解放20年 その明暗の中から
−ベトナムのストリ−トチルドレン−

「ベトナムの子どもの家を支える会」ベトナム事務所長
小山 道夫



はじめに

 1995年4月30日はサイゴン「解放」20周年でした。私は当日サイゴンに滞在し盛大な式典をこの目で見ました。また、2月から4月にかけてベトナム全土の主要都市で「解放」20周年の大々的な記念式典が行われました。

 1975年4月、サイゴンの大統領官邸に「解放戦線」の戦車が堂々と入場したシ−ンは、今でも鮮烈に脳裏に焼き付いています。「アメリカ帝国主義もとうとうベトナムから追い出されたか。これで、ベトナムも立派な国になるな。」などと思ったものです。

 それから20年。ベトナムは私の想像とはかなり違ったコ−スを歩んだようです。多数のボ−トピ−プル。貧困。ベトナム南部解放が南部の人々にとって文字通り解放になっていたのか、大いに考えさせられました。

 機会があって私は2年間ベトナム中部の古都フェ市に滞在し、「解放」後のベトナム、ドイモイ真っ只中のベトナムを体験しました。また現在も体験中です。中部ベトナムはほとんど日本人の滞在していない地域です。そうした意味では私の体験は貴重なものかも知れません。

 ここに、中部ベトナムでストリ−トチルドレンと共に生活してきたささやかな体験を報告します。




(1)何故ベトナムへ来たのか

 1992年8月、機会があってベトナムのサイゴンを一人で訪問しました。シンガポ−ル経由でニュージーランドへ行く途中に、ふらっと立ち寄ったと言った方が正確なのかも知れません。

 たった数日のサイゴン滞在ではありましたが、私は鮮烈な衝撃を受けました。

 朝早く市内を散歩すると、ホームレスの家族に混じって、ストリートチルドレンが商店の軒下に寝ていました。それも一人や二人ではありません。町を歩くと数十人の子どもたちの物乞いに取り囲まれてしまいました。また少女売春婦の施設も訪問しました。14才位から15才位までの少女70人が、刺繍やミシン、縫いぐるみ人形作りなどの作業をしていました。当時小学校の教員をしていた私は、これらの子どもたちを見てなんともやるせない気持ちになりました。同じ地球に住みながら、貧しさのために売春をせざるを得ない子どもたち。観光客に物乞いをせざるを得ない子どもたち。貧困故に路上に寝なければならないたくさんの子どもたち。子どもたちに何の罪があるのだろうか。 当時私は45才でした。これから定年退職するまでの15年間を、これらの子どもたちのために何か役立つことをしたいと決意し、1993年8月31日に東京の小学校教員を退職し、ベトナムへやってきました。第2の人生の選択したともいえるのでしょうか。


(2)フェ・ストリートチルドレンの実態

 今ベトナム全土に何人位のストリートチルドレンがいるのか、その実態はよく分かっていません。3万人とも5万人とも言われています。

 ベトナム厚生省、教育訓練省などの発表によれば、ベトナム全土で5万人、ホーチミン市で8千人のストリートチルドレンがいるとされています。

 私の住んでいるフェ市では300人位のストリートチルドレンがいると言われています。「言われています。」というのも、政府や関係機関がその実態を十分に把握していないからです。

 1993年9月、私はフェ師範大学日本語クラス講師という職を得、フェ滞在を開始しました。教職の傍ら、私はフェ市と相談し、ストリートチルドレン救済活動を始めました。

 当初は、全く一人からの出発でした。私のポケットマネーで出来る範囲、ということで10人のストリ−トチルドレンを施設に収容することから始めました。

 ベトナムは幸い物価が安いこともあって、2万円のお金があれば一年一人のストリートチルドレンに衣食住、通学を保証することができるのです。

 ストリートチルドレンが生活する場所は、フェ市を流れるフオン川にかかる橋の下やドンバ市場、公園などです。ドンバ市場には、たくさんの買い物客がやって来ます。ストリートチルドレンは、これらのお客から「なにがしか」のお金をもらおうと集まってきます。時には、ドンバ市場の商品を「万引き」して生計を立てています。私がお世話している子どもの中に、「万引きの帝王」というあだ名の6才の男の子がいます。

 また夜10時過ぎのレストランの前には、たくさんのストリートチルドレンがいます。『お金持ち(?)』がディスコ(日本のダンスホール)で遊んだ後、食事をしにレストランにやってきます。ストリートチルドレンは、これらのお客に「宝くじ」を売ったり、物乞いをしたりします。

 また、町中の道路沿いで、ペットボトルに入れたガソリンを売ったり、市場で水を売ったりして生活している子どももいます。

 朝早くから「宝くじ」売りの子どもをよく見かけます。

 サイゴンからハノイへの列車を「自宅」兼「仕事場」にして、スリや盗みをしていた子どももいます。

 一昨年のベトナム中部は大干ばつでした。噂では、餓死した農民もいると言われています。都市近郊の農民は、貧困から都市へ流入してきます。フェ市でも家族連れの農民が公園や路上に寝ている姿をたくさん見かけます。暫くすると、親が子どもを置いてどこかへ行ってしまいます。子どもたちだけで路上や公園に寝て生活しなければなりません。

 最近になって少数民族の子どもたちが、子どもの家に入ってきました。彼らの両親は、ラオス国境の近くで、焼畑農業などで生計を立てている少数民族です。71名のストリートチルドレンの内5名はこれらの少数民族です。これらの子どもたちはベトナム語が話せなかったり(少数民族の言葉を話す)、手で食事をしたり、子どもの家の廊下で「用を足し」たりと、キン族(ベト族ともいう。ベトナム人の80%〜90%を占める)と生活習慣が違い、当初かなり戸惑っていました。

 私たちがお世話しているストリートチルドレンの中には、ハノイ語やサイゴン語を話す子どもたちもいます。フェのストリートチルドレンの家には、ベトナム全土から子どもたちが集まってきています。


(3)何故ストリートチルドレンが生まれるのか

 これはなかなか難しい問題ですが、その原因は二つあると思われます。一つは経済的な理由です。貧しさです。長年にわたりフランスの植民地となったり、日本の侵略を受けたり、「史上最大」のベトナム戦争などの結果、国土は疲弊し荒れ果ててしまいました。

 また1975年「南部解放」・全土社会主義化政策の「失敗」。

 これらの原因により極端な経済不振に陥りました。フェでは、1986年にドイモイ政策が開始される前は、一般市民の主食は『いも』でした。白米は食べられませんでした。フェの友人に聞くと、ほとんどの人がドイモイ政策を支持しています。それは、「とにかく食べられるようになったから」ということです。

 ベトナム戦争で荒れ果て、性急かつ機械的な社会主義化により、生産力は更に低下する中で、一般庶民は貧困化していきました。国連がいうまでもなく「世界最貧国」の一つなのです。しかし、ドイモイ政策も経済再建を最優先させるあまり、弱い立場にある「子どもやお年寄り、障害者」などが切り捨てられています。国家予算の多くがホーチミン市やハノイ市への経済投資につぎ込まれています。

 第2に離婚などによる「家庭崩壊」です。

 ドイモイと「資本主義化」が進行するにつれ、離婚が増加しているようです。「子どもの家」に来ている子どもたちの中にはこんな子がいます。両親の離婚−母親との生活−母親の売春−母親の逮捕−ストリートチルドレン。お父さんが都会に「出稼ぎ」に行ったまま帰ってこないなど、家庭崩壊もストリートチルドレン化の原因の一つになってます。


(4)「ベトナムの子どもの家を支える会」の活動

 当初、私一人で行っていたストリートチルドレン救済活動は、その後、教員時代の友人が応援してくれるようになりました。一昨年、これらの友人が「ベトナムの子どもの家を支える会」を作ってくれ、ストリートチルドレンへの支援活動を始めました。


● ストリ−トチルドレン救済活動

 現在71名のストリートチルドレンを救済しています。「ベトナムの子どもの家を支える会」は1994年12月に設立されました。会は、1995年3月には「第2ストリートチルドレンの家」を建築しました。第1ストリートチルドレンの家に41名、第2ストリートチルドレンの家に30名、合計71名の子どもたちのお世話をしています。

 私たちの会は、地元フェ市人民委員会と協力し、実際にはフェ市で活動しているベトナム人ボランティア組織と提携して活動しています。地元のボランティア組織には小中学校の先生や医者、芸術家などが参加しています。彼らは無報酬でストリートチルドレンの救援活動をしています。

 近い将来、地元のボランティアの皆さんが自分たちの力でストリートチルドレンの救済が全面的に出来るよう、私たちは今応援しています。私たちの会の基本的な任務は、近い将来、私たちの会が消滅する事をめざして活動していると言えます。

 7名の寮母さん、2名の看護婦(看護士)、1名の寮長さんへの月給は私たちの会で支給しています。

 子どもたちの将来の自立をめざし、第2ストリートチルドレンの家の隣に、日本政府から「緊急草の根援助」をもらい、職業訓練センタ−を建設中です。これといった産業のないベトナム中部では、推定失業率は50%を超えていると思われます。そんな状況ですから、18才になって「ストリートチルドレンの家」を出ていった子どもたちは、なかなか定職にありつけません。女の子は売春婦、男の子はシクロ(自転車のタクシー)の運転手になる位しか生きて行く道がありません。

 この職業訓練センターでは、フェ市伝統の刺繍や木工彫刻などを勉強することができます。地元の青年にもこの職業訓練センターは開放されます。ストリートチルドレンの家は、文字通り地元に根ざした活動の拠点として、発展する事が期待されています。


● HIV感染者・売春婦の救済活動

 フェ市は、ベトナム最大の観光地ということもあって、売春が「盛ん」です。フランス人を筆頭に諸外国からのお客さんに混じって日本人も売春ツアーに出かけてきます。現在フェ市内にいる売春婦は、フェ省「麻薬/売春婦救済センター」の発表によると300名との事です。売春で逮捕・補導されても、貧困の故に90%以上の女性が再び売春をするそうです。

 私たちは、フェ省にある「麻薬・売春婦再教育センター」と提携して、職業訓練や彼女たちの子どもの面倒を見る活動をしています。

 エイズも深刻な実態です。「麻薬・売春婦再教育センター」に入所している麻薬患者20名の内10名近くがHIVの感染者です。また、70名近くの売春婦の内7名がHIVの感染者です。ここで入所してきた人は、強制的に採血され、エイズ検査が行なわれます。

 母子感染で発病した9ヵ月の男の子が先日亡くなりました。これといった治療もないままに。

 現在、エイズは麻薬患者から売春婦に移行してきています。推定では、HIV感染者はフェ省で千人を超えているのではないかという声も関係者から聞きました。実態は、発病するまで分からないのが現状です。


● 奨学金の支給

 地元の「ハイバーチュン中・高校」と提携して、家計を助けるために仕事をしながら学校へ来ている子どもたち5名に奨学金を支給しています。


● 枯れ葉剤の影響と思われる障害児の救済活動

 ベトナム中部には、ベトナム戦争中多くの枯れ葉剤が撒かれました。ラオス国境を抱え、ベトナム戦争中の「南」の最前線だった「トゥア・ティエン・フェ省」では、その70%に枯れ葉剤が撒かれたということです。フェでの3年間の生活の中で、何となく障害者が多いと感じていました。改めて省の障害児委員会やフェ大学医学部に聞いてみたところ、フェ市だけで重度障害児(15才以下)が2300名もいる事が分かりました。ベトナム戦争の影響と思われる障害で、今でも人知れず苦しんでいる子どもたちがたくさんいることに驚かされました。私は、フェ大学医学部の「奇形」専門の講師、ニャン先生と協力して、2300名の障害児一人一人を訪問してみることにしました。もちろん、今でも2300名全員訪問はその途中ですが、障害の深刻さに驚いています。枯れ葉剤の影響は口に多く出るといいますが、口蓋障害の子どもがたくさんいました。水頭症の子どもは、足も麻痺していました。彼は、一日中暗い部屋でじっとしているだけの生活です。手足の指が6本ある子・・・。私は、改めてアメリカの戦争犯罪を告発したい気持ちになりました。アウシュビッツや広島・長崎の原爆に勝るとも劣らない世紀の大量人殺し「枯れ葉剤」作戦。今でも、枯れ葉剤の影響の実態調査がなされていません。フェ省では、昨年から実態調査が開始されました。しかし、ベトナム全土での実態調査は、戦後20年の今もなされていません。

 ベトナム戦争について何の謝罪も反省もないままベトナムとの国交正常化を果たしたアメリカ。しかし、その陰で、枯れ葉剤の影響と思われる多くの障害児が、何も言えずにじっと家の中にいます。私は、これらの子どもたちに代わって、アメリカと戦争そのものを告発しなければならないと思っています。あわせて、これらの子どもたちを少しでも救済しなければならない、と決意しています。


(5)ベトナム中部で生活して

 私がフェに滞在し始めた頃は、フェに長期滞在する日本人は殆どいませんでした。

 フェに滞在して一番気になる事は、いつも警官に監視されている事です。フェに来て1年間位は、私を担当する公安警察がいました。どこへ行くのにも尾行が付きました。ある時、私が教えていたフェ大学の学生と夜9時頃ディスコに行きました。すると、大学の校門にかの私担当の公安警察が待っていました。「どこへ行きますか。何をしますか」と聞いてきました。月に一度位は「電気の検査」「家具の虫食い調査」などと称して、10人位の警察とおぼしき人が、私の部屋に入ってきて、部屋中調べて行きます。日曜日、自転車で市場に買い物に行く時、そっと後ろから警察が尾行してきます。

 フェは、ベトナムでも反政府活動(反社会主義活動)が心配される地域の一つです。宗教の自由を主張しベトナム政府と闘っている統一仏教教会の本部があり、近くには、反政府活動の恐れのある少数民族が居住する山岳地帯を持っているフェでは、これらの仏教徒や少数民族と外国人が結び付き、反政府活動をする事を極端に恐れているのです。

 検問も私を悩ませる事の一つです。私に送られてくる日本語教材のビデオやテープ、書籍類は、全て文化局による文化検査(検閲)を受けなければなりません。また、私の学生の日本語を録音したテープを日本に送るのにも文化検査が必要です。

 「ベトナムの子どもの家を支える会」の事務所に掲げる看板も、省の文化局の検閲が必要でした。申請してから、許可されるまで1ヵ月位かかりました。

 フェに行った当初はコレラに悩まされました。フェでは、数千人にものぼるコレラ患者が発生し、数十人が死亡しました。その後、マラリアも大流行しました。これらは、いずれも命にかかわる伝染病です。食べ物や蚊に注意しなければなりませんでした。

 精神疾患の患者による暴行も気を付けなければならない事の一つでした。私は毎朝5時から6時まで市内を散歩しながらストリートチルドレンの様子を見ています。ある朝散歩中、後ろから後頭部を数回強打されました。振り向くと、30才代の女性が10センチ位の「安全ピン」を拡げ、私を刺そうとしているのです。手にはレーニン全集を持ち、「侵略者は出て行け」「ベトナム共産党万歳」と叫びながら。私は、慌てて逃げました。しかし、彼女は私の家まで追いかけて来て、部屋のドアをドンドンと叩くのです。後で聞いた所によると、元フェ大学の女子学生で中越戦争後に精神疾患にかかったそうです。私を中国人と間違っての暴行だったそうです。

 またある時には、教室に男が乱入し、私が教えていたフェ大学の男子学生をめった打ちするのです。彼もフェ大学理学部の学生ですがノイローゼになり、1年間病院に入院し、退院してきたばかりとのことでした。酒を飲んだ上での暴行でした。警察に連行されました。

 また、朝の散歩中何度となく、物を投げつけられました。花瓶や石などです。

(6)おわりに

 私は、ベトナムに3年近く滞在しています。1995年11月には、フェ市内の「ベトナムの子どもの家を支える会」の事務所を開設することができました。ベトナム政府の正式ライセンスをもらいました。この3年間、ストリートチルドレンや売春婦、エイズ患者、障害児などと付き合わせてもらいました。色々な事を勉強しました。特に彼らの粘り強さ、どんな逆境にも負けず明るく生きていく姿勢など、私はベトナムに来て多くの事を学びました。改めて彼らに感謝したい気持ちです。

 私の3年間の体験から、私のボランティア活動の基本は、3つあるように思えます。

 第1は「人間主義」です。言い換えれば、人間を一番大事に考えるという事です。時々、私たちの活動を批判する人々がいます。『小山たちがやっている事は、ベトナム政府のやる仕事だ。ストリートチルドレンを救済したいのなら、ベトナム政府に救済させるように圧力をかけるのが仕事だ。結局小山たちのやっていることは、ベトナム政府の失政を免罪するだけのことだ。』『ストリートチルドレン救済は結局ベトナム人に「物乞い根性」を植え付けるだけのことだ』・・・・・。こうした意見は、結局何もしない事を意味します。私は、理屈を言う前に、目の前で貧困に喘いでいる子どもたちをなんとかしてやりたいのです。路上で寝ている子どもたち、物乞いをしなければならない子どもたちをなんとかしたいのです。私の出来る範囲で。私のボランティア活動の原点はまさに、こうした気持ちです。それは、生きている人間を何よりも第1にしたいということに尽きます。

 第2に平和です。ボランティア活動は平和を求める活動と直結しています。特にベトナムでは、平和の有難さを実感します。私たちは、ボランティアだからこそ、平和のために闘う必要があります。

 第3に民主主義です。会の運営には徹底した民主主義が必要です。会計を100%ガラス張りにする必要があります。立場の違う色々な人々と徹底した意見交換と論議の上で活動をすすめなければなりません。こんな事を考えながら、ベトナムに滞在しています。読者の皆様のご支援を心からお願い致します。



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