子どものプロローグ

永井 雄彦



 すやすやと眠っているマリイにそっと触れた時、羽を休める鳥の温もりのような、何か繊細な命を感じた。こんなに可愛らしい子がなぜ、どうして、苦しまなければならないのかと、感傷に浸っていると突然、マリイはウーウーと鳴き声を発し細い手が折れるくらい激しく突っ張り、変形した小さな体をのけ反らせた。

 以前、硬直が止まらずマリイは自分で自分の関節をボキボキと音をたてて外してしまうと聞いた。そんな話を思い出し、どうしたらよいものかと戸惑ってしまった。

 介助者の児島さんがマリイの硬直した体を摩りながら体位交換をする。安心したマリイが笑い出した。「楽しそうに笑って見えても、只、顔の筋肉が引きつっているだけかもしれないの。脳に真っ黒い穴が空いているのよ、専門医にも、10数年連れ添っているお母さんでさえマリアの笑顔はナゾなのよねー」と児島さんは言う。

 少女マリイは14才の日本人。体重はわずか20kg、目がほとんど見えず、言葉を理解することもなく、首すらすわっていない。少量の流動食を口にし自分で排泄できず、一日の大半を車椅子かベッドで眠っている状態でいる。


 最近、次のような疑問を投げかけてみた。「ブラジルのストリートチルドレンの中にも障害を負った子どもがいるはずです。そのような子どもたちはいったいどうなるのでしょうか?」

 「ブラジルの貧困層の中で重度の障害を負って生まれてきた子どもは、苛酷な状況からしてまず、いきてゆくことができません。ストリートチルドレンの中で障害を負った子どもを発見した場合、あるボランティアの人たちによって保護し、その子どもの障害の度合いによって優先的に施設に入れます。」ブラジルで救済活動をおこなっている方や、その問題に携わるジャーナリストの方々が皆同じように答えた。

 「では、警官が路上で暮らす子どもたちを連れ去り、ピストルで撃ち殺してしまう国の『障害者施設』とはいったいどうゆう所なのでしょうか?」との質問には、「そこまで手が回らないほど凄まじい。」ということでこの話は終わってしまった。いくばくかの不信が拭えないままマリイのことが頭と過ぎる。やはり納得がいかなかった。

 世界各国問わず、手を差し延べれば何かが返ってくる子どもたちの感動のストーリーをよく耳にする。勿論、そのような感動話は大きな喜びを与えてくれる。 が、ストリートチルドレンの中でも身体的なハンデを持った子どもたちは、いつの間にか忘れ去られ、さらに、知能障害を負ったマリイのような子どもたちは、社会の闇に切り捨てられる。

 日本の重度の障害児は、手をかけても反応が微々たるものだとわかると、施設の片隅に追いやられ、なおざりにされ、唯一のささやかな感情さえ失ってしまう。ベッドと同化した単なるモノとして映る我が子を前に、母は愕然とする−−。

 「いつ殺されるかわからないブラジルのストリートチルドレン。いじめられ続け自殺するか、相手を殺すか、選択を迫られる日本の子どもたち。直接感じる恐怖とじわじわ迫る恐怖も同じ暴力。抑圧されるすべての子どもたちを対象に...」云々。子どもの問題に関わる人たちはこう力説する。一見、精悍さが感じられカッコイイのだが、しかし、マリイのような子どもたちが、その問題意識から抜け落ちている。優生思想が軸とされ、マリイ自身気付かずに排除されてしまっている。医学の進歩と共にマリイのような子どもは増え続けるだろう。だが優生思想の病が根深いかぎり、どのような弱者も選別され物事は遂行されていくであろう。

 どのような姿形で生まれてこようとも、すべて人の子。たとえ美談にならなくても、その子どもの生と死を無視してはいけない。


 問題を投げかけるのはたやすく、答えを出すには時間がかかると言われそうである。けれども、ひとつだけわかっていることがある。

 初めてマリアに会った時、胸がドキドキした。彼女を通して本当の自分の姿が見えてくる。優しい人間か、そうでないのか、彼女と接する人は皆同じことを感じているであろう。だから、マリイを避ける人が大勢いるのかもしれない。行政、学校、地域、その他の人々など...。見てくれの優しさは彼女に通用しない。

 人として人がどうあるべきかを知るためにも、マリイのような子どもたちは世の中にとって、大切なのではないでしょうか。そのような子どもたちの存在はとても大きい。

 今、遠い海の向こうの子どもたちに何かできないものかと考えているあなた、そこの日本人のあなたのことです。あなたのすぐ側に“マリイ”はいるのです。





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