のじれん・通信「ピカピカのうち」
 

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「山梨の飯場へ行くな」
野宿者から利益を吸い取る企業



 山梨の賃金不払い常習企業「麻企画」による野宿者集めが代々木公園でなされたという事実がのじれんに判明したのは十月下旬のことだった。「麻企画」は観光地として有名な富士五湖へ至る手前の都留市に事務所を構え、本社、新屋、宝、あきるのと四つの寮がある。周囲を千メートル級の山々に囲まれハイキングコースやキャンプ場がある風光明媚な所だ。主に地元の建設会社に人夫出しをしており、その工事は鉄道の耐震補強工事や砂防ダム土地の造成などがある。その他、スナックや焼き鳥屋などの飲食店やキャンプ場など多角経営している。こちらは社長夫人が経営している。

 社長は現在、高速道路のわきに、野宿者の労働力を吸い取って築いた大きな邸宅を構えている。その家の手入れも公園で集められた者がなしている。ボランティアと称して様々なことをして地元では評判がいいらしい。しかし、そのボランティアも集められた者の強制されたボランティアに頼っている。

 主に約二年前、新宿で手配師を通じて多くの野宿者が山梨へ行き賃金をもらっていない。新宿に野宿している人によると、被害者が「何百人もいる」。約二年前の被害者の多くが賃金をもらうことを諦めている。もう「山梨の飯場へは行くな」が新宿では定説になっていた。渋谷周辺でこの会社に頼まれた手配師が出没し始めたのは一九九八年二月ごろからで「一万円」という日払い額のよさと「個室」という手配師の嘘に、暖かい部屋とご飯という切実な夢(普通の人にとっては、どうってことないだろうけれど)を描いた野宿者は騙された。現在、渋谷で確認した被害者だけでも十五名はいる。

 給料日一五日になり給料を請求すると、「今はお金がないから二万円しか払えない。次は二五日に全部払える。」とその額だけ与え二五日になると、「今度一五日に払うから、今はこれだけ。」とまた、二万円だけ。一五日になると「今は金がないから、これだけ」とまた先月の繰り返し。いつまでたっても給料全額を払わない。「一年以上長くいて百五十万円以上賃金不払いの人がいた。」賃金不払いの仕事に嫌気をさした作業員は次々と無断で帰った。会社はお金を払わなくてもいいから、「帰ることを奨励しているみたいだった。」しかし、中には毎日千円を前借りしている者もおり休みの前日は、二、三千円みんなにくれた。休日も出入り自由だったため、そのお金で休日に帰るものが多かった。

 宝寮を除いて決して福利厚生は悪くなかったが、宝寮の安全衛生基準は「たこ部屋以外のなんでもないよ。」宝寮から逃げ帰った者の中には、仕事の始まる間際、山中の現場から、トラックに追いかけられながらも民家の窓に飛びこみ、二つの山を越えて、たどり着いた駅から無賃乗車して帰ってきた者もいる。この人と一緒に行った人はお陰で、一カ月間、逃げないよう見張りがつくありさまだった。また、無賃乗車出来ない人は、何日もかけて甲州街道を歩いて都心に帰ってきた。

 一九九八年一二月三日、小雨がぱらつく中、賃金不払い被害者十一名は、二台の乗用車で山梨へ向かった。渋谷からは二名の被害者が合流した。「一緒に一二月三日、不払い賃金を合同請求しに行きませんか。」という支援者の誘いにたいし、ほとんどの被害者が「行きません。行っても無理ですよ。相手には、やくざがからんでいて駄目ですよ。」と断った。みんな怖がっていた。みんな取り返せるとは思っていなかった。こちら側は、山谷を中心に新宿、渋谷の支援団体がバックアップしていた。しかし、被害を受けた者たち面もちはいっこうに明るくなかった。渋谷からの参加者の一人も合同請求の参加を渋っていて、情報提供だけすると言っていたものを説得のすえ参加してもらったのだった。

 本社事務所の応接間において録音テープとカメラの前で合同請求は行われた。「なぜこんな多くの人、それも野宿していた人たちに賃金不払いがあるのか。」という問いに対し、「うちは長くいてほしい。だから賃金を払わずに、帰るときに持たしてやろうとした。」「この人達は、お金を持つとろくなことをしないのですよ。いままで多くのことがあった。だから、預かっていたのですよ。」雄弁に社長は答えた。以後おなじ言い訳の繰り返しだった。

 ただ今回の合同請求において以下のことを認めた。賃金不払い常習の事実を認め謝罪する。賃金不払い者全員に対して賃金を払う。二年前だろうと十年前だろうと現在、飯場に入っている人も含めて未払い賃金は支払う。悪徳手配師とは縁を切る。ただし、たこ部屋の存在は否定した。それから被害者の賃金の清算が行われた。東京に向かう途中、太陽も沈みうす暗くなったなかを白い雪が降ってきた。外はとても寒かった。だけど、車のなかはとても暖かかった。

 麻企画の社長が録音テープと写真の前でした約束は守られなかった。「十二畳に十九人のときもありました」宝寮にいたPさんは一二月一五日の給料日に賃金を請求した。しかし、あいかわらず「お金がない」という理由で賃金の一部しか受け取らなかった。「一二月三日に乗り込まれた」という話は聞いていたが「一二月三日以降も何も変わらなかった。」一二月一五日の給料日以降、賃金全額がもらえずトンコした被害者が続出している。またPさんによると「今度は東京でなくて大阪で集めている。」都留市内で評判のいい麻企画は、はたしていつまで野宿者を騙して利益を吸い取り続けるのだろうか。


(東合 和)



生活保護と就労活動 ―― M氏が獲得した地平


 去年、野宿者に対する十分な生活保護の適用を求めるのじれんの取組の中で、特筆すべきケースが二つあった。一つは、書面申請によって生活保護を獲得したI氏のケース。もう一つが、今回取り上げるM氏のケースである。生活保護の獲得にどのような障壁があり、個々の野宿者がそれをどのように乗り越えているのか/乗り越えようとしているのか、その一端を紹介したい。

 M氏が生活保護をとろうと決意したのは、昨年10月中旬。私たちとの協議の末だった。

 M氏は62才。先天的な皮膚病を患っており、言われなき差別を受けたこともあっただろうが、それ自体が労働に支障を来すものではなかった。10月上旬から若干風邪もひいていたが、それも微熱程度。生活保護をとるには、正直言って、決め手を欠いていた。

 62才といえば、一般的にも退職する年齢である。しかも野宿生活。当然一銭の金も持たない。これのどこが「決め手を欠いている」というのか、と思うかもしれない。私たちもそう思う。しかし生活保護の運用実態からみれば、残念ながら、これは「決め手を欠いている」のだ。


  *   *   *

 生活保護法では、「健康で文化的な最低限度の生活」を送れていない人は全て、生活保護を受ける権利があると定められている。しかし同時に、同法では「補完性の原則」なるものが定められてもいる。簡単に言えば、国が保護を出すのはそれ以外の方法ではどうにもならないことがわかったときに限る、という原則である。具体的には、高齢や疾病等で本人がもはや働けず、かつ、面倒をみてくれる身内もいない、などといった場合がそれに当たる。

 そして多くの場合、この「働く」ことの可能性をどう判断するか、が明暗の分かれ目となる。たとえばケガをしていても、医者から「軽作業可」と判断されてしまえば、建設現場等の肉体労働以外には事実上就労の可能性がない場合でも、生活保護は原則として適用されない。また、働けるかどうかを年齢で判断する場合には、事実として、65才が一つの目安となっている。

 つまり、M氏の場合は年齢をとっても疾病をとっても、今一歩「決め手に欠ける」のである。


  *   *   *

 M氏が生活保護を獲得するための方法、それは事実上不可能であることを知りつつ就労活動を行い、「就労先がない」という事実を福祉事務所に確認させるという、なんともやりきれない、徒労感を拭い切れない作業だった。

 M氏も最初からこの作業に乗り気だったわけではなかった。「(最初は)正直言って迷惑だった。だけど、毎週パトロールで入れ替わり立ち替わり来て、その中で生保のことを言われてだんだんその気になった。心配してくれているのに、ちゃんとしなければならない、と」(生保取得後の聞き取りより)。生活保護獲得は、文字通り、M氏と私たちとの共同作業だった。

 その後三週間、M氏はほぼ毎日のように福祉事務所窓口(新聞の求人チラシがストックしてある)、職安に通った。私たちもできる限りのサポートをした。たいていの求人情報は年齢だけで可能性がなかった。清掃業等で「65才まで」と書いてあっても、電話で断られることもあった。職安も、予想通り、「打つ手なし」の対応だった。ダメとわかっていながらやり続けるには、本人の強い意志が必要だった。そして周囲の励ましも欠かせなかった。電話代を持たないM氏は、電話の度に福祉の職員に頼んでテレフォンカードを借りなければならなかった。また、M氏は求人チラシの漢字を読むことができなかった。実家が養豚業を営んでおり、子供の頃まったく学校に通わずに家業の手伝いをしていたのだと言う。

 一度だけM氏が面接までこぎつけたことがあった。「なんとか決まってくれればいいなと思ってたけど、住まいは?と聞かれて、公園に住んでいるとも言えず、いろいろあって、と言いよどんでたら、向こうも大体わかったようで、悪いけど遠慮して下さい、と言った」。不採用だった。帰り道、M氏は「無駄な時間をつきあわせてしまった」としきりに恐縮していた。憤りが募る。

 三週間後の11月16日、カゼで病院の診察を受けたM氏はそのまま生活保護の適用を受けた。通常なら考えられない対応である。私たちに押し切られる形で生活保護を認めるのを嫌った福祉事務所が、言ってみれば「先回り」して生活保護をかけたのだ。M氏の頑張りがたぐり寄せた成果だった。


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 その後、12月ののじれんとの交渉の場で、保護課長は「生保をかける際には、就労状況を考慮に入れる」と明言した。名古屋ではすでに稼働能力活用の徹底性をめぐって裁判まで起きてはいるが(林訴訟)、渋谷で明示されたのはこれが初めてだった。M氏があとに続く仲間たちのために切り開いた地平だった。


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 聞き取りを行った12月中旬の段階では、M氏は渋谷のドヤ(銀扇閣)に住んでいた。毎日「エサ探し」、寝床の心配をしていた野宿の頃に比べれば、ドヤでの生活は「天国」だと言う。それでも「生保の金(生活費。一日2000円弱)でカップヌードルとかおにぎりばかり食べてる」そうだ。「なんかあったときのために少しは貯めておかないといけないからな」 現在、M氏は上野の一時保護所で生活している。


(ボビー+湯浅誠)

 


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