書評 『ゲンバクの日 ぼくたちは 10代だった』

被爆体験の証言とは

(21号掲載)

岩崎 一三



 被爆者を、被曝者とも、ヒバクシャとも表記するようになったのはいつ頃からだろう。原爆による「被爆」、放射能に曝されるという意味での「被曝」、そして「ヒバクシャ」のカタカナ表記は、すでにヒバクシャが世界中に存在することを物語っている。

 広島に原爆が落とされた翌年、アメリカの詩人ハーマン・ハゲドーンは『アメリカに落ちた原爆』という詩を発表した。「広島に落ちた原爆はアメリカにも落ちたのだ」と。それはアメリカの良心の声であったが、すでに形而上の表現にとどまらない、現実の光景となってしまった。

 チェルノブィリの原発事故があった日、私は広島在住の大学生だった。その日の夕方、子どもの雨合羽を買いに行く母親たちを見たことを思い出す。「風にのって雲が流れて、黒い雨が降ってくるかもしれん。傘なんか、小さい子は振り回して遊んで、役に立たん、雨が降れば濡れてしまう」。

 広島生まれでない私は、戦後生まれのその母親たちの行為に驚いた。まるで、チェルノブィリが、すぐ近くの町であるかのようだった。きっとそれが、親たちの被爆体験を身近に感じながら育った、広島の感受性なのだろうと思った。

 東京の母親たちは雨合羽を買ったろうか。ニューヨークではどうだったろう。パリでは。モスクワでは。



 10年ぶりに広島で暮らしはじめて間もない頃だ、テレビのローカルニュースで「ヒバクシャ」という言葉を聞いたとき、ああ久しぶりにヒバクシャという言葉を聞く、と思った。東京にいた間は忘れていた。

どこか遠い世界の言葉になっていた「ヒバクシャ」が、ごく親密な日常の言葉として耳に戻ってきた。しかも過去の言葉としてではなく、現在と、そして未来に関わる言葉として。

 アメリカがアフガニスタンを空爆していた頃、かつての湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾の被害が報告されはじめていた。そしてイラク戦争。またしても劣化ウラン弾は使用され、いまもヒバクシャは増え続けている。犠牲者はとりわけ幼い子どもたちだ。

 だが、落とした側はそのことを認めない。いったい、劣化ウラン弾が核兵器でない、などという欺瞞がどうしてまかりとおってしまうのだろう。



イラク戦争の年として歴史に記録されるはずの2003年、広島で一冊の本が出版された。『ゲンバクの日ぼくたちは10代だった』というタイトルの本。1945年8月6日、広島で被爆した少年少女16人の被爆体験が英語訳付で収録されている。太平洋戦争のはじまりから原爆投下まで、どんなふうにふつうの人々が戦争に巻き込まれていったか、戦時下、広島の子どもたちは、どんな日常を過ごしていたのか、そういったことも、各章ごとに簡潔に記述されていて、理解を助けてくれる。

その朝、世界は一瞬に崩れ去ったのだった。信じていた日常の光景はあとかたもなく、町は廃墟となり、家族も友人たちも戻ってこない。

 被爆の体験を語りたがる人はいない。体験を語れるのは生き残ったからだが、家族や親しい人たちが死んでいったなかで、生き残ったことは、それ自体が痛みなのだ。それほどの体験だった。

 地面に叩きつけられ、傷つきながら、学校にたどりついた15歳の女学生は、亡くなった同級生や下級生の遺体が、校庭で油をかけて焼かれるのを見た。「見たくなくても目が勝手に見てしまう」のだった。

 助けを求めて泣く小さな子を、置き去りにして逃げねばならなかった少女もいる。夏がくる度、その場所を通る度に、今も痛みとともに思い出す。

 親が死んで帰る家を失った子どもたちもいる。家族を支えて働かねばならなくなった少年も。「お国のために」と信じていた理想も、将来の夢も砕け散った。

 14歳の女学生だった寺前さんは、原爆で妹を亡くした。自らも顔に大怪我をし、片方の眼球を失った。眼球のあったところには大きな穴があいていた。家族の前では気丈に振舞ったが絶望感はいいようもない。自分の顔を見られることが怖くて、教師になる夢もあきらめた。翌年、電車に乗ったとき「気持ち悪い」という声を耳にする。同じ広島に住む人からの、心ない言葉を聞いたとき、原爆を落としたアメリカへの憎しみがわきあがってきたという。

 あれから60年近く過ぎ、寺前さんは、その憎しみの感情を世界平和を願う心へと昇華させて、被爆体験を語っている。

一冊の証言集を存在させること、語ることも聞き取ることも、祈りの行為そのものなのだ。

 あの日の少年少女の被爆体験が、読者の心に呼び起こすのはまず痛みだろう。大切な痛みだと思う。その人間的な痛みのほかに、あらゆる非人間的な行為への、抵抗の力を養うものはないから。

そして、あの日の子どもたちが、被爆後の絶望的な光景のなかを、ほんとうにけなげに生き抜いてきたことの、尊さ。被爆体験の証言は、同時に、人間の生き抜く力について、希望についての証言でもある。



人類史を変えた原爆を、忘れる、ということはできない。歴史の教科書の1行としてではなく、人間の体験として記憶しつづけねばならない、と思う。

 核を使用する権力の側はどのようにも正当性を言い立てる。死者や犠牲者は、数字に変えられ、歳月による風化を免れえないなかで、被爆体験を伝えていくことの大切さは、どんなに強調しても強調しすぎることはないだろう。

 被爆者の証言なくして、原爆が何であったか、核兵器が何をもたらすのかを、人間の体験として知ることはできない。そして、人間の体験として知るのでなければ、そもそも知る意味がないのだ。「ヒバクシャ」と表記されるようになった現在、あの日の広島の少年少女の被爆体験が、英語の対訳付きで刊行された意義は大きいと思う。



 ふと思う。ここにあるのは、過去の体験ではなく、いま現在も世界のいたるところで、子どもたちが体験しつづけている光景なのかもしれない、と。「生きたかった、学びたかった」と、誰にも聞いてもらえない声をあげている子どもたちが、どれほどたくさんいることだろう。

 戦争のない、核兵器のない世界のために、何ができるのか。本書の最終章では、広島の現在の10代の、中学生、高校生の取り組みも紹介されている。



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