意識が、ひとりの少年を死に追いやった。差別意識だけがいじめの原因の全てではないとしても、大人たちの責任は大きい。

2001.12.7
参考資料 『ある「いじめられっ子」の自殺 ぼくもう我慢できない」』/金賛汀著/1980年4月一光社、『「いじめられっ子」の自殺・その後 続・ぼくもう我慢できないよ」』/金賛汀著/1980年9月一光社発行、『教師たちの犯罪−若いいのちが壊されていく−』/大島幸夫/1981年11月太郎次郎社、『犯罪ドキュメントシリーズ 少年少女犯罪』/安田雅企/1985年6月東京法経学院出版、「いじめ問題ハンドブック」/高徳忍著/1999.2.10つげ書房新社戦後欲望史 転換の七、八〇年代篇/赤塚行雄/1985.1.15講談社文庫



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