映像を使って映画「プライド」の虚構をあばく

 民衆のメディア連絡会の7月例会(7月23日)は木下昌明さん(写真)を講師に上記のテーマで行った。中野商工会館に35名が集まった。例会としては一番多い人数だった。
   

 木下昌明は、約1時間半にわたって、さまざまな映像と資料を駆使してこの映画の批判を実証的に展開した。前置きとして彼は、映画とは何かという問題を提起した。佐藤忠男が書いた「映画とはうぬぼれ鏡である」ということばを引いて、映画はTVとはちがって、同化しやすく、国家が使うとナショナリズム高揚に利用されやすいという。
 まず最初に映画「二十四の瞳」を見せた。この映画は、戦争問題を描いていながら戦場シーンがまったくないため、侵略兵士であったはずの日本兵士が可哀相な被害者だったという面のみが強調され、美化されていく構造を指摘した。今回の映画「プライド」も同じ手法が使われており、東条英機の戦争犯罪が巧妙に消されているという。
 いよいよ本論。木下は、3つのポイントから「プライド」を批判した。

 1.日本はインド解放のために戦ったのか?

 「プライド」は日本軍はインド解放のために戦った、だから東京裁判でインド人のパル判事は「無罪」を主張したと描く。しかし、確かに日本軍は欧米の植民地解放をとなえていたが、実態はそれらの植民地を白人になりかわって支配することだった。インパール作戦にしても無謀なものだった。植民地支配の実態を、木下は、インパール作戦のフィルム、インド解放を訴える当時の国策映画、インドネシアの子供に日本語を強要するフィルムなどで説明する。一番説得力があったのは、
ガンジーが日本に対して欧米列強と同様の野心をもっていると見抜いて、日本への警告を手紙に残していることであった。

 2.南京大虐殺はなかったのか?

 「プライド」の監督は伊藤は「法廷のやりとりなどすべて事実に基づいている」と述べているが、実際には「事実」としての証言をつまみ食いにして、都合のいいところをつなげただけ。木下は
「東京裁判速記録」やドキュメンタリー映画「東京裁判」を使って、映画がいかに事実を歪曲しているかを指摘する。マギーの証言は「詰まりながら」証言しているということも事実に反しているし、マギーが犯行後の惨状を数多く目撃しているのに、現行犯を目撃した数が1件だから、という点のみを描いて、事件はたいしたことはなかったと思わせるなど、詐欺師の手口と言っていいひどいものである。実際にマギーが撮影した惨劇の実態は、「天皇の名のもとに」で見ることができる。

 3.天皇の責任問題について

 「プライド」では、東条英機が天皇の戦争責任を回避するため、断腸の思いでその任につく設定になっている。事実はどうだったのか? 木下はTVドキュメンタリー報道などを使い、
マッカーサーが戦後の世界体制のなかで、天皇を利用することを考え、東条に責任を被せることで、日本の旧支配層を温存したことを明らかにする。東京裁判は、「プライド」が描くように戦勝国が敗戦国を裁いたという単純なものではなくアメリカの支配層と日本の旧(新)支配層が手を結んだ「お芝居」でもあった。それゆえ、二次以降の東京裁判は中止され、岸信介らA級戦犯容疑者は釈放され、日本は再びそれらの資本主義圏の一員として復活する。 報告では「御前会議」の様子の映像などが紹介され、戦争における天皇の位置がよくわかるものだった。
 「プライド」は多くの人に見られ、戦争の間違った見方を流布する役割を果している。しかし、このような角度から、この映画を見直すことで、逆に戦争の本当の姿を浮き彫りにすることもできる。インド解放・南京大虐殺・天皇の戦争責任などを改めて考えるきっかけにもなった。ぜひこうした「映像報告」を各地で開催して、「プライド」を批判するキャンペーンを展開したいものだ。(M)       
*当日の報告ビデオ収録版があります。実費(ダビング+送料)1390円でお分けします。お申し込みは
こちらへ。

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