のじれん・通信「ピカピカのうち」
 

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大阪・名古屋派遣団報告


黒田大介

 のじれんは、この度、大阪キタ越冬実、第二五回を迎える名古屋越冬実に結集 する仲間に呼びかけ、東西越冬越年闘争交流を行った。

 まず、結論から言うと、今回の東西越冬・越年闘争交流会は大成功だった。全 国的な団結・連帯という意味においても、また、各地の取り組みの多彩さ、豊富 さを、行って、見て、実感して、各々持ち帰り、多くの影響を各地に与えるとい う意味においても、大きなものが得られたといえる。とにかく、「すげーなぁ」 「ほーほーなるほど」「こんなこともあるのか」と何処に行っても感心すること しきりで、特に名古屋の仲間との交流は西の大阪、東の渋谷の仲間相方にとっ て、まさに衝撃的なものだった。まぁ、前置きはともかく、全国的な状況と流れ の再確認(これも前置きなのだが)の上で、東西交流報告をしていきたい。 

 はじめに、大阪における大阪キタでの取り組み――藤本さん虐殺事件以降結成 された釜ヶ崎パトロールの会を軸とした、釜ヶ崎以外の広域での活動――が始ま る。九七年以降大阪キタ越冬実による梅田周辺域での本格的な越冬闘争取り組ま れる。この間、大阪各地で追い出し・排除繰り返される。九八年冬、釜ヶ崎での 今宮中学校裏の強制排除では、野宿者のみによる抵抗戦が全国に報道された。  名古屋笹島においては、九七年・九八年と連続の白川大通り――冒険砦――強 制排除による戦いが起こる。九八年名古屋市は、行政代執行法による排除に踏み 切る。さかのぼる九八年には、名古屋笹島の活動家、八名の不当逮捕、起訴弾圧 事件発生。 

 そして東京、九六年・新宿強制排除、九七年・渋谷での野宿者運動の本格化、 九七年冬・東京都児童会館での追い出し工事、九八年・渋谷のじれん結成、九八 年夏・全都実結成、九八年冬・第二次児童会館追い出し工事、全都の布陣で反 撃、児童会館を渋谷の活動の拠点とする。九九年・池袋地区の立ち上げ、九九― 〇〇越冬・都内4拠点の闘い取り組まれる。 

 大都市圏でのここ三年余りをザッと見回しても野宿者を取り囲む状況が以前と かわらず一貫して排除―野たれ死に(棄民)政策であることがよく分かる。これ はあくまで、取り組みのある大都市圏で一部地域での事態である。全国に野宿者 が増大し、各地のターミナルを中心に普遍化している事は誰もが認める処であ る。 

 昨年、十月に全国二六団体の賛同による反失業全国集会以降、現在、日雇労働 者―野宿者の運動体―支援団体による全国的な取り組みの潮流が形成されつつあ る。 

 国は、九八年や九九年、各自治体・省庁による機関協議を基に、野宿者対策の アウトラインを示した。その中では、野宿者を類型化した上で、対策案(ずさん でザッパクなもの)を提示した。そして、そこからもれる型の者は強制排除をや りやすい法律案制定を伴い、社会から排除するというのだ。こういった流れに鑑 み、全国の繋がりの強化が必要とされている。  

 大阪キタ・名古屋・渋谷の仲間が、各々の地の越冬越年闘争に参加し、もっと も辛く厳しい闘いを共有し、互いの実践交流を通じて、互いの蓄積に学び合い、 顔のみえる同じ経験を共有した団結を作り出そうと、十二月二八日の突入後、 即、各地に向けて派遣団が出発した。 

 のじれん渋谷の仲間三名は夜行で大阪へ向かった。あいにく満席で、やむを得 ずデッキに腰を下ろし、よもやま話の後、デッキでごろ寝とあいなった。床でご ろ寝は慣れて(?)いるせいか気にもならなかったが、停車駅の度、冷気に襲わ れて、寝付くとまた次の駅で冷気にさらされるという有様で、ろくすっぽ寝られ ないまま早朝大阪に到着した。 

 まず向かったのは、釜ヶ崎・市の更生相談所。その日、ここで越年期臨時宿泊 所の申し込みに多数の日雇い・野宿仲間が押しよせる。九二年には市更生の対応 をきっかけに暴動が発生し、これまで数多の仲間を見殺しにしてきただけに仲間 の怒りはうっ積している。昨年の越年でも臨泊受け付けの一方的打ち切りから仲 間の騒動が起きた。 

 今年は、その反省もあってか、地元NPOの立ち上げも影響してか、スムーズ に、第一便二〇〇〇人の仲間が入所した。労働者への情宣・ビラまき・話し込み 等した後、釜ヶ崎も廻ってみた。仲間がそこかしこにあふれ返り、炊き出しの列 は一時間前から長蛇の列となり、毎回二千食が配食される。三角公園で大釜で炊 事が行われ、大量のまきが燃えるかまどは壮観だった。公園には大きな焚き火が 輪を作り、仲間が、もうもうたる煙の中で談笑し、ある者は、うずくまる様に眠 っていた。すすけた寝顔には、何か安堵感のようなものが感じられた。  その後、キタ越冬実の取り組まれている梅田周辺地区に移動した。大阪のター ミナル、大阪―梅田駅周辺は労働市場からはじかれた野宿者のふきだまりのよう に仲間が多数存在する。 

 その一方で、福祉は全く冷たい。大阪市長磯村の「ホームレスはネームレス、 名前も住所も定かでない人を行政が相手にできるわけがない」といった差別的発 言にはっきりと示されている。役所に相談に行くと、決まって「釜ヶ崎へ行け」 と言われる。病院にもかかれない仲間は「悪くなるまで待って」救急車を呼ぶし かないというのだ。そして、前出の釜ヶ崎にある市更相では生活保護を月に十人 たらずしか実施しない。数万人の野宿者に対してである。 

 キタ越冬実は、梅田界隈・公園・大阪市役所から川べりに延々と続くテントと 大阪キタ(ナカ、ミナミとある)の広い地域に活動を展開している。 

 拠点となる扇町公園にも仲間のテントが乱立している。越年用に建てた小屋は 管とクランプでしっかりと作られて、そこで主に、炊事・配食が行われ、倉庫 用・寝泊まり用テントも作られ、常時、中心的な仲間が焚き火を用い、作業を担 う体制で、昼・夜二回の炊き出しが行われている。昼は街頭カンパ活動とパトロ ール斑に分かれ、夜も何班かに分かれてパトロールが行われる。 

 我々が到着するとすぐに昼飯を残しておいてくれていて、暖かい飯にありつけ た。すでにカンパ隊は出発していたので、仲間たちとしばし談笑しつつ、早く も、夜の炊き出しの準備に取りかかる仲間たちが気を遣ってくれたのか、寝泊ま り用のテントで昼寝をすすめてくれた。昨晩、夜行のデッキでろくすっぽ眠れな かったので、床につくなり爆睡した。「晩飯だよ」の声で起きたら、すでに仲間 が、あちらこちらより集まって行列をなしていた。小屋の前方に並べた長机の内 側で、炊事班の仲間が飯を盛り、おかずを盛り、汁物をよそってくれる。投光器 のあかりに照らされ、炊き出しの湯煙が、何ともいえず、いい雰囲気をかもし出 し、あったかいメシを大阪の仲間と共にかみしめた。 

 炊き出し後、名古屋、渋谷の派遣団によるアピールを、東西越冬交流集会で行 った。 

 名古屋での取り組み、渋谷での取り組みが報告され、多くの仲間が場所は違え ど地続きの同じ路上に暮らす者、各地の実情の違いもさることながら、同じもの を抱えた仲間の、東西をまたぐ連帯と団結の絆が打ち固められた。その中で、後 日の名古屋派遣団が募られた。意気込み充分の派遣団を決定し、集会をしめた。 その後、梅田界隈に夜パトが行われた。やはり大変厳しい条件下で野宿を余儀な くされた仲間がワンサと居た。数は忘れたが駅周辺だけで数百人といった状況。 その日、釜パトが繰り出したバスによるピストン輸送で一〇〇名の仲間が、冬期 臨泊に入所したにもかかわらずである。パト集約後、仲間と共に、いわゆるエサ とりに出た。市場の裏にブリのカマが出るという。しかも大量に、翌日の炊き出 しに使うということで皆でエサとりに出たわけだ。しかし、エサとりに行く釜パ トの連中って……。なんておチャメなんだろうと感心してしまった。 

 翌日は、昼の炊き出しの前、午前中に河川敷にパトロール。大阪市役所を出発 して、川沿いの両側に延々と続くテント群が数キロに及ぶ。  

 パトロールしながら大阪の特色としておもしろいことに気がついた。犬を飼っ ている仲間が多いのだ。エサをやるうちに居ついたのだろう。パトでテントを訪 問していて、何度犬に吠えられたことか、ある者は犬に追っかけられて、仲間の ガーデニングの植木鉢をひっくり返してしまった。 

 東京では、雑誌拾いが仲間の収入源としてポピュラーだが、大阪では、ほとん どやっていないようで、主にアルミ缶拾いと鉄くず拾いが一般的だ。しかし、つ ぶさないと回収屋が買ってくれないため、缶をハンマーでつぶし、導線の被覆を むく作業が至るところで見られた。それで丸一日やっていくらになるのと聞く と、二〇〇〇円が精一杯とのこと。しかし、これ以外、仕事が全くないのだから しょうがないんだよと仲間が言った。 

 河川敷のその上の通りの手前に、古いバラック群が続いている。実は、ここ が、鉄くずの回収屋のバラックなのだ。戦後一貫、河川敷のバラックとして、幾 たびの警察・行政の追い出しをはねのけて営々と底辺・下層の民が生き抜いてき たのだ。河川敷「不法占拠」の大先輩が、テント野宿の仲間と廃品回収業で結び ついていたとは全くおそれいった。 

 扇町公園に戻り、昼飯・晩飯をすませ、夜パトは、公園の近くから延びる日本 で一番長いというキタの商店街を廻った。一番から六番街までこれまた数キロ続 く。六番の端公園のわきに、北区区役所があるのだが、釜パトが数度にわたる団 交を闘うまでは全く、仲間をはねつけてきたという。パト終了後、公園で集約を していると、近所の飲み屋さんが、客の飲みかけのボトルを何本も差し入れてく れた。近所の飲食業の店主らも、この状況を気にかけていたらしく、差し入れで もやらないかと話していたとのこと。すたれたとはいえ、人情味のある人も世の 中まだまだいるもんだ。ありがたく仲間たちと宴会を催し、床についた。 

 翌日早朝、名古屋へ、キタの派遣団と共に名古屋、渋谷派遣団の大部隊で出発 した。大阪と名古屋は鈍行でも3時間ちょっとと大して遠くない。 

 昼前に到着。大歓迎と大書きされたプラカードを立てて、駅に、名古屋の仲間 たちが迎えに来ていた。えらい歓迎ぶりにすっかり気をよくして、駅前で記念撮 影。駅から程近い通称オケラ公園をまるっきり占拠しての越冬闘争が、今次二五 回目を迎える。公園の入り口には旗や段幕が貼られ、大テントが何棟も建てら れ、でかい炊事小屋がぶっ建てられ、公園の真ん中に大きな焚き火が輪をかいて いる。百人が火にあたれる大きなものだ。煙がもくもくと上がり、各班が作業に あたり、活気に溢れた空気がそこにはあった。あぁ、これが越冬闘争だという感 じがした。  

 着くなり昼飯、これまた大盛り、大変うまい炊き出しだ。腹一杯食って、みか んなど食べて一服。オケラ公園のルールは飲酒厳禁。他は全て仲間たちの自発性 自主性に任されている感じだった。 

 メシの後、名古屋の“名所”見学ツアーに出発。日雇い職安の裏は、焚き火の 煙で真っ黒にすすけていた。 

 まずは白川公園。キタへの派遣団の仲間のテントがそこにある。噂に聞いてい た、名古屋の仲間のテントはすごいというのを見学するためだ。何でも、名古屋 ではテント生活の仲間のテントはほとんど、電気がつくという。東京や大阪には 全く見あたらない話なのだ。電化されていることを面白半分に新聞が『リッチな ホームレス』と書きたて仲間の怒りを買い、結局謝罪させたという話だ。なるほ ど、各テントに電気やテレビがあり、ラジカセで音楽をかけている。  

 これは、廃品となったカーバッテリーを利用しているのだ。産業廃棄物である バッテリーを処分するのに業者も金がかかるので、タダでくれるのだという。バ ッテリー交換で廃棄されるバッテリーも実はまだ充分使える。毎日使っても十日 ―二週間位使えるという。 

 九七年―九八年に連続で強制排除が行われた白川公園となりの白川大通りへも 足を運んだ。(続く)  

 


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