『南京安全区における日本兵士の暴行記録』について

 この記録は、南京安全区国際委員会の「南京安全区における日本兵の暴行」(日本帝国大使館及びアメリカ大使館宛文書の一部)をラーベ日記の中国語訳=「拉貝日記」から翻訳したものである。南京安全区国際委員会は日本軍の南京占領に伴って設置され、中国難民の保護にあたってきたわけであるが、その最も安全であるべき地域において、ここに示されているような悲惨な事態が繰り返された。その都度、安全区国際委員会は日本大使館に抗議、要望書に添付してこれらの暴行記録を提出し、またアメリカ大使館等に事態報告として提出した。
 これらは、極めて重要な事実関係の資料だと思われるが、ラーベの日記の日本語版『南京の真実』にはほとんどとりあげられていない。ドイツ語版(John Rabe:der gute Deutsche von Nanking)では一部とりあげられ、また資料として25項目が載っているが、全体を網羅しているものではない。そこでさしあたりもっともまとまっていると思われる中国語版から翻訳したものである。再録にあたって若干の手を加えた。期間は南京陥落の翌日1937年12月14日から翌年2月8日までで、報告されているのは426項目である。洞富雄編『日中戦争 南京大虐殺事件資料集 第2巻 英文資料編』には444件あるそうであるが、それは今回検討していない。いずれにしても、ここにとりあげられているのは氷山の一角、ほんの一部である。
(以下のまとめは、笠原十九司『南京難民区の百日』、藤原彰『南京の日本軍』、蘇智良論分などを参考にした)

1) 南京安全区とは
 日本軍の南京攻略が確実になり、国民政府が重慶に遷都したとき、南京に駐在していた多くの大使館員や外資系銀行、商社などの外国人は南京を離れた。この時南京にとどまった外国人たちは、避難できない貧しい家の女性や子供、その他の市民を保護するために、南京安全区(難民区)国際委員会を結成(委員長ラーベ、合計22人のメンバー)し、11月22日に、「不幸にも戦闘が行われた際の市民の避難場所として安全区を設置することを日中両国の当局へ提起したい」「この地域からは軍事施設を排除し、また何らかの戦闘能力を有する兵士及び将校が通行することも許されない」、従って、「日本当局は人道的理由から、この安全区の民間的性格を尊重して承認してくれるように切に希望する」という申し入れを行った。
 中国当局は直ちにこの申し入れを受け入れ、この地域からの軍事施設の撤去を開始した。日本の関係当局は、「中国軍が防衛施設を建設せず部隊を配置しない限り攻撃しない」という条件付きの回答をした。
 安全区は別地図の通りであり、東京の台東区や中央区よりもやや狭い面積に相当する。この地域は、公共の建物が多く、また高級住宅街で住民がすでに避難しており難民を収容するのに便利であるとして選ばれた。
 安全区委員会は、日本軍突入間近の12月8日、「告南京市民書」を配布して南京市民への安全区への避難のよびかけを始めた。ただちに市民は続々と避難を開始し、金陵大学、金陵女子大学、五台山小学校などの学校施設や政府の建物に(20の難民収容施設に一つの施設に数千から万に近い数が避難)、あるいは留守になった中国人高級官僚たちの邸宅や外国人の邸宅そして空き地や道路に掘っ立て小屋を作って避難した。9日までにすでに十数万人が避難した。最高時には約20万人に達した。
 12月13日以後、日本軍の南京占領に伴って、莫大な数の投降兵が安全区に庇護を求めるが、日本軍は武装解除された兵士を捕虜として扱うことなく、数千人規模で大量殺害した。その問題については別に譲る。
 
2) 日本軍の暴行記録
 安全区に避難した住民は保護されるはずであった。しかし、十数万から20万の難民の避難している地域に日本軍7万以上が進駐してきた。しかも、第9師団(金沢)歩兵第7連隊はわざわざ難民区のなかに駐屯し、また第16師団は難民収容施設に使われていた最高法院から難民を追い出して師団司令部を置いた。そこで日本軍は、安全区として特定され、旗で示され、外国人による安全区委員会監視のもとでさえ、ここに挙げられているように容赦なく鬼畜に等しい暴行を繰り広げたのである。安全区以外のところで、どれほどひどい事態が起きたかは想像を絶する。
 
 事件が集中する最初の山は、南京陥落から12月17日の中支那方面軍の入城式をはさんだ1週間である。ラーベは「安全区は日本軍の妓楼となった」となげき、ウィルソンは「地獄の1週間」と呼んだ。南京陥落翌日の14日から日本軍は手当たり次第に略奪と強姦、殺戮、放火をくりかえした。日本軍は17日の入城式に向けて、残敵掃討戦を展開する。一群の日本兵が各家をすみずみまで捜索する。それは同時に手当たり次第の略奪と女性を探し出しては強姦するものであった。17日を前後する強姦事件はすさまじい。入場式の祝い酒に酔った日本兵はさらに戦勝気分、報償気分で女性に襲いかかった。ヴォートリンが必死で守っていた金陵女子文理学院には逃げてきた女性が殺到し、4千人以上となり収容限度を超えたと思われた。そこにも日本軍は押し入り女性を拉致していった。最初の一週間で強姦事件は一日1000件以上、被害者はは8000人以上に上った。ベイツによると「ドイツ人の同僚(ラーベたち)たちは強姦の件数を2万件とみています。私にも8000件以下とは思われません」「11歳の少女から、76歳になる老婆までが犯されている」「神学院では白昼17名の日本兵が1人の女性を輪姦した」と記録されている。

 クリスマスを前後して、中支那方面軍の主力部隊は新たな作戦地域を目指して南京から移動する。大量の部隊の転出にともなって残虐事件の数だけは減少した。しかし安心はできない。相変わらず強姦・輪姦、略奪は続いている。

 年末から新年にかけては、また強姦事件が急増していた。大部隊の南京からの退出を受けて、残留した第16師団の佐々木到一少将が「城内粛正」として12月24日から1月5日にかけて難民区の男性の住民登録を行い、あらたな敗残兵狩りを徹底したことによって兵士の疑いをかけられた数千人の住民が虐殺された。これとともに正月三日間の休暇には、日本軍兵士に酒がふるまわれ、またもや強姦・輪姦事件が多発した。(H,Iなど)
 1月5日から日本軍による女性の登録が行われ、この結果、南京城内の住民は、難民区に20万人、それ以外に5万人という数が示された。

 1月22日、それまで南京を警備していた第16師団(京都)が華北へ移動していき、第11師団(善通寺・香川)の天谷支隊(歩兵第10旅団)が進駐した。
 1月24日、日本兵の強姦事件に関連して現場調査に赴いたアメリカ大使館のアリソン書記官が、日本人将校に暴行をうけるという事件が発生した。これは直ちに国際問題となり、あわせてすでに国際的に知れ渡るようになっていた南京の暴虐事件への非難に対して、日本軍中央も「軍紀風紀頽廃問題」として対応せざるをえず、引き締めの訓示を行う。しかし、もともと少人数の憲兵で本気の取締りがやれるはずもなかった。ただ少しは憲兵の動きも見られるようにはなる。

 新たに南京警備についた天谷司令官は、あたかも南京の秩序が回復したかのように印象づけるため、2月4日までに自分の家に戻るように命令する。しかし、それは全く逆に子羊をオオカミの群れのなかに放すに等しかった。待ちかまえていたように1月末から2月4日にかけての強姦および強姦未遂事件、略奪事件は急増した。幸いなことは、市民が日本軍の暴行に対応できるようになり、2月に入っては未遂事件に終わらせることができたのが多々あることである。住民は難民区を閉鎖しないように嘆願する。
 国際委員会の強い抗議によって軍当局は強制的に追い出さないことを了承した。
 
 2月18日南京安全区国際委員会は名称を南京国際救援委員会と変更し、金陵神学院のソーンが新たに委員長となる。
 2月中旬ラーベにドイツのジーメンツ本社から帰国命令が届き、2月24日中国を離れることになる。

 3)「日本兵の暴行」の特徴
 暴行記録の多くは強姦事件である。
 被害女性の年齢は幅広い。ここでは12歳が6件、13歳、14歳も多数報告されている。未遂に終わったが10歳の子供まで狙われている。
 スミスの調査によれば、65%が15歳から29歳であるが、7,8歳の少女への暴行も記録されている。60,70歳の女性も対象とされた。79歳の母親が強姦され、彼女を助けようとした息子が殺されたという事件もある。
 どのような職業の女性も対象とされた。労働者、農民、主婦、教授夫人、牧師夫人、尼にまでいたる。また多くの妊婦が被害にあった。安全区には病院があったが、そこでさえ度々略奪にあい、救急車さえ取られようとした。看護婦さえ強姦された。

 被害女性の数については、2万件とも8万件ともいわれている。2万件は極東軍事裁判に「占領された1ヶ月間に南京市内では2万件の強姦事件が起こった」と断定している。国民政府期の南京市政府が編纂した『敵人対於南京毀壊及其暴行一斑』(1946年1月26日)
によれば「8万人に上る」と判断している。南京政府の1946年の統計によれば、日本軍は強姦の事実を包み隠すため、強姦後65940人の女性を殺したという。第11軍司令官の岡村寧次中将はその回想録において、「南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である」と記している。万を超す女性を強姦・輪姦・殺害したことは疑いがない。

 日本軍による暴行は、白昼も見境無いなく行われ、昼夜を問わなかった。数日間拉致されて強姦・輪姦され続けたという事件もある。暴行の場所はまさに至る所である。民家に押し入るだけではない。通行中の女性をつかまえては、空家に連れ込み、または街頭でさえ暴行している。
 外国権益はなんら保護されなかった。日本軍はわざわざ国旗を掲げ、立入禁止の貼り紙をしている外国人の家に押し入り、ドイツ大使館にまで女性を出せと侵入してきた。

 日本軍は最低3〜4人単位で行動していたから、事件の多くは輪姦事件である。拉致された女性は一晩に10回から20回、若くてきれいな女性は40回も強姦されたと報告されている。
 暴行に抵抗した女性の多くは残忍にも虐殺された。日本軍は死体にまで、乳房を切り取り腹を突き刺すなどの辱めを行った。李秀英さんは強姦に抵抗し全身33個所も切られたが、幸運にも命だけはとりとめた。
 強姦されたあと、殺害された女性も多い。日本軍は蛮行が発覚するのを隠蔽するため、平気で虐殺した。39年2月陸軍次官が出した通牒「支那事変地ヨリ帰還ノ軍隊・軍人ノ状況」に添付された資料のなかには次のようなものがある。(ひらがな仮名遣いに変えた)
・ ○○で親子4人を捕らえ、娘は女郎同様に弄んでいたが、親が余り娘を返せというので親は殺し、残る娘は部隊出発まで相変わらず弄んで、出発間際に殺してしまう。
・ ある中隊長は、「あまり問題が起こらぬように金をやるか、又は用を済ました後は分からぬように殺しておくようにしろ」と暗に強姦を教えていた。
・ 戦争に参加した軍人を一々調べたら、皆殺人・強盗・強姦の犯人ばかりだろう。
・ 戦地では強姦くらいは何とも思わぬ。現行犯を憲兵に発見せられ、発砲して抵抗した奴もある。
・ 約半年にわたる戦闘中に覚えたのは強姦と強盗ぐらいのものだ。

 日本軍においても中支那方面軍は南京入城にあたって「南京城の攻略および入城に関する注意事項」を指示し、「軍紀風紀を特に厳粛にし、いやしくも名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期する」「外国権益の保護、外交機関への立入禁止」、「掠奪、不注意といえども火を失するものは厳罰に処す」などとしていたが、実際にはこれを取り締まる憲兵は圧倒的に少数であり、またもともと日本軍は兵站の準備のないまま南京に突入し、部隊の給養は徴発に依拠していたのであるから、これらが空文句化するのはあたりまえであった。 
 また、中国侵略を聖戦と位置づける日本軍において、侵略戦争は劣等民族を解放する闘いでもあったから、大日本民族優越主義のもとで、中国民族を犬猫以下とみなしていた。東史郎が述べるようにまさに「チャンコロ」意識だったのである。ここで行われた蛮行は逆に日本軍兵士自身の野獣性、精神的堕落・腐敗を示す以外のものではなく、日本軍は軍事的に敗北する前にすでに道徳的敗北していたのだ。


A.1937年12月16日 日本大使館宛(番号1−15)
B.1937年12月19日 日本大使館宛(番号16−70)
C.1937年12月20日 日本大使館宛(番号71−96)
D.1937年12月21日 日本大使館宛(番号97−113)
E.1937年12月22日 日本大使館宛(番号114−136)
F.1937年12月26日 日本大使館宛(番号137−154)
G.1937年12月30日 日本大使館宛(番号155−164)
H.1938年1月2日 日本大使館宛(番号165−175)
I.1938年1月4日 日本大使館宛(番号176−179)
J.1938年1月10日 アメリカ大使館宛(180−187)
K.1938年1月12日 (番号188)
L.1938年1月17日 アメリカ大使館宛(番号189−194)
M.1938年1月24日 (番号195−203)
N.1938年1月28日 (番号204−209)
O.1938年1月31日 (番号210−219)
P.1938年2月1日(番号220−308)
Q.1938年2月3日(番号309−406)
R.1938年2月8日(番号407−424)
           (番号425−426)