PP研・グローバル化と民衆運動研究会資料

PP21労働旬報

ここからどこへ 地球規模の対抗社会への模索
「ピープルズ・プラン21世紀」の七年
    武藤一羊

「民衆の大合流」ーPP21南アジア


 「ピープルズ・プラン二一世紀」(PP21)という運動が日本で立ち上げ られてから七年になる。国境を越えた「ピープル」が横に結びついてアジア太 平洋の、ひいては世界の未来を創造しようというこの運動は、一九八九年日本 に続いて、九二年タイ、九六年南アジアと、アジア太平洋の社会運動、NGO のダイナミックで大規模な集まりを催し、世界的な民衆運動のなかにユニーク な場所を確保したと言える。まず今年三月の南アジアから見てみよう。(以下 「PP21南アジア」と呼ぶがこれは南アジアが開催地のPP21行事という 意味であって、南アジアだけの行事だということではない)。1
 今年三月八日、国際女性デーの朝、ネパールのカトマンドゥの中心部にある 市役所の大講堂で、ピープルズ・プラン21世紀「アジア太平洋民衆の合流ー 私たちが未来を創る」 プログラムの「メイン・フォーラム」が幕を開けた。 一〇〇〇人を収容する大講堂は、アジア太平洋を中心に二五カ国・地域から参 加した四〇〇人の参加者と地元ネパールのさまざまな民衆組織ー労働、女性、 NGO、などで埋められた。チアパスで蜂起したサパテイスタの代表、アフリ カとヨーロッパからの参加もあった。三月一〇まで行われたこの「メインー フォーラム」は、それに先だって広大な南アジア六カ国全体を開催地として行 われた一〇の関連行事を集約する国際会議であるとともに、PP21の始めて の「総会」としても催された。
 メイン・フォーラムは熱気のあるものだった。とくに女性たちのパワーが圧 倒的だった。国際女性デーに合わせた開会日には、参加者全員が数千人の地元 女性のデモに合流して市内の目抜き通りを行進した。マン・モーハン・アジカ ラム元首相(共産党)も、専制下での民主化運動の父として尊敬される高齢の 会議派リーダー、ガネシュ・マン・シン氏も、PP21のロゴ入りの野球帽を 頭に壇上に並び、歓迎の挨拶をした。地元の文化チームは急遽作詞作曲したい ささか勇ましい調子の「PP21の歌」を紹介して参加者を喜ばせた。全体集 会の雰囲気は少しばかり古風というか古典的だったが、盛り上がりは十分だっ た。九〇年、専制を打倒し民主化の糸口についたネパールの民衆運動の溌剌た る息吹が催し全体に吹き込まれたのである。
 メイン・フォーラムに先だって、七〇人ほどの参加者による三日間のワーク ショップ「民衆憲章にむけて」がカトマンドゥで開かれた。メインフォーラム で議論される宣言を準備するためである。このワークショップでは、「グロー バリゼーション」、「オルタナティブな発展システム」、「ジェンダー」、 「ネットワーキング」というテーマであらかじめ準備されたペーパーが提出さ れ、予備的な議論が行われた。時間の不足のため討論は十分とは言えなかった が、この討論のなかからメイン・フォーラムで採択される「サガルマタ宣言」 (サガルマタはエベレストのネパール名)の起草が始められた。
 メイン・フォーラムの前に南アジア各地で開かれた前段行事は、国際作家会 議(ダッカ、バングラデシュ)、平和と寛容のためのフォーラム(カラチ、パ キスタン)、自然資源フォーラム(カルカッタ、インド)、民衆の手による民 衆の医療(マドラス、インド)、小漁民会議(チラウ、スリランカ)、アジア 太平洋労働者フォーラム(パッタン、ネパール)、アジア農民女性会議(カト マンドゥ)、市民社会と人権についてのフォーラム(カトマンドゥ、ネパー ル)、アジアのオルタナティブ発展の努力を結ぶワークショップ(ケララ、イ ンド)などであり、どの催しも予定を上回る盛況だったと伝えられた。さらに カルカッタからカトマンドゥまで一四〇〇キロにわたって、バスを乗り継いで、 児童労働の廃止を訴えてきた子どもたちの行進(奴隷労働から救出された子ど もたちが参加)は、開会の前日に到着、四〇人ほどの恐ろしく陽気で元気のい いロウテイーンの子どもたちが演壇際に陣取り、代表の少年が堂々と自分たち の苦難と夢を語った。またブータン難民キャンプへの訪問も関連行事として組 織された。
 メイン・フォーラムはもともとカトマンドゥではなく、スリランカのコロン ボで開かれるはずであった。平和と分権 (devolution)を掲げるクマラトゥン ガ政権の下で、内戦に終止符が打たれることを見越して、スリランカの運動や NGOはPP21南アジアのメイン・フォーラムをコロンボで開催するよう招 待し、精力的に準備を進めていたのである。しかし不幸にして内戦は終結せず、 かえって激化した。二月にタミール解放の虎(LTTE)によってコロンボの中央 銀行ビルが爆破されるところまできて、会場をカトマンドゥに移すことが急遽 決定された。わずか三週間の準備期間でネパールの民衆組織とNGOは、会場 から宿泊、文化行事にいたるまでほぼ完全な準備を整えたのである。驚嘆すべ き熱意と組織力であった。
 PP21南アジアプログラムはこうしておそろしく重層的で多様性に富んだ ものになった。八九年の日本からずいぶん遠くへきたという感懐がある。形式 としては階層別・課題別の集まりを先行させ、それをメイン・フォーラムでま とめるという八九年以来の方式を踏襲しているが、その多様性、重層性、可能 性という点で容易にそれまでと比較を許さない重みと厚みをもっていた、と私 は感じる。南アジアで開かれたという事実自身がかなりの程度、この厚みと重 層性を加えたのである。
 メイン・フォーラムで骨子が採択され、その後練り上げられたサマルガタ宣 言は、九六年PP21プログラムの幅と厚みを反映し、これからのPP21の 方向を明らかにする画期的な文書になったと私には感じられる。この宣言につ いては後に触れる。
 八九年の日本のプログラム以来、PP21は開催地の地元の運動のプロセス と国際的なプロセスを結びつけるという伝統をもっている。開催地がたんなる ホストとして国際行事の受入に当たるのではなく、国際行事を地元の運動を強 めるプロセスのなかに置こうというものである。三週間という短期間の準備で あったにもかかわらず、PP21メイン・フォーラムの取り組みはネパール自 身のプロセスになった。八月にバンコクで開かれたPP21評議会の席上、P P21の行事がネパールの民衆運動にとって何だったかと、準備の中心になっ たNGO連合INSECのスシール・ピヤクレルに聞いてみた。「PP21を やったことは、ネパールの政治状況に決定的な影響を与えた」とスシールは言っ た。「共産党や会議派も含めて国内の目先の政治しか考えていなかった。PP 21をきっかけに、長期的な展望を考え始めた。二一世紀のネパールを考え始 めたのだ」。
 東アジア(日本)、東南アジア(タイ)から、南アジアに移ったところで、 PP21の運動は一巡し、定型となったものから脱却しながら、新しい形と道 筋を探るところへ来たというのが私の実感である。そうであれば、これまでの 経過を振り返り、点検する必要がせり上がってくる。一区切りをつけて、PP 21という運動は、何か、21世紀が幕を開けようというこの時代の状況に応 えているのか、それに切り込んでいるのか、をあらためて問うことが必要な時 期にきていることが切実に感じられる。PP21は後に述べるように夥しい数 の運動やNGOの相互関係をはらんで進んできたし、そのプロセスは多様性に 富む複雑なものであるから、評価もまた多様であり、多くの議論を必要とする はずである。私にできることは、最初からかかわってきた個人としての責任で、 議論を刺激するための問題を提起することでしかない。
 しかしそのためにはまず、わずらわしいようだが、やはり始めに遡ることが 必要だ。
 

 水俣宣言からの出発


  「ピープルズ・プラン二一世紀」は一九八九年夏、北海道から沖縄まで日本 列島を縦断する国際的な会議、ワークショップ、文化行事の連鎖として始まっ た。わずか一月の間に一九の国際行事を開くという常識外れのプログラムであっ たが、いずれの行事も熱気にあふれたものになり、二万人の人々が参加した。 締めくくりとして行われた福岡での「アジアン・フェステイバル」には、一〇 万人が訪れた。こうした行事をまとめあげるため水俣で総括会議が行われ、参 加したアジア太平洋を中心とする三〇〇人の人々が「水俣宣言」を採択した。 二年間の準備討論をへて、この行動を呼びかけたのはアジア太平洋資料センター (PARC)で、この呼びかけに呼応して全国各地で、またさまざまな階層の 運動者からイニシャチブが生まれた。そのもとで、先住民、農民、女性などの 階層別の国際会議やテーマ別の国際会議がつぎつぎに行われた。オーストラリ アのアボリジニー、フィリピン、タイ、イギリスからのダンスや歌や踊りがこ れらを縫い合わせた。行事はすべて熱気あるものであった。とくに水俣会議は そうであった。その中で水俣宣言を採択した国内外からの参加者は、PP21 は一度限りの行事ではなく、民衆の「希望の連合」をつくりあげる継続的プロ セスにしようと合意した。アジア太平洋を基盤とする国境を越えた運動として のPP21はこうして始まった。2 冒頭に記したように、一九九二年一一ー一 二月には第二回がタイで、九六年三月には第三回が南アジアを舞台にして、さ まざまな運動やNGOの協力のもとに大規模なプログラムが開かれることで、 PP21はすくなくとも一度かぎりの行事には終わらず、八九年に水俣で確認 されたように国境を越えて継続されるプロセスとなったということができる。
 一九八九年という年に出発したというタイミングがPP21にとって重要な 意味をもっている。この年、バブルの狂騒が列島を吹き荒れ、頂点に達しよう としていた。年の始めには昭和天皇が死んで、葬儀と服喪のおどろおどろしい 国家行事が社会を一時窒息させたのに続いて、六月には天安門事件が衝撃を与 えた。八九年は戦後史の分水嶺であった。ちょうどこのとき、二〇世紀の歴史 にとって活断層が動くに似た大変動が始まりつつあったのである。それからわ ずか数年のうちに、世界の歴史的・社会的な地形と景観は、誰の予測をも越え て、かつてとは見分けがつかぬほどかわり果てた。二〇世紀の世界を特徴づけ る目鼻立ちはほぼ完全に変容し、帝国主義、社会主義、民族解放運動、などを 参照点として理解される対抗関係と社会変革の範型はほぼ跡形なく崩壊した。
 PP21はぎりぎりこの境目の時期に、民衆の力で二一世紀をどのように創 り出すか、と問題を積極的に提起し、そのための新たな範型の探求を呼びかけ た。PP21の最初からの積極的な参加者である世界教会協議会(WCC)の イスラエル・バテイスタは、「水俣宣言があと一年後だったら、あれほど強烈 な衝撃力はもたなかっただろう」と述懐した。「当時、これまでの社会変革の 範型の行き詰まりは広く感じられていて、先が見えなくなっていた。水俣宣言 はそれを突破するものだった」とバテイスタは言う。その後のPP21の受け とめられ方(とくに国際的なそれ)を理解するためには、やはりこの一九八九 年という歴史的タイミングにおける水俣宣言のインパクトを抜きにするわけに はいかないだろう。それは「プラン」というよりむしろ「ヴィジョン」のイン パクトであった。
 水俣宣言は「二〇世紀はじめのスローガンは進歩だった。二〇世紀末の叫び は生存ということだ。つぎの世紀からのよびかけは希望である」と書き出され ている。くわしくは全文をもう一度読んでいただくしかないが、宣言を貫くの は二〇世紀の(さらに過去五〇〇年にさかのぼる)開発・進歩モデルの根底的 な批判である。それは人間と自然にたいして「進歩という名の災害」をもたら している。それはまた先住民にとっては、生きるすべそのものを破壊する過程、 女性にとっては、あらゆる面での力の獲得を押さえ込む過程であった。そして それに対して、いたるところで「あたかも運命であるかのように外からおしつ けられてきた状況を拒否」する民衆=ピープルの闘いが起こっている姿として、 状況全体は認識される。それらの闘いは「いまのようでない社会」=オルタナ ティブな社会(水俣の被害者の闘いのなかから生まれた「じゃなかしゃば」と いう言葉が共通の合い言葉になった)を創り出す力である。水俣宣言はその力 が国境を始めとするさまざまな境界を越えて連合し、世界的なピープルを形成 する展望を「希望の連合」と呼び、それをひとびとの「越境する政治行動」に よって創り出すことが二一世紀への希望であると位置づけた。人間と自然の関 係を変えること、南北関係を変え、民主主義を世界大で実現することが一つの プロセスであるとする認識が共有された。水俣宣言の基礎の一つになった「基 調報告」でもちいられた「越境する参加民主主義」は宣言そのものには盛り込 まれなかったが、その後のPP21の共有財産になった。
 八九年のPP21プログラムのもう一つの著しい特徴は、「民衆のスピリチュ アリテイ」というテーマを、おそらくこの種の世俗的運動としては始めて、議 題の一つとして設定したことであろう。(「共同の未来へー民衆のたましい、 民衆の連帯」)この議題に息を吹き込んだのは、北海道の先住民会議に参加し た世界各地からの先住民代表の発言、祈り、ダンス、儀式を通じて伝えられた 「敬愛に根ざした自然に対する態度」(故埴野佳子)であった。3
 水俣宣言をここであえてもう一度取り上げるのは、PP21の個性とは何か を論じる場合、この宣言のもったと思われる独自の衝迫力を抜きにできないか らである。九〇年にニカラグアからのサビエル・ゴロスチアーガが水俣宣言を もとにPP21中米を組織したり(先住民の運動を中心につくられたこの組織 は独自の実態を備えなかったけれど)、思いがけないところで水俣宣言が紹介 されていたり(例えば、いくつかのラテンアメリカの国で独立に出されたスペ イン語版、ポルトガル語版、またAIPP(アジア先住民プログラム)、アジ アYMCA同盟など)、WCCを媒介に水俣宣言のインスピレーションを受け て、カイロス・ヨーロッパという運動が立ち上げられたなどは、そのいくつか の例であろう。その意味で水俣宣言はいわば独り歩きを始めたとも言える。4
 PP21を一回限りの行事に終わらせなかった要因の一つが、国際的な参加 者たち、とくに宣言の起草者たちが、水俣宣言にたいして保持し続ける愛着と 一体感にある、と言っても過言ではないだろう。事実水俣会議の起草委員会は、 事務局が準備した草案を通りいっぺんの修正で完成するというものでなく、先 行する日本での議論やそれぞれの歴史的背景をつきあわせ練り合わせる汗みど ろのプロセスのなかから宣言を生みだした。「民主主義」という言葉一つでも、 それを征服者の政治制度であるとするアメリカ先住民の代表との真剣なすりあ わせが必要であった。非核独立太平洋ネットワーク(NFIP)のロペテイ・ セニトウーリ、インドのフェミニスト、カムラ・バシン、前記のバテイスタ、 ゴロステイアーガ、など、水俣での起草者たちが、水俣宣言を原点とするPP 21という姿勢を今日まで貫いていることは注目してよいと思う。また花崎皐 平が、いくつかの著書のなかで、「民衆性」(ピープルネス)という水俣宣言 の概念を展開しようと努力を重ねていることも同じ文脈にあると思う。5 さら に九三年、スリランカのフェミニスト、ニマルカ・フェルナンドが、次回のP P21プログラムをスリランカで開こうと提案したとき、彼女は「コロンボで 思想的に水俣宣言に匹敵する宣言を出したい」と熱を込めて語ったのが思い出 される。毎年夥しい数の国際会議が開かれ、その数だけの宣言や決議が採択さ れているけれど、そのなかで水俣宣言はぬきんでた生命力を示してきたと言っ ても誇張にはならないと思う。
 PP21とは何か、と問い直すとき、水俣宣言をめぐる以上のような文脈を もういちど確認することが必要であろうと私は思う。つまり「水俣宣言として のPP21」の次元である。それはPP21の思想的次元とでも言えるもので ある。それを抜きにしてはPP21の個性はない、という点を確認しておくこ とはやはり必要である。
 

 PP21のヴィジョンと組織をめぐる問題


  しかし問題はむしろここから始まる。PP21のヴィジョンでは、PP21 とは多様な自治的な民衆の集団が相互作用を経て次第に連合し、破壊的なもの である支配的システムを相互作用のなかで侵食し、堀崩し、次第にオルタナティ ブな社会を探り、創り出してゆくというものである。だからそれは、一つの思 想・綱領のもとに団結する政治運動ではない。むしろその対極にある運動であ る。「PP21はプロセスである」という水俣での合意はそれを表していた。 そこにはますます多くの多様な性格の民衆の集団や運動が横並びに結びついて 次第に力を増し、社会を形作るダイナミックなプロセスがイメージされていた。 しかし同時にそれは水俣宣言という思想とヴィジョンの次元を不可欠とするプ ロセスである。すなわちPP21という名称のついた継承性のあるプロセスで ある。この両者をどのように両立させるのか、それがPP21に始めからつき まとった難問であった。それは、「社会主義」という二〇世紀の「大きな物語」 が失われた歴史的な状況のなかで、世界的な変革への「トータル・ヴィジョン」 と現状を改革しようとする個別の営みがどのように関連させられるのかをめぐ る難問である。それはまたPP21のアイデンテイテイをめぐる難問である。 これらの難問はことさらPP21の組織をめぐる困難として表れた。
 それは、一九八九年の日本でのプログラムにおいてすでに姿を現していた。 水俣会議は、外からの参加者の多くには、日本のさまざまな民衆運動や行動の 大結集の場と映ったようである。福岡で生協中心に開かれたアジアン・フェス テイバルでの一〇万人の人出を除いても、合計二万人ほどが全国のさまざまな 行事に加わったのだから、そう見えても不思議はなかったであろう。しかし実 状はかならずしもそうではなかった。大まかに言って、水俣宣言が準備される 過程と、一六に及ぶ階層別、テーマ別の個別の行事とは、重なり合うところは ありながらも、大きく別個な過程と論理で準備された。個別行事は、山形、新 潟、岩手の別個の農民グループがゆるく連合して行われた農民プログラム、多 数の女性団体が作った実行委員会が主催した「アジア女性フォーラム」など、 それぞれ異なった実行主体によって、財政も含めて担われた。他方、PARC が呼びかけて七〇団体ほどが名前をつらねた全国実行委員会は、個別行事を調 整するとともに、水俣会議へむけて内容的準備を積み重ねた。オルタナティブ について何度かの大規模な討論会、特設されたオルタ委員会による問題点と資 料の整理・出版、そして基調報告の作成(プログラムの開始にぎりぎり間にあっ た)などは、東京にあるこの全国実行委員会の筋で進められた。この二層の流 れは、まったく切り離れていたわけではないけれど、そして水俣で合流はした けれど、一つに融け合ったわけでもなかった。それぞれが実力にあまる企画を 手がけていたので、その余裕もなかったこともある。「水俣宣言としてのPP 21」という観点からすると、八九年の国内プロセス全体が、水俣宣言に結晶 したとはかならずしも言えなかったのである。水俣宣言が浮き上がった存在だっ た、と言うのでもない。それは受け入れられたし、水俣では興奮と高揚の雰囲 気の中で採択された。しかしPP21の諸行事の個別的関心との間にはかなり の飛躍があった。ドイツの緑の党代表のユルゲン・マイヤーが、水俣宣言のも とになった基調報告が、個別行事のなかで「消費はされたけれど、討論はされ なかった」(consumed but not discussed) と鋭く評したことが記憶に残って いる。
 「水俣宣言の独り歩き」は、独り歩きできるという点では強さと見ることが できるが、独り歩きしかできないという点では弱点を表していた。一九八九年 夏の日本におけるPP21の高揚は、水俣宣言を深く共有する諸運動の連合を 実体として生みだしたわけではなかったのである。もっとも、そのような組織 的連合を私たちが目指したわけではない。一度だけの行事で終わらせようとは 思っていなかったけれど、かと言って私たちは水俣をこえてどのような組織的 な形がこのプロセスの推進にふさわしいかについては成案を持っていなかった。 ただ全国的な連合組織を作ることには強いためらいがあった。作っても形骸化 するという恐れがあったばかりでなく、ダイナミックナプロセスとしてのPP 21にそぐわないという思いがあった。その上PP21の国内プロセスはかな り広いすそ野の参加があったとはいえ、その幅と深さは限られたものであった。 PARCが呼びかけたということもあって、国際連帯運動の側からの動機付け が強く働いていたから、国内、地域の問題にかかわる個別課題での諸運動の当 面の必要から生まれる結合ではなかった。5 「今後のことは水俣に集まった人々 が決めるだろう」と私たちは言っていたが、水俣では、それでは無責任ではな いか、組織化すべきだとする声もあった。その対極として、宇井純は、フォロ ウアップは出席者名簿の共有で足りると主張した。わたし自身はPP21のプ ロセスとしての形はコミュニケーションにあるのではないか、と考えていた。 電子メデイアが普及した現在では今昔の感があるが、アジア太平洋民衆ラジオ 局を一緒につくったらどうか、などと発言して、会場の爆笑をかったりした。
 水俣会議の閉会の場で、バンコクに本拠を置くアジアの地域組織ACFOD のアブダス・サブールは、PP21の大きい集まりをアジア各国で三ー四年に 一度開くことを提唱した。いわば民衆運動オリンピックのような構想である。 そしてこれが国際プロセスとしては、PP21の目に見える最大の継続の形に なっていったのである。
 

 国内プロセス


  だが大規模プログラムをめぐる国際的なプロセスを見る前に、国内でのフォ ロウアップを振り返ってみよう。
 ここでは二つの特徴点がある。第一は、八九年以来のPP21の大規模行事 のなかから、またその刺激によって、さまざまな国境を越えたイニシャチブが 生まれ、発展してきたという点である。PP21が民衆の連合を形成するプロ セスだとすれば、PP21はいくたの成果をあげてきたと言えるであろう。第 二は、しかしそれら個別のイニシャチブはそれぞれ固有の筋道で発展し、PP 21はそのなかでかすんでしまうという点である。この矛盾は、ではPP21 とは何か、その形は何かという問題を提起する。それは前記の「水俣宣言の独 り歩き」につながる問題である。PP21はこれまでこの矛盾する項の緊張関 係のなかに置かれてきた。
 八九年、九二年の大規模な行事から生まれた新しい動きは数多い。八九年の 農民プログラムからは、山形県の置賜を中心とするタイや韓国、フィリピンの 農民との交流プログラム、アジア農民交流センターの創設などがあるし、横浜 での国際関係をめぐる会議からは「草の根援助運動」が発展した。ODA調査 研究会(現IACOD)はPP21の一部としておこなわれた調査運動の中か ら誕生した。また東京でPARCが始めた自由学校が、福岡、札幌、富山、京 都、大阪などに展開されたのもPP21のプロセスのななかからであった。九 二年のタイPP21の一部として開かれた観光開発をめぐる会議のなかからは、 ゴルフ場に反対するアジアのネットワークが生まれ、国際的なノーゴルフデー の行動が始められた。九四年に発足した「むらとまちのオルタ計画」(RUA) は趣意書のなかで源流の一つとしてPP21のプロセスをあげた。いくつかの 運動は、PP21との関連を意識にとどめているようである。農民プログラム の主役となった置賜の百姓交流会の飛躍とPP21の関連は、このダイナミッ クナ運動の歴史の中に書き留められているし、置賜を拓く女たちの会の結成は、 水俣会議での農民リーダーとフェミニストの出合いに由来する。福岡の自由学 校はPP21を名乗っている。七年にわたって続いている北九州で始められた 「強制連行の足跡をたどる旅」は当初PP21のプロジェクトとして生まれた。 PP21の行事は、このほかにも数多くの継続する動きを生みだしたけれど、 その刺激によって生まれた運動はそれぞれの道を歩み、その力量はかならずし もPP21としては蓄積されなかった。
 PP21は、自己ブランドのワンセットの運動を作り出すことを目指すもの ではないと、私は最初から考えてきた。それはダイナミックな「民衆の連合」 というPP21の定義からしてありえない。PP21労働運動、PP21女性 運動などというものはありえない。ではPP21はどこに存在するのか。さま ざまな個別課題の運動を刺激し新たに作り出す打ち出の小槌みたいな「民衆運 動オリンピック」なのか。
 水俣会議以後、日本ではこの難問を解くために、組織、コミュニケーション、 イニシャチブという三つの面で、さまざまな試みがなされてきた。組織面では、 東京、福岡、札幌の三局事務局体制、実行委員会・世話人会・コーデイネーター と言う仕組み、、そしてコミュニケーションの面では、九一年一一月から九二 年一一月まで、ニューズレター「じゃなかしゃば」の発行(1ー二号は福岡、 三ー九号は東京PARC)である。この間、PP21自身を支える重荷は、提 唱者のPARCに大きく戻ってきた。三極事務局体制は試行後まもなく無理で あることがわかったのである。PARCは、九二年夏から、PP21の媒体と して本格的な季刊雑誌「オルタ」を村井吉敬編集長のもとに創刊、市販するこ とで、PP21のコミュニケーションを飛躍・定着させようと打って出るけれ ども、財政的負担に耐えることができず、総括を要するさまざまな問題を抱え 込みつつ、タイPP21をはさんだ九三年夏、終刊を余儀なくされる。日本に おけるPP21の全国的な継続的コミュニケーション媒体はここで中断に追い 込まれる。
 しかしこの間、日本のPP21は、タイPP21への代表派遣運動をすすめ ながら、地域に密着したオルタナティブをめぐる討論の組織へのイニシャチブ をとった。その方向は、オルタナティブな社会つくりであった。九一年暮れの PP21安曇野シンポジウム「暮らし・地域・社会をつくる」では全国から農 民や女性、生協活動家など百数十人が集まり、熱気を帯びた集まりだった。 「山もあれば谷もあるのがPP21である。八九年の後、さすがに谷がきた。 いま、そこからはいあがりつつある。安曇野合宿シンポジウムはその第一歩で ある」と村井は「じゃなかしゃば」に書いた。(五号九二・三)たしかにその 実感があった。ここから九二年九月の置賜シンポジウム、雑誌「オルタ」の創 刊、そして七〇名が日本から参加したPP21タイプログラムへと続く時期は、 おそらく、PP21の国内の経過のなかでビジョンのレベルと個別の活動がもっ とも接近した時期であったろう。安曇野シンポでは、参加者たちは、それぞれ 自分の分野に足をおきながら、そこから少し越境し、別種の経験と関連させ、 オルタナティブな全体像を描こうとしたからである。福岡グリーンコープの村 岡五十次は、生協の役割に触れて、多数の民衆が歴史を主導的に動かすと言う 日本近代史に欠けていた状況をつくる展望を語り、置賜の菅野芳秀は、長井市 で始めた野心的な生ゴミと堆肥のリサイクルプログラムを紹介しながら、都市 が決定し、農村が従うのではなく、農村が決定権を奪い返すなかからオルタナ ティブな社会を展望できると語り、「みずら」の阿部裕子は、成人男子・本工 から成る労働運動を根本から問い直す必要を語ったし、東芝アンペックスの争 議の中から「社会的有用生産」を掲げる自主生産企業タウ技研を立ちあげた都 筑建は、中小企業の連合で大企業社会を克服する展望を示唆した。日本の議論 の通例であるが、これらの議論が相互に関連させられ、煮詰められるところま ではいかなかった。だが振り返ると、この足場からもう半歩前へそれぞれが出 られるようなプロセスをつくりだすことこそがPP21に求められていたので ある。
 だが、この問題を検討する前に、ここで、PP21の国際的な展開を見てみ よう。
 

 一九九二年タイー内から外へ


  国内的なプロセスと国際的なそれとは、からみあいながらも、それぞれかな り別個の展開を見せる。PP21の大規模プログラムは国際的であるけれど、 その主催国(地域)の民衆運動に根を下ろし、その現実、運動プロセスにかみ 合うものである。だが国際的なプロセスと国内的なそれとは、それぞれ固有の 性格と論理をもっている。PP21の著しい特徴の一つは、同質でないネット ワークの重層性にあって、ここでもそれは強みであると同時に途方もない困難 を突きつける。
 最初、PP21は国際的には共催者団体(co-convenor)による共催という形 をとって行われた。準備の過程で、私たちはアジア・太平洋の地域団体に、P P21に加わるよう働きかけたのである。一七団体が共催団体になった。地域 団体だけを対象としたのは、各国の運動体から特定のパートナーを選ぶことが きわめてむずかしかったからである。アジア・太平洋地域には、地域的規模で 民衆の側に立って活動するさまざまな組織、ネットワークがある。その多くは 香港に本拠を持っている。しかし八九年当時これらの団体が共同でプログラム を実施するという習慣はまだなかった。(九〇年代になって主として国連のプ ログラムとの関連で共同行動が頻繁になったが)。PP21はこれらの地域団 体による始めての共同事業だったといってよい。そして当初は、PP21全体 にとって、この地域団体(プラス提唱者である日本)による国際共催者会議と いうものが、国際プログラムとしてのPP21の形式上の組織主体であった。
 九〇年に、共催者団体は、香港で事実上始めて自前の会合を持った。その席 上、水俣に参加したタイのグループ(三〇数人がタイから参加した)を代表し て、タイの研究者・運動者であるスリチャイ・ワンゲオが、一九九二年第二回 のPP21プログラムをタイで開催するよう提案し、この提案は大歓迎のうち に受け入れられた。
 タイ側の主催団体の中心は、農村開発にたずさわるNGOの連合NGOCO RDであった。この団体の所長だったバントーン・オンダムは、七〇年代以来 農民運動の現場に深くコミットしてきた知識人活動家である。このNGOCO RDを中心にタイのPP21実行委員会がつくられ、バントーンがその代表と なるかたちでタイPP21は準備された。
 注目しなければならないのは、このイニシャチブの性格が日本とは対照的だっ たことである。日本ではPARCなど国際連帯を進めてきた側がイニシャチブ をとった、つまり外から内へ、という方向をもっていたのにたいして、タイの 場合、PP21は、急激な開発計画に抵抗する農民など国内の動きを国際的な レベルに押し広げるという逆のベクトルを表していたことが特徴である。内か ら外へ、である。バントーンは、経済界・政府のセクターにたいする民衆のパ ワーをつける実践は「ここ四ー五年間に・・各地域、そして全国というレベル で」やられてきたが、「国際というレベルが欠けていた」と言う。(「じゃな かしゃば」五号九二・六)「八九年に私が日本にやってきたとき、この国際と いうレベルが日本で行われているということを発見したのです・・・私たちタ イの民衆は日本でのこの経験を生かすことが出来るのではないか、つまり今ま でやってきた地域と全国というレベルに加えて、新たに国際というレベルを付 け加えることができるのではないかと考えたのです」。「地域、全国、国際レ ベルでの参加民主主義を!ー民衆の姿を目に見えるように!民衆にもっと力 を!」というPP21タイのタイトルはこの問題意識をかなりよく反映してい たと言えるだろう。
 PP21タイへいたる過程は波乱に満ちた劇的なものであった。九一年一月 軍事クーデターが起こり、民衆運動の自由は大幅に制約された。とはいえこの 軍事政権にとって、七六年の血のクーデター後のような恐怖政治によるあらゆ る行動の抑圧はもはや不可能であった。農村、地方都市のコミュニテイ、それ にに密着したNGO、都市知識人などは、著しい制約のもとで、「民衆の民主 主義」をかかげて運動を広げ、軍とビジネスが一体化して行われたユーカリ植 林のための土地取り上げで知られるコージョーコー計画などへの農民の頑強で 勇敢な抵抗も抑えがたい力に成長した。これらの草の根の力と都市中間層、知 識人、そして政党の連合による民主主義回復の動きは、九二年五月、バンコク における流血の対決をへて軍事政権を打倒する。
 「国際的なレベル」はこの民主化闘争を側面から援護する新しい要素として 導入されたと見てよいだろう。タイの活動家と話してみると、九一年一〇月、 軍事政権のもとで、IMF・世界銀行のバンコク総会への対抗行事として行わ れた「ピープルズ・フォーラム」と、九二年一一ー一二月のPP21は一つな がりの行動ー始めてタイ民衆運動の主導で行われた国際行動ーとして了解され ていることがわかる。国内から国際への突破をつうじて国内の結集をはかると いう試みである。
 それはまたバンコクでの動きと地方の動きの連動でもあった。タイ東北部 (イサーン)で、NGOCORD東北支部や地方のNGO、農民運動者の意見 を聞いてみると、彼らが、九〇ー九二年の農民の抵抗闘争、「民衆の民主主義 キャンペーン」、PP21、七〇年代以来始めての農民運動である「小農民会 議」の設立などを確実に一つながりの統合された累積される動きとしてつかん でいることに、感銘を受ける。PP21はイサーン全体の運動プロセスのなか に深く鋤き込まれているのである。最近まで小農民会議の強力なリーダーであっ たバムルン・カヨタは、「PP21によって視界が開けたのだ」と語った。彼 は八九年のPP21農民プログラムの参加者である。「これまでは一ヶ所で孤 独な闘いをしていた。今では運動をつくり、ネットワークをつくっている。タ イのPP21はそのためのステップになった」。バムルン・カヨタは、タイP P21の最終日、民主主義モニュメントに集まった三〇〇〇人を前に、タイP P21の宣言「ラチャダムノンの誓い」を朗々と読み上げた。6
 九二年一二月のPP21タイは、軍事政権下に多面的にくりひろげられた民 衆運動・NGO活動ーそれは全体としては民主化闘争に集約されたーの活気と 高揚の延長上に組織されたので、夥しい草の根の人々の参加を得たきわめて行 動的な行事となった。一三の山岳・海洋少数民族のタイ史上始めての会合や観 光開発に抵抗する国際的ネットワークの形成など、いくつもの新しいプロセス を生みだした。
 しかしながら、PP21タイの準備と実行の過程は、PP21のはらむ問題 や弱点がさらけ出される過程でもあった。一五の階層別・課題別フォーラムを バンコクでのメイン・フォーラムで総括するという形式は、八九年のPP21 日本をそのままモデルにしたものであったが、そのなかで個別課題とトータル ビジョンとの肉離れという水俣以来の困難は依然として解決されなかった。五 月闘争の後にはじめて本格的準備にはいったタイ側は、プログラムの設定、設 営など行事の準備に手一杯で、内容面の準備にかかる余裕をもたなかったので、 この困難はいっそう大きかった。たくさんの行事をかかえた国内の調整も容易 ではなかった。
 それだけではなく、PP21全体の調整(コーデイネーション)と組織をめ ぐる問題もこの過程で表面化してくる。PP21タイは、地域組織から成る共 催者集団とタイ実行委員会という二重構造のもとで行われたが、両者の関係を 律する明確な了解は存在していなかった。八九年日本の場合には、始めてとい うこともあって、日本側が内容、企画、財政まで事実上すべてを決め、共催者 は受け身であったから二重構造は存在しなかった。しかしタイの場合は、内容、 財政、それに企画の一部も含めてプログラムへの責任のかなりの部分、共催者 集団にかかってきた。PP21が国際的なプログラムである以上それは当然で あるし、また前進ともとれることであるが、問題はこの共催者集団が集団とし ては弱かったことにある。
 八九年には一七団体だった共催者は、タイPP21までに三七団体に増えて いた。当然、関与の程度はさまざまで、なかには名目的に参加した団体もあっ た。PP21をシリアスに受けとめ、積極的に推進してきた組織はそれほど多 くなく、ましてや自組織の運動方針にまで書き込んでいる組織はわずかだった。 香港にあるアジアの研究者のネットワークARENAやバンコクにあるアジア の民衆運動・NGOの連合体ACFODはその代表的なものである。なかでも ACFODは、PP21日本の準備段階からきわめて積極的にPP21を推進 してきた。ACFODの全面的コミットメントなしにPP21の広がりはなかっ たと言っても過言ではない。PP21タイの組織にあたっては、本部がバンコ クにあるということもあって、ACFODがいわば共催団体集団を代行するよ うな形で、タイの実行委員会と特別な協力関係をもったことは、経過からして 自然のことであった。またACFODとそのコーデイネーターのサブールの募 金力と組織力をPP21タイは当てにせざるを得なかった。
 

 連合をめぐる試練と組織の問題


  しかし、PP21組織の曖昧さのなかでは、このような関係は、誰が何を決 定するかをめぐるトラブルを引き起こしやすい。これらについての決定の権限 がどこでも合意されていないので、トラブルは必然だと言えるかもしれない。 事実PP21タイの準備過程で、資金支出の考え方などをめぐって、ACFO Dとタイ側の間に危機的な対立が生みだされ、それがかなり深い傷となって残 ることになった。それはまたPP21のタイにおける評価に跳ね返った。タイ 側の基本的スタンスは、前述したように国内から国際へ突破をはかることで国 内を強めようというものである。他方ACFODの姿勢は、PP21を責任あ る国際プログラムとして組織しようというものである。両者は矛盾するわけで はないけれど、関心の焦点が違う。その上それぞれの文化が常識とする手づづ き、態度が違う。
 決定手続きの曖昧さは、共催者団体の間にも亀裂を生んだ。PP21プロセ スはイニシャチブによって進んで行くのだが、それはまた「勝手にことをすす める」ことへの警戒心を生みがちである。タイPP21におけるACFODの 役割にたいして、バンコクから遠い香港の共催者団体からの厳しい批判が浴び せられる状況が続いた。ACFOD側からすれば、イニシャチブを取れば取る ほど批判される、批判者はどれほどコミットしているのか、ということになる。 批判点、反批判点を客観化することは、難しかった。
 タイPP21のあと一九九三年五月、バンコクで総括会議が開かれ、タイの 実行委員会と共催者団体が顔をそろえた。ここで、PP21の運営についての ガイドラインが採択され、またこれまでの地域団体による共催団体という構成 をやめて、地域、全国その他どんなグループでもPP21の精神に賛同し、一 定のコミットメントを約束するグループはすべて同等な「パートナー」とする など、形の上では手続き上の曖昧さは一応取り除かれる。そしてPP21タイ で合意された「最小限のメカニズム」としての事務局の設置にも手がつけられ る。だがそれで矛盾や対立が取り除かれたわけではなかった。バンコクに置か れた事務局(一名)は自立的機能を果たすことはできなかった。地域団体は、 スタイル、傾向、組織了解などの違いに加えて、それぞれの団体は避けがたく 自分の利害を持っている。PP21はそれらの違いを前提にした上でどのよう に連合してゆくのか、というチャレンジでもある、とガイドラインは述べてい る。この精神はぎりぎり生かされていると言える。その後の経過の中で、かな りの軋轢が続いたにもかかわらず、分裂のような事態は起こらなかったからで ある。そればかりでなく、一九九六年の南アジアプログラムで、二月になって メインフォーラムを急遽コロンボからカトウマンドウに移さなければならなかっ た緊急事態のなかでは、全体がみごとに力を合わせて事態を救ったのである。 九六年二月のこの協力は感動的でさえあった。
 しかしながらそれは今から言えることである。PP21タイからPP21南 アジアへの歩みは苦渋に満ちたものであった。すでにタイPP21の直後、バ ンコクで開いた共催者団体会議で七人の個人からなる調整チーム(CT)が選 ばれていたが、この調整チームは、始めから権限の曖昧さに苦しんだ。香港の 旧共催者集団からは、強大な権限をもつスーパーNGOを創るつもりではない かという疑惑がたえず表明された。一九九四年のAPECボゴールサミットに PP21として対抗集会を開こうというCTのイニシャチブは、このような文 脈のなかでCTの越権として批判され、結局APECに対抗する運動はPP2 1参加の諸団体(もっとも激しく批判した団体も含む)の個別のイニシャチブ にゆだねられた。PP21がきっかけをつくり、そこから独自のプロセスが起 動されるというパターンである。
 

 PP21南アジア


  こうした混迷にもかかわらず、九六年のPP21南アジアプログラムは準備 され、成功をおさめた。では、それはどのように準備されたのか。ここでもプ ロセスは重層的であった。
 九三年八月、インドのマドラスで「PP21南アジアイニシャチブ」(SA I)という新しいネットワークが旗揚げした。民衆の医療を推進するNGO、 ACHANが組織の中心になり、南アジア各地の民衆組織とNGOの代表三〇〇 人が会議をひらき、宗教的原理主義による民衆間の紛争、軍事化の進行、など に国境を越えて対抗する民衆の連合を呼びかけたのである。イニシャチブをとっ たのは、PP21タイへの南アジアからの参加者たちであり、この動きを系統 的に推進したのはACFODであった。
 PP21南アジアの諸行事のうち、各国で開かれた事前行事の多くは、この SAIのネットワークを通じて準備されたといってよい。しかしSAIについ ては、PP21は民衆の連合を目指しているのに、SAIはNGOの連合であっ て民衆運動の連合ではないという批判がインドのなかにはあった。SAIは民 衆運動のネットワークも含んでいるし、マドラス会議には地元の草の根の活動 家も多数参加していたのだが、この批判はPP21が特権的なNGOの集まり になることへの危惧としてまったく根拠がないわけではなかった。インドでは、 NGOとくに西側の資金を受けているNGOにたいする根強い批判が草の根運 動者の側にある。その上あらゆる分野で強力な民衆運動が展開されている南ア ジア、特にインドで、その主要なものすべてをPP21のプロセスに結びつけ ることはそう容易なことではない。問題はSAIがNGOだけで固まってしま うのか、民衆連合への呼び水になるのかという点にあるだろう。SAIはこの 点では、ガンジス河をめぐる流域三カ国の運動を結びつける「河」プログラム や、準戦争状態にあるインドとパキスタンの労働者の数百名規模の大衆的交流 を組織する「平和と寛容」プログラムのようなすぐれたイニシャチブを展開す ることで、かなりこの批判に答えてきたといっていいだろう。
 だがPP21南アジアはSAIだけによって準備されたのではなかった。メ インフォーラムが予定されていたスリランカでは、コロンボのNGOと民衆組 織が幅広く結集して実行委員会が結成されたが、この実行委員会とCTを核に して企画委員会がつくられ、そこにPP21に深く関わってきた地域諸団体が 参加するという形で独自の準備が進められた。SAIが、南アジア各地でそれ ぞれ違う実行母体によって進められた個別企画をネットワークすることを主な 活動としたのにたいして、この企画委員会はSAIの幅を越えてとくにメイン フォーラムの内容的な準備を推進した。冒頭に述べた三本の基調的提起は、こ の企画委員会に委嘱された執筆者集団によって準備された。SAIとは関係の ない人々やグループもこのプロセスに参加した。
 女性たちのネットワークは、以上の仕組みと重なりつつ、このプロセス全体 を「女性化」(feminize) するめざましい働きをして、これがメインフォーラ ムとサガルマタ宣言の基調に大きい影響を与えた。スリランカの実行委員会の 代表の一人、ニマルカ・フェルナンドは、アジア規模で活動する名高いフェミ ニストである。八月の北京女性会議で、ニマルカを始め、インドのフェミニス ト、カムラ・バシン、香港のラオ・キンチ、アジア女性資料センターの松井や より、フィリピンのデッサ・ケサダなど、PP21にかかわる女性活動家が集 まりをもち、ジェンダーの問題をPP21の根本にすえるよう働きかけること を決め、活動を始めた。北京女性会議会議のNGO会場では、この人々の多く を含む女性たちのイニシャチブで、有機農業、産直運動、織物プロジェクトな ど、オルタナティブな発展を通じて女性の「エンパワメント」を推進する「ア ジア女性オルタナテイブ実践交流ワークショップ」が開かれ、そこからネット ワーク化が始められた。7
 自然循環的で民衆の手によって運営されるオルタナティブな経済・社会を創 るというテーマは、ジェンダーと並んで、PP21南アジアの焦点の一つになっ たが、このテーマを実体として持ち込んだもうひとつの潮流がある。九五年一 一月、バナナのオルタナティブ貿易と農業を軸にすえた地域自立計画PAP2 1で知られるフィリピンのネグロス島で、日本のRUA、ネグロス・キャンペー ン委員会(JCNC)およびネグロスのPAP21委員会の共催で開かれた 「ネグロス寄り合い」、九六年三月始めインドのケララで、ARENA(新し いオルタナティブのためのアジア交流)、JCNC・RUA、ケララの民衆の 科学運動(KSSP)の共催で開かれたアジア規模のオルタナティブ・システ ムをめぐるワークショップは、それぞれ独自の催しであったが、それらを通じ て、オルタナティブづくりの実践者たちがカトマンドゥに合流した。
 これらはPP21南アジアを形作った潮流のすべてではない。労働者のネッ トワークAPWSL、前記のACHAN、女性労働者のネットワークCAWな どの地域組織は、それぞれ独自の縦のチャンネルを動員して南アジアプロセス に参加した。
 PP21南アジアをめぐってPP21が触れあい、作用し合ってきた潮流、 ネットワークの範囲は想像を超えて大きい。多様性に富むそれらいくつもの流 れと、考えと、実践がカトマンドゥに合流し相互反応を起こした。また南アジ アと東北・東南アジアの活動者、草の根の実践者の出合いは、状況と文化の著 しい違いを背景に、多くの相互発見に導くものであった。これらの多様性、重 層性の背後に膨大なアジア太平洋の人々の経験と知識、歴史と洞察が存在する ことがあらためて発見された。
 PP21南アジアは、この多様性と重層性こそが財産であり、力の源である ことを人々が手応えをもって実感する場をしつらえたといえるだろう。
 

 サガルマタ宣言の視点


  サガルマタ宣言はこの実感と手応えを、誇張せずむしろ淡々と伝えている。 宣言の副題は「多様性をたたえる、生命をたたえる」である。それはアジア太 平洋の人々が現に生き、活動し、闘っているさまざまな姿を互いに祝福し、そ こに真の意味の力と富を見いだしている。そしてその中に、「可能なるものを 見る」力があるとする。「私たちは、集団として、私たちの闘いと私たちのヴィ ジョンの中心性を再確認する」と宣言は言う。これは世界的体制によって上か ら作り出され、押しつけられる状況が、中心性をもつというつかみ方の拒否を あらわしている。
 サガルマタ宣言はこの点で、世界体制のもたらす危機と惨害から説き始め、 それに対抗して団結しようと説く多くの類似の宣言とは論理もトーンもまるき りちがっている。サガルマタ宣言においても支配的状況は告発され、根本から 批判されている。しかしそこからなすべきことが演繹されるのではない。「私 たち」がすでに何を創りつつあるか、創ろうとするかが中心に押し出されてい る。未来のかたちを能動的に選びとり、実現するのは「私たち」にかかってお り、「私たち」にはその力がある。上からつくられた状況に「私たち」は振り 回されるだけではない。まだ存在しないが「可能であるもの」を見てそれを現 実化する「私たち」こそが状況の規定力であり、それが「私たちの闘いと私た ちのヴィジョンの中心性」と言い表されているのである。
 ここには水俣宣言からサガルマタ宣言への歩みが表されている。水俣宣言が 開発モデルへの根底的な批判の鋭さとヴィジョンの鮮明さでPP21を立ち上 げたとすれば、サガルマタ宣言は、そのような批判とヴィジョンを、すでに進 んでいるプロセスのなかに、おびただしい数の人々のおびただしい実践と夢、 そして思想の中に、具体的な姿で見いだそうとするのである。それはただ文章 のスタイルや書き手の問題ではない。カトマンドゥの「合流」自身がそのよう なメッセージを発していたのである。
 サガルマタ宣言は、この視点から、ジェンダー問題を、オルタナティブな社 会の中心的な性格にかかわるものとして提起した。メイン・フォーラムでのカ ムラ・バシンを始めとするアジアのフェミニストの強力な発言やジェンダー問 題についての討論ペーパーがすでに問題をはっきり提起していた。オルタナティ ブな社会とは、いたわり、育て、いつくしむ、などこれまで「女性的価値」と して理解されている価値が、男も女も含めて社会関係に浸透し、人間と自然の 関係をも律するような社会である。それは「自己中心的で競争本位の男性思考、 また私たちの文化と社会にしみこんでいる暴力を特徴とする価値の対極にある ものである」と宣言は述べている。
 このほか、宣言は、メイン・フォーラムへの問題提起や議論をもとに、生態 系循環の原則による経済システム、民衆の立場からの平和と安全へのアプロー チ、抵抗と創造の結びつきなど、オルタナティブな社会についていくつもの積 極的な展開を含んでいる。
 サガルマタ宣言は、PP21が水俣からカトマンドゥの歩みの中で展開し、 豊富になり、ますます多様な現実、実践と切り結んできていることを、はっき り示していると私は思う。それはPP21がここからどのように進むのかの探 索をますます切実にしている。
 

 国連プログラムとNGOの国際的連合


  ここで「民衆の連合」をめぐる九〇年代の事態の展開に触れておく必要があ る。それは国連の一連のプログラムに関連して、NGO連合が国際政治主体と して登場したかに見える現象である。この世界的レベルでのNGOの地位上昇 は、PP21にとってはタイから南アジアへの試練の時期に重なった。国連は、 九二年リオデジャネイロでの「地球環境サミット」から、ウイーンにおける人 権会議、コペンハーゲンでの「社会開発サミット」、カイロでの「人口会議」 そして北京での世界女性会議まで、わずか四年間に次から次へと巨大な国際会 議を主催した。これらの国家間会議は、それぞれ固有の性格があり、一概に論 じることはできないし、またそれぞれの総括をここであらましでも行うことは できないが、これらの国際会議に、世界のNGOは大結集し、国家間のプロセ スに働きかけた。国家間の条約や声明を民衆の利益にかなうよう修正させよう と活発なロビー活動を繰り広げた。その間に横の連絡を強めた。PP21に参 加したNGOや民衆グループの多くもロビー活動や平行会議の組織に加わった。 ばく大な時間とエネルギーと資金がこれらの活動に費やされた。これらの活動 の暦は国連が決め、NGOはそれを追う形で全力疾走した。
 ここで注目しなければならないのは、このプロセスを通じて国連・国家の認 知を得た「NGO世界」、もしくは国際的なNGO空間というべきものが出現 し、ある程度制度化されたことであろう。こうした国際会議への政府代表団の なかにNGOが加わるというしきたりが定着し、NGOと政府はパートナーで あるという考えが広まってきた。官民協力によって国連の諸決議の実施を推進 するという考えがNGOの主流となった。
 新しい状況である。多くのNGOはこれまで、世銀・IMFの構造調整プロ グラム(SAP)をめぐって対決姿勢をとってきたが、世銀新総裁はNGOの 言い分を大幅に認めてSAPの再検討を約束したので、これまで世銀批判の先 頭に立ってきた有力なNGOがSAPの影響について世銀との合同調査の実施 を呼びかけるという事態も起こっている。世銀による開発NGOへの直接の資 金援助も急増している。他方、NGOが創り出した多くの用語、「持続可能な 発展」、「エンパワーメント」など、は国連、多くの政府、世界銀行などの日 常用語に組み入れられた。
 九二年以来急速に進展したこのような状況は何を表しているのか。PP21 の「越境する参加民主主義」は、このような形でいまや実現されつつあるのか。 「希望の連合」は、決定過程に参加を獲得した国際的NGOの連合という形で 出現するにいたったのか。つまるところ、こうしたNGOプロセスは、独自の プロセスとしてのPP21を不要にしたのだろうか。
 私のとりあえずの答えは、「ノー」である。新しい状況の意味は二重である。 民衆の圧力が世界的決定中枢に浸透し、影響を与えるようになった、という側 面と、中枢がその根本的立場(「自由市場・自由企業」)を譲ることなく、こ の圧力に適応することで、NGO世界全体を無害化しようとする側面がこの状 況には融合しているのである。この新しい状況の中で、民衆の諸集団自身の連 合を促進するプロセスとしてのPP21には、新たな役割が生まれたと私は考 える。新しく出現した国連・国家・NGO空間にまるごと吸収されることなく、 民衆の連合の拡大と深化をはかりながら、同時にこの空間の意味を変容してゆ くという役割である。新しい空間の出現は民衆連合の自立・自律の重要性をいっ そう際だたせている。
 指摘しなければならないのは、国際的NGOの国際政治主体としての上昇が かちとられたこの期間は、WTOが結成され、NAFTAが締結され、チアパ スの先住民が決起し、APECシアトル・サミットが開かれたのと同じ期間、 すなわち「自由貿易」の名による多国籍資本主導の上からのグローバリゼーショ ンが決定的な数歩を踏み出した、その同じ期間だったということである。これ らふたつのプロセスは補い合う関係であった。グローバリゼーションのプロセ スは同時に、環境、人口、統治などをめぐる先鋭な地球的規模の困難をはらん でいることがあきらかなので、これらの重大テーマにどのような方向で解決を 与えるかの争いが避けがたくなった。それを背景に一連の国連会議が召集され たのである。NGOはこの過程に介入し、譲歩をもぎとろうとし、事実いくつ かの評価すべき成果をもぎとったけれど、グローバリゼーションの基礎にある 開発のパラダイム自身の変更はもとより不可能であった。それを変えさせる力 関係は存在していなかったからである。そのなかで、世界的現実、とくにアジ アのそれが、「持続不可能」な路線に沿って(すなわち破局へ向かって)驀進 し続けていることに目をふさぐわけにはいかない。
 二つの点を明らかにしなければならない。第一は、PP21で主張されてき た参加民主主義は、支配的なグローバリゼーション・プロセスへのパートナー としての参加ではないということである。むしろそれにストップをかける権利 の行使による参加(抵抗)、そして別の現実・システムをつくりだし、機能さ せることによる参加(オルタナティブの創造)である。この二つを基礎にして、 制度的な改革をかちとり、定着させることができる。そしてその中で、上記の 国連・国家・NGO空間の意味を変容させることができる。水俣宣言以来、P P21は近代の開発パラダイム自身を根本から批判してきたのである。そのた めに私たちは二一世紀という一〇〇年のスパンを設定した。これは、もとより 遠くから口先だけで現実批判をする反対派であればいいということではない。 システムを一挙に変えることはできないのだから、あらゆる機会をとらえて、 根本的な力関係を累積的に変えてゆくことが決め手である。しかしパラダイム を変えるというカナメを手放すなら、私たちは容易に支配的なプロセスへの補 完物になるだろう。
 第二に、NGOの連合はPP21の目指そうとする民衆の連合(「希望の連 合」)とは同じではないという点である。私の考えでは民衆組織(PO)の連 合でさえ「希望の連合」とはいえない。PP21では、希望の連合は多様なア イデンテイテイをもち、多様な関係のなかにあるピープルの集団が自律的に関 係を取り結び共生する世界社会そのものの姿として提起されていたのである。 今日国際政治の新しい主体として形成されてきたNGOの連合は、このような 民衆の連合の形成を助けることもできるし、逆にプロ化したNGO業界団体に なって、もっぱら自己の利害を守ろうとするようになるかもしれない。そうで なくても、改革は内部に入らなければできない、と心から信じて、ミイラ取り がミイラになるかもしれない。視点がこの空間の内部に移動してしまうとき、 ミイラ取りはミイラになる。だがNGOがそうなるかどうか、事態はまだ流動 的である。
 危ないものには近寄らないという消極主義はとるべきではないであろう。問 題はこのなかばかち取った、なかば官製の空間にはとうてい包摂できない広大 な民衆の大地とでもいうべきものへの私たちの帰属との関連でこの上部空間の 位置を見切ることであろう。すなわち視点をNGO空間の内部に移動させては ならないのである。水俣からカトマンドゥにいたるPP21のプロセスは、こ のような立場と視点を確保するための自前の土台としての役割を帯びてきたと 私は思う。サガルマタ宣言の強調した「民衆の中心性」という立場は、このこ とを再確認するものだと私は考えている。
 

 カトマンドゥ以後ーPP21の二〇〇〇年へむけての新しい展望


  水俣からカトマンドゥへ、それは長い曲折に満ちた足どりだった。九二ー九 五年という危機的な経験をへて、PP21は、カトマンドゥ以後新しい地平に たち、前記の難問のかなりの部分への回答を見いだし、自信をもって展開をは かる可能性を手にしたと私は感じている。
 カトマンドゥでのPP21総会は、これまで混乱の源の一つであった組織と 決定プロセスの問題に一つの回答を出した。総会と総会の間の決定機関として PP21評議会(Council)を設置すること、これまでは個人で構成されてき た調整チーム(CT)と事務局を組織として責任を負う団体で構成すること、そ の上でコミットメントを明確にしたパートナーを本格的につのること、などで である。評議会は、南、東南、東アジアと太平洋の四つの下位地域(サブ・リー ジョン)と一一の階層から選ばれた代表および旧CTメンバーで構成される。 評議会を構成するため評議会組織委員会がつくられ、そのセンターが香港に置 かれた。組織いじりはそれ自体では有名無実に終わる場合が多い。しかし今回、 香港におかれた組織センターは、サガルマタ宣言の主要起草者の一人でもある 若いコーデイネーターのラオ・キンチ(中国社会サービスと発展研究センター [CSD])を中心にいくつかの地域組織が協力して、めざましい働きをした。 三五〇ページもあるカトマンドゥ合流の記録もまたたくまに出版された。コー デイネーションの活動に新鮮なエネルギーが注入され、パートナーの間のPP 21のイメージも大きく変わった。
 こうして召集された第一回評議会(八月一七ー一九日、バンコク)は、まだ 欠員を抱えているとはいえ、私の見るところでは、PP21再出発の第一歩と して画期的なものであった。PP21が抱えてきたいくつかの難問にかなり明 確な回答が与えられ、これからの活動の見通しもまた明確化されたからである。 そして、思惑や猜疑心につきまとわれていた雰囲気が一掃されたからである。 評議会の議論が到達したいくつかの重要な点を以下に挙げてみよう。
 難問の一つは、PP21のアイデンテイテイにかかわる問題である。前述の ようにこれはいくたびもPP21のジレンマとして立ち表れてきた問題である。 バンコクでの評議会は、「PP21それ自体(PP21 proper)は民衆の連合の 形成を促すファシリテーターである」という簡単明瞭な自己規定をした。 (「ファシリテーター」とは、「何かを容易にする人」であり、媒介者であ る)。こんな簡単な自己規定が何で画期的なのか理解に苦しむという声がある かもしれない。しかしそれが、抽象的な定義として持ち出されたわけではなく て、この七年間の紆余曲折を潜って到達された結論だったという点が重要なの である。例えば、PP21は、今日夥しく組織されている国連関連、課題別な どの国際プログラム、イニシャチブにたいしてどんな関係に立つのか。それと 張り合う関係なのか。しかしそうしたプログラムの多くは、PP21のパート ナーたちによって組織されているのではないか。あるものはPP21起源のも のではないのか。ではそれらをさして、あれはPP21起源のものだと主張す ることがPP21のアイデンテイテイなのか。
 そのどれでもはない、というのが一致した結論だった。PP21全体、そし てそのパートナーは、水俣宣言ーラチャダムノンの誓いーサガルマタ宣言の精 神で、こうしたイニシャチブを支持し、それに参加し、それら、またその他の 活動をつうじて希望の連合の形成を促進する、そこにPP21のアイデンテイ テイがある、という確認である。バンコクの評議会の会議では、何か時が満ち たという感じで、この認識が共有された。
 しかしではPP21とは党派みたいなものかという疑問が起こってくるかも しれない。水俣ーサガルマタ宣言は綱領のようなもので、それに基づいていろ いろな運動に介入、獲得をはかろうとするのか。であればそれは党派とどこが 違うか。この疑問は根拠がないと私は思う。党派の民衆との関わりは「指導」 であるが、PP21のそれは媒介である。この媒介は、それ自身がプロセスで ある。PP21は、(1)個別的状況から全体に向かって一歩を踏み出す、そ してそれを促す、さまざまなイニシャチブのなかに存在する、(2)またそれ を動機づける全体的ビジョンにある、(3)さらにその成果、そこでの発見を 共有するためのコミュニケーションの場の創設にある、と私は考えている。P P21は民衆の「希望の連合」をめざすけれども、PP21はそのような連合 そのものではない。PP21の組織的実体は、自分の足場を持ちながら、そこ から越境的一歩を踏み出そう、促そうとする人々とその集団の連合ではないか、 そして水俣宣言からサガルマタ宣言にいたるPP21のヴィジョンは、このよ うな連合を鼓舞し、動機づけるものであろう。
 この連合はネットワーク的なものである。恒常的中心をもたない。ネットワー クは、ヴィジョンを共有しつつ、民衆の連合をつくりだすための適切なイニシャ チブのその時々のありかによって自在に形を変える。つまり、そのときどきに 転移する中心をもつ。しかし同時に、このような了解で結ばれたネットワーク はPP21というアイデンテイテイをもつ。PP21はその意味で「ファシリ テーター」であるが、機能的に分化し、専門化したファシリテーター、つまり 民衆組織(PO)と区別される意味でのNGOではない。上記の条件を満たす かぎり、NGOかPOかは関係ない。越境を志すファシリテーターはそのどち らにも存在しうるし、存在するからである。
 しかしこのようなネットワークが存続するためには、それは個別を全体に向 かって媒介し、全体を個別を潜らせることで具体化するコミュニケーション空 間を必要とする。それはファシリテーターのネットワークを越えて、コミュニ テイ自身にとどき、そこでの実践の意味をより広い文脈の中に置くコミュニケー ションでなければならない。
 バンコク評議会では、こうした議論の中から、PP21の中心的な実体とし てコミュニケーションを位置づけることが合意された。ヴィジョンと現実、人々 のオルタナテイブへむけてのさまざまな営みとの間の往復運動を保障すること が、ファシリテーターとしてのPP21の固有の役割であると認識された。そ のため香港の提案で、隔月刊の定期刊行物の発刊が決められた。これは英文で 出されるとともに、さまざまな言語に翻訳されて発行されなければならない。 それ全体をPP21のコミュニケーション・プロジェクトと考えよう、資金集 めも諸言語での発行を含めて一体としてやろう、という野心的なプランである。 それはまたバンコク会議で強調されたPP21のナショナルなネットワークづ くりの基礎になってゆくだろう。PP21の今後は、この企画の成否にかなり 大きくかかっているといえる。
 コミュニケーションは、情報の交流だけにとどまらない。カトマンドゥのメ イン・フォーラムでは、オルタナティブ社会のための知的・理論的探求をアジ ア太平洋で組織することの重要性が強調された。われわれが歴史の中のどこに いるのか、われわれとは誰であるのか、そしてどこへ行こうとするのか、とい う問いは、PP21にとって避けられない。この問いに答えようとすることは、 情勢の分析だけではなく、当然われわれの組み込まれている問題構造とわれわ れ自身を批判的に検討することを含んでいる。PP21南アジアの準備過程で、 急速にこのような探求への機運が熟してきたと感じられる。
 日本のPP21は、このような領域の議論を煮詰めるためすでに九四年八月、 三日間の合宿を開いている。密度の濃い議論の中から、「新しい文明と日本社 会のオルタナティブ」について「宣言草案」が起草され、PP21ブックレッ トとして出版された。9 この中身は、オルタナティブシステムについてのPP 21南アジアの基調文書にも反映され、サガルマタ宣言にも影響を与えたけれ ど、日本国内ではあまり議論されていない。「宣言草案」という包括的な形式 ではなく、このような探求をプロセスとして展開してゆく必要があったのであ ろう。そのためにはそのようなプロセスを保証する仕組みが必要であろう。
 PP21バンコク評議会では、PP21固有の活動として、コミュニケーショ ンとならんで、(1)PP21の「大合流」(convergence)、つまり数年後 との大規模プログラムの問題と(2)PP21の活動の焦点(focus)の問題 が議論され、合意が形成された。(2)の「焦点」について先に触れよう。
 「焦点」とは、PP21のコミュニケーションや知的な探求が当面どこに焦 点を合わせてゆくのかという問題である。それはまたPP21が、どのような 視点から、多様な民衆の実践や多くの越境的プログラムを媒介、普遍化してゆ くのかという問題である。さらにそこから、PP21自身が、どのような固有 のプログラムを展開するかにかかわる問題である。つまり、サマルガタ宣言を 実行に移すプロセスにおいて、PP21自身のイニシャチブをどのようにとる かという問題でもある。バンコク会議で「焦点」の必要を提起したのは香港の アジア移住労働者センター(AMC)のタン・チ・キョンであった。タイのチュ ラロンコン大学のスチー・プラサトセットは、九二年民主化闘争の分析の中か ら、「民衆民主主義」を取り出して見せることで、この問題に貴重な示唆を与 えた。会議後のくつろいだ雰囲気での議論や会場での活発な議論を経て、合意 された「焦点」は、「草の根民主主義とオルタナテイブつくり」というもので あった。この一見陳腐にひびくレトリックが選ばれたのは、それが見かけによ らぬ展開力とリアリテイを備えているからである。ここでは、「草の根民主主 義」は、現実に存在するパワー関係の変革という意味で使われている。正確に は「ラデイカル・デモクラシー」を指す。現存するパワー配分の変革は、さま ざまな領域を包含する。それはジェンダー関係にかかわる。カトマンドゥでカ ムラ・バシンは、アジアのジェンダー関係の変革を「家族の中に民主主義をつ らぬく」必要として強調したことに接続する。それはまたエコロジーにかかわ る。エコロジーと民主主義の間の密接な相互関係については、夥しい経験が存 在し、民主主義なしに環境をまもることができない、ことはすでに立証済みと いってよい。もちろん草の根民主主義は、選挙と議会があれば民主主義が実現 したとするフィクションに対抗する。日本でもそうであるが、アジアの多くの 国で、政党政治としての民主主義はとっくに信用を失っているのである。タイ の場合は議会政治の腐敗状況に対抗して、コミュニテイのなかから「民衆民主 主義」の運動が立ち上がり、広がっている。さらに「草の根民主主義」はコミュ ニテイの民主主義に限定されるわけではない。「草の根民主主義を、ローカル からグローバルへ」ということも可能なのである。そしてそれは水俣での「越 境する参加民主主義」の中身でもある。また特権的NGOがグローバルな決定 参加を代行的に独占しているとすれば、その構造を突き破って民衆の参加を実 現する展望を基礎づける。また民衆運動の官僚的、エリート的支配を内部から 打ち破り内部の力関係を変えてゆくためのよりどころとなる。「草の根民主主 義」はアメリカ合衆国出自の概念であるし、民主主義も西洋起源のものである。 しかし、アジアの夥しい人々の実践を潜ることでそれらは作り替えられ、新し い内容を盛られてきた。「草の根民主主義」はアジアのなかにリアリテイを持っ ているのである。PP21はもう一度それを結晶化させ、豊かにし、人々をつ なげてゆくプロセスを起動しようというのである。
 サガルマタ宣言は、「抵抗すること」と「創ること」の一体性を強調した。 「草の根民主主義とオルタナテイブつくり」とは、一体のものとして焦点なの である。草の根民主主義とは、それ自身新しい自己統治(governance)の諸形 態の創造であるけれど、それは同時に新しい社会・経済・文化システムの形成 をはらんでいる。なぜならそれは下からの新しい社会の形成のプロセスなので あって、そこでは政治を経済から、社会を文化から切り離すことはできないか らである。あるいは、切り離すなら、新しい自己統治は維持できないからであ る。
 以上のような意味における「焦点」の設定から、PP21固有のさまざまな イニシャチブが生まれうる。「草の根民主主義とオルタナテイブつくり」とい う角度から多様な実践分野で活動する民衆グループのネットワーク化のイニシャ チブをとることができるだろうし、理論的・思想的な交流と煮詰めのためのイ ニシャチブも生まれるだろう。それはまだ未開拓の、だが現実が切実に要求し ている事業だと私には思われる。
 このようなイニシャチブは、国境を越えても、一国内でも取りうるし、とる 必要があるだろう。ここでは詳しく検討はできないが、PP21が日本国内で 再活性化するためのカギも、おそらくは、そこにあるだろうと私は信じている。 途方もない政治の腐敗と信用失墜のなかで、また民衆運動の衰弱がいわれるな かで、日本でも新しい次元を開く動き、イニシャチブ、集団行動が始まってい る。薬害エイズの責任追及から行政の「食料費」の使途まで、広い分野で、行 政権力を独占してきた勢力への「アカウンタビリテイ」の追及が、次から次へ と広がっている。巻町の住民投票や女性たちのイニシャチブによって切り開か れた沖縄での基地をめぐる運動など、いくつかの範例は、日本列島社会の深部 に、次第に、しかしかなり大規模に動き始めている新たな活力の部分的な開示 なのであろうと思う。「民主主義」が、これまでの運動のワクではすくいあげ ることのできぬ形で、再定義され、行動に移されていることが感じられる。 「草の根民主主義とオルタナテイブつくり」を焦点とするPP21は、この底 流が噴出し、国の内外で連合し、力強い流れとなって社会に蓄積されるるため の触発力たりうるだろうか、どんなイニシャチブが、それを触発力たらしめる だろうか、PP21の直面するチャレンジはそこにある。
 最後に、「大合流」に触れよう。バンコク会議は、西暦二〇〇〇年に、四度 目の「大合流」を開こうと提案することで合意した。場所や形は未定である。
 数年に一度の大規模な総合的行事にはこれまで批判が多かった。エネルギー とお金がかかりすぎる、ピープルズ・サーカスか、と批判者たちは言った。し かし、PP21は、一九八九年以来、この形によって継続的なプロセスになっ たのである。数年に一度、アジア太平洋の、そしてそれを越えた諸大陸のさま ざまな社会運動、NGO、コミュニテイの活動者が自前で一堂に集まり、自立 した主体としてのピープルの存在を確認しあい、その力を世界に示すこと、そ して水俣からサガルマタにいたる歩みがどこまできたかを互いに確認し、次の 一歩をさだめることーそれがどれほど大きい意味をもつかは言うまでもない。 問題は、こうした大合流と大合流をつなぐプロセスがパートナーの間で目に見 えるものにならず、系統的に蓄積されなかったところにあるだろう。また行事 のための実務的仕事量に圧倒されて、内容面の積み重ねが貧弱すぎたことにあ るだろう。
 バンコクで合意された方針が実行されれば、こうした弱点は取り除かれない までも、大幅に克服されることは明らかである。PP21が二一世紀を希望の 世紀に変えるために貢献できるかどうかは、そこにかかっている。

 注

 1 PP21南アジアの記録は、すでに英語で三五〇ページの本として出版さ れている。Kin-chi Lau,Lakshmi Daniel, Tarcisius Fernando ed., Shaping Our Future Asia Pacific People's Convergence - People's Plan for the 21st Century, report of the Third Convergence since Minamata, Februry-March 1996 in South Asia, PP21 Council Organizing Committee and Nepaleses Organizing Committee for 1996 Kathmandu Convergence, Hong Kong. アジア太平洋資料センター[PARC](東京都千代田区神田神保 町一ー三〇正光ビル三F、電話〇三ー三二九一ー五九〇一)で入手できる。ま た日本語の報告集は九六年秋に発行される予定である。
2 一九八九年の日本におけるPP21の全記録は、「ピープルズ・プラン2 1世紀ー希望の連合へ 一九八九年夏/報告集」として、PP21日本委員会 によって出版された。アジア太平洋資料センター(PARC)に残部がある。 英文の記録は、PARCの英文季刊誌 AMPO:Japan-Asia Quarterly Review, Vol. 21, Nos. 2-3 に収録。水俣宣言を含む九二年までの経過についてはパン フレット「89水俣から92タイへ、そして未来へ 希望の連合」、92ピー プルズ・プラン21世紀実行委員、がある。
3 前掲「報告集」p.222
4 九二年八月、中米大学学長であったハビエル・ゴロスチアーガの肝煎りで ニカラグアのマナグアでPP21日本・中米セミナーが開かれ、マナグア宣言 を採択した。このセミナーには、日本から二一人が参加したが、中米側は、サ ンデイニスタの代表、エル・サルバドールのルーベン・サモーラ(FMNLの リーダーで大統領候補)など中米六カ国の有力な民衆運動、知識人が参加した。 それに先だって、米大陸の先住民運動「抵抗の五〇〇年」運動を中心に、中米 PP21が結成され、PP21タイにはそのリーダー、ミルナ・カニングハム が参加、基調講演者の一人となった。ニカラグアでのサンデイニスタ政権の選 挙による敗北に続く中米の運動の転換期に、水俣宣言のヴィジョンがほとんど 無媒介に飛び火し、受容されたケースであろう。
5 花崎はいろいろな書き物のなかでPP21に触れているが、まとまったも のとしては、「アイデンティティと共生の哲学」(筑摩書房、一九九三年)が ある。
6 PARCがPP21を呼びかけるもとになった立場は、一九八三年PAR C10周年の国際合宿で採択した「国際連帯マニフェスト」に遡る。それまで 日本の企業進出の被害告発を受けとめて行動するといういわば受け身の姿勢を とってきたアジア連帯運動が、日本とアジアの民衆が連合して、どのような未 来を、ともに創るのかというオルタナテイブをもとめる場所に踏み出そうと呼 びかけたものである。「援助の思想」による日本とアジアの接近は、共生をも たらさないという「援助」をめぐるテーマと、社会的解放の視点とエコロジカ ルな視点の綜合、国際連帯運動と日本を変える努力の一体化などがこのマニフェ ストのモチーフであった。その具体化としてPARCは、一九八七年から二年 間の準備をかけてPP21を組織した。出発点は国際連帯の立場だったわけで ある。そこから全体の変革を視野にいれた地域や個別の運動との協同関係をつ くることで(例えば地域シンポの運動)PP21の主体をつくっていった。
7 タイPP21の全記録は、Alliance of Hope: Towards the 21st Century, People's Plan for the 21st Century. 日本語では、季刊「オルタ」 第四号(九三春)に小特集がある。
8 北京でのワークショップの記録は、 "Asian women's Alternatives in Action - Report on the Woprkshop at the Beijing NGO Forum of Women" として出版されている。 「むらとまちのオルタ計画」(RUA)[電話03 5273 8860]、アジア女性資 料センター[03 3463 9752]で入手できる。
9 PARCで入手可能。