楊翠英さんの証言(1925年生まれ)
 
 平和を愛する友人の皆さん、今日はここで、1937年の事実を話したいと思います。私は1925年生まれで当時12才でした。いま84才になっています。あれから72年もたったので、今のところ中国と日本は友好的につきあっていますが、72年前南京市民は30万人を超えた人々が非常に残酷な手段で殺されています。その当時私は、街角や道路でたくさんの死体をこの目で見ました。この残虐なことをした兵隊たちは、おそらくいま死んでこの世にいないと思いますが、非常に惨いことでした。
 まず説明しておきたいことは、今から日本人の「悪さ」を話しますが、当時の日本兵のことを話すので、現在の日本人が悪いということではありません。ぜひご了承をお願いしたいです。
 
 当時、私たちは許府巷というところに住んでいました。家族構成は、祖父、父方の大叔父さん(祖父の弟)、父母、私、2人の弟、1人の妹の8人家族でした。家の仕事は祖父と父が中心になって野菜などを作っていました。母も手伝っていて、私も12歳でしたが、時々野菜を取って、売るためにごみを取り除いたりの整理をする手伝いをしていました。野良仕事としては、父が水をかついでまき、母が雑草を取っていました。野菜を収穫したら整理しないといけなかったので、たとえばニラでも、長ネギや小ネギでも、枯れた葉を取ったりきれいにして売り場へ持って行くから、そういった手伝いを私は随分しました。
 私の家族で殺されたのは、父、母方のおじさんと父方の祖父と1才だった弟の4人が殺されました。父が殺されて1週間後母は出産して赤ちゃんができました。父や祖父が殺されていたので、生活できなくなりました。その上に母は、父と1才の弟を亡くしたので出産後も泣きくらしてついに目が見えなくなりました。だから生活がたたなくなり、くらしは12才だった私にかかってきました。
 思い出すと非常に残酷で忘れられないことばかりでした。日本兵が非常に残酷だという事実を伝えるのでよろしくお願いしたいです。
 私のところは12月ごろに難民区に行きました。前に別の場で証言したときに、一人の外国人が「安全区があった」といわれましたが、私の記憶では安全区はなく難民区しかなかったと思います。(注:「南京安全区国際委員会」が南京にも安全区的な区域をつくり一般的には「難民区」と称した。)その当時は日本兵がやってくる前に、金持ちの人は全部南京城の外へ脱出しました。金のない人、貧乏人は行けるところがないので残るしかなかったのです。でも私たち一家はよく覚えていませんが、当時、しきりに日本兵が来るぞといわれていたので12月10日前後に難民区に入ったと思います。大方巷(注:ダーファンシャン:難民区の北部にあり朝日新聞社もあった場所)というところに行きました。
 私が一番最初に日本兵を見たのは12月13日でした。私達は大方巷の傅佐路14号のところでたくさんの難民が一緒に生活していました。蒋介石の軍隊が何も抵抗せず、日本兵が簡単に南京の城内に入ってきました。その日はたくさんの日本兵が、私達の住む難民区へやってきました。日本の兵士は銃をもっていました。銃の先には銃剣がついていて、位の高いらしい兵士は長い刀をもっていました。たくさんの日本兵が来たので怖いという感じしかありませんでした。避難している私の家に来たのはたった2人の日本兵だけでした。
 
 しかし、入ってきた日本兵がいきなり銃剣で父を刺しました。父は何回も刺されるたびに叫び声をあげていました。そばに私がいたために父は抗い突き殺されてしまったのです。私も父のそばにいたので、日本兵に殴られて耳が聞こえなくなりました。私は1才の弟をだっこしていました。父も何回となく刺され、台尻で殴られたので、叫び声も聞こえたし、大きな怖い音がするので1才の弟も泣き出しました。日本兵は弟を私から奪って地面に投げて、大きな革靴をはいた足で踏んで1才の弟を踏み殺したのです。
 難民区は狭いところだから、母方のおじ一家も一緒に住んでいました。父方の祖父、母方のおじさんもその部屋で、突き殺されたり、歩兵銃の台尻で殴られたり、全部そこで殺されました。父が刺し殺されたとき、私も怖くて大きな声を上げて泣いていました。いつもそんなことを思い出しては、涙がいつまでもとまりません。
 あの当時(私達家族4人を)殺した兵たちとは今日は会えないですよね。
 大方巷の隣には大きな池がありました。日本兵がたくさんの人を殺したのでこの池の中も死体でいっぱいでした。その後、紅卍字会などの慈善団体が死体を収集して池の中から引き出しました。池のほとりにあるたくさんの死体が見えました。紅卍会が死体を収集したので埋葬はできませんでした。北陰陽営では大きな穴を掘って埋葬したと聞いています。
 難民区には大きな部屋があるはずがなく、4〜5世帯が一つの部屋の中で生活していましたが、みんな地面に藁とかを敷いて、そのまま寝ました。被害を受けたのは私たち一家だけではなく、たくさんの家が被害を受けました。
 大方巷にいると食べ物がすぐなくなってしまいました。みなさんが(聞き取りのために)今いる南京大学は当時金陵大学でした。南京師範大学は当時金陵女子大学といわれていました。難民区の金陵女子大学には一人のアメリカ人(注:ミニー・ヴォートリン、中国名は華群)がいました。彼女が、食べ物のない人たちに、「家族で4人が殺されている。今何人で生活している」と詳しく登録すると、カードをくれました。このカードによって、金陵女子大学の後ろの空き地で毎日おかゆの供給がありました。朝10時と午後4時の2回供給してくれたので、バケツをもって行きました。5人で生活していましたから、1人あたり小さなお椀1杯分のおかゆがもらえました。1カ月間ほど供給があったと思います。
 難民区では4世帯、5世帯で1つの部屋を借りて生活していました。しかし、難民区といっても家賃を払わなければならないところに住んでいたので、どうしても家賃が払えなくなり、許府巷までもどりました。
 母も目が見えなくなって働けず、妹と2人の弟もいるので食べ物に困るようになりました。私しか働けるものがいませんでした。布団や服を作っている日本人の工場が、ホテルの向かい側のところにありました。私はその工場に勤め始めました。仕事としては、シーツやふとんの洗濯とか、ときには流れ作業で服を縫う仕事をやっていました。勤務時間は、午前7時〜12時、午後1時〜7時の1日11時間働いて、1日に半斤(注:約250グラム)の米と干し芋(注:さつまいもを薄く切って干したもの)半斤が報酬でした。この工場では長く働きました。1945年8月15日午後4時ごろ、働いている部屋に突然一人の上司が入ってきて「みんな会議ですよ」とみんなを呼び庭に集めました。普段は仕事しかないから呼び出されてびっくりしました。庭で放送を聞きました。放送の内容は非常に簡単で「日本が今日降伏した。中国人は日本人を殴ってはいけない」という内容でした。中国は抗日戦争に勝ったということでした。8月15日から蒋介石の新陸軍が次々と南京へ入ってきて、みんな私たちの住んでいるところに入ってきました。数カ月後、その軍隊はいなくなり、1949年に解放されて新しい中国ができました。
 私だけではなく、南京ではほとんどの人がひどい目にあっています。団の中には先生が多いと聞いていますが、ぜひ私がここで話したことを日本でたくさんの子どもたちに伝えてください。子どもたちには、歴史を知った上で、しっかりと勉強して、国の建設のために頑張ってもらいたいです。特に子どもたちが大きくなったら、平和のために努力してもらいたい。というのは、本当に戦争というものがいかに残酷か、  
 この戦争で家族を4人も亡くして、国もなくなったので、戦争がなければいかに美しい世界ができるかということを私は子どもたちに知ってほしいのです。

《以下は質問に答える形で聞き取りました》
 1985年に紀念館が開館してから毎年の清明節には必ず館に行っています。紀念館には(殺された人の名前が記されている)泣いている壁がありました。私の殺された家族の名前もそこにありました。名前は、父:楊学文(34才だと思う。母は32才だった)、父方の祖父:楊世培、母方のおじ:楊賢営、弟:毛娃(正式な名前はない)。最後の弟は母乳も出ないし生まれたばかりで餓死しました。
 工場でもらった半斤の米は私一人でも足りない。でもなかったときよりもましだでした。干芋を茹でて細かくして、米を少し入れて、外で摘んだ野草を入れて、お粥を作って食べました。少なかったけれど、なかったときよりもましでした。私が働きに行かないと何もなかったのです。本当につらい生活でした。私の仕事で少し食料をもらってきて一家の食べ物にしていました。    
 もちろん仕事は非常に厳しかったです。監視もいて、私は殴られたことがありませんが、他の人が殴られているのを見ました。私は家族のことを考えて、もし仕事を失ったら大変なことになるので、しっかりと仕事に没頭しました。疲れて眠いときももちろんありましたが、怖いので緊張感があり、しっかりと仕事をするしかなかったです。2人の日本人が監視をしていた。便所札はなかったですが、手を上げて合図し、報告が必要でした。2人で回って監視しているから、便所に行って、また10分経って行くというようなことは絶対できませんでした。頻繁に手を挙げると殴られますが、時間が長く経って手を挙げて便所に行くのは大丈夫でした。工場の名前は覚えていませんが、場所は中山北路にありました。
 日本語は覚えていませんが、ひらがなはすべて覚えています。「あいうえお かきくけこ」毎日、退勤のときボディーチェックをされました。日本人の年取った女性が、薄着の時は手で触って徹底的にボディーチェックしましたが、綿入れのときはボタンをはずして触り細かくチェックした。人数はわからりませんが全部で女性が数百人いたと思います。私の働くところ、縫製だけでも20〜30人はいました。また、他には、洗うところとか、梱包とか、裁断などいろいろと仕事を組に分けていました。すべて女性でした。
 その後現在になって、兄弟3人になった。71才の弟と、79才の妹が南京に住んでいます。母が当時出産した一番下の弟は餓死して亡くなりました。育てられなかったのです。
                【「銘心会南京」友好訪中での聞き取り、崎山昇起こし、松岡環編集】