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2002年7月10日発行172号ピースネットニュースより
「草の根から見たカンボジア内戦の実情」(1)
ピースネット白山フォーラム6月例会 2002年6月15日文京シビックセンターに於いて
るしな・こみゅにけーしょん・やぽねしあ 代表 松本 清嗣
●カンボジアへ入ったわけ
松本清嗣(まつもと きよし)と申します。43年前に大阪で産まれまして18歳まで順調に学年を上がったんですけど、その後浪人して北海道大学に入りました。寮に入ったんですけど、その当時最後の旧制高校の寮みたいなところで大学側とガンガン揉めてまして、そこで僕は自治について学びました。そこでの経験が今やっているコミュニティ開発にすごく生きています。結果7年かけて大学を卒業して、そして3年間北星余市高校という私学の中途退学者を受け入れる学校の教員になりました。窃盗とか暴力事件、不純異性交遊、まあいろんなことが毎日のようにちゃんと起こる学校で教員をさせてもらって生徒達にいろんなことを教えてもらいました。その時に思うことがあって、このあらゆるものが過剰な日本社会を離れて物のないところに行きたい、あるいは技術も日本に較べてないかもしれない、人材もひょっとしてないかもしれない、そういうところに行って自分の人生の時間を使いたいなと思いました。大阪でまず土方を9ヵ月ほどして、そこで知り会ったカソリックの方とのご縁でCRS(カソリック リリーフ サーヴィシィズ)という世界77ヵ国でプロジェクトをやっている大きな団体へ92年に入りました。そして93年にカンボジアのUNTACによる総選挙があるんですけれども、この年の12月にるしなを設立し、翌年6月に現地でオフィスを開き現在のプログラムをはじめました。プログラムを始めて丸8年になります。今後2010年までこのプログラムを第2ステージまでやろうかなと考えています。トータルで16年になりますけれども。
●カンボジアの歴史
カンボジアの歴史、それとなぜ30年にわたる戦争が起こってしまったのかをものすごいかいつまんで、ご説明したいと思います。
アンコールワットの王朝は9世紀から15世紀まで、12世紀にアンコールトムですね。アンコール王朝を立てたジャーヤバルマン二世は、ジャワからきたといわれています。頭にジャーヤと付いてるのはジャワからきたということでインドネシアのボロブドールとアンコールワットの文明は直結しています。そのままというわけではないですが、当時9世紀あたりっていうのは東南アジアの海あるいはメコン川は、みんながどんどん行き来している、今からイメージできないですけれども非常に交流が盛んであったと考えられますね。
13世紀、15世紀にアンコールワット王朝が衰えます。何でかカンボジアの王家の歴史・伝統っていうのか王家の分裂にタイ、ベトナムの軍人が絡んじゃうんですね。こちらの王家はベトナムとつき、こちらはタイにつくという風に、結果的には王家の分裂が他国の軍を引き入れるっていう王家の歴史がこのあたりから、非常に情けない歴史があるんですけれども。 それが1884年あたりでフランスが入ってきて、仏領インドシナ、インドチャイナ、無茶苦茶なつけ方ですね。その仏領インドシナである種カンボジアは得をするんですね。
このままだったら両国の属国になっていて、カンボジアはなかったかもしれないですね。幸いというか、フランスの植民地化されて領土を保全されたんです。だいぶ減りましたけれど、当時アンコール王朝の頃でしたら、ホーチミンのあたり、南メコンデルタのあたりなんか全部カンボジアの領土でしたし、タイのかなりの部分もカンボジアの領土ですが、かなり小さくはなりますが領土の保全がなされます。
そこに1945年に日章旗を立てた天皇の軍が侵略します。僕が現地で高齢のスタッフとか、村の人たちに聞いたところでは日本軍がここで残虐行為を行なったというのは全く聞かないですね。
そして僕が富山で消防団のお父さん達にお話をしたときに「わし、それ行った」「バッタンバン行ったぞ」というお父さんに会いまして、女性に対するレイプとか酷いことありましたかって聞くと「わしらそんなことしとらん」みんなそうおっしゃるのかもしれませんけれども、消防団の方の話では仏領インドシナというのはフランス本土がナチスドイツに侵略されて、レジスタンスしかできない状態で植民地経営に全く手が出ない、その真空地帯に日本軍、天皇の軍が入った。そこで紳士協定を駐留している仏印と結んで、いわゆる略奪行為とかそういう家に火をつけるとか、中国、あるいは朝鮮、フィリピン、マレーシア、インドネシアでやったようなことはカンボジアではあまり聞かないですね。ベトナムでは戦争はあったようです。ベトナム人が侵略に抵抗するってかたちで戦ったとか、タイなんか猛烈に抗日戦をやっていますけれども。ですから戦勝記念日とか戦勝記念塔とか「日本軍に勝った」っていうのはタイでは盛大にやりますけれども。カンボジアでは比較的内部に入ってしまうというか、日本軍に対してそんなに敵意を持っていないと僕は説明を受けています。ただこの辺は過去のことをどこまで率直に語るかって言うのは微妙な問題もあるので僕はそう聞いたという風に説明させてもらいます。
天皇軍が負けてフランスがまた戻ってくると、シアヌークは早い段階で独立宣言をしました。欧米外遊をシアヌーク王がしましてそこでの外交戦略で独立を勝ち取った。戦争で独立したんではないですね。そして1970年代までシアヌークの時代が続きます。彼は王位をお父さんに譲って、自分は殿下として実権を握ります。今ではシアヌーク王ですけれども。これが非常に幸せな時代というか、お隣ではベトナム戦争が始まりましてかなり風雲漂うというか、最後の辺りは左派も右派も過激になって彼はそのバランスが取れなくなって失脚するわけなんですが、でもカンボジアの人たちは非常にこの時代をよき時代という形で回想しています。「東洋のパリ」と呼ばれるプノンペンはたしかに当時はきれいだったと思いますね。その当時教育を受けた人たちが村にいますけど、彼らの考え方は上座部仏教に根ざした非常に穏やかなもので、僕らのプロジェクトの中核です。中心的な活動をこの時代に教育を受けた人たちがいま担ってくださってまして、横で見てて大丈夫ですね。彼らがコミュニティの開発を担っている範囲では、彼らがいいリーダーを村人から選んでその人たちが担っている間は村の発展はけっこういけるんじゃないか。ただ次の世代、カンボジアが戦火で血にまみれた時代に教育を受けた、子どもだった世代がリーダーになってくると農村の我々のプロジェクトにしてもかなり危うい状態になるかなと思います。
ちなみに僕らのプロジェクト、4つの州で活動していまして、54協同組合を作りまして今7,300世帯以上ですね、貸付を中心にしています。大体4万人のプロジェクトになってるんですけど、その中心を担っているのがシアヌーク時代に教育を受けた穏やかな人たちですね。シアヌークは「赤い国王」と呼ばれまして、中国が好きなんですね。ああいう農村・農業を中心とした国家発展というのに共鳴しまして、一方でアメリカが嫌いなんですね。そしてお隣でベトナム戦争が起きまして、北ベトナムと南ベトナムが争う。南ベトナムにアメリカが強烈に介入し、アメリカが介入したところはいつも政権はガタガタになるんですけれども、サイゴンの南ベトナム政府ってのも汚職にまみれた非常に汚い政権なんです。その北ベトナムへ人民解放戦線がラオス、カンボジアの領土を通って武器・食料を補給し、ゲリラがどんどんサイゴンの付近で軍事行動を起こします。この補給路を「ホーチミン・ルート」って呼びますけれども。カンボジア国内をこれが通ってます。シアヌークはアメリカが嫌いなんで、黙認するわけです。アメリカは再三、再四ホーチミン・ルートを閉ざせとプレッシャーかけるんですけれども、シアヌークは無視した。
賛成もしないし、弾圧もしないし、実質的には支援した。
それはカンボジアにとっても諸刃の剣で、そこのゲリラは単に南ベトナムに行くだけじゃなくてカンボジアにも入ってきたんですね。ですからカンボジアの左派はある面で非常に強くなる。この人たちの資金も入りますし、ゲリラも来ますし。
シアヌークの外交っていうのは東西バランスをとる、ソ連からもアメリカからも中国からも援助を受けて、国内の左右バランスと外交も左右バランスをとってという「綱渡り外交」と呼ばれてますけれども。そういうわけでアメリカの支援も受けてまして、特に軍部では最終的には右派の権限がどんどん強くなってくる中で、左派の人たちをシアヌークは弾圧するわけですね。みんなが地下に潜っていく。彼の政策は一貫してないですね。そのときの力関係によって左右それぞれを持ち上げたり、弾圧したりしてますね。最終的に彼が外遊中にCIAがクーデターを起こさせます。これは明らかにアメリカの陰謀で失脚させられます。そしてシアヌークは中国・北京に渡ります。
親米政権になって、シアヌークの末期にアメリカがホーチミン・ルートを爆撃してるんです。『キッシンジャー語録』あたりにはシアヌークが暗黙のうちに了解したみたいなことが書いてあったと思います。おそらくここでOKサインを出しているとしたらかなりの失策ですね。
僕は全体としてシアヌークを天才ではないけれども、そんなに悪い政治家ではないと思いますね。ただカンボジアの置かれた状況があまりにも厳しすぎて、よっぽど優れた、気骨のある政治家でないと切り回しはできなかったと思います。
シアヌークの統治自体はそんなにひどくはなかったと僕は思います。人によってかなり評価は分かれますけれども。
そういう形でCIAの陰謀でロン・ノル政権ができ、アメリカはカンボジアに強烈に爆撃します。このときカンボジア国内に落とした爆弾の量が日本の本土決戦のときに落とした爆弾の3倍です。アメリカの爆撃に対して農民達は怒ります。当たり前ですよね。自分の国が爆撃されてそれがプノンペンの腐敗した政権とつながってますから、ロン・ノル政権を倒せというかたちでみんながゲリラ、解放戦線を支援する。その解放戦線がクメール・ルージュだったんです。
北京に亡命したシアヌークですけれども、中国というのは非常に懐の深い国ですから彼を大事にするんですね。クメール・ルージュは毛沢東の影響を受けています。『毛沢東語録』の中に階級上の敵を殲滅するのは階級闘争における上位形態であると、ですから相手を殲滅するというのはいい形の戦い方だと書かれてあります。でも毛沢東ご自身は虐殺はしなかったですね。僕の理解は浅いですが、階級的な存在としてのブルジョワジーを強制労働や労働に出すことによって、階級上の敵でなくすという形にしたかと思います。クメール・ルージュ、とくにポルポト、幹部はそれを殲滅するということは殺すことだととったんです。(つづく) |