風 の た よ り
―日本の皆様へ―
(ケニアのストリートチルドレン)

松下 てるみ



 ケニアの首都ナイロビで、ストリートチルドレンのための救援プロジェクトを始めようとしている、日本人の陶芸家の方がいる。松下てるみさんだ。「幼稚園くらいの年齢の孤児5〜8人と生活できる小さな施設を立ちあげたい」松下さんはそうおっしゃっている。そんな松下さんが、日本の支援者の方々に「風のたより」という手紙を送られた。写真家小林茂さんからの紹介で、プラッサでもその「たより」を転載させていただいた。



 その後、皆様如何お過ごしでしょうか? その節は本当にありがとうございました。いつも変わらぬ暖かい御心遣い心より感謝しています。今、慌ただしくすぎた、日本での1ヶ月あまりを、おあいした御一人御一人を、そして、日頃ごぶさたばかりしている方々を思い出しつつペンをとっています。



 さて、私は、マニラ―バンコク―カイロと三日間の行程を経て、6月6日朝、無事ナイロビ着(少々荷物を抜きとられてはいましたが)。一ヶ月半ぶりにナイロビ市街に出てみると、路上に溢れていた露天商の人達は排除され、数ヶ月前にできたばかりの小さなマーケット(柱《棒》をたて、その上にトタン屋根、そして売台つきの簡単なつくりですが、20数件の店で、中古から新品、衣料、靴からチョットした小さな電気器具まで売っていました)は、こわされ、街路にはやけに警官の姿が目につきました。

 偶然出会った知合の少女も(彼女は手足に重い障害があり、この就職難では職を得るのは困難です)細々と続けていた路上での小さな商いもできなくなり、途方にくれていましたが、数日後、通りかかると、勇敢にも一人で商売を再開、私もひそかに応援しています。この露天商排除の措置は、私が日本帰国中、5月31日に野党連合、一部教会etcによる民主化を求める集会、デモがあり、軍、警察が出動、そのあおりを受けてとのこと。

 軍、警察の横暴に抗議する学生デモ(昨年10月〜今年1月までに4名の学生が警官に射殺されたり、爆死させられたりしています)も含め、これから今年予定されている、5年に一度の大統領選に向けて、都市部を中心に少しずつ緊張が高まり、連動するかのように、治安もますます悪化しはじめています。ここしばらくは不安定な状況が続きそうです。私が今年1月から住んでいる、(DOONHOLM)ドンホームでも、表面的には目立った動きはないものの、その気配が感じられます。“選挙日程が決まったら、その前後一ヶ月ぐらいは、どこか安全な国へ避難した方がいい。5年前も混乱の中で外人がたくさん襲われた”とのケニア人の友人からの忠告ですが、今は、様子をみながらと思っています。



 ここドンホームは、ナイロビ中心部からバスかマタテュで15〜20分、郊外の小さな街です。昨年6月から住んでいた中心部の安宿からここに移って来たのが1月下旬、ここに移ってから、すぐ近くでリンチで殺された人をみるという、衝撃的事件に遭遇したりもしましたが、一方、同じアパートの人たちをはじめ、あいさつをかわす人、立ち話をする顔なじみも、少しずつ増えはじめてもいます。

 中でも、顔なじみになった20人ほどのストリートチルドレンと呼ばれる子どもたちとは、時には近くの露天の店で一緒にチャを飲んだり、彼たちのスラムに案内してもらったり・・・。彼たちのほとんどは近くにあるIndustrial Area Slumと呼ばれるスラムから来る子どもたち。ほとんど男の子ばかりです。年は4、5歳〜15、6歳(ちなみに、インダストリアル・エリアのスラムは、Mathare;マザレ、Kibera;キベラのスラムと並び、ナイロビの三大スラムの一つとのこと)。

 子どもたちはそこいら中にすてられているゴミの山の中から、あきかん、プラスチック類等、売れるものをさがし出して売るとか、チョットした使い走りをするとか、通りかかった人にお金を貰うとかしながら、収入を得ているようです。そうして得たお金も、ほとんどの子がまずシンナーにつかってしまいます。会うたびにシンナーをやめるように、言ってはいるのですが・・・。私の口先だけの注意など聞くはずもなく、彼たちの視線に時にたじろぎ、自分のいい加減さ、腰のすわっていない自分を思い知らされます。

 彼たちの視線は“何故、あんたはこの国に来たのか?何をしようとしているのか?どうしたいのか?オレたちとどうかかわろうとしているのか?”と問うています。いつか、彼たちの視線をしっかり受けとめられる自分になりたいと、切に思います。歩きながら、行動しながら、考えていきたいと思っています。



 この後、昨年9月から続けていた英語の勉強にひと区切りつけ、7月からスワヒリ語の勉強をしながら、同時に子どもたちと一緒に住む家さがしと、ケニア政府に提出する、NGO 認可申請の書類の検討に入る予定です。何しろ、不慣れなお役所相手の交渉、しかも、公然賄賂のケニアの、しかも英語での交渉となると、道遠しと溜息も出そうになりますが、こちらで知りあった若者達の助けをかりながら、ともかく、一歩ずつ進むつもりです。



 最後になりましたが御報告を一つ。この度ケニアでのNGO設立を前提に、川崎市在住の井上裕由さん方に日本事務所を、そして井上さんに事務方を引き受けて頂くことになりました。何一つ具体的なものがなく、何もかもがこれからという今、お伝えできることも、とりとめのないものになりそうですが、とりあえずは、筆無精のわたしの、その上とりとめのないたよりをお届けすることから始めたい、と、これがその第一便です。名付けて“風のたより”。次便、いつお届け出来るか、心許無い限りですが、折々にと思っています。御一読ください。



 試行錯誤しながらの、遅々たる歩みですが、今後共どうかよろしく、おつきあい下さいますように。



〔追記〕

 昨年6月8日〜16日まで、12月22日〜今年1月13日まで、二度、ウガンダをたずね、子どもたちに会いました。

 マサカのテュスビラハウス(プラッサ注:小林茂さんの写真集「トゥスビラ」紹介記事を参照して下さい)は閉鎖され、一緒に暮らしていた子どもたちの内、5人はカクトの職業訓練校で、5人は家族、しんせきのもとに帰り、残りの子どもたちは、昨年新しくできた現地NGOでケアを受けながら、キオスクのおばさんたちにもお世話になりながらも、元気でがんばっていました。

 このNGOには、今は宿泊施設はなく、夜は多くの子はキオスクで泊まらせてもらっています。このNGOは単に子どもを収容するのが目的ではなく、ストリートチルドレンたちの背景をさぐりながら、彼たちの家族のかかえる問題にもとりくみながら、同時に今の子どもたちのケアもと、とりくみはじめています。

 1月には、ある個人の方の家が午前中提供され、子どもたちはそこで身体を洗い、洗たくをし、各自のロッカーに持ちものを保管し、時にはチョットした食事、そして病気のケアも受けていました(クリスマスパーティはとても盛大でした)。その時、市が提供してくれた家を、スタッフ、子どもたちで改装整備中でしたが、4月には本部をそこに移し、授業も始まっていると思います。

 マサカ滞在中、責任者の方、スタッフとも色々はなし合い、その会の会員として、私にできることを協力しながら、一年に一度は必ずマサカをたずね、子どもたちと会う約束です。一緒に住めないけれど、彼たちは私の原点とも言える、大切な存在。これからも、ずっと見守り、共に歩んで行きたいと思います。そのウガンダの子どもたちのことも、その都度お伝えしたいと思っています。

(久々に彼たちと一緒にフットボールをしました!)



 モンスーンに乗って、かすかにアフリカの匂いを漂わせながら、届いた“風のたより”を松下照美さんの希望により、お送りさせて頂きます。

 彼女がふとしたきっかけで、アフリカに関わりアフリカの子ども達の生命に衝撃を受け、心ひかれて人間を感じるように、私もふとしたきっかけで彼女とかかわり、彼女を通じてアフリカの匂いを嗅ぎ始めて居ります。




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