ロシアの見捨てられた子どもたち
心身障がい児施設の実情

西村 洋子



ソ連邦時代には知ることのできなかった、ロシアの障碍児施設。ペレストロイカ、ソ連崩壊により、今その実情を少しずつ知ることができるようになってきた。フリーライターとして活躍されている西村洋子さんが、ボランティアとしてそういった施設を訪れ、その報告を「プラッサ」に寄稿してくださった。



 アンドレイが歩こうとしている! 私はびっくりした。

 知的障害と身体障害を併せ持ち、孤児院で暮らす6歳の少年は、膝にのせて話しかけてもほとんど反応がない。ブロンドの髪に色白のきれいな顔は、いつもぼんやりとどこかを眺めているだけだ。普段はベンチに横たえられたままで、自力では座っていることもできない。ところが、あるとき私が両脇を支えてやると、枝のように細く曲がったままの足を片方ずつ前に出そうとしているではないか。ぎこちなく、つっかかりながら、本当に少しずつ。確かに彼は、歩こうとしていた。

 しかし、彼は両足とも膝が伸びないから、立っていることもできない。支えるこちらも腰が痛くなる。年齢の割に身体は小さいとはいえ、六歳の体をずっと中腰で持ち上げていることはできない。ここはモスクワの孤児院の一室。歩行を助ける器具もないし、あっても部屋は狭すぎて使うスペースがない。あまり光も入らない10畳ほどの部屋は、並べられた粗末なベッドが空間のほとんどを占めている。

 モスクワに今年春まで住んでいた私は、週に一回、モスクワの孤児院を訪ねてボランティアで子どもの世話をしていた。知恵遅れの子どもたちを収容するこの孤児院には、6歳から18歳の子どもたち、150人が暮らしていて、私が外国人女性5人の仲間とともに訪れるのは、その中でも最も症状の重い年少の子どもたちの部屋だった。

「もっと早く、赤ん坊の時に足を治療していたら歩けるようになったでしょうに。今からでは、マッサージしてもあの足は伸びないでしょうね」

 リハビリの専門知識のあるスーザンが、残念そうにつぶやく。私たちが帰ったあとは、少年はまたベンチに寝かされるだけだろう。この部屋には20人近い子どもたちがいるが、その世話には、通常たった一人の保母がいるだけなのだ。

 ソ連社会では、知能障害者は「二級市民」と位置づけられて、施設に隔離されるのがシステムになっていたと言える。それらの施設では、保母の月給が3000円ほどしか支払われないなど、まったく不十分な予算しかなく、子どもたちの置かれた環境は、劣悪にならざるを得なかった。部屋にはおもちゃもほとんどなく、子どもは成長に必要な外部からの刺激を受けられず、発達がなお一層阻害される。リハビリ用の施設もまったく不足しているし、職員には活用の意欲もノウハウもない。保母の多くは、この子どもたちには治療の価値はなく、育っても仕方がないのだと思い込んでいる。

 この子どもたちのほとんどは、親にも見捨てられている。親には子どもの教育や情報収集のための手段がなく、社会にサポートの制度が存在しなかった。医者は治療のためのアドバイスをするより、障害児は施設に入れるように圧力をかける。このため95%の親が、子どもを手放して施設に入れ、関係を切ってしまうと言われている。こうした子どもを、唯一愛情をもって賢明に育ててくれるはずの親から引き離してしまうところに、このシステムの最大の悲劇がある。


ダウン症児に教育を


 先天的な染色体異常であるダウン症の娘をもつセルゲイ・コロスコフ氏は、娘が生まれたとき、この国の知能障害者に対する冷酷な姿勢を思い知った。

「この子が産まれたとき、医者はこう言いました。『この子は一生、話すことも自分の世話をすることもできませんよ。もう家に客を招くこともできなくなります。子どもの世話で働けなくなったら、どうやって生活するんですか。悪いことは言いません。子どもは施設にいれなさい』ってね」

 こう言われて、ほとんどの親は自分で育てるのを諦めてしまう。そのまま子どもを見捨て、生まれなかったものと考えることにする。社会主義社会では女性も平等に働いて家計を支える。ゆえに女性の社会参加を助け、手のかかる子どもは国家が育てる、というと聞こえはいい。しかし、その施設には、多くの場合、適切な治療や教育の準備はない。人間としての生活も愛情も、存在しないことが多い。

「私が、子どもを連れて帰ると言ったら、医者は『初めの数年はいいかもしれませんが、その後はきっと手放すことになりますよ』と言いましたよ」

 コロスコフ夫妻は、医者に見捨てられた子どもを、自分で育てようと決意した数少ない勇気ある親の一組だった。しかし、ソ連では、ダウン症児の教育のための情報は手に入らなかった。他の国々では、すでに教育方法が開発されていたにもかかわらず、ソ連は知能障害児を生かすための情報には関心がなかったように思われる。ソ連にやっと自由の風が吹いてきたとき、コロスコフ氏は外国に出かけ、ダウン症児をもつ親たちに出会い、オーストラリアのマクワリ方式という教育法方について知った。ベラをこの方法で育てると同時に、他のダウン症児の親にも紹介しようと翻訳も作った。

「あの時、マクワリ方式に出会えていなかったら、どうなっていたでしょうね。そう思うとぞっとします。すこし前までは、外国との交流自体が不可能だったわけですから。それに、こうした民間の組織を作ることもできなかった」

 7歳になるベラは、部屋をあちこち走り回り、やんちゃに私に話しかけてくる。普通の子どもよりずっと手はかかるのだそうだが、見た目はあまり変わらない印象だ。こうしたベラの成長を見てきただけに、コロスコフ氏には、施設で何の刺激もなく、ただ死を待っている子どもたちのことが放っておけない。彼は、1993年にダウン症の子どもとその親を支援する協会を設立し、施設にいる子どもたちの救援活動も始めた。

 そんな施設の一つで、彼はナターシャに出会った。少女は栄養失調で痩せ細り、5歳で施設に来たとき17キロあった体重は、8歳のときには6キロにまで減っていた。同じ時期に収容されたほかの二人の子どもはすでに死亡。ナターシャも、死を待つばかりだった。コロスコフ氏は周囲を説き伏せて、少女を入院させた。病院はダウン症児の治療に熱心ではなかったようだが、それでも三ヶ月後には、ナターシャの体重は倍に増え、再び歩くまでに回復した。

 彼のビデオで、一、二年前に撮影された障害児施設の映像を見た。

 薄暗い大部屋の両側に並んだ子ども用のベッドには、骨と皮ばかりの裸の子どもたちが横たえられている。ベッドに手を縛り付けられている子どももいる。拘禁服を着せられ、身動きもできずにいる子。気怠そうに、ただ壁を見つめる曇った瞳。

「70人の子どもに対し、世話をする職員はたった二人しかいなかったんです。世話も何もあったもんじゃない」

 一つのおもちゃもなく、外に出ることすらできず、ベッドの中だけの世界で彼らの人生の時は過ぎていく。600人の収容児のうち、樋と冬に20人の子どもが死んだという。

 ダウン症児とその家族を支える別の団体「ダウンサイドアップ」のクレア・リヨンさんの報告はさらにショッキングだ。

「施設に入れられたダウン症の子どもはたいてい死ぬ運命です。96年中に生まれた125人のダウン症児のうち、すでに半数が死亡しました」

 コロスコフ氏は、ヨーロッパの援助団体などから贈られた資金で、施設に人を派遣し、家族に教育方法などの情報を流布する活動を続けている。協会で雇って派遣している人員は80人にのぼり、ビデオで見せてもらった施設でも、今は10人の子どもに一人の保母がつくことが可能になった。

 先にも触れたように、施設の様子はそれぞれで大きく異なり、すべてがこのビデオほどひどい状況ではない。いくつか見学を許された施設は、はるかに整備されていた。しかし、外国人である私には容易に見学できない施設にこそ、悲惨な現実があることは間違いない。


間違ったレッテル


 間違った認識で『学ぶ能力なし』と判断されていたのは、ダウン症児ばかりではない。妊娠中の母親の病気や生まれたときの状態などから、出生時に予備的な烙印が押される。実際の判断は3、4歳になったときだが、出生時の烙印が先入観を生むし、それまでにすでに施設に入れられて発達が阻害されていることも多い。生まれたときから刺激のない施設に放置されたら、正常なコミュニケーションができるようにはならない。

 身体的に障害があるだけの場合でも、話すことができないために知能障害もあるとみなされることも多い。脳性マヒでは、半分ぐらいが知能は正常だときいたが、脳性マヒ、イコール知能障害と診断される傾向は強い。

 こうしたロシアの障害児の現状を憂慮し、国際人権養護機関CSIは、1991年にモスクワとサンクト・ペテルブルグにイギリス人の専門家らによる調査チームを派遣した。そこで彼らは、施設内の知能が遅れていると見做されている幼児および少年171人を検査し、そのうち3分の1から3分の2の子どもたちは、平均的または平均以上の知能をもっていると診断した。つまり、これに近い高い割合で誤った診断がされていたと結論づけたのだ。

 「知能障害」とのレッテルが貼られると、受けられる教育のレベルが落とされ、仕事を選択することも許されなくなる。施設内の作業所で菓子箱を折るなどの単純労働にしか従事できない。住居も、軽度の者は監督する委員会の判断があれば、アパートに住むこともできるが、それ以外は男なら男だけ、女なら女だけの寮住まいとなる。もちろん結婚も、家族を持つこともできない。選挙権もなければ、車の運転も許されない。

 親に見捨てられた子どもたちには、もしいい加減なレッテル貼りが行われても、誰も守ってくれる者がいない。そして、見捨てられてきたのは障害児ばかりではない。アルコール中毒の親に捨てられた子ども、暴力で追い出されたか逃げ出してきた子どもも、今のロシア社会の底辺に溢れている。精神的に病んでしまう子も当然多い。


ペレストロイカで変化は始まった


 障害児教育を手掛けるモスクワの私設の学校「ペダゴギックス・センター(治療教育センター、The Center for Curative Pedagogics)」の創立者、アンナ・ビトバさんが、力を込めて言った。

「『学ぶ能力なし』と診断された子どもたちの70―80%は、適切な教育さえすれば、普通の日常生活がおくれるようになると私は思っています」

 このセンターは、それまでの障害児教育に強い疑問をもってきた医師、セラピスト、障害児の親たちが、1989年に設立した。

「ペレストロイカのお陰ですよ。ペレストロイカが始まって、この学校を作ることが可能になったんです」

 ゴルバチョフ以前には、国家組織の枠外で、市民が団体や組織を作ることが許されていなかった。市民による組織が法的基盤を得たのも、つい最近のことなのだ。

 1991年8月には、自閉症やダウン症などの子どもに教育をおこなう「ロドニク(泉)センター」が、専門家らの手で開設された。孤児施設に手放す以外、どこにも受け入れてくれるところのなかった重度の知的障害の子どもたちを教えている。手元で障害児を育てている家族が、毎日子どもを通学させてくる。

 93年には、脳性麻痺の息子を持つリディア・イワノバさんが、病院内で脳性麻痺の子どもたちに編み物を教えたのをきっかけに「プレオドレニエ(克服)センター」を開き、今は、英語、手工芸、コンピュータなどまで教えている。脳性麻痺の子どもは、手足が不自由でも、知能は正常な子どもも多い。

 しかし、どのセンターも財政的に苦しく、教室の確保も難しい。行政機関の対応も冷たい。現状では、希望する子どもたちを全員受け入れることは不可能だ。「適切な教育」が受けられる機会は、まだ大海の一滴に過ぎないのだ。また、モスクワ以外の地域では、まだこうした教育施設は未発達で、何百キロと離れたウクライナやシベリアなどからも入学希望者が訪ねてくる。

 一方でソ連崩壊と自由な社会への動きは、外国人がこうした子どもたちに手を差し伸べることも可能にした。ソ連時代には社会の目に触れないように隠されてきた施設に、外国人が訪問することもできるようになった。欧米の慈善団体などからの資金や物資の援助が、徐々に障害児を社会の一員として迎える努力を手助けしようと動き始めている。

 モスクワで長年、外国人の女性たちで構成してきた国際婦人クラブの中で、孤児院訪問や援助活動が始まったのも1991年2月のことだ。これを組織し推進したのは、当時の日本大使館の公使夫人だった大島明子さんだった。

 その後独立した組織となるこのグループ「ARC」は、その後、民間の教育施設や保護施設への資金援助や、海外の病院や援助機関との橋渡しなど活動を広げている。私がボランティアをしていたのも、ARCのメンバーとしてだった。

 メンバーの一人、イギリス人医師のジュリーは、適切な治療が施されずに放置されている孤児院の子どもたちに、手術の斡旋をしたり、資金援助の調整をしたりするために走り回った。

「今日、やっとカーチャが手術を受けるのよ」

 ある日、ジュリーが弾んだ声で教えてくれた。私も、その数週間前に出会った五歳の少女の顔を思いだした。それは、私にとっても衝撃的な出会いだった。

 生まれつき上顎に損傷がある少女の口元には、3センチはありそうな出来物があった。唇がなく、代わりに皮膚が外にまくれ上がっていたのだ。口と鼻孔の境が不完全で、話す能力が劣り、うまく食べることができないため、栄養不良も心配された。このまま孤児院にいたら、死を待つ子どもの一人になっていただろう。

 先天的な関節の異常や口蓋の損傷は、ほとんどの場合、子どもがまだ小さい早い時期に手術をすれば取り除くことができるのだという。しかし、親に見捨てられた子どもの治療に一生懸命になってくれる人はいず、ARCの説得にもかかわらず、カーチャの手術も延々と先延ばしにされていたのだ。

 変革期のロシアでは、貧富の差が見る間に拡大し、いまや世界のリゾート地を金持ちのロシア人が闊歩している。その一方で、社会から見捨てられてきた子どもたちの環境の変化は遅々としている。むしろ、ストリートチルドレンが増加している現状もある。

 訪れた各施設で、日本での障害児教育について質問された。私には彼等に答えるほどの知識がなかったが、この国で障害児のために働く人々は、外国でのノウハウや情報を求めている。子どもを手元に置こうとする親も増えてきているという。子どもにどう接したらいいのか、何をしてやれるのか、彼らは情報を得ることに必死だ。これまでこの国の社会制度の中で軽く見られてきたこの分野で、これから多くの国の専門家や関係者との交流が広がっていくことが大変重要になっている。そうした交流や外国からの支援が今後どんどんと実現していくことを、心から願ってやまない。




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