「人権と教育」月刊32号(2000.5.20)

歴史を尊重するものは歴史から尊重される

東史郎の南京裁判

山内小夜子


「そうか、君のお祖父さんも南京に行てたんか。 善通寺の部隊なら、隣同士やな。 36歳で後備役やったら、悪いことはしてへんで。 本当に悪いことをしたのは、私らのような現役兵。 君のお祖父さんは、悪いことしてへんで」。

東史郎さんと初めて言葉をかわした時、私は戦争を語れないまま亡くなった祖父の話をした。 私の祖父の「名誉」に配慮したものか、孫の感情を思いやっての言葉かと戸惑ったが、 それ以降、どれほどの恫喝や脅迫を受けても、 決して「加害者」の立場を崩さない東史郎さんの最初の言葉として記憶に残っている。

南京大虐殺から50年目の1987年に、自らの加害証言を行い、 日記等の資料を公開した一人の老人の身の上に、 その後の十数年に何が起こったのかを報告することによって、 いまの日本の姿が浮かび上がってくるのではないかと思う。

東史郎さんとの出会い

私は、いまと違って教科書に「従軍慰安婦」も「南京大虐殺」も登場していない時代に 学校で近代史を学んだ。 社会人になっても南京大虐殺について具体的には何も知らなかった。

明治期以降の日本宗教の海外開教という自分の研究テーマの調査を目的に、 1988年8月上海と南京を訪問した。 その際、南京大虐殺記念館を訪れ、 多くの幸存者(幸いにも生を存在させることができたという意味、 生存者)の証言をお聞きすることができた。 また、私と同世代の若者が記念館の説明員をしている姿に、何か焦りのような感情を抱いた。 私はこの時に初めて、大虐殺事件の被害の膨大さと深刻さを実感した。 また、日中両国間の歴史の知識の量と歴史認識の差に、 埋めようのない程の大きな落差があることにも気がついた。 南京大虐殺事件について日本人として無知であったことに対する羞恥と責任、 多くの幸存者の方々がその後遺症や心の傷みを抱えたまま生活されているという、 現在の問題としての南京大虐殺事件を知った。

南京郊外の紫金山の麓、東郊草葬地にある集団虐殺現場には、 段月萍副館長が同行して説明してくださった。 その時に、「昨年12月の南京大虐殺50ヵ年の年に、東史郎という元日本兵が南京を訪れ、 南京人民に謝罪しました。 ここ東郊草葬地にきて、 この地域一帯で亡くなられた6万にのぼる受難者に追悼と謝罪をしました。 私たちは、この東史郎さんの勇気に敬意を表します。 日本で証言されることの困難さを私たちは知っています。」と語られた。

この言葉を聞いた時に、胸に熱いものがこみ上げてきた。 侵略の手先・加害者であったが、 自分の「罪」を認め「鬼」から「人間」になった者に対しては敬意を表するという、 中国人民の魂に触れた思いがしたからだ。 私は、南京の地で「東史郎」という一人の元日本兵士と出会った。

帰国してからも日本国内では、「南京大虐殺はなかった」という政治家、 政府官僚による発言が続いていた。 中国を訪問した際、私に「許します、しかし忘れません」と語ってくれたおばあさん、 「許すと言っているのに、大虐殺はなかったと言い張るのは、 どうしてか?」と質問したおじいさんの顔に刻まれたしわや厚い手を思い返していた。

1990年には石原慎太郎議員による「南京大虐殺は中国人によるでっち上げ」 (『プレイボーイ』)という発言があり、南京大虐殺事件を否定するばかりか、 中国人を「うそつき」と侮蔑した発言に憤りを感じた。 黙っていては認めたことになる。 一緒に南京を訪間した仲問と呼びかけあって京都で市民抗議集会を開催した。 その集会に東史郎さんと舟橋照吉さんをお招きし証言をお聞きした。 この文章の冒頭の東さんの話は、この集会の時に交わした言葉である。

東史郎日記について

東史郎さんは、1937年(昭和12)8月、25歳の時に召集され、 京都16師団福知山20連隊の兵士として南京攻略戦に参加した。 渤海湾の大沽(タークー)に上陸し、天津から子牙河沿いに進軍している際に、 中国兵が「日本の戦車に櫟かれてぺしゃんこになっているところへ、野犬が食いついている。 俺も戦死したら犬の餌食になるのかと思ったら、名誉の出征、 天皇陛下万歳といって来たけれども、こんな犬の餌食になる のやったらかなわんと思って、それから戦争に疑問を持ちました。 それが私が最初から日記を書くもとだったのです(#1)」と、 日記を書いた動機について語られている。

南京攻略戦、徐州戦、壌東戦などの戦闘に参加したが途中でマラリアに罹り、 本隊と別れ入院、遅れて単身で帰国したため、日記等が没収されなかった。 帰国後、1941年に結婚するまでに清書したものが5巻。 清書した5巻には「民族の血祭り」という題が付けられている。 「血祭り」こそが、東史郎さんの体験した戦争の実感だと言う。

その五巻以外に、次の戦地資料が現在残されている。
(1)「雑記帳」という表紙のついた縦書きの大学ノート (1938年<昭和13年>8月1日から同年10月分までの部分)
(2)「葉家集 皀市(1)」と記載のある厚紙の表紙に綴じられた縦書きの便箋1冊 (1938年<昭和13年>10月19日から1939年<昭和14年>1月8日までの部分)
(3)「昭和14年度日記帳 中支派遣軍 藤江部隊 南部部隊 木村部隊 上柳部隊 東史郎」 と表紙に記載のある縦書きの日記帳1冊 (1939年<昭和14年>1月10日から同年3月末日頃までの部分)
(4)「盛家灘 壌東会戦 〜凱旋〜」と記載のある厚紙の表紙に綴じられた縦書きの便箋1冊。 (1939年<昭和14年>4月26日から同年7月27日の部分、 但し、途中5枚分ぐらいが破けて抜けている。)
(5)「日記帳 昭和14年7月30日 東史郎 南京軍政部跡病院ニテ」 と表紙に記載のある横書き用(実際にはこれを縦書きに使用している)の大学ノート1冊 (1939年<昭和14年>7月30日より同年9月19日までの部分)。
(6)伝単、新聞など、
(7)親友・佐々木健一さんへの戦地からの手紙。 (佐々木健一<1945年4月死亡>は、これらを清書して綴じていた。 1939年頃これを公表しようと、佐々木氏より打診を受けたが、 東史郎は「金輪際お断り」と拒否した経緯がある)。
これらの一部が『わが南京プラトーン−−一召集兵が体験した南京大虐殺』 として出版されたのが1987年である。

清書された5巻の「日記」の冒頭に、次のような言葉が書かれている。
ここには真実を記したい。 真実なる事実を記すことに依ってのみ、戦場の兵士の思想も行動も明白となるであろう。 真実を記すと云うからには、戦場に於ける美しい面も、醜い面をも記すのである。 (略)ここには私の、我々の部隊の戦争遂行の真実なる姿と共に、あるが儘なる将兵の姿、 思想をも表明せんとするのである。 言論文書の統制を受けている日本国民として、又日本人としての衿持からの、 内外の重圧から完全に逃れて、只一個の人間と言う立場に拠って、 あるが儘なる様を記したいと思うのである」。

「内外の重圧を完全に逃れて、ただ一人の人問として」日記に真実を記したいという、 25歳の青年の、心の告白が綴られている。 しかし、結婚や、再度の召集で清書は途中で途切れていて、戦後も、 生存のための仕事に忙しく、日記帳は開かれることもなく仕舞われたままになっていた。

日記の公表から裁判へ

南京戦から50年後の1987年7月7日、 東史郎さんは京都の市民運動「平和のための戦争展」の要請を受けて体験を証言し、 日記も公表した。 記者会見には、東さんと増田六助さん、上羽武一郎さんの3人が、 初めて一人称で加害証言を行った。

同年12月南京市を訪問し、南京市民にかつての日本軍の行為を謝罪した。 南京大虐殺事件の加害者として初めての謝罪であった。 日記の一部が『わが南京プラトーン』として発行されたのも同じ年である。

7月の加害証言後、100通を越える脅迫状や抗議の手紙、電話が続いた。 東さんによると、いちばん最初の抗議は東京の女性からで、 「英霊を冒涜するな」と電話口で怒鳴ったという。 何て東さんは誠実な人なのかと感じたのは、その抗議の電話に何時間も対応し、 脅迫状にまで返事を出したというところである。 返事の多くは住所不明で転送され戻ってきた。 抗議のほとんどが匿名であったという。 「赤報隊」から「刺客を送った」という電話もあった。 神戸の朝日新聞社が襲撃されて、一人の記者が殺されたのは、この87年である。 脅迫してくる、そして無言の匿名のものになんとか、 加害証言の動機の真意を伝えたいと考えて、朝日新聞社の「手紙」欄に投書した。 それが証言から1カ月後の8月に掲載されている。 東史郎さんの姿勢を理解する上で大切な文章なので、少し長いが引用する。

「南京虐殺 私はなぜ証言したか 7月7日に南京事件について記者会見をし、 戦場の記録を公開したことについて、全国から賛意と、一方で非難、 攻撃の電話や手紙の猛攻を受けた。 (略)しかし匿名氏には反論、説明のしようがない。 また直接電話、手紙をくれない人々の中にも、匿名氏のような意見の人もあるであろう。 中には金をいくらもらったのかと、まことに低劣な輩もいた。 故に、答えたい。

我が国の文化は中国から伝わったものである、という原点を思いたい。 中国は文化の先達であり、東洋史は日本人の思想、哲学となり、血肉となっている。 (略)自分の家の屋敷の中に隣人が踏み込んできて、 お前の屋敷は広すぎるからおれに10坪くれ、と強引に暴力で奪われたとしたら、 奪われた者はいかに考え、行動するであろう。 殴り蹴られて、己の屋敷を侵害された者の立場を想像すれば、 日中戦争の是非は子どもでも理解できるのではないか。 (略)私たちは自虐的に日本軍の不正、悪事、 虐殺を暴露するために記者会見に臨んだものでは断じてない。 悪は誰が起こしたものか、責められるべき者は誰なのか。 悪の原動力を探求し、反省し、再び過ちなからんことを願ってこそ、 日中友好の基ではないか・・・と思い、記者会見をした。 (略)非難、攻撃する匿名氏は『英霊を冒涜するものである』 『戦死者を犬死ににするものである』と言う。 果たしてそうであろうか。 諸氏の戦死された父や兄弟は何を希求しているのであろう。 再び肉親を戦場に駆り出さない誓いをたててくれ、と願っているのではないか。 (略)形式的に九段(靖国神社)に参拝するよりも、不戦の誓いの靖国神社は、 各人の胸のうちに祀られ、祈られるべきではないのか。 そうでなければ、敗戦の無意味な犠牲者に過ぎず、それこそ犬死にとして終わるのではないか。

敗戦後、兵器受領の蒋介石軍将校が我々に言い放った。 『日本軍の捕虜になった私は、南京下関(シャーカン)で日本軍の虐殺に遭った。 次々銃殺される戦友の死体の中に、死んだふりをしてうずくまっていた。 夜陰ひそかに脱出して今日まで生きてきた。 その時の事を思うと無念の思いであり、今、お前たち捕虜を銃殺したい。 しかし蒋介石総統の、怨みに報いるに徳をもってせよ、との命令に従って助けてやる』と、 厳しく言われて、助命されたことは忘れられない。 流水とどまらず、先を争わず、大江日夜悠々流る、 の大人の風格で中国人民が寛大に対処してくれたのである。

我々は姑息で卑怯であってはならない。 真の友好は真心のつながりから生まれると思う。 日本人が唱える赤心とは、真心、誠とは何か。 隠しきれない事実を、隠そうとする臆病と卑怯さこそ、平和と友好を阻害すると思う。 匿名氏よ、中国軍が日本へ侵略して来たのではない。 日本軍が中国へ侵略して行ったのである。 この原点を忘れると、すべての観点が狂ってくる。 この原点が考える根本である。
                      京都府 東史郎(工作機械製造業76歳)」

、 私自身は、この文章を読んで初めて、 戦死した日本兵が残した「願い」ということを教えられ考えさせられた。 侵略戦争で加害者として異国の地で死んだ、私たちの祖父たちの「願い」とはなにか、 願いを聞きとどけるとはどういうことか。 しかし、この新聞が掲載されても東さんの真意は伝わらなかった。 伝わらないどころか、その証言が真実であるが故に、東さんの口封じをするために、 いろいろな策動が始まるのである。

さらに、12月13日に南京を訪問し、中国人民に謝罪した姿は、 「裏切り者・国賊」と映ったのであろうか 東史郎さんの所属していた第3中隊の戦友会「中隊会」の会長が「除名」を通告してきた。 あらたに「20聯隊の名誉を守るため」に「福知山20聯隊愛護会」が結成された。 その後、日記の公刊と南京市での謝罪から5年半も過ぎた1993年4月、 東さんは「名誉毀損」の裁判で訴えられることになる。

南京50周年・南京訪問

東さんが証言した年の12月、 南京事件調査研究会(会長は故洞富雄先生)の一行が 南京50カ年を記念し受害者を追悼し、さらに調査研究のため南京市を訪問され、 東さんも同行した。 東さんは、「あの時は、段月萍副館長が上海まで迎えに来てくれてた」と語り、 後に段副館長からも「東さんは、上海から南京までの列車の中で身体を震わせていました。 食事もあまりとられませんでした」と、少し緊張した東さんの印象をお聞きした。 東さんは、「南京の記念館の庭で群衆に取り囲まれた時、復讐を覚悟した」という。 しかし、復讐ではなくたくさんの質問責めにあった。 最後の質問は一人の女性からで、「いかなることがあっても過去は過去、 これからの中国と日本の関係はどうあるべきと考えるか」という聡明な質問であった。

さらに応接間で幸存者のおじいさん、おばあさんと対面した。 そして幸存者の靴屋さんと握手した。 東さんは「それだけでも南京に来た甲斐があったと思った」と感想を述べられている。 (#2)

謝罪のために訪問した南京であったが、50年前の記憶が東さん自身に問いかける。 言葉にならない。ただ頭を下げるだけ。 「南京の人たちにたいへんなご迷惑をかけた。 どうもあいすみませんでした」という言葉がやっと出た言葉であった。 しかし、日本の学者の方々には「不十分な言葉」と感じられたようである。

長年南京の紫金山天文台に勤務されていた劉彩品さんは、 この東さんの訪問について「いつまでもひざまづいている東さんを見て、 記念館にいた中国人は感動しました。 新聞記者はそれを記事にし、その記事を見た私たち、南京に住む者も感動しました」と、 語っている。(#3)

後、1993年に始まった東史郎さんの南京裁判に対し、南京市の市民が、 惜しみない支援と声援を届けてくれたのは、 南京50カ年の年に南京を訪問し謝罪された東史郎さんの「記憶」があったからであろう。 同じ年、東さんを「除名」にした、京都16師団20聯隊第3中隊会も、南京を訪問している。 このほうは南京戦で戦死した戦友の「慰霊の旅」であった。

裁判の背景

東さんの日記の一部は『わが南京プラトーン』として出版されたが、 下里正樹著『隠された聯隊史』、 木坂順一郎編『南京事件・京都師団関係資料集』(青木書店刊)にも引用されており、 この3冊が関連して訴えられることになる。

1993年4月15日、東史郎さんほか2名を、「名誉を毀損された」として、 謝罪文掲載・損害賠償等を求めて提訴したのである。 原告の橋本光治氏は、歩兵第20聯隊第3中隊第1分隊の元分隊長で上官であった。 東さんの八十数年の人生のなか、そして数年に及ぶ軍隊生活のなかで、 たった4か月間だけ、寝食を共にした仲である。

原告橋本氏は、「中日新聞の記事を読んだ知り合いから、中日新聞の記事の内容を聞かされ、 更に本件書籍3には原告の名前が出ていると聞かされた」(#4)と、 聞き伝えにより裁判を起こしたという。

提訴から5年後の1998年9月の第2審東京高裁での本人尋問の時ですら 「わが南京プラトーンを読んだことがない」「本すら知らない」(#5)と証言している。 また東側弁護士から「訴えをすることについて、誰かと相談しましたか」と聞かれ、 「教えてくれたのは(略)大小田、それから妻形君、 これはおまえのことだよといったことで、その後話があり」、 さらに「板倉さんから相当この裁判に向けてのアドバイス」があったのかという質問に対し、 「話はございました。相談もしました。」と答弁している。

原告橋本氏は、自分の名誉を毀損したとする「本」も見たことも読んだこともないまま、 「おまえのことだよ」と戦友から教えられ、板倉氏らと相談して訴訟を起こしたという。

提訴後、原告代理人高池勝彦弁護士事務所には「南京事件の虚構を正す会」が置かれた。

偕行社発行の『南京戦史』の編集委員でもある板倉由明は、 この訴訟が起こされた翌月に「南京虐殺の虚構に挑戦 橋本訴訟の経緯とその意義」と題し、 「この訴訟は、一見橋本氏個人の名誉回復を目的としているようだが、これを突破口として、 歩20の残虐行為の虚偽を証明して名誉を回復し、さらに、 いわゆる『南京大虐殺』の虚構を明らかにできれば、 日本国全体の利益とも合致する」(#6)と訴訟の意義を示した。

提訴2か月後の1993年7月、 板倉らは1994年度用高校教科書『世界史B』(一橋出版)の「中国の抗日戦争」の章に 東日記の一部が引用されたことに対し、 「名誉毀損の係争中の本からの引用は問題」と執拗な抗議をくり返した。 一橋出版社側は、1994年度の現場での使用を優先させ、 「中島今朝吾師団長日記」と差し替えた。 ところがその事を反対に利用し、「教科書から削除されるほど誤りが多い日記」であると 「意見書」(甲第46号証1995年8月1日)を提出した。 つまり、板倉氏はこの東裁判を利用して出版社側に圧力をかけ、 「東日記」の引用記述の削除・差し替えさせ、その事をもって、法廷内では、 「教科書でさえ削除した」と主張したのである。

この裁判の本当の主人公は一体誰なのか。

「勝てる裁判をやらなければ、与論の流れをかえることはできない」と考えていた板倉氏が、 郵便袋事件について「橋本氏の名誉毀損にならないか」と高池弁護士に語り、 「なるのではないか」と「急に親しくなり、しばしば連絡を取り合うようになった」(#7)と、 原告の弁護士白身が書いている。 与論の流れとは、1993年8月の細川首相の 「先の戦争は侵略戦争であった」という発言のことや 教科書に「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」が記載され始めたことを指すのであろうか。 流れを変えるために、原告橋本氏を「傀儡」にしたてた、別の主人公たちがいたのである。

「名誉毀損」に問われた、「郵便袋事件」

東日記の1937年12月21日の欄には、 日本軍占領下の南京市内にあった最高法院(最高裁判所のこと)の前で、 同じ分隊の「西本」が、中国人を郵便袋に入れ、袋にガソリンをかけたうえ火をつけた後、 袋の紐に手榴弾を結びっけ、沼に放り込み、手榴弾を炸裂させた、と記されている。 (東さんは、「道徳は時代によって変わる。 故に戦友の名を仮名にした」ため、『わが南京プラトーン』では「西本」となっている。)

東京地裁1審判決は1996年4月、東京高裁2審判決は1998年12月にいずれも、 この記述は虐偽であり橋本氏の名誉を毀損したと判断し、 東氏や出版社らに対し金50万円の損害賠償金の支払を命じた。 東氏らは2審判決に対し直ちに上告したが、 2000年1月21日最高裁においても上告棄却の決定が下された。

第1審地裁判決は、「南京事件の歴史学上の論争に判断を加える事を期待されている訳でも、 これをよくするものでもない」として、南京事件については、 「多数の捕虜や非戦闘員である中国人が日本兵によって殺害されたとの事実については、 ・・・概ね否定しがたい事実」と、家永教科書裁判における南京事件の判断を踏襲した。 しかし、郵便袋事件については、「不自然というべきで、・・・客観的証拠はなく・・・ 事実と認めるに足りない」と、原告橋本側の主張に引きずられた判断を下した。

第2審に向けて、関西で弁護団と東史郎さんの南京裁判を支える会が結成された。 そしてこの郵便袋事件が、物理的にも科学的にも、また当時の歴史事実に照らしても、 なにら不自然でもなく、この判決は、 南京大虐殺事件総体のなかでこの郵便袋事件を判断していない 歴史を無視した判決であるとして、実証活動、証拠集めに奔走した。

南京での手榴弾再現実験を成功させ、人が入れる郵便袋の存在を確認し、 当時の自動車の構造を明らかにした。 また、現地調査や当時の航空写真や地図により、最高法院前の池の位置の確認をした。 また、水中に人を袋に入れて5秒で沈む深さを計る実験など、できることはすべて行った。

1998年9月結審となり、11月26日が判決言い渡しの日とされた。 ところが11月に入って「判決文が書けないから」という理由で、 12月21日に延期されたのである。 11月25日から、江沢民国家主席の来日が決まっていた。 「政治に左右される判決がでるのではないか」。 東さんは心配して語った。私も同じ思いであった。

はたせるかな12月22日、東京高裁も郵便袋事件に関し、 「到底実行可能性があるものとは認めることができない」とし、 「控訴人東が具体的な事実を再現して供述することができなかったのは、 本件行為を目撃していなかった、すなわち、 本件行為が実行されていないからと推認せざるを得ない」と、 歴史を「推認」に基づいて判断した。 また、東日記について、橋本側からも東側からも一度も主張されたことのない 「戦地メモ」の存在を裁判所自身が創作し、 戦地メモがないから「戦後に書かれたもの」などとまったくの暴論を披瀝した。 まさに「結論先にありき」の判決である。

東京高裁判決の直後、原告橋本側は記者会見の席上、 「南京虐殺握造裁判勝利」という横断幕を揚げた。 法廷を利用して、南京大虐殺事件を虚構化しようとする、 この裁判の推進側の意図を明らかにしたのである。

判決後、この本の出版元の青木書店が右翼青年により襲撃され、事務所が破壊され、 青年が逮捕されるという事件が起きている。

高裁判決後の12月25日、東さんは最高裁判所に上告した。

第1審、第2審とも日記記載は、 「実行者に危険で、実行可能性がない」という理由で敗訴になっていた。 再度、日記記述通りの方法で手榴弾再現実験を行った。 危険性もなく悠々と行えた、その証拠ビデオと書証を提出した。

さらに、東京高裁の判決前に、 香港テレビのインタビューに原告橋本氏が答えたビデオを証拠とし提出していた。 原告橋本氏は法廷では「自分は中国で人を殺したことがない。 強姦もしたことがない。 略奪も死体も見たことがない」と証言していた。 ところが、インタビューでは「私も人を殺しました。 戦争は人を殺すのが仕事だから」 「東日記に書かれているから、あそこ(最高法院前)にいたと思う」 と答えた証拠も最高裁判所に提出した。 それらを提出したのが、12月上旬。 しかるに1月21日に判決がでるということは、 弁護団の提出した重要証拠をほとんど検討しないままで、決定を下したと考えざるを得ない。

1999年12月13日、支える会では中国南京市を始め、 各地から寄せられた「南京大虐殺の史実に基づいた厳粛な司法判断を要求する」署名を 7万人分提出した。 それを見て判決を先に延ばせば延ばすほど、国際的な注目を集め、 国際世論の圧力が裁判所に来ると考え、 そうならないために早い時期に決定を下したものと考えられる。

時あたかも、大阪府・市の経営による「大阪国際平和センター」で、 「20世紀最大の嘘『南京大虐殺の徹底検証』という名目の集会開催の直前であった。

問われる歴史認識

この最高裁判所決定の翌日、 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館と南京侵華日軍南京大屠史研究会は最高裁判所に対し、 次のような抗議文を送付した。

「日本最高裁判所殿 (略)我々は、このような歴史の事実と公正な道理と正義を無視し、 公然と侵略と加害者の立場を頑固に堅持する日本の旧軍人を庇護し続けた、 白を黒と言いくるめる、物事の是非を混同する恥を知らないこの判決に対し、 最大の憤怒と強烈な譴責をここに表明する! (略)残念なことにあなた方は、天下の悪事を偽り、日本の地方裁判所、 高等裁判所から最高裁判所に至るまで、法の法理を蔑視し、証拠を無視した。 そして徹底的に、日本の司法制度が侵略者と加害者に加担したことを自ら暴露した。 また日本が歴史の真相を守ろうとする進歩的な勢力に圧力をかけ、血腥い歴史を、 極力覆い隠そうとし、抹殺したことは、日本人の醜い歴史観を具体的に表明したものである。 白を黒と言いくるめる顛到した判決は、世界司法史上、 永遠に拭い去ることのないぶざまな一頁として記憶されるだろう。 (略)東史郎氏は幾度も誠実に受害者の中国人民に熾悔し、 被害者の人民から寛大にも許され、尊敬を勝ち取られた。 彼の弁護団もまた何度も南京を訪問され、現地調査をし、大量の証拠を得た。 たとえあなた方裁判所が今回の事件において、不当な判決を下そうとも、南京の人民、 中国人民、そして平和を愛する世界中の人民は、終始東史郎さんを支持する。 我々は堅く信じている。 歴史を尊重する者は歴史から尊重され、歴史を否定する者は、歴史から否定される!」。

また、唐家セン(王ヘンに施)中国外交部部長は26日、 中国に駐在している谷野作太郎日本大使を招き、 日本側に中国政府の厳正な立場を再度表明し、次のように述べた。 「(略)右翼勢力による反中国集会に先立ち、 日本の最高裁判所はまた南京大虐殺の事実と真相を暴き出した 東史郎などの敗訴判決を理不尽にも下した。 中国政府と全中国人民は、日本の右翼勢力の時流に逆行する行動や、 日本の最高裁判所が司法の形式を用いて、正義を抑え、 公然と右翼分子の手先となったことについて、強烈な憤りを表すものである。」

一言で言えば「憤怒」、共に外交文書としても、非常に厳しい「強烈な憤り」という言葉を、 日本の司法界はどう受け止めるのであろうか。

東京高裁の判決の後も、中国側からの抗議に対し日本政府は、 この裁判は「単なる民事訴訟にすぎない」と対応した。 しかし、実態は、司法の場を利用し、南京大虐殺の歴史を否定し、 良心に基づいた証言者の口封じをはかり、見せしめにし、 他の体験者に証言を躊躇させるという萎縮効果を与えるというのがこの裁判の本質であった。 中国側は、この裁判の本質を的確に認識していた、

裁判所は、裁判を提起した橋本氏の後ろの勢力を見て見ぬ振りをし、 あたかも通常の名誉毀損裁判として扱った。 歴史認識をめぐる裁判であるにも関わらず、歴史認識を欠いたまま判断を下した。 それ故に全く間違った判断をしてしまった。

さらに、この裁判の本質の一つは、被害国・中国の人民の感情に直接に関わる裁判であり、 中日両国問の国際関係をも配慮して厳粛に審議されるべき裁判でもあった。 ところが、日本の司法に、この観点はまったくなかったといって過言でない。

この裁判は、東史郎さんが問われたのではなく、むしろ日本の司法の歴史認識、 国際感覚が問われた裁判であった。

歴史を尊重する人を、尊重する社会に!

最高裁判所での闘いは、公正であるはずの行司によって、一方的に幕が引かれた。 しかし私は、東史郎日記は南京大虐殺を始め中国侵略の史実を記録した一兵士の資料として、 貴重な歴史記録であることは、 いかなる裁判所の判決があろうとも全く揺らぐことはないと確信している。 私白身この東日記によって、戦場で人問がどうなっていくのか知り、 学ぶことができたと感じるからだ。

裁判闘争で積み重ねてきた成果はとても大きいと私は考える。 一つは、証言者の口封じをねらっていた裁判であったが、東さんの口封じはできず、 裁判の支持者は広がり、証言の機会はますます増えている。 さらに、インターネットを通じてこの裁判の情報が全世界に届いており、 日本国内の裁判情報が、同時に、国外の人々とも共有し考えることができるようになった。 また、東さんの南京裁判を、中国の友人たちと共に闘うことにより、 平和や友好関係とは共同の闘いのなかで、共に作り上げていくものであることを感じた。 南京大虐殺記念館の朱成山館長は、東さんに「歴史を尊重する人は歴史から尊重される。 歴史を否定する人は歴史から否定される」という言葉を贈られた。 この東史郎さんの闘いは、歴史を尊重する闘いであり、私たちの闘いは、 歴史を尊重する人を尊重する日本社会を作る闘いであると思う。 私たちの闘いに終わりはない。

(#1)「軍国主義をふたたび化膿させないために−−東さんの戦争体験と南京裁判」 1998年6月、アジアの民衆と共に・デイゴの会発行
(#2)『差別とたたかう文化』99年冬15号、「差別とたたかう文化」刊行会編
(#3)『「自虐」ではなく「自省」を』第3号、 98年4月30日東史郎さんの南京裁判を支える会発行
(#4)橋本光治 「訴状」、1993年4月14日
(#5)「第12回口頭弁論調書」9頁、1998年9月8日
(#6)「月曜評論」1993年5月17号
(#7)板倉由明 『本当はこうだった南京事件』、1999年12月8日

                                (京都府、団体職員)


「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。


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