のじれん・通信「ピカピカのうち」
 

Home | Volume Index | Link Other Pages | Mail Us | About Us | Contact Us   

フィリピンに学べ
「フィリピンに学べ!」〜強制排除を乗り越えて〜      
                                 木村 正人


フィリピン行動報告(2)

1)フィリピンに学べ!
 十一月末、のじれんがフィリピンに招かれた。日本よりずっとずっと「貧しい国」フィリピン。だがまさか「富裕な国の貧者」から「貧しい国の貧者」への国際援助、などという話ではない。居住問題について国際的に取り組んでいるACHR(アジア居住権連合Asian Coalition for Housing Rights)という団体が、日本にも貧者の当事者運動が芽生えてきたことを知って、渡航費と行動費を出すから「本場の運動を見に来い」と招待してくれたのだ。
 フィリピンに大規模なスラムがたくさんあることは知っていたが、私自身はこれまで正直なところ、そうしたスラムの問題と日本の野宿者問題を直接に結びつけて考えてはこなかった。スラムの人たちは貧しいなりにも、家を持っているのだし、居住単位だってほとんどが家族だ。路上のダンボールハウスで起居する、単身の失業者や日雇い労働者の事情とは、かけ離れている。そう思っていた。しかしフィリピンのスラム居住者だって、はじめから家を持っていたわけではないし、「不法占拠者」として迫害を受けることもしばしばだ。屋根と仕事。ホームレス問題の本質を想起すれば、アジアのスラム運動は、確かに自分たちの先輩であるように見えてくる。
 今回フィリピンで出会った有力者の一人が、「日本でも、もっとスラム運動が活発化するよう期待してるよ」と言った。私たち日本の野宿者が今後、アジア諸国に見られるようなスラムを形成するということが果たして可能なのか、またそのような方向が私たちのとるべき道なのか。それは分からない。でもとりあえず、彼らに学べることはたくさんある。今回のフィリピン訪問を機会に、そう確信した。素朴でお気楽な国際交流とか、「連帯!」とかいう単にスローガン的なことではなくて、自分たちにも重ねられる実質的な方法を貪欲につかみ取っていくことが、もっともっと私たちには必要だ。大体フィリピンには、コミュニティをつくりあげていく「活動家養成コース」みたいな研究領野が、大学の学科としてあるくらいなのだから(日本の大学にも、こういうの出来たら面白いんだけど...。)、自分たちの状況の中での試行錯誤と同様に、他から学び取ってくる姿勢がないと「先輩」には追いつけない。

2)フィリピン行動スケジュール
11/27 パヤタス&Dump Site(ゴミ山のコミュニティ)/ヴィンセント修道会(日本の状況アピール)
11/28 モンテンルパ(鉄道沿いのスラム)/ヴィンセント修道会(各国リーダーたちとの談話)
11/29 UPA(Urban Poor Associates)事務所/ナヴォタス(水上のスラム)/ピネダ(パッシグ川沿岸。排除を乗り越えたスラム)
11/30 マカティ(住民組織がなく、排除の危機に瀕しているスラム。)
12/01 住民組織アサンバ(HABITAT for Humanity:NGOの住宅計画を実現化したスラム)/バッジャオ民族(日本の路上生活者に最も近い居住環境を持つ少数民族。)

 五日間で八つのコミュニティを訪れた。それぞれが皆独自の事情を抱え、独自のやり方で、自分たちの生活を守り、すこしでも状況が良くなるように助け合って生きている。行政や土地所有者による排除に耐え、結びつきを強めているところもあれば、既に当該スラムの「不法占拠」が不法ではないということを認めさせ、土地買い取りの計画を着実に進めているところもある。コミュニティを結び付ける要因は様々であり、また様々な段階を持つということだ。私たちもまた、その時々の状況に応じて、何が仲間の結びつきにつながるか、そしてその結びつきの中から、どんな具体的な成果を得られるか、皆で考えていけばよい。前号(ぴかうち十一号)では、強制排除への抗いの中でコミュニティが構築されていくピネダの様子を見たが、当該住民たちの取り組みが、強制排除への防壁として実るだけでなく、さらに次なる段階においてどのような発展の方向を胚胎しているのか、私たちは確認していく必要がある。以下では、強制排除を乗り越えたコミュニティ、パヤタスの活動を通して益となるものを概観し、その上で私たちのじれんの今後の活動方針を模索したいと思う。

3)ゴミ山のコミュニティ、パヤタス
 メトロマニラ最大のスラム街、パヤタス。マルコスが大統領だった七十年代、市中心部から、およそ三百世帯の家族が排除され、この地に移住させられたところから、その歴史は始まる。83年にマルコスが罷免されて以来、スクウォッター(占拠者)の数は膨れ上がった。現在この地区の人口は三万人ともいわれる、その多くが近くにある巨大なゴミ山から、売り物になるようなゴミ資源を拾い、それを売って暮らしている。
 日本でもゴミ埋め立てのことは問題になっているが、ここではダイオキシンどころの騒ぎではない。土壌・大気汚染は言うまでもなく、至る所で自然発火が起こるゴミ山は、常に危険な状態にある。実際去年の七月十日には、そのゴミ山が崩れて、周辺に住むスラム居住者の、すくなくとも二百五十人が犠牲になるという大惨事が起きた。日本でも大きく報道されたが、事件後数カ月を経た当時も、状況の改善が進んでいるとは思えなかった。
 一九九五年、ヴィンセント修道会の助力により、ゴミ回収業者連合(Payatas Scavenger's Association)が設立され、同年ルパンパンガコ(「約束の地」という意味)都市貧民連合が発足。他地域に先駆けてセービング(貯蓄)事業に着手し、居住地の買い上げを進めている。彼らの取り組みに学ぼうと、他地域のコミュニティーから訪れる人が増えたため、今ではセービングのやり方などを教える授業も行っている。

4)セービング事業
 セービングというのは、アジアのスラム運動に広く普及した、コミュニティ形成に関わる手法で、貯蓄を通じたいわば協同組合のようなものだと、想像してもらえばよいだろうか。僅かながらも稼いだ日銭を、みんなで集めて貯蓄し、コミュニティ生活の福利に役立てる。貸付制度もあるので、子供の養育/教育費や、住居の補修など急な場合にも対応できる。貧困層はご多分に漏れず、既存の金融業者を頼ることが出来ないため、セービングは彼らの必要性から生まれてきたものだ。しかしセービングの成果はそれにとどまらない。
 セービング資金の回収は、パヤタスでは週単位で行われ、係りの人(当然彼らもスラム居住者)が毎日、該当世帯を訪問するというやり方だ。回収を行うのは昼間動ける女性が中心で、家々の訪問の度に話に花が咲くということも多いらしい。「私たちはお金ではなく、人々を集めるのだ」とスローガンにあるとおり、彼らはセービングを通じて、コミュニティの結びつきを強くしていく。月々ではなく毎週、回収があるというのは、彼らの収入形態に適うからというばかりでなく、情報交換を密にすることにも役立っている。
 驚くなかれ、セービング通帳は子供たちも持っている。学校に通う子供でも、ほとんどがゴミ回収などの仕事を持っているので、稼いだお金を貯蓄する。通帳を片手にうれしそうに笑っているひとりの子に、その通帳を見せてもらうと、毎週きっちり定額の数字が記入されていた。こうして子供の頃から、お金のやりくりを学ぶというわけだ。
 ルパンパンガコのメンバーは現在七千を越え、貯蓄資金も六千二百万ペソ(一ペソは約二、三円)に上る。彼らはコミュニティを対象とする国の貸付プログラムを利用し、今住んでいる土地(公有地)の買い上げを目指して頑張っている。セービングの他にも、家屋の建築、リサイクル事業の改善、若年労働者の支援(子供会館、デイケアセンターの運営等)を行いながら、コミュニティで暮らす人々の生活を実質的に支えている。

5)コミュニティ活動の政治的成果
 セービングを通じたコミュニティの結束と拡充は、彼らの政治的発言力をも強化した。貧しく力を持たないひとびとが、集まることで支え合う。そして生活の場を勝ち取っていく。そうした過程は、私たちが渋谷で経験してきたことそのままだが、フィリピンのコミュニティ活動はその何十歩何百歩先を歩んでいるように思えた。十一月二十七日に私たちが(道に迷いながらも)、ルパンパンガコにたどり着いたとき、現地で出くわした光景が象徴的だ。国政の大臣級にあたる秘書官(住宅局)が、直々にコミュニティを訪れ、コミュニティと援助組織の代表と膝を交えて交渉し、コミュニティ側の要求を全面的に受け入れたのだ。要求の内容は、@貧困者に対する国有地の解放。Aスラム居住者に土地の権利を与える。Bスラム居住者の土地に対する税金減免。Cコミュニティを対象とした貸付制度(CMP)を地方レヴェルで扱い、手続きを迅速かつ簡便にすること。D民間援助組織による家屋建築計画の支援、というもの。政府は既に、この地域のスラム住民を、国有地の不法占拠者としてみなすのではなく、現在の国有地を居住者に開放し、数年計画で売り渡す契約まで結んでいる。
 交渉を終えた後、その女性秘書官は「セービングの歌」を歌う子供たちの待つ集会場へ行き、拍手喝采を浴びていた。住民運動というと、とかく行政と住民とのいがみ合いという構図に陥りがちだが、ルパンパンガコはある意味では政府からの援助に見切りを付け、自分たちで何が出来るかをまず検討し、根気強い努力を続けた結果、逆に政府の方から援助の手をさしのべられたというケースだ。「従来型の運動、対行政闘争に終始する活動家中心のそれとは違う」とリーダーたちが胸を張る通り、彼らは排除の危機を乗り越え、常に創出的な生活の知恵を当事者の側から現実化してきた。秘書官も「個人的には貧困問題に心を痛めていた。役に立ててとてもうれしい」と破顔の笑みを浮かべ、住民たちが自らの手で築きあげたモデルハウスを、見学していった。モデルハウスの壁には建築費が事細かに記してあって、その数字が「行政がやる貧困者向け住宅なんかより、ずっとずっと安い費用で、立派な家を俺たちはつくれるんだ」と誇らしげに語っていた。


渋谷への帰還

 土地獲得のための権利を認められた彼らは、「ここはもうスラムじゃない」と言い切った。その通りだ。文字通りゴミに埋もれた生活環境は、まだまだ改善の余地があるが、劣悪な環境にも負けず、彼らは何より自信を回復し、虐げられた社会的弱者としてではなく、人間として生きていく尊厳を確保していた。
 住宅の建設。土地さえあれば、渋谷のみんなもきっと同じことをやれるだろうし、同じことを言えるだろう。羨んでいてもしょうがないが、私たちは私たちの事情の中で、そこまでたどり着くことが出来るだろうか。ここ数年で確かに「ホームレス」に対する社会的な取り上げ方が、少しずつだが変わってはきている。「ホームレス」が変わり者で怠け者、飲んだくれ、「一種独特の哲学をお持ちの方々」ばかりという(いぢわるばーさん的で青臭い)偏見は、減りつつはあるかもしれない。だがそれらは私たちの自助活動の成果と言うより、状況の悪化によって問題に対する社会的認知度が拡大されただけという気がしている。ホームレスに対する社会通念のみならず、さらに政治レヴェルでの対応が改善されるには、さらに失業層が拡大し、もっと路上死する人間が増えることが必要だとでもいうのか。状況がなかなか良い方向に進まないどころか、国内ではまたぞろ排除の話などが出てきて、力が抜けそうになることもある。だがあきらめてはいけない。いつだって、少しずつでもやれることはある。実際「やれること、やらなければいけないこと」に追われて、毎日が過ぎていく。普段はなかなか自分たちの取り組みを、大枠で眺めることが出来ないが、海外の空気を吸ってきたこの機会に、またこの記事を単なる体験記に終始させないためにも、ここでより巨視的かつ実践的な視点から、今回のフィリピン訪問において得た知見を、私たち自身の状況にあわせて、敷衍しておこうと思う。

1)取り組みの当事者性
 渋谷での取り組みが「のじれん」に発展解消して以来、我々は一貫して仲間自身による取り組みを重視してきた。毎土曜日の炊き出しの認知度も高く、参加者数も常に百数十名に上る。仲間同士の結びつきがもたらす可能性を確認したところで、私たちは、炊き出しが仲間同士の連携にとって最も重要な場所であることを再認識し、仲間主体の寄り合いという性格をより強めていく必要があると思う。寄り合いの規模が拡大するに連れて、かつてあったような、支援、当事者が車座になって互いの生活体験を共有できた頃の密度が、薄れている感も一部ある。
 ACHRが支援する諸活動の中でも、コミュニティ創発と育成における当事者の自発性重視は、基礎的な位置を占めている。支援やNGOといったいわばプランナー(立案者)が上から政策提案し、当事者に与えるのではなく、あくまでも当事者の発案による具体策の検討がコミュニティ結束の鍵となる。仲間を毎日のように訪ねて、世間話をして関係づくりを図る、という余裕がなかなか無い私たちの現状では、そういった討議・共有化の場として炊き出しの場を活用しない手はない。当事者運動に支援者が介在できる余地はそこにこそあるはずだ。もっと仲間の中に入っていって、コミュニケーションがなかなかとりにくい仲間同士の関係を、ひとつひとつ丹念に結びあわせていくような姿勢を、支援者が心懸けなければいけない。こうした眼目はもちろん、渋谷での活動当初から、我々が絶えず確認してきたところではある。しかし活動規模がこれだけ拡大し支援者の数も増えてきた最近、今一度この点を認識し直することは重要である。

2)取り組みの創出性
 フィリピンでのコミュニティ活動が軌道に乗り、行政や国際支援団体等々を巻き込んで、大きな成果を勝ち得ている要因のひとつは、行政やNGOといった既存の主体に取って代わるオルタナティブ勢力を、当事者自身が形成し、彼らの視点から状況改善の努力を続けてきた点にある。対行政闘争・要求活動に終始しない、仕事創出などの自助+相互扶助的な取り組みは、まさにのじれんが強調してきた方向性でもある。こうした取り組みの中から、従来の社会体制からは見えてこない新しいコミュニティの可能性が生まれてくるはずである。
 従来のNGO型の活動、個々のイシューをベースとした危機介入的、自衛的な取り組みが、(とりわけ対強制排除などの陣形づくりにおいては)依然として必然性を持つことを確認しながらも、コミュニティ創出を目指す、持続的な自助活動をいかにして構築・拡張していくかということが、重要な課題となる。
 そうした方向性において渋谷が今最も注目し、成果を上げてきているのが、空き缶回収の取り組みだろう。決して楽な仕事ではないが、熟達するにつれて次第に回収量も増えてきているし、関心を持つ仲間の数も次第々々に増えてきている。ただしこの仕事が、回収した空き缶の置き場を必要とするため、「定住者向け」の仕事でしかないというのは、つらいところだ。路上生活者が立地点を見出せるような生業は、他にも見つけられないだろうか。Tシャツづくり、弁当販売の他にも、仲間の特殊技能を生かす形で、何らかの生産・流通活動を恒常的におこなうことができたら。新宿には以前、空き缶細工を特技とする仲間がいた。規模や方法は異なるが、欧米で活発な野宿者雑誌の出版や、京都における竹箒の生産などは、こうした活動方針が実りをもたらした例である。フリーマーケットへの恒常的な参加も、人手さえあれば検討課題に入る。何れにせよ、これらすべてに共通する必須条件は、あくまで仲間自身が積極性を持って行動することと、それを主眼においた上で彼らをサポートする支援側の工夫だろう。
 創発的な自助努力を強調するからといって、これまでどおり、行政への要求行動に引け目を感じることは勿論ない。そうした活動に参画していくことで、私たちが法的にも倫理的にも、実に人間として当たり前の要求をしているのみであることを実感し、萎縮している日本の野宿当該が、もっと当然の権利を主張し「厚かましく」なることが求められてよい。ただし仲間の中にはこうした「要求活動」的な行動を苦手に思うものもある。その「苦手さ」を固着させる根深い要因が、野宿者として路上に生きざるを得ないことの責を、野宿者の「個人的責任」であるとし、彼らに劣等感を強いるような私たちの社会にあることは言うまでもない。そういう社会的意識を少しでも変えていく努力とともに、日々の生活の中で自信喪失しがちな仲間の、自己への信頼回復を可能とする場をつくりだすことの必要性についても、私たちは考えていかなければならない。自己創出的な活動は、要求活動にあるような「気兼ね」を伴わずに行える。渋谷でも炊き出しづくりなどに積極的に参加する仲間の顔は明るいが、フィリピンでみた人々の表情のあの輝きは、やはり行政や支援に「恵んでもらう」のとは違う、自己達成にもとづく活動成果の大きさを物語っていた。

3)居住という視座
 野宿者問題は「福祉が窓口」という行政側の姿勢が多勢であるのにつられて、就業と並ぶ野宿者問題のもう一つの本質を矮小化してはいけない。省庁改編にともなって労働福祉省が出来、行政側の取り組みに(とりわけ地方レヴェルで)どのような実質的変化がもたらされるのか、定かではない(あるいは「変化など無い」という解答において、すでに定かであるのかもしれない)が、居住に関して当事者コミュニティとしての私たちが提出出来る代案とは何か。この点に関して私たちは、甚だ困難な現状を突きつけられる。
 パヤタスをはじめ、フィリピンで私たちが遭遇した諸事例の多くは、土地獲得の可能性を既に手中に収めていた。無論それも長年に渡る、辛抱強い取り組みの成果なのではあるが、日本の野宿者が、フィリピンのスラム居住者同様の仕方で、土地を獲得できるとはにわかには想定しがたい。私たちは、不法占拠する土地すら事欠くのである。
 コミュニティ活動の拡充を非常に長期的な観点から考慮する場合にも、居住を巡る問題は山積みである。間借りする際の保証人問題の解決や、生保獲得などを通じて路上生活を脱却した者のさらなる活動参加などを見込んだ木賃宿の借り上げ、グループホーム(あるいは香港にあるようなケージハウス)の設立など、これらの必要性は多分にあるが、達成課題として立案するには、未だ夢想に近いというのが現状だろう。当面はやはり児童館前を初めとする公共空間の占拠を基礎に、居住空間/野営場所を確保していくことが野宿者の生命線となる。(一月半ばには、常設の医療テントが宮下公園内に設置され、降雪など厳寒期の路上生活を生き延びる仲間の役に立っている)。

4)セービング黎明期
 空き缶拾いでわずかでも収入が見込める野宿者が出てくる中で、数名の仲間がセービングをはじめるようになってきた。フィリピンスラムの事例にあったような、土地の獲得までもを視野に置く大規模なセービングには無論、程遠いが、セービングのもたらす多様な成果を考慮すれば、セービング目的を土地買収に限ることはない。貯蓄をしている仲間も、今のところ「何のために」という具体的な購買目標があるわけではないが、「何かのために」節約することを通じて、お金の用途を熟慮する機会を得ている。
 金を貯めたところで、それを何のために使うのかという問いは、だが確かに深刻だ。それは畢竟、仲間が自分たちの野宿生活にいかなる展望を見出すのかという問いであり、私たちの先々を問う核心的な問題でもある。釜ヶ崎ではある時期、ある仕事を複数の仲間で共有するために、交通費支給などの目的で小規模のセービングが行われた。失業が野宿者問題の基邸にある限り、仕事の維持に目標が置かれるのは当然だろう。またフィリピンのように、当該に家族があれば、そこに関心がいくだろう。家族を持たない中高齢の失業者が構成する、日本の野宿者コミュニティにおいて、生活改善の志向が具体的にどのような地点で芽生え、どのような軌道を辿るか。始まりつつあるセービングを通して、私たちが見極めていかなければならない視角である。

5)連帯を武器に
 国内外を問わず、居住をめぐる活動のネットワーク化と、各コミュニティ間の連帯の持つ意味合いが、今後ますます大きくなるだろうと予測される。今回のフィリピン行動に含まれていた各国諸団体との交流の中で、日本の活動が抱える弱さとして指摘を受けたのも、この点であった。全国行脚、全国交流、そしてこの間軒並み行われた国際的参画から得てきた、組織間の結びつきを、その場的なもので終わらせる心積もりは毛頭ない。大阪、名古屋、静岡、京都、北九州、北海道など各都市との連携、また全都レヴェルでの共働活動が既に進捗しているが、今後とも当該野宿者間の交流が望まれている。各地の事例等を考慮した上で、それぞれが日々の取り組みを進めていくという姿勢には、連帯というスローガン的意味合いを越えた実際的意義があるからだ。
 別途報告があると思うが、韓国・香港の当事者運動との「東アジア交流」計画も着々と進んでいる。上では触れなかったが、今回事例としてみたフィリピンのスラム居住者たちは、居住をめぐる課題を一国内に収束する問題としてではなく、国際的連帯のもとに攻略を図ったところに多大な収穫を得た、世界的キャンペーン(Land Secure Tenure Campaign)の中核的担い手である。このキャンペーンは、アジア・アフリカの各都市のコミュニティ代表と支援組織が結束し、スラム居住者の居住権を認めさせようと、各国行政に順々に働きかけるというもので、南アフリカ、インド、フィリピンと着実に成果をものにしてきた。先に見たパヤタスコミュニティの現在の政治的位置も、この国際的取り組みによって後押しされた結果としてある。交流が、「交流のための交流」にとどまらず、具体的な政策課題を実現していく足場となることを、私たちは目の当たりにしてきた。
 拡がりつつある海外諸団体との結びつきは、すでに上野公園の強制排除問題で、具体的な力となっている。今回交流した諸団体を含めた海外組織から、排除をもくろんでいた上野公園管理事務所あてに、抗議のFAX、メールが次々に届き、当局に対する外圧として大きな役割を果たした。
 国内的な結びつきとしては、炊き出し・パトロールなど日常的取り組みの他に、(大阪長居公園で緊迫している)強制排除に対する自衛の陣形固め、自立支援センター等全国規模の行政政策の改善要求、仕事創出、地域通貨・セービング事業等々、コミュニティ活動上の試行錯誤を、日本全国の当事者団体間で緊密に共有し、現状の打開策と具体的展望を見出していく必要がある。路上からの声を、一地域の小さな叫びに終わらせるのではなく、問題の深刻さを広く社会的にアピールしていくための、いわば拡声器としての役割意義をも、こうした全国規模、国際規模の連帯が果たしていくことを確信している。

(CopyRight) 渋谷・野宿者の生活と居住権をかちとる自由連合
(のじれんメールアドレス: nojiren@jca.apc.org