『ピープルズ・プラン研究所ニュース』 No.4 (1998/06/27)


新ラディカル運動としての「新左翼運動」総括

武藤一羊

 

 この問題は、自分自身もあまりすっきりしていないと思っている。前に『状況』という雑誌に同じようなことを書いて、原稿を渡してからキャンセルするよう頼んだが絶対だめだというので載ってしまったということもある。

 いずれにしても、どういうアプローチをしていくかということについての、ある種の位置付けをしないといけないと思うので、その観点から問題を出してみる。

「新左翼」という勢力

 まず、六八年季節というのがあるが、その時の勢力を何とよぶかはひじょうに難しい問題であるが、ある種のラディカルな世界的な運動の高揚、ラディカリズムの高揚であったことは間違いない。これは全世界的に、特にいわゆる「先進国」においてそうだったけれど、日本では定着した言葉がないと思う。新左翼というのはものすごく反発する人が多い。新左翼というと党派のことを指すという理解がまずある。だからこれはまず括弧に入れて、運動の全体に見合う適当な言葉を見つけないといけないと思う。しかしあの時期、一九六五年から七五年位までの一〇年間を一つの時期と考えた時に、そこに出現した運動というのはひじょうに新しいものだったと思う。それで右翼ではない、中道でもない、だから左翼である。そういう意味で一般的にそれを総称して、一応ここでは「新左翼」というふうによんでみる。

運動総括の切り口

 運動を総括するにあたって、いくつかの切り口が必要だというふうに思っていて、いくつか並べてみたがこれもひじょうに未整理である。つまり運動総括の場合に、労働組合運動の論理のように勝った負けた、これだけ取った取らないという総括では不十分なわけで、これはどの運動でもそうだが、少し複合的な切り口で、一体どういう質の運動であり、何が残ったのかを見る必要があると思い、そういう意味でいくつかのものを出してみた。

 私としては「戦後日本国家」という問題が、ひじょうに大きな枠として考えられなければならないと思う。他のことも多かれ少なかれ「戦後日本国家」のあり方というものと関係してくるだろうと思う。「戦後日本国家」の大きな特徴というのは、アメリカのヘゲモニー化、これは世界的なヘゲモニーであると同時に、ひじょうに特殊なアメリカのヘゲモニーへの組み入れられ方をしてきた。それがある種の歴史的な存在様式として、かなりの持続力をもって存在してきたと思うが、そのことが戦後日本の民衆意識を規定するという意味では、ひじょうに大きな外枠をなしている。このことはあまりきちんとまだ論じられていないように思う。それはただプロ・アメリカになるという問題ではない。そうではない特殊なあり方を作り出してきた。日本の社会運動、政治運動というのは、日本社会の中で起こるわけだから、そういうものに当然規定される。思想、行動というものをひじょうに深く規定する。これはもちろん一方的な規定ではなく、逆規定もある。その規定と逆規定の中で成立する、ある「場」というか土俵があって、そういうものとの関連で、もう一回ばらして日本の運動というものを見てみる必要があるのではないか。

 これは、お経のようにいっている三構成原理、その三つの特殊な組み合わせ、これはもう少し前進させないといけないと思っているが、そういうものの中で成立した国民的自己了解というものがある。一番安定した、長期にわたるのはいわゆる「五五年体制」というもので、五五年体制の形成のされ方と、清水慎三さんのいう「戦後革新勢力」、これは総評・社会党ブロックというものを核にして、それに知識人ブロック、それから共産党もそこにつかず離れずという構造だろうけれど、それはかなりの程度戦後日本国家の国家内の形成物というふうにいえるのではないか。これはそれ自身が分析・評価の対象になるわけだが、そういうふうに大きく了解したいと思う。

なぜ「新左翼」総括が必要か

 なぜ今、「新左翼」総括をしなければならないのか。私の見るところでは、九〇年代の半ば以降、戦後日本国家というものが最終的な崩壊のプロセスに入っていると思う。だとするならば、社会運動が自己形成をもう一回遂げていくためには、戦後日本国家を越えて形成しないかぎりはダメである。ガイドラインの状況が一番よく現しているように五五年体制がふっとんでしまい、しかも何だかわけがわからないという状況で、抵抗の原理もなければ、何の原理もないという状況に陥っているわけである。いずれにしても、今われわれが研究会全体、あるいは研究所がめざそうとしているのは、戦後国家の中の主体というものを再形成しようとしているのではなく、それを超えてどう自己形成するかという可能性を追及する、そういうふうに問題を立てると、もう一回そこに新左翼期が見えてくるのではないか。つまり、ゼロから出発するのではなく、この期の運動というのは戦後国家、戦後革新勢力を超えようとする運動であったというところで押えておく必要があるだろう。それは割と近い過去における、かなり巨大な運動だったと思う。しかもこれは日本だけの運動ではなく、世界的にもやはりこの期を一つの転換点としているわけで、戦後世界というものを、本当はもう少し射程が深いのだけれど、少なくとも構造としては戦後的な世界編成というものを超えるという動きだった。そういうふうに問題を立ててみたい。そうしないと、今さら何で「新左翼」など総括するのだということになると思う。私はそれでは具合が悪いと思う。

複合的な運動としての「新左翼」

 そういう意味で「新左翼」運動というのは、ひじょうに広義にとると、これは明らかに複合的な運動だと思う。複合的という意味は、いろいろな運動があったという意味ではなく、起源も違えば、動機も相当異質であり、運動のエトスも違う。しかし、それがあの時期に、極めてダイナミックな相互作用のプロセスが作り出され、そのプロセスを通じて、複合的主体として作り出された。その運動が世界全体の中に、あるラディカルなベース、社会的なスペースを作った。そういうふうにとらえて、逆にそこから運動を、結果のほうから一回見てみる必要があると思う。例えば反戦、全共闘、ベ平連といういい方がされて、組織的にもそういうふうになった。あるいは党派、ノンセクトラディカル、それから地域住民運動、民族的なマイノリティ、部落、障害者。そして最後に、全共闘の後にリブというわけである。これは相当激烈な相互矛盾が発現する過程でもあった。しかし、ただの相互矛盾でケンカだけしていたかというと、それにもかかわらず全体としてはひじょうに有力な社会的勢力として登場したと思う。それ全体をやはり総括しないといけない。つまり、ベ平連運動を総括するとしてベ平連運動のことだけを総括してみても、ベ平連運動自身もわからない。あるいは新左翼党派でもそうだ。それぞれ全体から切り離して総括できないような、最近流行の言葉でいえば複雑系みたいなものを出していけたらと思う。

 この動きは日本固有なものではなくて、世界的なものだったということをもう少しちゃんと押えないといけないと思う。同時代性をひじょうに強くもった諸運動があるわけだが、よく見るとそれはずいぶん違うものである。ベトナム解放闘争はローカナイズされないで、アメリカの介入ということを通じて世界的な焦点になる。それとの関係でチェ・ゲバラがあるし、もう一つは、中国革命の中でのマオイズムというものに解消されないマオイズムという怪物が、この時期世界をかなり歩いたと思う。この時期というのは先進国は確かに似たような運動の高揚があったかも知れないが、他は違うではないかという意見も大いにありうる。それも半ばあたっていると思う。例えばアフリカは、ムルンバが殺されるたことで六〇年以来の大きなプロセスが頓挫し、この頃は全然立ち上がれないでいる。アジアは、インドネシアの九・三〇が六五年であり、これで全然立ち上がれない。そういうことはあるが、にもかかわらず文革というものがどういうものであったか。つまり、世界的同時性とかみ合うのか、合わないのかというのは一つのひじょうに大きなプロセスであった。マオイズムのほうは、例えばフィリピンではかなり響き合うところがあると思う。青年運動であるKM、Kabataya Makabayanというものができ、旧共産党からシソン派が別れてNPAの武装闘争が始まる。それに先行するものがディリマン・コミューンとよばれる、フィリピン大学のディリマン分校の学園占拠からすべて出てくる。天野さん位になっている運動のカードルのかなりの部分はディリマン・コミューンの出身で、つまり全共闘である。マオイズムということでいえば、スリランカの青年の蜂起というのがあって、これは今だに尾を引いている。これもマオイズムの「農民を基礎にして」というのと、まったく違った蜂起という現われ方をする。

 さらに「プラハの春」の問題がどうかということになる。これは明らかにフランスの五月と響きあった。よく知られているように、いわゆる第一世界ではブラックパワーがあり、それからラディカルフェミニズムがでてくる。先住民運動がウーンデットニーのような新しい見通しで出てくるし、マオリの運動も出てくる。フランス五月、それからイタリアの熱い秋といった、学生運動もまったく同じである。

 これがどういう問題だったのかを、ヨーロッパ人、アメリカ人は書くのが好きだからたくさん書いており、この中からさまざまな理論が出てくる。「新しい社会運動」の理論もここから出てくるし、この時代というのは構造主義の時代で、構造主義を経てポスト構造主義が出てくるのも、この時の実践的なものが源泉になってくる。そういう時期であった。これが何であったかの全体をもう一回位置づけて、結局ゼロだったというふうに言ってもいいが、私は言わないほうがいいだろうと思っている。

運動の分水嶺としての六八年

 いずれにしても、この時期をとりあげるもう一つの具体的な理由は、ある意味でこの時期の運動は分水嶺としての意味があると思う。つまり使用前、使用後は明らかに違うということがある。どういうふうに違うかといえば、いろいろな説があるわけで、国際的にいうと一九六八年はリハーサルであったというウォーラーシュタインその他の説。本番がどうなるかというのは言ってないけれど、その前のリハーサルは一八四八年で、一八四八年の本番は一九一七年だったという。一八四八年革命は失敗した。失敗したけれどもリハーサルであって、その教訓は「国家を獲れ」というものであったというわけである。同じような意味で一九六八年は世界革命であった。ジェームズ・オコーナーという人も似たようなことをいっている。それほど大げさではないが、根本的な物事の見方の変化が起こったのは一九一七年ではなく、一九六八年であったといっている。

 社会運動だけをとってみても、運動の文法というもうのが変わったといえると思います。いくつか挙げてみると、この時期以降政党系列化運動というのは例外になって、自立的な運動ということが常識化する。これは今の若い人にいってもなかなかわからない。つまり、昔は政党が系列化するのがあたり前で、大衆運動というカテゴリーはほとんどそういうものとして成立していた。原水協というのは社会党と共産党が手を結んで指導部で、事務局員は共産党が連れてくるというようなことがあたりまえであったわけです。それから総評という労働運動は社会党の系列の下に入るという、それが常識であった。それがまったく変わってしまった。これはひじょうに大きなことだと思う。

 二番目は、権力についての視座の転換があった。これは、国家権力というものが外在的なものとして捉えられていて、それに抵抗する運動と考えられていたのが、そうではなくて日常的な社会関係の中に権力というものはある。そこを解体していくという、これは政治の再定義ということである。当時の言葉では「内なる…」というのがひじょうに流行った。「内なる沖縄」とか「内なるベトナム」とか、それはつまり「内なるベトナム」というのは、日本の中にベトナムがあるのだという日本の構造のつかみ方、戦争協力体制に組み込まれたというだけでなく、個人の内にベトナム戦争を支えるものがあるという所まで媒介される。こういういい方はいったん発明されると、どんどん流行ってオーバーユースされて、たちまち堕落するのだけれど、しかし、そのつかみ方というのは昔はなかった。これは全共闘がいいだして、七〇年以来のリブの運動が明確に定式化をした。これは日本だけではない。

 三番目に、これは二と関連するが、個の解放というものが社会運動のいわば基礎的な部分に定着する。個はそれまでの論じ方では、戦後の啓蒙主義のものが好きだった。そのコンテクストは、要するに近代的自我がまだ確立されていない、したがって近代的自我を確立しろという説教だった。けれどもそうではない。そうではないと同時に、運動としては個というものを目的達成の手段に還元してしまうような、いわば自己犠牲的な禁欲主義というものが運動の中からなくなっていく。これは必ずしも簡単にそうなったわけではなく、党派の運動はそういうものをひじょうに強く持っていたし、全共闘運動の中でも、ノンセクトラディカルでも、自己犠牲的な禁欲主義というものがなかったわけではないと思う。けれども、個の解放ということと社会運動というものが融合するという特徴をもっている。

 四番目には、これは本当はきちんと展開しなければいけないが、なかなかできないものであるけれど、差別という問題構成が規定的なものとして運動全体の中に導入された。それがある意味では定着する。それまで差別というものがなかったかというと、そんなことはないと思う。部落差別という言葉も概念もあったし、いろいろあるのだけれど、しかし、ひじょうに重要な、つまり運動の骨組みをなす問題構成として差別というものが導入されたのは、これが初めてではないかと思う。

 五番目は、開発とか近代化というものにたいする批判的な視点の定着である。これは戦後の高度経済成長主義の批判である。これもひじょうに新しいものであったと思う。

 六番目に、それと関連しながら、母体としては地域住民闘争、反公害闘争といった、エコロジカルな思想潮流がここで初めて出てくる。これも今から見るとあたりまえみたいだが、必ずしもそうではない。それまでというのは、完全に生産関係主義というか、社会関係だけを変えるということを考えていたわけで、全体はやはり進歩主義である。

 最後に、アジアとの関係における近代日本国家。これは当時日本帝国主義といういい方がわりと主流的ないい方だが、批判の視点というものがでてくる。これもあたりまえのようで、必ずしもあたりまえでない。

 これらが獲得されて、そして全部消えてしまったかというと、消えてしまわないで、それ以前に戻ることはできないような地平が築かれた。しかし、これが社会全体に普及したというわけではない。「新左翼」そのものは自壊してしまうわけだが、社会運動の文法としては「新左翼」以前への回帰はできなかった。そこで出てきたものは、その後の運動の中でさまざまに変換されており、変換されつつ再生されている。あるいは無自覚の内に前提とされているという形である。

 八〇年代はものすごいバックラッシュが起こるわけで、日本でも起こり、アメリカはもっとひどく起こる。それは、この運動の欠陥というものにうまくつけこんでくる。アメリカでいったらフェミニズムとかベトナム戦争評価とか、そういうことについて彼らは一括してリベラルな価値ということをいう。リベラルな価値というものを全部否定する、つまり相手にして大げんかをする。ものすごい力でプレッシャーをかける。そういう意味では、なくなってしまったらそんなことする必要はないので、ひじょうに大きな目の上のたんこぶとして存在し続けてきた、ということの逆証明なわけである。その辺が、ある種の分水嶺だということの意味だと思います。

 いったいこれは政治的性格としてはどういうものだったのか。ひじょうに不思議な状況である。ベトナム戦争当時を考えてみると、確かに総評、社会党それから共産党と、それぞれいろいろなことをやったし、一〇・二一というようなものを設定して大動員もやった。しかし、実際に状況を作っていったのはむしろ「新左翼」の側だった。つまり、何万人も動員してデモをやっても、それは状況を作ることにはならす、今までの文法の中に組み込まれていく。共産党は、ベトナムを支援するというスタンスで一生懸命お金を集めた。「新左翼」はそうでなく、日本国家というものにたいして闘う。それを街頭闘争で表現する。そういう形が一番主要だった。それが直接に体制と対峙するという状況を絶えず作ってきた。そこだけ見ると、社共、戦後革新勢力というものをすっ飛ばして、日本帝国主義体制と「新左翼」との直接対決の時代が始まったというふうになるわけだが、しかし全体としては戦後革新勢力への反対派であった。戦後革新勢力は自民党への反対派であるから、反対派の反対派というスタンスであった。例えば労働組合の中の反対派というものを考えてみると、反対派でずっといて、主流執行部を批判したり、いちゃもんつけたりして、結局は執行部を獲る。執行部を獲った時にはじめて活きるのであって、獲るまでは活きないわけである。そういう構造ではない。反対派なんだけれども、その反対している相手を飛び越えて全状況と関係するという、ひじょうに特殊な構造があったと思う。そこの大きな、全体をくくる思想的立脚点としては、status quoというか、現状そのものを批判するというところで立っていた。これは、さまざまな運動があるけれど、そこのひじょうに大きな共通点というのはそういうものであったと思う。戦後革新勢力はそのstatus quoの擁護、その擁護ということをバネとして反対派となる。だから全共闘などは戦後民主主義批判、これは多数派民主主義批判、差別構造批判、帝国主義批判、それから管理主義批判というものがひじょうに強いし、総じて近代主義、あるいは近代というもの自体を批判する、そういうスタンスだった。そうなると全部敵になるのではないかと考えられるが、実際は全部敵にしたら社会的勢力にならなかったわけで、そういうstatus quo批判というものを基軸にしながら、戦後民主主義的に形成された勢力というものを半ば流動化させて、部分的に統合していくという、そういうプロセスを創り出したと思う。ここがひじょうに面白いところだと思う。

 ところが、それが何に行き着くかということははっきりせず、流動化のプロセスは創り出したけれども、それ自身の社会的基盤を創ることには失敗をしたと思う。それで崩壊する。しかし、崩壊する中から元には戻らない状況を創り出したのだと思う。

諸潮流とその相互関係

 この原稿では三つのレベルがあったというふうにまとめてみた。ベトナム反戦、反安保、反日帝という政治意識に駆動された直接的な反権力闘争。これは街頭闘争が主ですが、ベ平連の脱走兵援助というのはその文脈ですごく大きな衝撃力をもった。もちろん一番大きな衝撃力をもったのは一〇・八羽田というのがある。

 第二のレベルが、これがこの時期固有のものであって、新しいものである。それは先ほどちょっと言ったが、社会的権力との拮抗と闘争というレベルで、これは典型的には全共闘の学園闘争。その後はリブ、それから恐らく反差別という問題構成もこのレベルだろうと思う。

 第三のレベルは、地域住民闘争、反公害運動という、いわば草の根コミュニティ自身の抵抗である。これは、前二者とは違うといえば違う。社会的基盤をまったく異にする。前二者の運動というのは、きわめて都会的な運動というか、都市的な運動だったけれども、第三はいわば周縁化されたコミュニティが開発にたいして自己を防衛するというところから始まる運動である。だから「新左翼」といえるかどうかは、ここは一番いえないところである。にもかかわらず、あの時に創り出されたラディカルな行動のための空間というものがなければ、ああいう状況が起こらなかったであろうということもかなりの程度いえる。

 それは皆ばらばらに起こったわけで、ものすごい数のさまざまな質の地域の運動が起こる。これは都市まで含めて、マンションの日照権の問題まで含めるとものすごい数の、宇井さんに一度聞いたことがありますが、宇井さんは「全国で四万と私は見ています」といっていた。四万件のそういうものがあるという。しかし、これが全部まとまっていたわけではない。社会的にいうと、社会空間としてのある種の統合が行われてきたわけで、組織的な統合が行われたわけではない。その社会空間としての、このレベルの統合は二つの中心があって、ひとつは水俣、もうひとつは三里塚という、そういう構造になっていたのではないかと思う。私は楕円構造というのだけれど、楕円は二つの中心があるわけで、その二つの中心で、ある空間が作られ、多かれ少なかれその空間の中にさまざまな闘争というものは位置している、ということになっていたと思う。

 その三つ位のレベルがあったのではないかと思う。この中の特徴は、党派というものが状況を切り拓く力をもっていたことは間違いないと思う。ですから、この時期以降の状況とこれはひじょうに違うことで、今は党派が何か同じようなことをやっても、状況を切り拓く力にはならないと思う。しかし、少なくとも一〇・八羽田の闘争のような、つまり反権力的な軍団的な街頭闘争による状況突破というものが、ある種の戦後民主主義大衆への直接の衝撃を与えて流動化を促進するということが、ひとつ先導した。それがこの時期のひじょうに大きな特徴で、繰り返すことのできない特徴ではなかったか。

 六八年の一〇・八の羽田というのは行動が衝撃を人びとに与えるということだけれど、人びとは生まれ変わったりしない。びっくりして「すごい」とか「よくやる」とか共感はあった。かなりの部分に反感もあったが、共感もあった。しかし人びとは自ら動かなかった。そういうつながりが一つ。それから、佐世保闘争があった。この場合には市民が行動で共感を示した。そして、その中から市民の、佐世保ベ平連という自立した運動が出てくる。これは同じ党派の衝撃力というものは確かにあったが、人びととの関わりでは違ってくる。王子もある程度そうだが、王子は党派の衝撃というよりも、勝手に人びとが街頭闘争をやってしまったという側面が多いのではないかと思う。

 三番目に、三里塚に関わることでいわば党派がコミュニティの捕虜になる。この時の党派の行動様式というものは、大衆の支持を獲得するとか、そういう話はまったくない。自分たちが権力とどう闘うかという立て方しかなく、党派はいろいろあるから一概にはいえないけれども、多かれ少なかれそれを牽引した部分の考え方に全体が統合されていくわけだが、その統合の基軸というのは自分たちが闘うという立て方であって、それが誰にも縛られない。縛られるのは他党派との競合でどちらが優位性を発揮するかということでは縛られるが、大衆が闘うとか、大衆を獲得するということでも、そういうことはあまりなかった。三里塚だとそうはいかなくて、農民というものを主体に考えなければいけないという状況になる。同床異夢的結合というふうにいえるだろう。これは後の全共闘との関係でも多かれ少なかれ同床異夢的結合の関係があると思う。これが安保粉砕、日帝打倒ということで政治的に集約される。しかし、その中にはさまざまな普遍性の主張が各派にあるわけだから、綱領的普遍性があって、それがヘゲモニーを争奪する。それが最終的にはものすごい内ゲバの世界になるということがあると思う。党派のこういうあり方というものがひとつの時代的な特徴としてあり、不可欠な役割を果たしていたという時代だったと思う。

全体の一部としてあったベ平連

 ベ平連運動は、これは吉川さんが総括の本を書いているが、ベ平連運動というのは、スローガンとしては「ベトナムに平和を」、「ベトナムをベトナム人へ」という二本あっただけで、もう一つは「殺すな」というバッジを作った。その三つに、平和、民族解放、パシィフィズムというものがなんとなく結合されていたと思う。もうひとつ小田実が言い出した、加害者‐被害者メカニズムという捉え方があり、これは帝国主義批判につながっていく視点である。それから脱走兵援助による状況の一種の突破。自立した個人のイニシアティブによる行動と、ゆるい連合としての組織論という組織論の面。これは東京のベ平連と、各地にできたものはかなり違いがあるわけだが、全体として一体で、東京のある意味での知識人的リーダーシップ、それからメディアの動員、アメリカの運動との連携、そういったものはかなりの程度、東京ベ平連が機能的に果たした。しかし、地域での行動集団というものもアンチそういうものとしてできたわけでは必ずしもなく、やはりこれは一種の空間の創造だと思う。その空間の中でさまざまな行動集団ができてくる。それは反戦運動というだけではなくて、あらゆる問題にだんだんと関わっていくようになる。この場合の主体は、市民ということを立てた。この場合市民というのは私的な私である。そういう主体をひじょうに強く立てようとした。ひじょうに戦後民主主義的である。最初はそうであった。しかし、そうでないものも持っていた。つまり、民主主義のラディカル化というものを、ベ平連の歴史自身が、あるいは小田でもいいし、誰でも個々人がそのプロセスとして経験している。つまり、その二つの魂があって、それを架橋したという点があり、それがかなり広い支持基盤を作ることになった。ただ、ベ平連というようなものだけがあって反戦運動をやっていたというのでは、ああいうものにはおそらくならなかった。新左翼の街頭闘争から、後の全共闘に至る、その大きなうねりの中で、ベ平連というものが現にあったものになったという。つまり、全体の一部であったということである。一部といっても、皆それぞれ異質なものの統合である。

関係性の変革としての全共闘

 全共闘運動は、これはいろいろいわれているので、それほど詳しく述べない。天野さんの『「無党派」という党派性』というのはすごくおもしろい、すごくいい総括だと思う。

 ここではじめて全面的に関係性の変革というものが運動化するわけだが、かなり無理なところがあって、その関係性の変革というのを学園内構造の変革運動であるというふうに捉えることはできない。学園内構造の変革という根拠をどこに求めたかというと、実際自分たちに加えられている抑圧だとか不正だとかその他その他というものだけでなく、もう少し広い社会的なものに媒介して、批判した。だから、帝国主義大学解体などというのは、帝国主義という問題性、外部あるいは社会全体の中で大学の占めている特権的な位置と、学内で教授ギルドが持っている学生にたいする特権性というものを、ひとつのものとして捉えるわけだから、その解決というのは当然社会全体をどうするかという問題をはらんでしまう。これは学校によっても、闘争によっても違う。日大の場合は、日大自身が社会みたいなもので、かなり右翼的な社会の部分なわけで、「大学革命」ということをひじょうにいっていた。にもかかわらずやはり社会全体と離れたものではなかったわけである。これ以前の、ひじょうに似た状況を示す、例えば慶応大学の学費値上げ反対とか早稲田の闘争もあるわけだが、慶応の場合は割とそういう意識が少ない。早稲田は産学協同ということを全体との接点として掲げたわけだが、学内闘争的側面が強い。それ以降になるとその基準というものを社会的差別な構造、抑圧構造、特権構造、帝国主義というものに、より強く求めるわけだから、当然これは大学内で完結しない構造になる。しかし、主体としては学生で、大学の中だ。だから、全体との闘いはどうなるかというと、街頭政治闘争になって、それしかない。それは党派が主導するから、党派軍団に加わるかノンセクトラディカルについていって、天野さんみたいに鉄橋から転げ落ちるという形にならざるをえない。しかし、大学闘争の中から出てきたものが全体に展開していく己が自身の形というものを見つけたか、あるいは見つけようとしたかということについては疑問である。全共闘運動は、下半身は社会的関係の変革、しかし上半身はその外在的な物理力としての国家権力との対決というふうに分裂していく。

日本的労使関係と反戦青年委員会

 反戦青年委員会はどういうふうに評価できるかわからない。今いったような運動は、学園闘争を除いて全部不特定の場における運動であったが、反戦青年委員会の場合は社会党・総評の方から始まり、そのことで労働組合運動の中に一定の合法性を最初から確保していたが、そこから労働運動の方に還流していくことは、いわれながらついにできなかった。けっきょく街頭闘争の機関、あるいは党派の労働者部隊動員機関みたいなものになってしまった。もっとも党派的な分断がひどい分野になり、反戦世話人というのは各党派から出てそれが仕切った。結局、日本の労使構造の中に全共闘的な部分というものを創り出すことに失敗した。

 フランスの五月というのは学生があって、それに応えたのが職場だったが、日本ではそういうことができなかった。日本企業というものの労働者掌握力というものが圧倒的に強く、これ位のことでは揺すぶれなかった。

地域住民闘争

 地域の方は、開発と進歩のパラダイムがはじめて問われはじめたことが、ひじょうに大きいと思う。全体としてこの時期の闘争というのは、リブからフェミニズムへ行く流れを別にすれば、理論化がほとんどなされなかったが、この分野からはかなりの理論化がなされた。周辺から都市のいわば知識生産機能を作り出すということもあったと思う。例えばエントロピー学会とか、玉野井さんの役割とかがある。また、生協なんかをひとつの基体にするエコロジカルな思想的な生産というのが、行動に結びついていくかなりのものを産み出していると思う。

支援‐主体関係のもつ意味

 もうひとつは、いわゆる都市「新左翼」との関わりで、ひじょうに特徴的なのは闘う主体と支援という構造である。今はこういうことがなくなって、支援といったらNGOになる。昔はNGOという言葉がなかったから、そういわなかったけれど支援なのである。

 支援の部分は、ある種の普遍化的な機能も担いながら、実際支援する。それから現闘とか。そういう方式が出てきて、この場合には主権がかなり闘う主体にあるということが前提になっている。ところが支援の方は党派がかなり多かった。そうすると党派の論理からいうと「指導と被指導」という関係が他方である。指導‐被指導という関係と、支援‐当該というか、支援と闘う主体という関係はどうなるかというと、実際はひじょうに混乱した。中核派と三里塚の反対同盟との関係も、その辺のめちゃくちゃな混乱があったと思う。ここはひじょうに重要なことだと思う。つまり、運動というのが単に孤立したものではなく、ある文脈の中に置かれ、普遍性そのものと称している党派に媒介されることなく、しかし全体化していく通路というものとして、この支援と闘う主体というものの緊張関係というか、そこのところをもう一回きちんと再証明する必要があるのではないかと思う。

 八〇年代に入ってニューウェーブの原発反対運動が出てきた時に、伊方の出力上昇実験で全国から集まった。みんなが楽しく集まって、支援も地元も何もない。そういう状況が他方で出てくる。亡くなった埴野佳子さんはそのことについてある保留をしていた。要するに地元の地元性というものを完全に捨象してしまうことがあるとすれば、それはちょっと困るといっています。これはその後になって、例えば青森の選挙の時に反原発で全国からわんさと集まって、それで地元も支援もなにもなく、ごちゃごちゃになってすごい活発な活動をやったけれど、それは地元からするとかき回しだという受け取り方をされたことがある。そういう問題になっても現れる。つまり、皆同じである、チェルノブイリが起これば地元も、全世界が地元であるという、そういう捉え方というものに段々なっていく。この時代は、それはかなり分節化して、主体というものをどういうふうに立てていくかという問題意識が、支援‐主体関係の中にあったと思う。

「女の論理」としてのリブ

 リブが出てくるわけですけれども、これはある意味で全共闘運動の産物だと、かなりの程度いえると思います。つまり、全共闘運動がかなり大衆的に創り出した、現場における関係の解放的な変革というようなこと、それから自己、自分というものを、組織が決めたからやるというのではなく、自分の中を通過させた行動というものだけを認めるという、そのエトスというのはかなり全共闘運動に近いのだけれど、実際問題としてはアンチ全共闘として現れるしかなかった。全共闘運動というのは、ここに田中美津が書いているように、大義との関係においてはきわめて抑圧的な構造をやはりもっていた運動だった。セクトは特にそうであるけれど、全体の文化としてもそうだった。だから男の反体制というのは、大義への献身で、自己というものを通過させないというかぎりにおいては、論理が変わっても体制も反体制もまったく変わらないのだということをひじょうに鋭く指摘しており、そのことにたいする反逆だったわけです。その中でセクシュアリティの問題を前面に出すことで、その関係変革を基礎づけた。これがそれまでのいわゆる婦人運動とはまったく違うところである。つまり一九一〇年位から、六〇年にして回帰したのだと思う。つまり青踏の論理というのがそうであり、セクシュアリティの問題というのが中心問題だった。それがつぶれて社会主義女性運動が出てきて、それから婦選運動になり、その中でもセクシュアリティの問題はないことはなかったけれど、表面からは消える。それがこの時期、六〇年後になって全面的に、エロス解放宣言、それから原女パンフとよばれるものがすごい衝撃を与える。まったく新しい問題を出す。これがいろいろなものを串刺しにしながら、結局能率、効率中心に組織されている日本社会というものを根本的に撃っていく。その組織の仕方というのは、つまり男の組織の仕方であって、男支配というものと、効率中心の社会、弱者を切り捨てる、効率のないものは死んだほうがいいという考え方、それはまったく同じである。そこで通用する言葉というのは、田中美津によれば人を支配する言葉である。それにたいして、当時は「女の論理」といういわれ方がされた。その後、「女の論理」といういい方はかなりすたれたが、最初は新左翼起源で、言葉としてはひじょうに新左翼の言葉がある。田中美津の最初の文章は、プロレタリアの解放とかなんとかそいうことが書いてある。書いてあるけれど、実際の中身はまったく違うものである。しかし、それがワッとひろまる。ある意味でいうと全共闘が出そうとした問題の全面化だが、そこで主張される、そこで作られようとする文化は全共闘の文化とはまったく違ったものである。

リブ運動の困難さ 

 リブというのはひじょうに難しい運動であった。昔のイエ制度というのはすでに解体していた。青踏のころはイエ制度というひじょうに堅固な敵があって、可視的であった。しかし、状況は今ともかなり違うが、セクシュアリティ問題ではものすごく違っていて、当時のいわゆる便所パンフでは、処女性の問題というのはものすごく大きな問題であった。結婚ということでイエという牢獄の中に閉じ込められ、妻として夫に尽くしていく。その場合に女が競争させられて、いかに自分の処女性を高く売りつけるか、という競争の中に巻き込まれていく。今はまったく変わったのだけれど、ひじょうに難しいことをいわないと対決点がない。イエ制度という、ひじょうにはっきりした制度にたいして闘うというよりも、むしろ全社会的に編成されている家父長制的なものにたいして、自分たちはどういうふうに立っていくのか。その場合に、セクシュアリティというものを根拠にしながら、何かを作っていかなければならないという状況になる。何かを作っていくという問題がそこに出てくる。

 この何かを作っていくという問題、つまりオルタナティブを作っていくという問題も、実は地域住民闘争の中でも、例えば反権力、権力との闘争というのが一番の目玉だった三里塚でも、例えば活動家がそこにいって何にびっくりするかというと、ここでは生活することと、闘うことがひとつであるということに驚く。それはどうしてかというと、生活することと、闘うことはまったく別のことであるという闘争がずっとあった。だから、そこではちょっと授業にもいく、そして街頭デモに出るという。ベ平連なんかはむしろ、鶴見良行さんはそういうパートタイム市民というのがいいんだということだったけれど、実際は鶴見さんも吉川さんもほとんどフルタイム市民になっていた。リブの場合には最初からその辺のところが前提にされていた。生きることと、闘うことの一致みたいなところから始まるわけである。だから、自分がどう生きるか、自分の中を通過しない建て前というものはダメである、信用しないということがひじょうにはっきりしたものだった。

 運動としては、中絶禁止問題をものすごく大きな盛り上げでつぶすわけですが、運動の文化の中に、リブが提起した問題、とりわけリブの考え方というのは広まらなかったと思う。不思議なことに反差別というのは広まった。このリブの出した問題の中にもちろん反差別の問題は入る。当然、男女差別、女性差別というのは入るわけだが、例えば在日朝鮮人差別、部落差別だとものすごい強力な権威の源泉であって、建て前上は皆それにひれ伏す、ひれ伏すというと変だが、糾弾されたらそこで真剣に考えるということがあったけれど、女性の運動は運動全体の中にそういう権威を打ち立てなかった。これは必ずしも悪いこととは思わない。打ち立てたらものすごく大きな腐敗根だったと思うが、ずぜんぜん違った。

上からのフェミニズム

 ここでちょっと視点を変えて、七五年というのはひとつの転機だと思う。七五年というのは世界女性会議がメキシコで開かれた。これはアメリカやなんかの突き上げの中で国連が動いて、行動計画というのが決まった。これは国連会議だから日本政府も参加する。田中美津さんやリブの人も含めて大勢行った。しかし、帰ってきてから武道館で、天皇皇后が出てきて政府主催の報告会があるという文脈に、この問題が全部いくことになり、主導権はそちらに移る。今、五六団体だったかの、当時は二〇何団体という婦人団体の連合があって、そこが参加する格好で、政府の上からのプロセスが始まった。この辺が問題として、依然として残っていると思う。ある意味では北京会議なども、そういうものの拡大再生産みたいなことになるのか、ならないのかという問題がある。 

その他の問題

 大きく抜けているのは沖縄問題である。これは今、この時点から検証することはひじょうに重要だと思う。それからさまざまな連帯運動がある。日韓連帯、パレスチナ、反公害輸出運動であるとか、PARCなんかもその中である役割を果たした。これがいったい何であったのかということは、まだ十分考えられていないと思う。

民衆連合の可能性を探る

 こういうことで総括するとすれば、この時期における多様異質な諸運動潮流というものが、統合様式というのは何であったのか、解体の内因と外因、その諸構成部分の八〇年代以降の変容過程―これは断絶と連続の両方をはらんでいると思う―というものを探ることによって今日における新たな民衆連合の可能性がどこにあるのかということを探りたいと思う。民衆連合とは何ぞやということははっきりしないが、とにかく好きなことをバラバラやっていればいいのだということではおそらくない。とすれば何らかの形で、しかもすでに一国的な問題ではないので、大きな意味での世界構造を変えていく力というものを考えていく場合には、ネットワークであるのか連合であるのか、同盟であるのか何かわからないが、NGOとかそういうものを含めて一体どういう連合が可能なのかということを考えなければならない。

 この時代を探ることで、復権すべきものは復権する必要があると思う。しかし、それはこういうことを昔やっていたけれど、今忘れているからもう一回やろうといってもダメで、復権すべき要素といものが、ひじょうに大きく変化した今日の現実の中に別の形で隠れているに違いないという予想をして、そして探ってみたい。そうしないと、今あるものが十分に見えないのではないか。この時代を評価することで、隠れて働いているものを照らし出すという必要があり、そうした時にはじめて過去というものが歴史として未来に向かって継承しうるのではないかと思う。

 


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