世界の児童絵画展覧会
おしゃべりな子どもたちの絵

三橋 綾



 今、中教審で義務教育から美術を外そうと言う意見が出ているそうです。絵画鑑賞は国語の中に、美術史は社会の中に取り入れられないのか、と検討中とも聞いています。

 子どもにとって絵を描く時間、そして絵を描くことは何を意味しているのでしょうか。大人が押しつけるカリキュラムの中で、子どもたちは絵を描く楽しさを奪われているのではないでしょうか。



 大学3年生の時から4年間、私は世界中から子どもたちが描いた絵を集め、各地で展覧会を開催している事務所でお手伝いをしてきました。



 特に子ども好きな人でなくても、子どもの絵を面白いと思う人は多いと思います。おにぎりと区別が付かないような「おとうさんの顔」から「恐竜とプールで遊んだよ」と言う突拍子もないものなど、楽しい作品がたくさんあります。子どもの空想世界の面白さには、どんな小説も映画もかなわないと思います。そんな子どもたちの「想像力」と「創造力」を壊さないように、歪めないように伸ばそうということから、この児童絵画展覧会は始まったそうです。



 絵を集めて展覧会を開くと言っても、海外約100カ国、国内は数百の団体から応募があるので、とても全部を展示するわけには行きません。ここでは11月に絵を集め、12月から翌年1月にかけて選別を行っていました。そこで選ばれた作品の展覧会を3月から約1年かけて日本全国で行うのです。同時にアメリカ、イギリス、中国、シンガポールなど十数カ国で海外展も行います。



世界中から集めているということで、様々な国の事情も見えてきます。作品一枚づつにビニールを掛けて送ってくる国があれば、ザラザラの薄いわら半紙に鉛筆、もしくは薄い絵の具で描いてくる国もあります。受賞の記念品である画用紙や絵の具セットを送っても、貨物船の乗員が横取りしてしまうために子どもたちまで届かなかったこともありました。一方でウルグアイのように、海外部門での大賞を取ったとき、「国を挙げて大喜びしている」と連絡してくれた国もあります。また、太平洋上の豊かな石油王国からは、東京で行われる表彰式に自家用機で駆け付けたい、と申し出があったこともありました。



 海外からの作品を見ていると明らかに国ごとの特徴があることがわかります。街の様子や気候、国民の気質など生活のすべてが子どもたちの絵に表れるため、題材の選び方も色の使い方も、画面構成の仕方も国によって変わっていくのです。

 紙いっぱいに細かく描き込む傾向のあるアジア諸国と、大胆にすっきり描く欧米。イギリスやカナダは自分のペットやスポーツ中の自分などを題材に、東欧はキリスト誕生やマリア様を、東南アジアは働いている姿を題材にした物がそれぞれ多くなります。それだけでも身近に感じている物の差が良くわかります。

 同じ国の中でも違いは表れます。海外からの応募で一番数が多い中国(約1万枚)を例に取ると、その大半を占めているのは北京や上海など都心の子です。都会で育っている子どもたちは、通学風景や家族などの他に、想像力豊かな絵が多いのが特徴です。「千個の太陽」と言うタイトルの作品は本当に何十も太陽が描かれているし、蟻に乗ってヘチマの中を探検している絵など楽しい作品が多くあります。一方で少し田舎の子どもたちになると、飼っている牛や鶏、自分の家の庭など生活描写が多くなります。また中国で興味深いのは、一人っ子政策の影響が絵に現れていることです。いつも聞かされている言葉なのかもしれませんが、「ママの唯一のお姫さま」とか「僕たち大事な宝物」というタイトルがたくさんあります。

 ダイナミックな作品の多い欧米の中でも、オーストラリアとアメリカは代表的です。大きな紙に太い筆でべた塗りをした作品には国の大きさまで感じられます。印象的だったのはオーストラリアの10才の男の子が描いた「エアーズロック」という作品です。紙の上半分が濃い青で下半分が茶色、中央に赤茶のプリン型の丘が描かれているだけのシンプルなものでしたが、国を代表する名所であるエアーズロックの存在感と広大さは十分に伝わってきました。そういう作品を見ると、絵は習うものではないんだと言うことを実感します。

 タイやスリランカからは伝統的な技法を用いた絵が、台湾・シンガポールからは日本の「ドラゴンボール」や「セーラームーン」の絵がたくさん届きます。ドイツやスロバキアからは巧妙な多色刷り版画が、南米からは街の様子を描いたカラフルな作品が届きます。もちろん実際は「遊んでいるところ」を描いた絵が大半を占めています。そこから、子どもたちがそれぞれの国でどんな生活をし、どんな教育を受け、何を楽しんでいるのかが話を聞くように伝わってきます。そして子どもの視点や好奇心・想像力が世界中どこへ行っても変わらないことが良くわかります。



 数万枚の中にあるのは幸せな絵ばかりとは限りません。今でも忘れられないのは、2年前にユーゴから送られてきたセルビア人の12才の男の子が描いた「戦争」という作品です。小さな画用紙に描かれていたので、遠目に見たときは赤い花が咲いている野原に見えたほどです。しかし実際は正反対の場面でした。一面きれいな黄緑色で塗られた地面の上には血を吹き出した腕や足、首のない兵士が散らばり、隅には首を切られた犬や、首を吊っている女性も描かれていました。

 スリランカからも兵士や戦車の絵が届きます。「平和のために」というタイトルの付けられたそれらの絵はインドとの内戦を描いたものです。戦車と共に生活をしたり、赤い絵の具を血を描くために使う子どもたちが世界にはまだまだいるのだということを実感させられた作品でした。

 子どもたちに直面しているのは戦争だけではありません。世界各地からポスター風の作品は毎年多く送られてきます。マレーシアの私立学校からは「児童労働をなくそう」というスローガンを掲げた絵、またアラブ首長国連邦からは環境汚染について呼びかける絵、モルジブからは「珊瑚を取らないで」と訴える絵など、子どもたちは本当に自分たちを取り巻く環境を心配しています。

 戦争や貧困などの問題から遠く離れて、一見豊かに見える日本にも問題はあります。子どもたちの楽しみの一つとして行われるべき「お絵かき」が、苦痛になっていると見て取れる絵があるのです。一つの幼稚園から同じ色調の同じ絵が何枚も送られてきたり、先生の手が明らかに加わっている作品が時々あります。「情操教育に力を入れています。こんなに賞も取りました。」と、幼稚園の知名度をあげるための材料にされている子どもたちがたくさんいるのです。



 特別に技術を与えなくても、子どもたちは絶妙な描写力を持っています。「運動会」を描くのに、画用紙の下には茶色で地面を、真ん中にはグラウンドに見立てた大きな楕円を、上には太陽の出ている空を描きます。そして真ん中のグラウンドのまわりをたくさんの顔がぐるっと取り囲むのです。大人から見ると、それは重力を無視した非現実的な図ですが、子どもは一枚の紙の中で、晴れていたこと、お客さんがたくさん来ていたこと、地面に描かれた楕円の中を走ったこと、それらすべてを説明しているのです。

 特に小学校低学年ぐらいまでの子どもたちの絵はおしゃべりです。一枚一枚が、好きなものを好きだというための絵だったり、恐いものを説明するための絵だったりするのです。おしゃべりの方法を決めつけられたり、横から口出しされたとしたら、子どもたちは口を閉ざしてしまうでしょう。絵も同じだと思います。
 子どもたちが「表現したい」と思ったとき、それが自由に出来る環境であって欲しいと思います。そして表現したものが否定されない環境であって欲しいと思います。




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