のじれん・通信「ピカピカのうち」
 

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ベルリンを訪れて
---ドイツでの活動に学ぶこと---


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一日三度ある「配給」の時刻が近付くと、駅の裏手、通りに面した窓口にはい つも二、三〇人の列が出来る。並んでいる人間は様々で、あまり身なりの清潔 でないいかにも「浮浪者」ふうの老人から、パンク系の服装やジーンズの、お そらくは皆二〇代前半の若者たち、買物袋を持たせればそこらの主婦と区別の つかない女性も見かけた。くばられている食事を見て少し驚いた。豊富な種類 のパンの他にビーフストロガノフ。我先にと押し合いへし合いになるでもなく、 ひとつふたつのパンだけもらってすぐその場を立ち去る人さえいたから、別に 珍しくもないメニューだったようだ。

ベルリンの地下鉄 Zoo 駅の「バーンホフミッション」を初めて訪れたのは、 もう終電間際の夜だった。人捜しのビラが数枚張られたガラス扉の奥にはまだ 人がいて、東京の学生だと名乗ると少し驚きながらも快く中に入れてくれた。 小さな事務所が右手にあって机の脇にはパンの山が積んである。奥にはベッド の並ぶ大部屋と、そのほかにも宿泊用の設備があった。彼らは駅構内で老人や 障害者の手助けをしたり、旅行者にベッドやシャワーを貸し出しているキリス ト教の奉仕団体で、宣伝活動こそしていないので目立たないが、ドイツの比較 的大きな駅には珍しくない。

路上生活者への援助はいわば本業の傍らにやっていたのが、最近では彼らの仕 事の八割方を占める。例外的に野宿者にベッドを貸すこともあるという。食料 はおもに教会からの寄付とホテルなどで余ったものをもらってくる。国からの 援助は受けていないが、たとえばその日夜勤についていたうちの一人は、兵役 の免除と引き替えにここで奉仕活動をしていた。財政的な問題も特別ないとの こと。

ベルリンでは九〇年統一後に路上生活者の数が急激に増えた。とりわけ東から の流入者には就職難をはじめ経済的な問題を抱える人が多く、路上に置き去り にされた子供たちも少なくない。若年者のホームレスが多いのもひとつにはそ のせいだ。二五歳以下の野宿者がベルリンだけで三〇〇〇人との報告もある。

道路の向かい側、歩道の隅に並んで談笑している人たちの輪に入って話を聞い た。なるほど東特有の訛りの強いドイツ語を話す人が多かったが、最近までミュ ンヘンにいたという男性もいた。食事には困らない?と訊ねると、皆「全然」 と笑って首を振る。バーンホフミッションの食事だけでも充分だけれど毎日三 度三度来ているのではないとの答え。どうやら何らかのかたちで国からの扶助 を受け取っている人が多いらしい。ドイツは確かに福祉大国として有名だが、 失業者の数が記録的に増え、また高福祉のモラルハザードが社会的に取りざた される状況で、それほど役所の垣根が低いとも信じがたい。九七年度失業率は 九・七% (OECD 国際基準。同時期日本は三・四%) にものぼる。

住宅扶助を受けている、あるいは過去にその経験があるという男性が数人いた ので尋ねた。そういうの簡単にもらえちゃうの?「簡単じゃないけど、本人に きちんとした意思さえあれば不可能ではないと思うよ。住むことについてはベ ルリンはまだ恵まれている方だから」。八〇〇〇人以上ともいわれるベルリン のホームレス人口。しかし暖をとる住居の需要が増える冬でさえ、国の斡旋す る宿泊施設に寝場所を確保することは難しくないという。そういう場所の雰囲 気や、ひとつの部屋に他人と寝泊まりするのがどうしても嫌で路上生活を敢え て選ぶ人は、やはりいるとしても(九三年のデータでは、旧西ドイツ地域八五 万のホームレスのうち約七〇万人が、国の提供する宿舎やアパートなどをはじ め何らかのかたちで「仮住まい」の住居を持つ)。

彼らの日焼けした朗らかな顔を見ていて、なぜかふと厳寒期渋谷や新宿の公園 でひっそりと亡くなっていった仲間のすがたが頭をよぎった。

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ベルリンの地下鉄に乗っていると、乗客は一風変わった「車内販売」にでくわ すことがある。「ホームレスを援助する新聞です。買っていただけませんか」。 声の主は、退屈そうに車内広告を眺めたりしていた乗客たちの注目を一斉に集 めたあと、その間を順々に回って代金と、時にはその他にいくらかの寄付をも らって新聞を配る。もちろん許可を得て売っているわけでもないのだろうが、 なるほど路上で売るよりは効率が良さそうだ。

彼らのたいていは自身が職業や住む家のない人たちで、自分でさばいたその新 聞の売り上げの一部を自分の生活費として手に入れている。仕事を見つけるこ との困難な、特に住所のない失業者に収入源を提供するこの発想はイギリスで 生まれ、欧米ではすでに珍しくない。ドイツでの草分けは五年目を迎えたミュ ンヘンの「BISS」紙。ベルリンには二種類の新聞が出回っている。記事の 内容は各紙あるいは各号によって様々だが、路上生活者や社会的弱者に関する 記述から、アルコール、ドラッグ依存について特集したり広く社会的な問題ま でを扱うことで、一般の関心を集めている。

バーンホフミッションの前で出会ったうちの一人も新聞売りをやっていた。 「午前中はあまり売れなかったよ」。よいときで一日に二〇マルク(約一五〇〇 円)くらい稼ぐ。一行いくらで記事を投稿することもあるという。立ち話を続 けていると、彼と同じ新聞をもった人たちが、道の脇に駐車する一台のワゴン 車に出入りしていることに気付いた。どうも新聞の出版に携わっている人間が そこにいるらしい。いつか彼らとコンタクトを取ろうとかんがえてはいたが、 思いがけずそのチャンスが来た。ワゴン車に近付き、後部座席でお金の計算を したり、手持ちの新聞を売りつくして戻ってくる人たちの対応をしていた二人 に声をかけ話を切り出すと、「それならどうぞ中に座って」との返事。

鼻にピアスをしたスキンヘッドの(おそらくはまだ一〇代か、二〇代前半の) 青年が照れ笑いを浮かべながらワゴンのドアの前に来た。「三部売れたよ」と 言ってポケットから小銭とカードを出す。販売を受け持っている人たちは皆、 本部から配られる ID 番号をもっている。売り上げの記録が登録者ごとにわか るしくみだ。番号の所有者は現在五〇〇人を越える。

職場と収入源を失い住所までをいったんなくすと、もとのような生活に再び戻 ることはきわめて難しく、それどころか食生活や飲酒などの問題も絡めて悪循 環に陥る。そのようなホームレスの一般的な状況は、ドイツでも多かれ少なか れ日本と同じだ。加えて大量失業の時代、たとえ住宅扶助を受けて住所を新た に得られても再就職の門は狭い。

定まった仕事先を持っていない人、つまり失業者なら(ホームレスでなくても) 誰でも新聞を売ることができる。ただし仕事に従事している間は飲酒禁止など いくつかの決まりを守らなければいけない。路上新聞の意義は経済的側面の他 に、アルコールやドラッグの問題を抱える路上生活者に自らの生活を律してい くきっかけを与えるという点にもあるようだ。

路上生活を脱して二年前から「Strassenfeger」紙(「道路掃除夫」という意 味)の編集に関わっているカレとハンスは、東京の野宿者事情に関心を示した。 「残念ながら日本にはあなたたちのつくっているような新聞はまだない」「じゃ あ俺たちが東京に進出しようか」。笑いながら言う彼らは気さくだった。「明 日定例の編集者会議があるから、よかったら来ないか」。

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「ドイツには三五もの路上新聞がある。イギリスの全国統一紙と較べるとやは りコスト高になるし政治的にもまだ力が弱いのが問題だ」。毎週木曜日彼らは 自分たちの事務所で会議を開く。机もない部屋で野宿者も交えてくつろぎなが ら、紙面構成や記事の進展について確認しあうのは、「いのけん」(編集部注・ 「いのけん」は「のじれん」の前団体)とさして変わらぬ体だった。

今売り上げはどのくらいですか?「二週間で三万部くらいかな」。単価が二マ ルクだから六万マルク、約四五〇万円。そのうち半分は直接売った人の手に入 る。「市場経済のしくみに乗っているということが、なんといっても路上新聞 の利点だ。売っている彼らにとっても、物乞いをするときのような引け目を感 じる必要は別にないし、売っただけ多く収入が得られるというのは仕事をして いて励みになる。そしてもちろん情報が売り物だから、それを通じて自分たち の意見を社会に広く訴えていくこともできる。発行を始めた頃は、私たちもこ こまで活動が大きく発展するとは思ってみなかったけれど」。

最新号には「いよいよ住居プロジェクト実現」とあった。「Strassenfeger」 紙は近々二つの住居を賃借りし、野宿者に期限付きで提供するという。彼らの 活動の規模と可能性の大きさに驚かされた。

今提起できる問題はなにかと聞いてみた。「たとえば冬期気温がマイナス五度 以下になると駅は野宿者の避難場所になるが、そういう役場的なフレキシビリ ティーのなさはだめだ」と前出のハンスが息巻く。「国の扶助は住居費の他に 月々五〇〇マルク(約四万円)程度。充分とは言えない」。少し羨ましく思え て苦笑いした。「一番の問題は」編集長のカーステンが少し考えむようにして から呟いた。「憐憫 (Mitleid) だ」。本当の意味での相互扶助、ある いは失業者、野宿者の社会的な受け入れを、憐憫が阻害している。人々は私た ちの新聞を買ったり小銭を恵んだりはするが、ホームレス経験者と聞くと部屋 を貸さなかったりということがまだある」。

野宿者が野宿者であり続けることも彼らは否定しない。新聞売りをして稼いだ お金をたとえお酒を飲むのだけに費やしても、「それはその人の自由だ」と言 いきる。その発言の背景には、「自由」であるように見えて実は「自由」でな いアルコール、ドラッグ依存者を救済するための自助グループやセラピーの存 在、すなわち「自由」である人間が「自由」でいられなくなったときの選択肢 も、この国には数多く存在するということを私たちは考慮するべきだが、「扶 助を受けているからといって、自分の生き方の選択肢を奪われるいわれはない」 というのが彼らの一貫した主張であるようだ。

彼らの手がけるプロジェクトの中には「物乞いの学位」(Betteldiplom) とい うものさえある。物乞いをいかに効果的にすればよいかを希望者に講義し、修 了した者に渡すという。「物乞いするよりは働こう」というどこかの自助グルー プの標語を思い出したので言及したところ、「物乞いだって立派な仕事だ。誰 も好きでしてるわけではない」とカーステン。必ずしも納得はしないが考えさ せられた。

駅の裏には確かに、部屋を持っているが路上にいるという人がいた。もちろん それは例外だろうし、路上生活を「強いられて」いるという図式の方がはるか に多いのだから、まずは必要な援助の促進が迫られる。ただそれとは全く別の 次元に、何がいったい人間の生き方として「よい」のか「悪い」のか、そのよ うな価値基準の立て方そのものに関する根本的な問いもまた無視できないよう に思う。完全雇用を達成するため、つまりは働くという人間の権利を満たすた め、GDP 成長率に絶対の数字が必要である社会システムとその向上・成長とい う教条に、誰もが困難を感じず適応できると考える方がそもそもおかしいのだ から。


ホームレスへの偏見が市民レベルでも根強く、施設の建設なども住民に反対さ れてしまう東京で、彼らのような活動をするのはまだ無理な話だろうか。普通 の市民であることと、その普通という枠組みから失業や貧困などに足を取られ 逸脱した人間との差異が社会的にも心理的にも大きな日本の社会では、むしろ 自分が「貧しい」ことを告白するように路上で新聞を売ることに大きな困難が あるかもしれない。すでに日本の一部都市では市場が開拓された古雑誌や単行 本の野宿者による再販売が、ヨーロッパのこのような新聞に代わる選択肢だと 言えなくもないが、下層労働のご多分に漏れず末端における労働条件の過酷さ に加え、利潤の流入先など、路上新聞に較べてクリーンでない部分が多い。働 く意欲を持つ彼らが自分をもっと適切に活かせるような場が必要だ。

カーステンの言葉が最後まで頭に響いていた。「憐憫(Mitleid)」。そう確 かに、他者との共生を目指すということは単に憐れみを向けることとは異なっ ている。だが振り返って問う。東京、私たちの都市にはその憐れみすら果たし てあったか。あるいは路上に生きる人間を実に「憐れむべき者」として眺める 蔑みだけはあったかもしれない。そして路上生活者の失業を「怠業」と一括し てみなす「庶民のための」政治と「一般」市民こそ、憐れみを越えて真に必要 な、彼らと彼らの状況を理解しようという努力を怠っていた。

戦後日本は先進資本主義国中、平等の徳と財の再配分を最も重んじる国家と目 されてきたが、それは必ずしも私たちの社会が相互扶助的であるということを 意味しなかった。そこにおける私たちの中流志向とは、まさに路上に並ぶ段ボー ルの家々からあえて目を背けるように、共同社会に属する一部の者を不条理に 切り捨てることによって成り立ってきたのではないのか。

政策における失業、住居問題への真剣な取り組み、福祉の成熟とともにこれか らは、社会がその少数者に対しどれだけ多様な選択肢を用意できるかというこ とがまたポイントになるだろう。路上新聞は路上生活者を含めた失業者にオル タナティブをあたえた。進度の遅い政治とは別の極に、柔軟な発想を持った市 民の力がやれること、やらなければいけないことはまだまだある。

 


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