ブラジルの路上の子どもたち

夢というものは自分にはない、
希望などない
―その実情と市民団体の活動―

田村 梨花



 この記事は、1993年、プラッサメンバーが、ブラジル各地で行なったストリートチルドレンへのインタビューや、子どもたちのために活動している数々のNGOプロジェクトへの取材資料を元にして書かれています。尚、その取材全体を報告書としてまとめ増刊号として発行する予定です。



 ブラジルのストリートチルドレンが、世界のなかでも類をみないほど悲惨な生活を強いられていること、そして警察にいつ殺されるかわからないような不安定な状況のなかで生きていることは、本誌でも取り上げてきたとおりである。

 すべては、この国で行なわれてきた社会的経済的政策が、いつでも社会的立場の強い者たちのために行なわれてきたことに所以する。ブラジルは第三世界のなかでも所得格差に関しては非常に大きな問題を持つ国である。そして、いつの時代も、どんな地域でも例外なく、その一番の被害を受けるのは社会的弱者、子どもたちなのである。

 なぜ子どもたちが路上で生活せねばならないのか。家庭内暴力がその一番の原因であろう。親たち、特に父親がふるう暴力に耐えられなかった、といって家を出て来た子どもたちが沢山いる。ブラジルのように、まだまだ社会のなかでマチズム(男性崇拝主義)が強く根付いている国では、母親の権威は無いに等しい。「母親には会いたいと思うけれども、父親のことは思い出したくない」貧しい生活のなかで、自発的に仕事を始めた子どもたちが一生懸命稼いだお金を、父親に巻き上げられることも多い。そのようななかで、子どもたちは幼いなりに自分が「搾取」されている状況に気付き、生きてゆくためには親から、すなわち家庭から離れなければという考えに至るのである。この「搾取」は、経済的なものに留まらない。家庭内で、父親から性的虐待を受ける少女たち。まだ性的な知識もまるでない時期に受けた傷は、身体的なものよりもむしろ、精神的な傷跡として子どもたちの脳裏に焼き付いてしまう。

 もし、ブラジルの国民が、子どもたちの置かれている状況、路上で生活せねばならない理由を少しでも理解しているなら、今ストリートチルドレンたちが直面している問題は起こらずに済んだのかもしれない。しかし、自国の持つ「貧困」という社会問題の原因を正確に理解しているものはほんの僅かである。殆どの国民は、自分が直接被る様々な社会問題、例えば犯罪といった治安の悪さを表面的方法によって解決すればいいと思っているのだろうか。即ちストリートチルドレンを路上から抹消すればいいと考えているのだ。

 サンパウロ弁護士会人権保護委員会の副委員長は、ブラジルには路上の子どもたちや貧しい人々に反感を持ち避けようとする動きと、それらの人々の問題を暴力を以て解決しようとする動きがあると嘆息する。悲しい状況である。本来ならば、民主的方法を以て解決すべき問題であることに気付くことができない環境に置かれているからだろうか。また、そのような問題は政府が解決するべき問題であるとして、自分では何も行動はとらないといった態度も見受けられる。そして、暴力で問題を解決しているのは「警察」であり、状況を把握しつつも、結局は自らの利益につながるような政治政策しか打ち出せない「政府」である。ストリートチルドレンは、国民にも、政府にも、そして本来自分を守ってくれるべき両親にさえも見放されている。


 彼らは、あらゆる危険にさらされながら生きている。サンパウロでストリートチルドレンの保護活動を行なっている団体の一つ、パストラル・ド・メノールのコーディネーター、マリア・セシリア・ガルセス・レーメはこう語る。「ブラジルでは、約3600万の子どもたちが社会に組み込まれることなく生活し、その内900万もの子どもが家族によって見捨てられ路上に出てゆきます。そこは、搾取・犯罪・麻薬・暴力及び『死』の蔓延する世界であり、一日平均4人の子どもたちが、軍警察の関与するブラジルの主要都市部に倍増している殺人グループによって殺害されています」

 警察がストリートチルドレンを殺害しているのは明白な事実であり、その行為を政府が黙認しつづけている。警察官たちは自分たちが社会を守っているという意識を観念的に持ち、社会の安全を脅かす犯罪者たちを抹消すればいいと考えている。彼らにとって、ストリートチルドレンは格好の対象である。自分に危害を及ぼせないことがはっきりしているから、殺害するだけではなく、自分のために利用する場合もある。子どもたちが盗んだものを、警察が自分のものとして没収してしまう。「自分では、物を盗んだあとすごく後悔することが多い。けれども、警察が権力でそれを取り上げ、自分の物にすることは許せない」自分のなかで生まれつつある“してはいけないこと”という道徳的観念が、このような警察の行為によって覆されてゆく。ストリートチルドレンが、道徳教育的思考を持たないというのは、大きな間違いである。彼らのほうが、良いことと悪いことの分別を持っている。ただ、路上生活のなかで、その考えを奪われざるを得ない状態に置かれているのではないだろうか。

 警察による子どもの殺害は、抵抗できないものに対する暴力という点で、それだけでも残酷に聞こえるが、実際は人権という人類不偏の権利も存在しない世界かと思わざるを得ない程ひどいものである。カンデラリア虐殺事件のような、集団で銃殺するケース、まず行方不明という形をとり殺害するケース、少女たちに対する性的暴力(時には少年―ブラジルでは珍しいことではない―)。 ただ、このような警察の行為も以前はこれほど露骨ではなかったという。

 警察以外にも、路上での不安定な生活に目をつけ子どもたちを利用している組織が存在する。未成年は法令により罰せられないという言葉で子どもを納得させ、麻薬の取引に子どもを媒体として使用する。しかし、子どもが失敗したり、裏切行為に及んだ場合、その報復は普通ではない。そして麻薬関連の組織と関わりを持った子どもは、組織から逃げられないようにするため遅からず麻薬漬けにされる運命にある。また、人身売買も子どもが浮遊している社会では非常に容易に行なうことができる。「もっと楽に稼げる仕事を紹介してあげよう」と子どもを唆し、売春行為を強制させる。反抗した場合は、暴力をふるわれ、それが死に至ることもある。

 貧しさからくる空腹感、自分の未来に対する絶望感などといった苦しみ、つらさを紛らわすために、子どもたちが製靴用のシンナーを吸うことは日常化している。麻薬ほど強力ではないとしても、この行為は子どもたちの健康に非常に有害であり、継続すると思考能力、価値判断を弱まらせてしまう。しかしながら、シンナーを手放せない子どもは止めなければといつも感じているようだ。

 しかし、ブラジルにもこのような「夢などない」という、自らの運命を選択する機会を奪われた子どもたちを人道的な立場から保護しようと動きだしている団体が存在する。

 ブラジルはカトリック系信者が多いので、宗教的観念に基づき「子どもたちを救う」ことに対し使命感を持つ教会関係者を中心としたストリートチルドレン救済プロジェクトが発足している。

 地域的に発達したこのプロジェクトでは、ただ子どもたちに住居・食品を提供するだけではなく、「教育」面での援助に重点を置いているところが多い。ブラジル北部の都市、ベレンで「エマウス」という地域団体を指揮しているブルーノ神父という人がいる。彼は、リオ・サンパウロ・レシーフェ・ベレンの4箇所に支部を持つ「ストリートチルドレン全国運動」のコーディネーターも務めており、地域市民活動において先駆的役割を担って来た方である。「ストリートチルドレンの問題は、政府組織のなかであらゆる政策が行なわれてきたがその利益の対象がいつも食い違っていたために、正しい方向に機能していないことに所以している」本来利益の対象は、困難な生活を強いられている人々に向かうべきである。しかし、ブラジルの無秩序な社会システムは、その利益が政府側、富裕層側に流れていくように機能している。「農村の生活では生計が立たなくなった人々は、職を求めて都市に出てくるが、都市ではその数を受け入れるだけの機能が発達していないため、貧困層が倍増する結果となる」自活の不可能な貧困家庭においては、子どもも労働を強いられる。「家庭というものが確立できなくなってゆくこの流れの被害者は、子どもたち自身なのです。子どもたちは自分が生き延びるために必死になります」


「町の現場での教育、子どもを法的に保護する制度の施行が必要である。土地問題など様々な社会的問題に対し、政府がきちんと現状に見合った開発計画を実践しないかぎり、この状況は改善されることはないだろう」ブルーノ神父は、状況の根本的解決は政府単位の行動にかかっていると示唆している。対応の遅さにかけては抜きんでているブラジル政府に対し圧力をかけるためにも、この恥ずべき状況を国内外の人々に知ってもらうことが必要であると、彼は考えている。プラッサのメンバーでカメラマンである宮沢さんが、東京でブラジルのストリートチルドレンの現状を報道するために写真展を開催するにあたり、彼はこう考えを述べてくれた。「子どもが被害者となる問題は、決してブラジルだけの問題ではなく、世界的なもの。問題の本質を一人一人認識できるような公表の仕方をすることが大切である」


 ブルーノ神父は、問題の原因を理解しており、その解決のために最善の方法をいつも実践している。「私たちは貧しい子どもたちをただ保護するということではなく、子どもたちが社会的・政治的に目覚めてゆくような教育を心がけ、一般の人々へもこのような問題を訴えるように努力しています」子どもたちが、自分たちの置かれている状況の発生原因を正しく理解し、それに対する解決方法をプロジェクトから学びとり、また自分自身で考え始めるような教育を行なうことが、今一番必要とされる「援助」であると彼は教えてくれているような気がする。

 だが、このような教育を実行することは、容易ではない。路上で生活することによって両親を含む「大人」に対する不信感、反抗心が根付いてしまっている彼らの心を開くには愛情と根気が必要とされる。エマウスのスタッフ、グラッサ・プラッパスさんは、「子どもたちを信じないとこの仕事はやっていけません」と語る。また、フランシスコ・ダ・シルヴァさんも、プロジェクトの重要性を認識している。「この仕事は、大変やりがいのある仕事ですが、献身的な努力抜きでは達成できない仕事です。子どもたちは『生き延びたい』と痛切に願っています。スタッフの責任は重いのです」

 だが、路上で得ることのなかった精神的安定に包まれることで、子どもは次第にスタッフの愛情を受け入れ始める。スタッフや友達と衣食住を共にし、「学校教育」に留まらない、現実感あふれる「社会教育」を受けながら、路上生活を始めたときから思っていた「学校に行きたい」「何か仕事をして稼ぎたい、自分で稼いだお金で物を買いたい」という希望が実現可能なのだと気付き始める。そして、その時点から子どもたちの生活は変わり始める。

 教会組織等様々な市民団体による、ストリートチルドレン救済プロジェクトの活動は、少しずつ(POUCO A POUCO)ではあるが着実に子どもたちの生活に変化を与えている。「ここは家よりもずっといい。ここがとても好き。大きくてきれいなベットもあるし」「仕事ができる。プロジェクトの活動は楽しい」子どもたちは、プロジェクトに参加することを自ら望んでいる。そして、路上では明日のことも覚束ない生活が日々続いていたのに対し、だんだん「将来」についての希望がみえてくる。「将来は勉強して仕事をしたい。道路工事の仕事に憧れているので、そういう仕事がしたい」また、一番大きな夢は何かという問いに対し、このような答えがかえってくる。「仕事をして、お金を稼いで、家族みんなで暮らせるようになって、そしてもっと大きくなったら、自分と同じような境遇の子どもたちを助けたいと思っている」

 ヴァルドは、リオのサン・マルチーニョでエドュカドール(路上の教育者)をしている。現在21才である。彼は、中学校の時麻薬を覚え、密売組織のなかで手下として働いているとき警察に捕まり、14才の時に脱獄している。それからずっと路上で生活をしていたが、ある日映画館で偶然出会った一人の男性が彼が立直るきっかけを作った。「彼に出会わなかったら、勉強したり働いたりする機会を持つこともなく、今の自分はなかったと思う」彼はヴァルドを教会に連れて行ってくれた。「その時彼と一緒にいた友人は、『君は気違いじみているよ。路上の子どもなんか拾ってきて。この子は君から何か物をかっぱらおうとしているに決まっているじゃないか』と言ったけれど、彼はそんな風には僕をみなかった。僕は彼が友人に対していった言葉を裏切らないように努力してきた」その後ヴァルドは教会の行なっているプロジェクトに参加し、掃除夫として勤め始め、身分証明書(路上の子どもたちが身分証明書を持っていることは殆どない。自分の年令をも知らない例が沢山ある)も取得できた。そして彼は、施設の子どもたちの世話をする仕事を選ぶ。  

 施設のなかで、貧しい子どもたちを助ける仕事をしながら、彼のなかで「貧困問題」に対する意見が生まれてくる。「多数のブラジル人の資本家は、自分たちで富を独占するために、貧困層は必要だと思っているようだ。また貧困層も、選挙などで物を貰うことに慣れきっているし、(ブラジルでは、選挙運動の一環としてファヴェーラ《スラム》の住民に対する生活援助を一時的に行なう習慣ができてしまっている)仕事になかなかありつけないので労働意欲そのものが失われつつあるので、そのような人々に公平な仕事と給料が分配されるような社会が必要である」

 彼は1992年ジュネーブで開催された国連の人権会議に参加した。路上の生活経験を持つ子どもが、教育を受け人間的に成長し、自分自身で国の政治の在り方、社会問題の解決方法について答えを見つけつつある。「この社会を変えてゆくためにはまだ多くの時間が必要とされることを認識し、こつこつと努力を重ねることが必要であろう」人権会議で、彼は次のようなメッセージを残している。


 「世界を変えるために最も必要なものは、『愛』です。ケネディはかつて『愛は人間の心を変える』と言いました。その国が素晴らしいかどうかは、経済的な豊かさや、文化的な基準で推し量れるものではありません。人々の愛は、いつか国境をも乗り越え、一つの大きな流れとなって世界を変えてゆく力となるでしょう」


 ストリートチルドレンが自らエドュカドールになるケースは、増加してきている。そして、彼らの行なう活動は、自分が経験してきた世界だけに、一方的なプロジェクト活動とは一線をなしている。ただ生活援助をする「物質援助」ももちろん必要だが、今、より必要とされ望まれているのは、教育を代表とした「人的援助」なのではないかということが読み取れるのではないだろうか。



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