『ピープルズ・プラン研究所ニュース』 No.4 (1998/06/27)


権力者の新世界秩序―私たちの新世界秩序

ジェレミー・ブレッカー

 

 世界は確かに、人々とこの地球の必要を充たすような新しい秩序を打ち立てることができる。しかしそれは、超大国の指導者たちが夢見た「新世界秩序」からも、それ以前の「旧世界秩序」からもほど遠い。それでは、新しい世界秩序とはどのようなものだろうか。

 私たちは、原油が漏れ、衛星放送が流れ、国境からは亡命者があふれ、一つの工場全体が地球規模の組立ラインの一端でしかないような世界に住んでいる。本書[文末参照]の目的は、どのような世界秩序が人類と環境の必要に見合うものか、また、それを実現するにはどうしたらよいかという、国家を越えた議論を呼び起こすことである。この、もはや国民国家単位でものごとを量ることができなくなった世界で。

■「新世界秩序」■

 第二次世界大戦後の数十年を規定した旧世界秩序は、ヨーロッパ近代の初期に発達した主権国家のモデルを基礎にしていた。人間は、それぞれに特徴をもった民族に分類されると考えられていた。それぞれの民族が一国家を形成し、それぞれの国家はあたえられた領土内で政治権力を独占し、領土内に住むものを治め、天然資源と人的資源の利用について決定する権限をあたえられていた。このような国家は、相対的に独立して自己規定する機能を実現するような、明確な国境と政治、経済、軍事、文化制度をもち、あるいはもちつつあると考えられていた。

 しかし、このシステムは幻想の上に成り立っていたのである。実は人類は、お互いに重複する部分のない集合ごとにきっちり分けられているというよりは、何千年にも渡って交じり合ってきた、多様な宗教、政治制度、民族、経済制度、親族、その他によってグループ分けされるものだといえる。その結果が、止むことのない紛争だったのである。

 さらに、自然と社会のさまざまな力は、一つの国家の内部で起きたことがほとんど他に影響をあたえないような、閉じたシステムをつくり出したわけではない。国家は、自然、市場、イデオロギー、その他の国境を越えてはたらく力に影響される。力の弱い国家は強い国家からプレッシャーをかけられる。国家はまた、軍拡競争や戦争のような国境を越えたせめぎ合いの影響に、意図せず巻き込まれることも多い。

 にもかかわらず、一九世紀と二〇世紀の大半に渡って、社会制度の枠組みが国家の枠組みと重なり現実を国家主義者の信条に近づけるにつれて、国民国家のシステムは強化された。ヨーロッパ植民地主義が下火になった後、全世界がこの国民国家モデルに沿って組み立てられたのである。

 旧世界秩序は、第二次大戦後の数年間に、この国家単位の構造の上に三層の超国家的構造を構築した。冷戦が世界を、政治的、軍事的、経済的、文化的に対立する比較的強固な二つのブロックに分割した。そして、工業化された国家と、旧植民地国家の分離は、経済発展をとげた第一世界と、低開発の第三世界をつくり出した。対する国際連合は、支配的な国家が望んだときしか国際協力が実現できないような、弱体な集まりしか提供し得なかった。

 旧世界秩序は、極端な権力の集中によって特徴づけられた。国連の経済的、政治的、軍事的権力は、共産主義「第二世界」を除く全世界で優位に立っていた。地球資源を誰より多く消費していたのだ。地球的な共通の利益を代表することができたかもしれない国連という機関は、しかし、国民国家の創造物であり、国家間の紛争の前に身動きがとれなくなることが常だった。強力な国家的利益など特別な利益に対立するれば、世界の大多数の人々の利益を体現する基準――たとえば、軍縮や環境保護――が、この秩序のもとで日の目を見ることはほとんどない。

■時代遅れの旧秩序■

 第二世界の崩壊とアメリカの経済力が力を失いはじめたことの結果であった、世界を二分する冷戦の終結は、幅広く関心を呼んだ。しかし、それほどの関心を集めなかったものの、長い目で見ればより大きな影響があったのは、国民国家システム自体の溶解である。

 一九七〇年代と一九八〇年代は、国連に代わる新しい覇権が出現したというよりは、多様な顔をもつグローバリゼイションと権力の分裂の時代だった。アメリカの経済制度は、多国籍企業と世界市場、そして統合された「地球規模工場」に代表されるグローバル経済のために大量の血を流した。国内市場向けにつくられた巨大な複合工業施設は、世界のさまざまな国に散らばって世界市場向けに生産する、移転も容易な小規模設備にとって代わられた。経済の重心がアメリカからずれていく一方、アメリカに匹敵する軍事力を発達させた国は他になかった。衛星放送によって、世界のどこででも、隣り町のできごとより簡単に地球の裏側のできごとが見られるようになった。その間にも、何百という市民戦争と民族紛争が世界のほぼ全域を覆い、既存の国民国家の統一性を打ち砕いていた。

 この影響で、経済、政治、軍事、文化の境界線も、国境や超大国の影響に応じて引かれた境界線と同一のものではなくなり、また、そのような領域自体の境界線も変わりはじめた。旧世界秩序の終焉を知らせる、冷戦の終結やアメリカ・旧ソ連両国の支配力の低下、そして、産業の多くが第一世界の脱工業化地域からかつて低開発であった「新産業化国」に移行したことなどの、目に見える劇的な変化の下には、たいていこの遠大な変化が横たわっていたのである。結果は、国境と第一、第二、第三世界の境界線が決定的に溶解する一方で、富と権力の不平等は進みかつあらゆる国と地域に分散された世界である。

■新しい秩序■

 ゴルバチョフの「新しい思考」(new thinking) は、結果としては、冷戦時代の超大国による世界の二局分割支配を、本来の国家主権に基づいた「複数の国の調和」(concert of nations) に置き換えることによって、新世界秩序をつくり出す試みであった。この考え方がつまづいたのは、それが国民国家の枠組みそのものを脅かす境界線の分解作用――とくに、既存国家内部の民族主義運動の高揚とグローバル経済および文化の引力と、折り合いをつけられなかったからである。

 ブッシュの新世界経済秩序は、対照的に、境界線の分解作用という現実に呼応する多国籍組織の新しいかたちに向けての不確かな一歩であった。その意図は、ブッシュのスピーチでは明確でなかったものの、彼の湾岸戦争戦略と国際経済政策においては明白であった。

 湾岸戦争での国際連携は、さまざまな存在がもつさまざまな類の権力を一堂に集めた。アメリカは軍備と訓練された人材を、アラブのいくつかの国々は基地を、アラブの首長たちと日本とドイツは現金を提供した。そして、大国に支配された国連安保理は作戦全体に正統性をあたえた。湾岸戦争が、アメリカその他の国々でナショナリズムを引き出す一方、この戦争のための連携モデルは、アメリカも他の国も一国では覇権として機能し得ないということを如実に反映した。

 ある意味で同様の「持てる者」の連携は、世界銀行とIMFにおいて機能してきた。世界銀行とIMFは、国連と一握りの裕福な連合国に後押しされた保守派の政策立案者が貧しい国々に「構造調整計画」を受け入れさせ、彼らの資源を外国企業の搾取にさらし、彼らの経済を裕福な債権者のための錬金機械にしてしまうのである。アメリカ政府は、あいまいな結果に終わったものの、関税と貿易に関する一般協定(GATT)の、世界貿易についての話し合いの関係でも同じような連携を動員しようとした。環境、文化、経済に関する国家単位の保護を切り崩し、多国籍企業が世界中で規制を受けず、安全に行動できるようにするためである。

 ブッシュの新世界秩序は、要するに、力をもった政治体制と会社と軍事権力の合弁事業体をつくり出すためのものだった。地球資源や過去の人類の遺産や未来の労働の果実を、手に入れる手段を確保するために協力させようというのだ。それは、保守派の「法と秩序」が国内で提供する私有財産の保護とその所有者がみずから拡張する権利を、多国籍企業のために確立することを目指していたのである。ヒエラルヒーの中に定められたみずからの位置に抵抗しようとする国家は(サンディニスタ率いるニカラグアのような国内的野心を通じてにせよ、サダム・フセイン率いるイラクのような支配欲を通じてにせよ)、単に飢えさせられるか、湾岸戦争が示したように、金銭的、政治的、人的、倫理的コストを払って、降伏するまで爆撃されるかどちらかである。予想された結果は、反乱の抑圧と地球規模で進む富の集中であった。

 このような世界秩序が湾岸戦争時の国際連携のようなかたちで、連合国同士の関係のゆがみや対立を、恒久的に和らげることができるかどうかには疑問の余地が残る。しかし、この新秩序のより困難な点は、世界が直面している基本的な問題を解決できないところにあった。差し迫った生態系の破局、拡大する国内外の貧富の格差、増殖する大量破壊兵器、そして世界のほとんどの地域で起きている基本的人権の否定などに応えなかったのだ。このような新世界秩序では、世界の大多数の人々の安全や健康や自由を守ることはできない。この世界秩序の目標は、旧世界秩序の支配と搾取を軽減するどころか、新しい条件のもとで、支配と搾取を永続させることにあるのだから。

■国内的抵抗運動の限界■

 支配に抵抗しそれを覆す既存の伝統的方法のほとんどは、国家を受け入れ、賞賛しさえする。そこで描かれるのは、その国の人々によって営まれ、みずからの資源を管理し、みずからのあり様と運命を決めることのできる国民国家である。それは対外的には、外国支配に抵抗し、理想として主権国家同士が平和のうちに共生する世界を導く、「民族解放戦争」を意味した。対内的には、富と領土を国家権力のもとにおくことであった。

 旧世界秩序のもとでさえ、この国民国家型抵抗と再構築は困難であることが証明された。外からの力に従属することと内にある民族紛争は、ほとんどの国にとって、例外であるというよりは普通なことであった。独立のため、経済と軍事化戦略を国家が管理することは、国民全体が力を得ることより独裁に結びつくことが多かった。

 経済的、政治的、軍事的、文化的力が国家から分離すると同時に、右のモデルはますます意味をなくしていった。経済のグローバル化は、ほとんどの国に、孤立の中での経済停滞か、外国の経済力への従属かという選択肢をあたえた。そして分裂は、ある国家を誰が構成するかという点だけのために同胞同士で殺し合うような紛争を生んだ。新しい軍事力と、湾岸戦争時の国際連携に現れた抑圧的な手段を蓄積する能力を考えると、民族解放戦争は、支配に抵抗するためにどんどん自殺行為に近づいていくことが証明されるようである。

■オルタナティヴ世界秩序■

 人々と地球の要求に応える世界秩序は、国民国家を基礎とする旧世界秩序の流れを変えていかなければならない。富める者と力のある者からなる多国籍合弁事業体を基礎とする、新世界秩序の流れに関してもしかりである。それは、人類と歴史上のさまざまな力がそもそも国境を越える存在であること、この力を秩序立てる原理原則、そしてその原理原則を実行に移す制度的手段を認識する世界観を必要とする。

世界観

 オルタナティヴな世界秩序のための世界観は、社会が国家主権に属するようないかなる要素で構成されているのでもなく、むしろ、相対的で重複することもある境界線をもつ相互に入り組んだ要素の多様性からなることを、受け入れなければならない。この考え方は、生態系のシステムが孤立した有機物の寄せ集めではなく、むしろ互いに重なり合うシステムとサブ・システムの合体であるとみなされる、エコロジーのパラダイムに匹敵するかもしれない。

 このような「エコロジカルな」思考方法は、個人がいくつもの集団に同時に入っていると考えることから出発する。親戚関係、民族、宗教、政治団体など、それぞれの集団の境界線は通常同じではなく、このうちの一つが他のグループを制圧するとはみなされない。個人は、複数のアイデンティティをもっているのである。そしてその個人が所属する複数の集団の境界線は交錯している。

 このような思考方法は、国民国家の主権というフィクションを放棄する。国民国家は、外からの介入をまったく受けずに自国の内部で起きることをコントロールできるし、そうするべきであるという認識、そして、国家は国民の集団的意志を代表する唯一の存在であるという認識は、放棄されるのである。その代わりに、現にある、国家を越えて重なり合う力のネットワークが確認される。今日の世界を実際に形づくっている、越境するさまざまな力をコントロールするために、現存する国民国家の国境を越える重層的な調整を行うことが想定されるのである。

原理原則

 上記のような「エコロジカルな」パラダイムの中では、何が私有財産として扱われ何が国の領土として扱われるかを、完全に分けて定義することは不可能である。それならば、世界の人々は、地球と人類の過去の遺産全体の共同相続者とみなされなければならない。共同相続という考え方は、すべての個人とその集団が、地球上の生命とその恵みをつかさどる権利の一端を担うことを示唆する。この考え方はさらに、すべての個人と集団が、共同相続者全員の諸権利を守り、現在と未来にわたる地球的環境を保全する責任をもつことを示唆する。

 人々がさまざまな権利を確保し、さまざまな責任を全うするためには、以下の二つの条件が必要になる。

 第一に、個人と集団は、自己表現、コミュニケーション、組織化の自由をもたなければならない。これは、現在一般に基本的人権といわれていることを実行に移すためである。このことはまた、いかなる集団も制度も他の人々が自己表現をする権利や、ある一定の領土の中で、もしくは、ある一定の人々を組織化する権利を弾圧することは、合法的にはできないということを示す。

 第二に、すべての人々は、人々に共通する権利と責任に影響する以上、あらゆる制度の運営に実質的に参加する権利をもつ。今日、理論上は、株式会社は株主に対する責任を、政府は国民に対する責任を、国際機関は加盟国政府に対する責任を負うことになっているが、こういった権力の中枢をいかにつかさどるかは、最終的には世界中の人々に委ねられるべきなのである。

制度

 上記のような権力制度に関する最終的な権限と責任は、全世界の人々が共通して担うべきであるとはいうものの、その仕組み全体が実践されたり、全体がそのまま行動を起こすことはあり得ない。全員が統一的に決断することができない場合は、個々人と集団が、権力的な制度に対するみずからの権利と責任を代表者に委託することができなくてはならない。しかし、権力が本当に人々のものであり続けるためには、そのような委託行為は、短期的、限定的で、人々の監視下にあり、取り消しが可能なものでなくてはならない。

 ここで私は、世界で起こるすべてのことについて決断を下す「世界議会」を提案しているわけではない。期間契約や免許、特許、課税、利潤の分配、地役権、規制など、限られた時間、限られた条件のもとで権利と責任を達成する方法はたくさんあるはずだ。このような制度は、場合に応じて、個人やさまざまなレベルの機関にあたえられる「一かたまりの権利」を明文化する効果を持つ。オゾン層を守る権利と責任は、地球規模の環境保護当局にあたえられるかもしれない。しかし、県道を一つ通すとすると、基本的には建設業者や利用者や近隣の人々に影響をあたえるので、必要なのはこの人々の協力である。最終的な権限さえ世界の人々の手にあればいいのである。

 このようなシステムは、現存する制度の構造を仮に出発点としつつも、それを世界の人々の希望に適うよう改正していくかもしれない。たとえば、現在の国家や会社や国際組織など、ある種の社会的機能を果たしている機関のほとんどをとりあえず認めるだろう。しかしながら、既存の制度が、人々の自発的な組織の障害にならないことと、そのような組織が統率することやそのような組織に委託された代表を受け入れることにはこだわるだろう。

 要するに、オルタナティヴな世界秩序の基本は、自発的な個人と集団の自由な発展と、彼らや彼女らが権力をもつすべての社会制度の運営に参加することではないだろうか。

■「ここ」から「そこ」へ■

 この種の世界秩序は、超大国の指導者たちが夢見たものとは違って、何百万という人々の努力があってはじめて形になる。一人の人物や一つの国家命令によってできあがるものではない。しかしオルタナティヴな社会秩序は、すでに行われている二つの努力が交差する中に見えかくれしている。

 一つは、みずからの力を充分に発揮できない立場に置かれている人々の自発的な草の根組織をつくり出し、あるいは強化し、そのような人々の社会的利益の擁護を促進することである。多くの場合このような草の根組織は、民族、政治、文化、宗教、階級によってつくられる集団を弾圧、あるいは差別する国家権力その他の権威に抵抗する、人権獲得闘争を余儀なくされているからである。

 もう一つは、右のような世界中の草の根組織が、会社や国際組織、国家、その他の権力の中枢に対する影響力――ひいては管理力――を確立することである。最近では、草の根の組織が力を合わせ、みずからに影響をあたえる制度に対抗できることを示す例も実際でてきている。以下にその例を示そう。

* 開発、人権および環境に関する組織の国境を越えた連合が、非政府組織フォーラムと呼ばれる会合を開いている。この会合は、世界銀行とIMFの年次総会に対抗して開かれ、これまで、オルタナティヴな政策を提言し、国境を越えたキャンペーンを開く手助けをしてきた。世界銀行に圧力をかけることにも成功しており、ブラジルの熱帯雨林破壊を促進するような世銀の政策を緩和させ、非政府系の環境保護に関わるグループに対応することを主な任務とする、環境部局を設立させた。

* 同様に、環境、消費者、農事組織の団体の連合は、GATTのさまざまな会合を捉えて対抗会議を開いており、反対派を組織して、一九九〇年代後半のGATTウルグアイ・ラウンドを延期することに結びつけた。

* 「マキラドーラ連合」は、メキシコとアメリカの、宗教、環境、労働、ラテン系住民、および女性の組織を一堂に集め、多国籍企業に圧力をかけて「マキラドーラ経営基準 (Maquiladora Code of Conduct)」を実行させた。この基準は、メキシコ国境の輸出産業地帯における安全な環境、安全な労働条件、そしてまっとうな生活水準を確保するものである。

* メキシコ、アメリカおよびカナダでは、市民団体のネットワークが拡大しつつあり、環境と地域経済を弱体化させる北米自由貿易協定(NAFTA)の廃止または緩和を要求している。

* 労働組合と環境保護団体の国境を越えた連合は、多国籍企業BASFの世界規模の労務政策および環境対策に、影響をあたえるキャンペーンに成功した。

* 自由な南アフリカ共和国を目指すキャンペーンは、南アフリカ内外の何百もの組織を一堂に集め、南ア政府を交渉のテーブルに就かせてアパルトヘイトの廃絶に向かわせた。

* 人権擁護キャンペーンの数々は、たくさんの国の内外でさまざまなグループを結集させた。自国の選挙を他国の人々が監視することを多くの国が許したのは、国家政治システム内部に外側からの監督を組み込んだ好例である。

 過去数年間に起きたたくさんの国々での民主化運動は、そのような運動が、権力機構を司る新しい方法に進化する可能性のモデルを提示した。こういった運動は一般的に、環境保護主義者、女性、労働者、少数民族など、疎外され抑圧された集団と社会関心を幅広く集める対抗勢力の発達によって始まる。この対抗勢力の圧力と国外からのさまざまな力、そしてみずから抱える矛盾によって、支配者集団は対抗勢力との交渉に応じる。そして非公式に権力をシェアするようになり、やがては(望むと望まないとに関わらず)、通常何らかの形の議会制民主主義を通して、疎外されていた集団の代表が参加できる制度を認めるようになるのである。

 同様の経過が、自発的に成立した団体が政策決定過程に参加する権利を確立することを可能にするかもしれない。しかも「自分たちの」国の政策だけではなく、自分たちに影響をあたえるあらゆる権力の中枢にある政策決定過程への参加の権利をである。このような、特定の制度の内外にある団体の連合は、その制度に圧力をかけるために協力することができる。一定の条件のもとでなら、既存の制度をも対抗勢力との交渉に就かせることができる。場合によっては既存の制度も、事実上、権力をシェアしなければならなくなるだろう。やがてその権力の分割が、オルタナティヴ世界秩序の項で説明したように、公的行政機構の中で制度化される可能性はあるのだ。

■行動に向けての暗示■

 社会運動家にとって、以上のような世界秩序を構築するのに手を貸すことは、一般的にいって現在の闘いを放棄することではなく、その闘いを、国境を越える運動のつながりを促進する、新たな視野で展開するという意味をもつ。以下にそのための指針を示そう。

* 当局の介入を受けずにみずから決定し、みずからを組織する世界中の人々の権利を支持する。介入に対しては共謀している自国の政府と闘う。

* 力を奪われている人々の自発的な草の根組織と、力を発揮できない立場に置かれている人々の社会的利益を擁護し、つくり出し強化する。

* 人々と地球の共通の利益に合致するように、上のような集団の目標を定める。

* 問題とその解決を地球規模で考える。一国のエネルギー政策に対する提言をするのではなく、地球環境の必要と、エネルギーや資源保有の状態が違うさまざまな地域に暮らす人々の必要の両方を含み込む、国境を越えたエネルギー体制に向けて提言する。違う土地に暮らす人々からの支援を求める。

* 世界中の人々との連合を求める。国境を越える草の根の相互援助と連帯を追求する。

* その連合を利用して、制度が人々と地球の必要を充たするよう圧力をかける。GATTには、地域の市場を破壊することを止め、労働権の保護と環境保護の保証に着手するよう要求する。国連安全保障理事会には、市街地への集中爆撃を許可しないよう、そして地域紛争の脱軍事化に着手するよう求める。IMFには、貧しい土地を輸出品生産工場に転換することを止め、持続可能な開発のために資源を提供し始めるよう要求する。

 人々と地球の必要に見合う新しい世界秩序とは、結局、人間による人間のための組織に行き着く。国家の境界線を越えてつながる人々自身の組織こそが、その新しい秩序をつくり出すのである。

(The Hierarchs' New World Order--and Ours", Jeremy Brecher in Global Visions--Beyond the New World Order, J. Brecher et al. ed., South end Press, 1993)

付記 ジェレミー・ブレッカーさんは、米国コネティカット州在住の、在野の社会史研究者であり労働運動ネットワーカーである。編著作は九冊にのぼるが、その中で、社会史の方法を使って労働運動を記録した『ストライキ』が、日本語に翻訳されている(戸塚秀夫訳・晶文社)。論文集を編む時の彼の基本姿勢も、学術研究者と社会運動家双方の意見を反映させることだという。労働運動家としてのブレッカーさんの最近の仕事は、本文中にも触れられている「マキラドーラ連合」と「マキラドーラ経営基準」の創設である。

 九七年六月には、国際労働研究センターの招聘で来日し、ピープルズ・プラン研究所準備会でも報告をいただいた(『ピープルズ・プラン研究所ニュース』1号参照)。その折には、多国籍企業が牛耳るグローバリゼイションの中で、労働条件と賃金の切り下げへ向かって競争させられている世界中の労働者の戦略――とくに、第一世界と第三世界の労働者の共通の利益を求める戦略――として、「下からのグローバリゼイション」による「上へ向かう標準化」を提唱している。そのために人々の「反乱」を「合憲的」とする認識も、ブレッカーさんらしい提案であった。

 本稿は、『越境する民主主義』の一つの理念をコンパクトにまとめたものとして紹介した。とくにアジアの問題を取り上げているブレッカーさんではないし、国際機関の利用可能性に対するここでの指摘は、彼自身の現在の考え方からしても楽観的すぎる嫌いがあるかもしれない。しかし、具体的に誰が何をすることが 『越境する民主主義』につながるのか、さまざまな理論と実践の中からオルタナティヴ社会への道を模索することがピープルズ・プラン研究所の目的とすれば、正式発足の機会に日本の運動の実践と並べてブレッカーさんの枠組みを再考するのも一興と思う。

(青山薫 ピープルズ・プラン研究所準備会コーディネーター〔翻訳も〕)

 


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