「人権と教育」月刊315号(2000.3.20)
■討論のための問題提起・続■

君が代と「天皇陸下万歳」

津田道夫


前号に「日の丸は美しいか」を書いた。 これをコピーして知り合いに配りましたといった電話などもいただいた。 もとより私は、月刊『人権と教育』に書くこの種の文章は、 著作権を放棄しているので、まことに有難いことである。 卒業式や入学式のシーズンでもあり、 つづけて表題のような問題提起をさせていただく。

在位十年記念式典の醜怪さ

それにしても、あれは陳腐を通りこして醜怪であった。 昨99年11月12日、 東京千代田区の国立劇場で行なわれた「天皇陛下御在位十年記念式典」で、 天皇明仁夫婦を前にして、 首相小渕の音頭で「天皇陛下万歳」が三唱されたときのことである。

その記念式典では、天皇夫婦を迎え、出席者千三百名による「君が代」斉唱につづき、 三権の長があいさつを述べ、チェロ奏者のヨーヨー・マが演奏を披露、 つづいて天皇のスピーチがあって、一同「万歳三唱」で式典は終了した。 私はテレビで見ていたのだが、小渕が天皇夫婦を前に、 こちらに背を向けて両手をあげ、「天皇陛下万歳」の音頭をとったのを見た瞬間、 ああ、これは臣従の姿勢だなと、そう思ったことである。 併せて戦闘で降伏するときなど、武器を捨て両手をあげて陣地を後にするのであるが、 あの仕草と同じだと、瞬間気がついた。 つまり、無抵抗・服従の姿勢なのだ。その姿勢を、 主権在民の憲法の条章により首相に任じられている小渕がとったのが、 いかにも醜怪だったというのである。

「君が代」、主権在民を否定するもの

あの間のびした曲が、明治十二年、宮内省一等伶人(れいじん)林守広の作曲、 海軍雇教師ドイツ人フランツ・エッケルトの作調になり、明治26年以来、実質上、 国歌として通用させられてきたのは、よく知られている。 では、歌詞のほうの由来は?

「聖代」(天皇の御世(みよ))をことほぐ用語として、 「君がよ」が登場する最初は、私の知るかぎり万葉集・第14巻である。
  花散(ぢ)らふこの向つ嶺(むかつを)の乎那の嶺(をなのを)の
  州(ひじ)につくまで君がよもがも
だがいいまの歌詞に近いものは古今和歌集巻七、賀寄(がのうた)の初めのところに、 こう見える。
  わがきみは千世(ちよ)にやちよにさざれいしの
  いはほとなりてこけのむすまで
この場合、「わがきみは」といわれる「きみ」は、広く用いられた言葉で、 かならずしも天皇を含意していたとはかぎらない。 ところが、これが、和漢朗詠集に収録されるにさいして、 初句が「君が代は」とあらためられて、文字通り「聖代」の長久を祝う歌とされ、 今日の「君が代」の歌詞としてつたえられているのである。

その由来をみても、 「君が代」が象徴天皇のもとでの国民の長久を祈願するものだなどというのが、 こじつけ以外にないのは明らかではないか。 まさに主権在民の逆を行く歌詞でそれはあるのだ。

「天皇陛下万歳」はいっから?

では、「天皇陛下万歳」は、いつから、どんな由来で唱えられるようになったか。

むかし「萬歳」(ばんぜい)という言葉は、 長寿ないし運命をことほぐ辞として中国から伝えられた。 それば「萬歳旛(ばん)」などというふうに使われていた。 しかし、万歳三唱で両手を高々とあげる儀式は、 いつごろからこの国で行なわれるようになったか。 戦国時代、出陣や戦勝にさいして万歳を唱えた例はきかないし、 江戸時代、公方様万歳とやった例もきかない。 その後、一般化した万歳三唱の儀式は、明治22年2月11日、 この「紀元節」の日、欽定憲法といわれた大日本帝国憲法発布の盛典にさいし、 東京帝国大学の学生・職員が明治天皇の観兵式行幸の歯簿(ろぼ、行列のこと) を拝して万歳三唱を歓呼したのにはじまる。 つまり、主上をことほぐ民の声の表明儀式としてはじまったのである。 その発案者は和田垣謙三博士であった。 それが後、民間でも広く祝賀行事にさいしてやられるようになった。 今日、選挙の勝利にさいして、革新政党すらが、 ”バンサーイ、・・・”などとやらかすのは、いかがかと思われる。

話をもどせば、時恰も、明治のブルジョワ民主主義革命運動ともいわれた、 自由民権運動を強圧的に鎮圧したうえで、 絶対主義天皇制の「正統性」を打ちかためるべく、 帝国憲法発布・市町村制の施行・教育勅語の漢発などが相ついだ時期に、 それは照応していた。 万歳三唱は、本来、 大日本帝国的信条体系への「臣民」の同化のための肉体的な儀式化として 発案されたもの以外でない。

もっとも、イギリス「ロング・リブ・ザ・キング」に対応する歓声を、 どんなものにしようかと思案する過程では、いくつかの案があり、 「天皇陛下奉賀」というのも提案されたという。 しかし、これを三唱するとなると、 「・・・アホーが、アホーが・・・」となってしまい、これではまずいというので、 古色蒼然たる「万歳」をもってきたといういきさつもあったらしい。

何れにしても、「君が代」にしろ、「天皇陛下万歳」にしろ、 主権在民とは縁のないところが、いま、 あらためてもちだされているということなのである。

虐殺された側にそくしでみれば

とすれば、天皇制帝国主義により侵略され虐殺された側にとって、この二つは、 どういう意味をもったか。

中国全面侵略戦争開始の1937年、その12月13日、日本軍は南京を攻略したが、 同17日には、松井石根(いわね)中支那方面軍司令官を先頭に、 南京への入城式がやられた。 前号にもふれた38年製作の戦争記録映画「南京」では、 この入城式の情況も細かく記録されているのであるが、その式典では、 まず「君が代」が吹奏され、 松井の音頭によって「大元帥陛下万歳」が三唱されているのである。 天皇は、統治椎の総攬者であるのといっしょに、 陸海軍の統帥権者として「大元帥」でもあった。 この情景を垣間見たり、仄聞したりした南京の民衆にとって、 「君が代」と「天皇陛下万歳」は、いったいどううつったことであるのか、 それを思うと忸怩(じくじ)たるものがある。

併せていっておけば、南京占領の翌日、37年12月14日、天皇裕仁は、 「中支那方面の陸軍部隊に賜わりたる御言葉」においてこう述べた。
《中支那方面ノ陸海軍部隊カ(が)上海附近ノ作戦二引続キ勇猛果敢ナル迫撃ヲ行ヒ 速(すみやか)ニ首都南京ヲ陥(おとしい)レタルコトハ深ク満足二思フ 此旨将兵二申伝(もうしつた)へヨ》

一方で、南京太虐殺・太強姦・太掠奪・大放火が猖獗(しょうけつ)をきわめていた、 まさにその瞬間の、天皇と、その軍隊における侵略の儀式化ということで、 それはあるだろう。

いま、この南京入城式の情景と、そこで吹奏された「君が代」、 そこで唱えられた「大元帥陛下万歳」と、 今度の「天皇陛下御在位十年記念式典」での「君が代」斉唱と、 「天皇陛下万歳」とを重ねてみるとき、松井石根と小渕恵三の相貌がダブッてくるし、 天皇裕仁と明仁の相貌が、わが内面でダブッてくるのをいかんともなしがたいのは、 私一人ではあるまい。

日本国憲法は、その前文で主権在民をうたい、 第九条で非武装・戦争放棄をうたっているのを、あらためて想起するべきであろう。 それは、日本人民をもふくむアジア人民の血と犠牲のうえに打ち立てられた 人類史的な金字塔なのだ。 現に、1999年6月に開かれた「ハーグ平和アピール市民社会会議」で採択された 「公正な世界秩序のための10の基本原則」では、 その第1項が次のように言われているのである。 「各国議会は、日本国憲法第九条のような、 政府が戦争をすることを禁止する決議を採択するべきである」。 この基本原則こそ、それがアジア人民の血と犠牲のうえに打ち立てられたとはいえ、 否、そのようにして打ち立てられたものだからこそ、私たちは、 ここからの逆行を許すのではない。 「君が代」と「天皇陛下万歳」は、逆行のための地ならし以外でない。    (2000・2・11)


「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。


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