「人権と教育」月刊32号(2000.5.20)

甦える亡霊

『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究』批判

山田要一


アイリス・チャンの著作 "THE RAPE OF NANKING -- THE FORGOTTEN HOLOCAUST OF WORLD WAR II" (『ザ・レイプ・オブ・南京−−第二次世界大戦の忘れられたホロコースト』−−以下、 原著)が、南京大虐殺60周年の1997年12月にアメリカで出版されると、 それは全米的に反響をよび、 翌年にはぺ−パーバツク版も出て発行部数も50万をこえたという。 中国語版も出版された。 99年春にはドイツ語版も出て「割合無批判的に受け入れられている」とのことだ (座談会「国際問の悪循環を断つために」『週刊金曜日』99・11・5)。 日本でも翻訳出版の計画があった(柏書房)が、結局は中止され、 日本人の多く(の一人、私)にとって原著は(2000年3月の) いまも閉じられたままである。

それにしてもこの原著の出現はその内容とアメリカにおける反響の大きさのゆえに、 日本の南京大虐殺研究者・ジャーナリストにとってよほど衝撃的だったようだ。 「虚妄派(南京大虐殺は事実でなく虚妄であるとする人たち)」 「真実派(南京大虐殺は歴史的真実であるとする人たち)」それぞれにどっと反応した。 「虚妄派」が、 原著の全否定を南京大虐殺そのものの否定につなげようと躍起になっているのにたいし、 「真実派」は、原著は「実証を抜きにした感情的な日本攻撃で、 かえって右翼に言いがかりの種を与えている例」 (藤原彰「すべては事実の認識から」前同)であるとして、反感と困惑の体であった。 「真実派」はその後、特集「世界がみつめる/南京大虐殺の歴史的事実」 (『週刊金曜日』00.2.11)などで、当初の、 いわば反射運動的反応を乗りこえようとしているようではあるが、 原著の内容についての評価は、両者、意外に重なり合う。

というわけで、ある時期、やれ事実誤認が多く、史料批判が杜撰であるの、 新事実の掘りおこしがほとんどないの、独断的で、日本にかんする見方が歪んでいるの、 などなど、ほとんど全面否定に近い論評が、ときに、 原著がアメリカ華僑に読まれる背景には、 中国系アメリカ人が「民族の一つのアイデンティティとして南京事件をとらえる面がある」 (さきの座談会の笠原十九司発言)といった解釈をまじえながら、 わっとばかりに原著を取り囲んだ。 −−といって、一般の人には原著がみえない。 −−これを「アイリスチャン現象」という。

この「アイリスチャン現象」の一つが、 藤岡信勝/東中野修道『「ザ・レイプ・オブ・南京」の研究 −−中国における「情報戦」の手口と謀略』(祥伝社、初版平成11年9月10日、 −−以下、『研究』)の出版であろう。

この『研究』の主要部分は、 一つは第2章、第3章の「写真」と「本文」の「検証編」であり、もう一つは、 日本語版の出版中止を素材にした「第4章『情報戦』というもう一つの戦争」であるが、 この『研究』には著者たち(時に東中野修道) の日中戦争史観がコンパクトにおさめられている。 すなわち「第1章(2)そもそも『南京事件』とは何か」である。 以下、私はまず、藤岡=自由主義史観の、 いわば思想的体質といったものの一端を発(あば)き、ついで、 「虚妄派」東中野修道の日中戦争史観の時代錯誤性を「検証」する。 (なお、原著の引用にもとづく論評部分にはふれない。 なにしろ私はまだその本を読んでいないのだから。)

1.藤岡信勝の思想的体質

藤岡は、この『研究』について、 −−それでもさすがに「翻訳書が出る前に反論書を上梓するという異例な結呆」と、 その「異例」を認めているが−− 「本書は、(略)『ザ・レイプ。オブ。南京』のウソを全面的に暴露した反撃の書である。 それが、中国特有の反日宣伝の書であり、デマを書き連ねたものであることを明らかにし」、 「戦時プロパガンダを60年後に再現した中国の『情報戦』の産物であることを 解明したものである」と説明している(「まえがき」)。

つまり、藤岡によれば、アイリス・チャンの原著は、 「中国の『情報戦』の産物」としての「反日宣伝の書」、ということになる。 こういうものの見方は、彼に特徴的なものであって、すでに、 藤岡独創の「自虐史観」なる面妖な「史観」においてもみられたものである。 藤岡は「自虐史観」をつぎのように定義した。

「敗戦後、アメリカの国家利益にもとづく『東京裁判史観』と ソ連の国家利益に起源をもつ『コミンテルン史観』が、 『日本国家の否定』という共通項を媒介にして合体し(て生まれたのが『自虐史観』で) それが歴史教育の骨格となったのである」 (『近現史教育の改革』明治図書、初刊96・3)

藤岡は要するに、 いまの歴史教育・教科書は「日本国家の否定」を目論む国際的謀略の産物としての 反日教育・教科書であるといっているのだ。 ここから、日本の歴史上の負の遺産を歴史的現実として認めること一切の拒否、 具体的には、南京大虐殺や従軍慰安婦問題の教科書記述に対する攻撃が導かれた。

藤岡=自由主義史観にとって日本は、 つねに国際的反日謀略の網に取り囲まれた「情報戦」被害者である。 だから藤岡にとって、 中国系アメリカアイリス・チャンの原著を攻撃する 日本人藤岡の『研究』は、あくまで「反撃の書」であり、それ以外ではありえない。

中国の「情報戦」なるものについて、藤岡はつぎのように いう。
「中国にとっても『南京』は『情報戦』の格好の材料の一つにすぎず、 中国は『南京虐殺30万人』という虚構を世界中に振りまくことによって 日本を窮地に追い込み、自国が利益を得ることを目的としている」、 「極端な話、中国にとって歴史の真実などどうでもいいことであり、 都合の悪いデータが出てきたらかえって困るだけであるから、 歴史の真相に迫る試みなど余計なことなのである」(『研究』第4章)

つまり藤岡は、アイリス・チャンの原著出版は、 中国の国益にもとづく対日情報戦略の一環、 −−傲慢で侮蔑的な言葉つきをあわせ考えて言い直せば、 −−暴戻(ぼうれい)中国の日本挑発だ、といっていることになる。

そして、自分たち=「虚妄派」の「反撃」、 すなわち原著攻撃を3つの分野に分けてかぞえあげ−−「写真」(第2章)、 「メディア」(『諸君!』『正論』『文嚢春秋』『SAPIO』誌上の諸論文、 映画「プライド」、漫画『戦争論』)、 「研究」(東中野修道『「南京虐殺」の徹底的検証』)−− 「3つの分野の動向が相乗効果をもたらして、(略)翻訳の出る前から、 この本は間違いだらけの本らしいという常識が、 日本国内では多くの人々の間に共有される状況になった」と、 日本における原著環境を語っている。 「この本は間違いだらけの本らしい」という先入見を、「常識」と語るこの語り口は、 やはりアジテーター藤岡のものである。

そして、翻訳出版の中止と「虚妄派」の活動について、つぎのように総括している。
「柏書房の出版中止の決定は、 チャンの本が反日プロパガンダの目的で書かれた本であるという本質から生じたものである。 それは決して免れることのできない矛盾なのである。 しかし、その矛盾を顕在化させたのは、 この1年あまりの問に展開された同書に対する活発な批判活動であった。 この出版延期はこれらの意識的取り組みの成果でもあるのだ」
この、はやばやの総括における「成果」の誇示。 藤岡にとってすべてはプロパガンダなのだ。

つづけて彼は、言論の自由の擁護者として、 「むしろ、翻訳書(略)の出版を歓迎する」といってすぐ「しかし、(略)もはや、 かつてのように一方的な宣伝がノーマークで浸透する時代ではなくなっている」と、 すなわち、〈挑発はご自由に。しかしそれは必ず反撃されるであろう〉と警告している。 そしてこの章の最後を「日本人に『自虐史観』を植えつけるための 最大の『教材』となってきた『南京大虐殺』のウソが通用しなくなる日も、 そう遠くはない」という藤岡の夢で結んでいる。

これはたしかに「藤岡の夢」であり、社会的には妄想にすぎない。 そして、この妄想が社会的に生き延びられているのも、また、 「真実派」がよく指摘するように、「南京大虐殺については、 否定派の完全な敗北によってとっくに決着がついていた」 (本多勝一『週刊金曜日』00・2・11) にもかかわらず「虚妄派」が議動をやめないのも、大衆的無関心あってこそ、である。 いま、大衆運動としての南京大虐殺研究がもとめられるゆえんである。

2.盧溝橋から南京まで−−東中野修道とともに

東中野は、第1章(2)の最初の項で、「なぜ日本軍は南京まで行ったのか」を問う。 この問いは、南京大虐殺を問題にするとき、不可欠の問いである、

以下、東中野の「本当に日本は侵略の野望に燃えて、 好き好んで南京まで進軍したのだろうか」という疑問につきあいながら、 盧溝橋から南京までの5か月を追うことにする。 東中野における欠落を補いながら。 なにしろ、この人は、語った部分より、語らなかった部分で多くを語っているから。 −−なに、普通の歴史書で十分。−−

1 盧溝橋で

東中野は、日本軍の華北(当時、日本では「北支」)駐留については、 「日本のほか、米英仏伊の軍隊が自国民保護のために駐留していた。 これは1901年の辛丑(しんちゅう)条約に基づくものであった」と(だけ)いって、 すぐ盧溝橋事件の「第1発」の謎解きにうつる。

東中野にとって日本軍の華北駐留は、 「ほかの国」の軍隊も駐留していたのだから国際的に正常であり、 「自国民保護のため」だから目的は正当、しかも条約に基づくのだから合法的であり、 どこから見ても「侵略」などまったく関係のない、 ごくまっとうな国家・軍事行動だったのだろう。

では、辛丑条約とはどんな条約だったのか。
19世紀末から欧米列国の中国植民地化・侵略は本格化し、日本はその後を追った。 それにたいし激しく抵抗したのは清朝ではなく、むしろ、 「扶清滅洋」(清をたすけ、外国をやっつける)を掲げた民衆運動としての義和団であった。

民衆に支持された義和団の勢いは強く、1900年6月には、 北京の公使館区域を包囲攻撃した。 しかし、その義和団も、 居留民救出のため出動してきた8か国連合軍(日本は最大出兵国)によって撃破され、 連合軍は8月14日北京に侵入した。 それからの約1年、連合軍は華北を占領、その間、連合軍兵士は中国民衆の上に、 暴力・略奪・殺人をほしいままにした。 そして1901年、清国は日英露など11か国と辛丑条約を結んだ。 それは清国にとって屈辱的で苛酷なものだった。 賠償金も4億5千万両(テール)(約6億3千万円)という莫大なものだった。

ところで、日本が政治問題にかんする列国会議に参加したのはこれがはじめてで、 このとき日本は、はっきりと欧米列強の側に立ちアジアと向き合うこととなった。 その後の日本を考えるとき、辛丑条約は非常に重要な意味をもつ条約であった。 日本はこの戦争を「北清事変」とよんだ。

その後すぐ日英同盟が実現し、3年後には日露戦争がはじまる。

その後、日本の中国東北部における植民地経営は膨張し(この辺はよく知られたことだ)、 その国家権益を確保するための日本軍駐留であった。 侵略軍以外の何ものでもない。 それに住民にとっては、軍隊の駐留自体が、戦争を意味する。

そして37年7月7日、暗闇のなかの「一発の銃声」、盧溝橋事件の「勃発」である。 東中野はいう。 「中国軍の度重なる射撃に対して日本軍がはじめて反撃したのは、 4度目の攻撃の後であった。 つまり東京裁判の冒頭陳述でラザラス弁護人が反論したように、 この間の日本軍の行動は『すべて純自衛的性質のもの』であった」と。 かれはここで、しきりに挑発する「支那」軍に対するに、その挑発にじっと耐える日本軍、 やむなく「反撃」、という当時の日本人におなじみの物語りをむしかえしている。

その4日後の7月11日、日本軍は冀(き)察政務委員会と停戦協定を締結した。 しかし、東中野はこの停戦協定にはまったくふれず、日本軍の総攻撃について、 「事件の後、日本軍は戦線不拡大の方針を守り続けてきたが、支那側の度重なる攻撃に、 7月28日、ついに(略)3週間に及んだ消極策を放棄して、戦闘に踏み切ることになる。 そして翌日29日は、北平(ペイピン)と天津で掃討戦を終わらせた」と、語っている。

つまり暴戻(ぼうれい)「支那」の度重なる挑発にも、隠忍自重(いんにんじちょう)、 耐えに耐えてきた日本軍も、ついに堪忍袋の緒が切れて、 ようやく膺懲(ようちょう)の鉄槌を下した、ということになる。

ところで東中野は、これまで一度も日中双方の政府・軍中央の動向に言及していない。 これは不思議なことだと思うのだが、しようがない、 私が東中野にかわって必要なかぎり補うことにする。

日本政府(近衛文麿内閣)と支那駐屯軍は、 最初はたしかに「事件不拡大・現地解決」の方針をたてた。 ところが、現地で停戦協定が結ばれたまさにその日、7月11日、 政府は中国軍の行為は「計画的武力抗日」であるときめつけ、 5個師団を華北に出兵するという「重大決意声明」を発表した(「北支事変」と命名)。 天皇はこれを裁可した。 事件後4日にして、「不拡大・現地解決」方針は、 天皇・内閣・軍中央によって打ち棄てられたのだ。 「いざ、戦争」という気運は日中双方にいちだんと盛り上がった。

この間現地では、中国軍に対する日本軍の要求はエスカレートし、ついには、盧溝橋城、 そして北京城・北京市からの撤退を求めるまでになり、中国軍を追いつめた。

一方中国側では、7月15日、蒋介石・周恩来会談(廬山会談)が開かれ、17日、 蒋介石は「いまや中国は生死の関頭(分かれ目)に立っている」 (「生死関頭演説」)と演説し、徹底抗日の意志を表明した。

抗日にむけて、中国の統一態勢が整えられていった。

日本軍の28日の総攻撃は、戦線を華北全体にひろげた。 そして29日、冀(き)東防共自治政府の所在地・通州で、 同政権の保安隊が日本人を殺害するという「事件」が起きた。 そのときの惨状を東中野は、ある外国人の記録を引用して語っている。再引する。
「日本人(略)たちが、野獣のような支那兵に追い詰められて、 女性と子どもたちは兵士の中の暴漢に暴行され、 男たちと一緒にゆっくりと拷問に晒(さら)されたのである」

そして東中野は、「軍隊が非武装の民間人を攻撃するのは、 いかなる理由であれ戦時国際法違反である」と指摘して、 最後にわざわざ「(ちなみに)」この記録者も 「南京虐殺については記していない」と紹介している。

かれは、かたときも「虚妄派」たる自分の任務を忘れない。

2 上海で

戦火は上海に燃えうつり、東中野の論述も「上海事変」にうつる。 8月9日、当時上海に駐留していた海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が、 中国保安隊によって「虐殺」された。

陸戦隊の上海駐留は、 戦禍を避けて中国各地から流入した日本人などによって 「4万人以上にふくらんでいた」上海在住の日本人保護のためである。 「また、(略)関係各国は、自国民保護のため上海に軍隊を駐留させていた」。

東中野は、この事件の真相、中国の策謀を探りながら、この事件は「和平交渉を棚上げし、 日本を戦争に引き込むための挑発であった」と結論し、 「というのは、蒋介石が対日戦を決意したのは、 その2日前の8月7日であったからだ」という。 「7日」という日の特定にかんしてはなにも語っていないが、 いまはそんなことはどうでもいい。

8月8日、蒋介石は「全将兵に告ぐ」という演説で、つぎのように訴えている。
「9・18(「満州事変」)以来、 われわれが忍耐・退譲すればかれらはますます横暴になり、とどまるところを知らない。 われわれは忍ぶれども忍ぶをえず、退けども退くをえない。 いまやわれらは全国一致して立ち上がり、侵略日本と生死をかけて戦わねばならない」

抗日意識は中国民衆の間に燃えさかり、「全国一致」の抗日態勢が築かれていった。 こんな中での8月13日の「第2次上海事変」の「勃発」だった。 ここが、当時、中国人を「チャンコロ」よばわりして 「一撃屈服」などと目を血走らせていた日本人の軍人や、 それに歓呼する国民にはみえていなかったし、いまも、 たとえば東中野のような人たちには見えていないのかもしれない。

東中野はいう。
「日本の租界を取り巻いていて待機中であった支那便衣隊が(略)射撃を開始した。 『便衣隊』というのは(略)一般市民をよそおって活動した正規軍部隊のことで、 戦時国際法違反の存在であった」と。 つまり、戦時国際法違反の存在によって射撃が開始された、 「支那」側の不当・不法(しかも二重の)は明らかである、と。

しかし、さきにみたような抗日態勢のもとで、多くの市民・学生が抗日戦に参加した。 かれらは当然「便衣」着用であった。

ついで東中野は、「次いで(略)正規軍も発砲してきた。 このため、日本軍も応戦の火ぶたを切った」という。 またも、「支那」軍の発砲=挑発に対するに、 日本軍の隠忍自重の果ての「応戦」=膺懲である。

かれはまた、外国人特派の記事、 すなわち「支那における外国権益を渦中に引込むを企図したる支那人に依りて、 文字通り戦争に押込まれた」(引用文は片仮名)といった記事の引用によって、 日本軍の「応戦」=中国軍攻撃の正当性を「検証」している。

こうしてかれは、つまりは、 日本軍の上海(その他の地域)駐留の非侵略性を「検証」しようとしているのである。

東中野は、「日本を戦争に押込」んだ要因の一つとして、 8月14日の「支那空軍機」の爆撃のことはちゃんと書いている。 が、その翌日15日の日本海軍航空隊の「南京渡洋爆撃」については一言の言及もない。 それは南京、これは上海だからか。 そんなことはない、それに続く「世界航空戦史上未曾有の大空襲」(海軍省) についても東中野は全くふれていない。 この「大空襲」では対象地域も南京だけでなく南昌・広東(広州)・武漢、 そして上海にまでひろがっていたのだ。

都市無差別攻撃としての「大空襲」は、残虐性と非人道性において、 同年4月26日のドイツ空軍のゲルニカ爆撃と共通するもので、 その規模をさらに組織的に拡大したものである。 −−ピカソはゲルニカ爆撃の5日後「ゲルニカ」作製に入った。−− この「大空襲」は、いよいよ激しさをました8月29日南京駐在の米英独仏伊 5か国外交代表の爆撃停止を求める抗議書を受け取らねばならなくなった。 さらに9月28日国際連盟は「対日本非難決議案」を全会一致で採決した。 −−こういうことも藤岡たちにかかれば、 対日謀略の一環ということになってしまうのかもしれないが。−−

この「大空襲」の「戦略爆撃の思想」はやがて、第二次大戦の、 B29による東京大空襲となり、ヒロシマ・ナガサキとなった。

この「南京爆撃」にまったくふれないということは、 たんに片手落ちとかいったレベルの問題ではなく、歴史の偽造にほかならない。

東中野は・わざわざ汪兆銘の演説まで持ち出して、 「堅壁清野(けんぺきせいや)作戦」(焦土作戦) を中国=蒋介石の基本的作戦と強調している。 「堅壁清野作戦」の強調、日本の「大空襲」の消去、こう並べてみると、どうやらかれは、 南京にいたるまでの橋梁や生活基盤の破壊を堅壁清野作戦のせいにしたくて 「大空襲」を消去してしまったのではないか、と疑われてくる。 だいたい、南京空襲はもう一つの南京大虐殺ともいわれているものなのだ。 「上海事変」「勃発」後問もない8月15日、 日本政府は「帝国としてはもはや隠忍その限度に達し、 支那軍の暴戻を膺懲しもって南京政府の反省を促すため」断固たる措置をとる、という、 いわゆる「断固膺懲声明」を発した。 また、その2日後の17日、「不拡大方針」の「放棄」が閣議決定された。 つまり、「不拡大方針」は公式にすてられた。 それは「拡大派」を励ました。

一方中国では、日本の「声明」のあった同じ15日、「抗日戦総動員令」が発令された。

2個師団から成る上海派遣軍が出兵したが、日本軍も苦戦をまぬがれず、 3個師団の増兵があっても戦線は膠着したままだった。 それはそうだろう。 中国の上海防衛は、国民政府直系軍で組織され、ヨーロッパ製兵器を装備し、 訓練も行き届いた軍隊だった。 祖国防衛・解放の意に燃えていた。 そして、抗日意識の高い民衆の存在もあった。

それに対して日本軍は、民族的差別意識に毒されて、最初は、 ひとひねりだ、とばかりに楽観的だった。 この「楽観」は軍中央のものであり、軍編成にもあらわれている。 この派遣軍は「事変」後、 予備・後備役の召集兵(比較的高年齢)を土台に急造された軍隊で、 中央はこれぞ十分と考えたのだろうが、日本軍は苦戦の連続だった。

しかし、11月5日、3個師団1支隊から成る第10軍の杭州湾上陸によって 背後をつかれた「支那」軍は数日後総崩れとなった。

これで「事変」(9月2日、日本政府は上海も含めて「支那事変」と命名)は終り、 派遣軍の兵士は故郷に「凱旋」できるはずだった。 派遣軍の目的は、7月11日の「陸海軍協定」によって、 上海地区の居留民保護だったのだから、11月7日、 上海派遣軍と第10軍をあわせてつくられた中支那方面軍の任務も同様だった。 だからこそ兵站(へいたん)機関も弱体だった。

3 南京へ

しかし方面軍の指導層は南京攻略派で占められていた。 司令官の松井石根大将にいたっては、上海派遣軍司令官に就任の当初から、 南京占領・国民政府の壊滅を軍の任務ときめていた。 政府・軍中央は、はじめのうちこそ現地軍の暴走を制止しようとしていたが、 強まる圧力に屈し、それに「皇軍」の連戦連勝に歓呼する国民もいる、 12月1日、大本営は方面軍に南京攻略を下令した。 その前、11月20日、天皇は「上海方面の陸軍将兵」に勅語を賜わり、 その後半で「派兵の目的を達し、東洋長久の平和を確立せむこと前途遼遠なり」と、 すなわち「まだまだ」といった。

こうして日本軍=兵士は、志気の劣弱、軍規退廃を軍中央からさえ懸念されながら、 ろくな兵站機関もあたえられず、帰還の希望も断たれて、 南京に向かって突き進むこととなり、中国民衆はその日本軍と向き合うこととなった。 その帰結については想い半ばに過ぎるものがある。

日本軍の南京攻略について、東中野は、日本軍を代弁してつぎのようにいう。
「11月9日、(略)70万人の蒋介石軍は上海から四散した。 その一部が南京に退却したが、南京に退却した総力は今なお不明である。 そのため、日本軍は南京の占領を決意する。 当時南京は国民党政府の首都であり、支那軍の度重なる挑発に業を煮やした日本軍は、 ここを押さえることにより、支那軍の敵対行為を抑えることができる、 つまりこの事変を終わらせることができる、と考えたのである」と。

東中野は、「日本軍は・・・考えたのである」といっているが、 ここは「東中野は・・・考えたのである」と読んでほぼ間違いないだろう。

東中野は、日本軍が「南京の占領を決意」したのは、 「蒋介石軍の一部」が南京に退却した「ため」である、すなわち、 日本軍の南京占領は「蒋介石軍」によって誘発されてのことである、であってみれば、 そこから生じる結果に対する責任は、 基本的には「蒋介石軍」にあると「考えたのである」。 東中野=日本軍は、中国駐留の日本軍にたいする中国「軍の敵対行為」を「抑える」ことが 「事変を終わらせる」ことだという。 このように「考え」る東中野にあっては、日本軍の中国駐留は、自明の大前提であり、 「挑発に業を煮やす」ことはありえても、 「挑発」を避けてさっさと引き揚げることなどはありえないこと、 あってはならぬことになる。

ずーつとつきあって、東中野の日中戦争観は、戦争当時の日本のそれ、 すなわち「暴戻支那断固膺懲」であること、いまあきらかである。 これは、藤岡の現代日中関係観ともぴったり重なり合う。 そして、日本人の一部(数量的画定は不可能だが)中国にたいする民族的差別意識は、 戦後もそのまま社会の奥深いところにトグロを巻いて生きのびて、 いま『研究』にその表現の一つを見出したのでもあろう。
                            (福島県、元高校教員)


「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。


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