解説・寄せ場

寄せ場って何?

 一言でいえば、日雇労働力の売買行為がまとまっておこなわれる場所、あるいはその場所を持つ地域です。

 朝(普通4時半頃から6時頃)、日雇労働者と業者・手配師(ブローカー)が集まりその日の仕事の契約を結ぶ、主要な都市の道路上、公園、駅前などです。日雇い労働を専門に扱う職業安定所(ハローワークなんて言われることはありません)が置かれているところもあります。付近には、そういった日雇労働を仕事にしている人たちが定宿にしている簡易宿泊所、俗にドヤと呼ばれるものが密集していることが、普通です。東京の山谷、大阪の釜ケ崎、横浜の寿町、名古屋の笹島、福岡の博多築港などがよく知られています。規模や種類などは様々ですが、その他の都市にも存在しています。
 山谷の朝の寄せ場は文字通り青空市場で、荒川区南千住から台東区浅草に向かう地域、泪橋の付近一帯や東浅草2丁目の少し手前までの山谷通りが、それです。釜ケ崎には財団法人の労働センターがあって、そこに業者、手配師が車毎入り、センターから許可された看板を掲げ求人条件を提示します。
 労働者は業者とその場で交渉し、仕事を見つけます。業者は、若く仕事ができそうな労働者を捜し、労働者は、単価がよく酷使されることの少ない労働現場を捜します。あからさまな日雇労働力の売買「市場」、というのが朝の寄せ場の本質です。

 仕事の内容は、だいたい建設、土木、運輸関係の仕事に就く場合がほとんどで、そこではよく知られた大きな企業=資本がこれら寄せ場の労働者を何重もの下請けの最末端で非常にきつい肉体労働に従わせている、というのが偽らない実態となっています。1960年代までは、この朝の寄せ場にヤクザが直接介入し、労働者を殴ったり腕をつかんで条件の悪い(ケタオチという)現場に連れ込んだりする例も少なくありませんでした。



寄せ場の形成された背景

 今あるような寄せ場は、歴史的にはどのようにして形成されていったのでしょうか?

 1945年敗戦直後今にも死にそうであった日本経済は、50年代初め朝鮮戦争に伴う特需でかろうじて息をふきかえし、50年代後半以降もうれつな勢いで資本主義的・帝国主義的政策を展開していきました。すなわち、農業など第一次産業の解体再編成、大量の設備投資と公共投資による重化学工業(とくに家電、自動車、エレクトロニクス、石油化学など)や土木建築業の急発展(高速道路や新幹線などの新設など)、コスト高の石炭から(危険な)原子力・海外石油へのエネルギー政策転換などによって、高度経済成長を達成し、国際収支の基調は黒字となりました。
 中小や零細の企業は倒産するか大企業に吸収され、その結果、金融資本を軸に主要産業を系列・関連などの形で連ねた、ごく小数の巨大な企業集団が生き残りました。そして、それらの小数巨大企業グル−プは、たがいに競いつつも全体として市場に君臨しこれを寡占支配するようになりました。

 力をつけた日本は、対米関係をより自立的なものに変えることなどを通じて、国際的な地位を高めようとしました。また、植民地を得ないまま製品の急激・大量・安価な輸出を行う、いわゆる新植民地主義と呼ばれる経済侵略によって、アジアなどへの影響力を強めていきました。
 65年日韓新条約締結以降は在日朝鮮人資本・企業をも支配下に組み込み、帝国主義的な国内抑圧体制をよりいっそう整える一方、フランスとアメリカなどによるベトナム侵略戦争に積極的に加担するなど、しだいに軍国主義的様相をも露わにしていきました。

 しかし、このような大規模・急激な経済発展と政府資本の意図的な構造転換、抑圧-搾取-差別の国内体制強化は、大きな矛盾を生み出しました。主として炭坑の閉山と農業の機械化・小農切捨てが著しく進み、大量の失業者が生み出されました。職を失ったたくさんの人々が、東京、大阪、名古屋などを初め各地方主要都市に流れ込みました。また、「金の卵」と呼ばれて集団就職し、重化学、製造業などの工場に入ったものの、酷使されて"夢"敗れた若者たちも少なくありませんでした。その他さまざまな失業者、さらには在日朝鮮人やアイヌ、ウチナーンチュ(琉球弧出身者)、さまざまな被差別底辺の人々が、過剰労働力として都市に存在していました。
 先述のように土木建築をはじめとする基幹各産業は急速かつ顕著な伸びを見せ、それらの失業者を雇用していきました。しかし、経営がその伸びに充分な自信を持てなかったことと、安い賃金で使い捨てに出来るのが便利ということで、各種の臨時労働者という形で雇うのが最も多く見られる雇用形態でありました。そうしたあらゆる形の臨時労働力を補給していく源、予め労働力を貯め込んでいる基地として、全国的に寄せ場が作られていったのです。

 1960年代、山谷、釜ケ崎、寿町などに、バラック建てではない、本建築の簡易宿泊所がどしどし造られ、家賃日払いの長期宿泊者を抱えるいわゆるドヤ街がつくられていきました。また、この時期は、各段階毎にピンハネがされる重層的な下請け制度と、その最末端におけるヤクザ-手配師-ボーシン(小頭とか世話役とも呼ばれる)による暴力的労働者支配ー搾取のメカニズムが、成立した時期でもありました。そうした体制が出来上がるについては、大量の労働力を一時に、しかも確実に調達したいという資本の切なる希望と要請によるものであることは、改めて言うまでもありません。
 こうして、社会体制の矛盾を凝縮して反映すると同時に、その乗り越えの芽をも内包している《寄せ場》が、出来上がっていったのです。

【文章:松沢哲成(日本寄せ場学会)・なすび(活動委員会)】