民衆のメディア連絡会9月例会(9月29日中野商工会館・16名参加)
テレビCMがつくりだす高齢者像

「ベッド」か「杖」のステレオタイプ

 今回の講師は山中正剛さん(成城大学名誉教授コミニュケーション論・写真)の「テレビCMがつくり出す高齢者像」というお話。司会は粥川準二さん(フリーライター)。のっけから「もっと若い女の子が大勢来るのかと思った」と講師が言えば、「自分で女子学生を連れてこなきゃ」などの応酬があるという2次会的雰囲気で始まった。

 山中さんによれば、メディアの中の老人を調べたものがまったくないのだそうだ。当日、『「広告の中の高齢者像」に関する調査研究報告書---テレビCMの内容分析---』という山中さんの研究報告書が資料として配布されたが、高齢者広告研究はこれをもって嚆矢とするのだそうである。

 さて研究は、1年前のある日、民放5局の午前11時から午後2時までの3時間に放映された50歳以上と見られる人物が登場するCMをすべて録画することから始められた。

 

そのビデオの一部を見せてもらったが、例えば樹木希林の、汚さを強調した老婆(東京電話)、若い娘の背後で震えている老いぼれ(ルル)など、高齢者に積極的な役割を振られたものはきわめて少ない。61歳の女性に「うわあ、お若いですねぇ、お若いですねぇ」を連発する日本テレビの番組も紹介された。

 最近の介護問題のクローズアップで、高齢者も画面に登場はするが、おばあさんはベッドに寝ている、おじいさんは杖をついているというステレオタイプが多いという。いずれにしても高齢者は介護される側、あるいは「第2の童(わらべ)」としての扱いになっているのだそうだ。

 ところがこれまでずっと高齢者はそのように描かれてきたかというとそうではない。回覧された古い新聞広告を見ると、高度成長期以前は、はつらつと活動する積極的な高齢者の姿が広告でもよく登場している。60年代を境にして、「老人の安全」を謳った車のCM(トヨタ)、おふくろの味を背後に退け「妻の味」を打ち出したコピー(ハウスシチュー)、寂しい老人に話しかけてあげて、という電話の広告、など、自立性のない、介護をしてあげなければならない客体としての老人へと変化を見せる。「ずっとすねをかじってきました」とコピーのある父と息子の広告(銀行)にしても、主体は息子であり、父は客体なのである。

 山中さんによれば、高度成長の過程で、老人が文化の生産者から消費者へと位置をずらされてきたためだろうという。その原因としては、近代テクノロジーや、アメリカ文化を背景にした若さに価値を置く傾向などが考えられるのではないかとのこと。

 しかしCMが必ずしもウソとは言えない。老人を扱うコードを読解するための二次的な coding schemes(コード化方式)の確立が必要だ、と山中さんは指摘する。

 質疑応答では、CMの変化の要因は? など、さまざまな質問・意見が出た。老人文化の研究がない→わからない→ステレオタイプの解釈、という筋道を指摘する意見、老人特養ホームのある地域に産廃施設や高圧送電線など「隠したい」ものが集中しているという指摘などがあった。

 「先生はまだゲンエキですか?」などという茶化した質問に、「そういう老人の見方こそがステレオタイプなのだ」という反論は痛快であった。

 最後に山中さんは、「かげろうのような存在におとしめられている高齢者をもう一度表に引き出す動きはどうすれば可能なのか、今考えているところです」と締めくくって、今回の例会は終了した。

 女性がいかに対象化されているかについては、これまでフェミニズムがさんざん指摘してきたところだが、老人が同様な描かれ方をしているということについては、今回の山中さんの指摘で初めて気づかされた。

 確かに、実存の視点から見れば老人などというのはありえず、対象化されて初めて老人になるというのは、当然といえばあまりに当然な理屈なのだが。人は老人になるのではない、老人にされるのである、というパロディで、今回の報告を締めくくりたい。

                            (正木俊行)

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