「人権と教育」30号
特集「歴史の真実は枉げられない」

南京アトロシティーを心に刻む旅から

津田道夫


解説

1999年4月9日から16日まで、 初めて中国(北京、南京)を訪問する機会を与えられた。
東史郎の『東史郎日記』が、このたび江蘇教育出版社から上梓され、 その出版記念会があって、東史郎をはじめとする7名の訪中団が組織され、 私もその末席に加えてもらったのである。

東史郎は1937年8月、 25歳にして福知山歩兵第20聯隊第3中隊の上等兵として応召、 華北の戦闘に参加ののち、大連を経由して11月16日午後、揚子江岸滸浦鎮に上陸、 上海戦線から退却する中国軍を追って、南京攻略にむかった。 東はいう。「強姦・略奪・虐殺・放火・・・ 南京占領前後の一カ月に繰り広げられた日本軍の悪行を、 私は白ら体験し、見聞きした」 (『わが南京プラトーン−−一召集兵の体験した南京大虐殺』への「まえがき」より)。
そのときの東は勿論、「日本鬼兵」であり、そのようなものとして行動したが、 しかし、大正デモクラシーの風潮の中で人問形成を遂げたものとして、 ヒューマニズムの一粒が心の奥底に潜在していたかもしれない。 その東は、刻明な戦場「日記」を記していたが、1939年11月、 郷里の京都府丹後町間人(たいざ)に帰還後、これを改めて整理し、 自分の人生の記録として清書していた。 東が、なぜ検閲の厳しいなかにあって戦場「日記」をもちかえりえたかといえば、 彼は帰国途次、マラリアのため下船、南京病院に入院して、 結局一人で帰国除隊という僥倖にめぐまれたからであろう。 東は、この「日記」を戦後もずっと筐底にしまいこみ、 人目にさらすことはなかったが、 1987年「平和のための京都の戦争展」に乞われて展示、 人に知られるところとなった。 そして結局、その一部が、1987年11月、 『わが南京プラトーン−−一召集兵の体験した南京大虐殺』 として青木書店から刊行された。

私は直ちに一本を購読、その加害体験をつつみかくさず公表する勇気には、 現代日本社会の思想風土をもかさねて考え、少なからぬ感銘を受け、 同時に侵略戦争の実相をつぶさに知ることをえた。 私は、拙著『南京大虐殺と日本人の精神構造』(社会評論社)に、 東「日記」から多くを引用している。
この東「日記」のより詳しいもの、つまり省略箇所をはぶいたものが、 今度中国語で上梓されたのである。

そこで東「日記」の評価ということになるが、日本での出版当時から今日に至るまで、 私の周辺で虚構らしきものがあるという噂が仄聞された。 私は、今回の訪中で、東「日記」の信憑性について中国側の関係者にも質問してみた。 中国の学者も、かなり綿密・詳細に時間をかけて検証したようであるが、 東が転戦した地方地方の人びとの習慣に至るまで事実と一致しており、 十分に信頼しうるものであるとの回答をえた。 したがって、わが周辺でささやかれた東「日記」=虚構説は、 中国人学者の努力によっても粉砕されたことになる。 では、なぜ私は今次の東訪中団に加えられたか。 いま私の『南京大虐殺と日本人の精神構造』を中国語に翻訳してくれている 大阪在住の若い中国人詩人の燕子が、「東さんの南京裁判を支える会」の事務局長、 西山明子(仮名)の了承をえて誘ってくれたことによる。 拙著の中国語版が近々刊行されるという事情もあった。 私は、この機会を生かした訳である。 そして、さまざまな方面の中国人学者と出会えたことを多とする。 しかし、短い日程でのハードスケジュールの故、 出会うことのできた人びとの名前と顔とが、なお一致しない場合があり、 或は礼を失することになるのではないかと虞れる。

なお、東はいま『わが南京プラトーン−−一召集兵の体験した南京大虐殺』 中の一箇所の記述をめぐって、元日本軍兵士、 橋本光治に「名誉毀損」問題で訴えられ、東京地裁と、 東京高裁では東側敗訴の結論がだされた。 ただちに上告したのはいうまでもない。 この裁判は、 橋本が偕行社(元陸軍士官学校出身者の団体)に使嗾されて起こしたものであるが、 きわめて政治色の強いものである。 しかし、東史郎=南京事件裁判については、 本誌本号に併載された芹沢明男の一文に詳しいので、そちらをご覧願いたい。 ただ、こうした事態の推移について、日本人の間には、関係者の努力にも拘わらず、 殆ど知られていない。 民主陣営にぞくすると思われる人の間でも同断なのである。

さて、ここに私は、『増刊・人権と教育』の編集事務長、石川愛子の懇請を容れ、 今回の訪中に際して持参した三つの文献を、ここに公表させていただく。 何れも、講演(あまりに短い時間しか与えられなかったが)、 日本でいうテレビのトーク・ショーみたいなもので発言したところは、 この三つの文献を基礎にしている。
I 「中国の読者へ−−拙著『南京大虐殺と日本人の精神構造』中国語版への序文」は、 読んで字の通りであるが、すでに中国語の雑誌『百年』(程兆奇編集長、 東京・新宿)に程兆奇氏により「『南京大屠殺和日本人的精神構造』中文版序言」 として掲載されている。 私は、日本の読者向けの顔と、中国の読者向けの顔を使い分けるのを潔しとしない。
II「新しい国粋主義−−戦後日本の思想的岐路」と、 III「日中戦争と日本帝国主義の性格」の二つは、 ごく短い私の心覚えのようなものであるが、 何れも北京、南京での講演・発言のための素材として、日本出発に先だち、 親愛的燕子の要請により覚え書きとして起草された。 何れも短文ではあるが、 私の思想的・理論的な問題関心の在り処が簡潔に述べられている。 また、別々の論稿ゆえ、重複部分もあるが、お恕し願いたい。
なお、私としては、月刊『人権と教育』の5月発行の号以降、 「中国紀行印象記」を連載させていただく。 編集部との相談のうえであるが、数号に及ぶであろう。 そこで、虐殺現場に聳立する記念碑(南京には15か所あると聞くが、 朱成山南京大虐殺記念館長の好意により、 そのうち3か所を見学する機会に恵まれた) に叩頭した際に突き上げてきた感情の質その他については語りたい。

「解説」を終えるにあたり、呉廣義、朱成山、高興祖の3先生をはじめ、 ここにいちいちお名前をあげることはしないが、多くの皆さんにお世話になった。 厚く御礼申し上げる。
日本側についていえば、東史郎氏はじめ、今回の訪中団に参加の皆さんには、 何かと御面倒をおかけした。 あらためて御礼申し上げたい。          (1999・4・20)

I 中国の読者へ

−−拙著『南京大虐殺と日本人の精神構造』中国語版への序文

親愛なる燕子、このたび程兆奇先生といっしょに私の著書 『南京大虐殺と日本人の精神構造』(東京、社会評論社) を中国語に翻訳してくれることになり、著者として先ずは喜ばしく、 謝意を表明するものです。 そこで、この中国語版への序文は、君への手紙の形で書かせてもらいます。

1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけにして、 日本帝国主義の中国にたいする全面侵略戦争が開始されたとき、 私は小学校2年生でした。 父も母も学校の教師でしたが、 家庭でも戦況についての話題でもちきりだったのを覚えています。 子どもの私は、意味も判らずに「執れ、膺懲の銃と剣」 といった歌詞のある戦時歌謡を友人といっしょに歌ったり、 兵隊ごっこに明け暮れする毎日でした。 そこにもってきて、 12月になると早々に「南京陥落」への期待が日本人大衆の間にたかまってきました。 それには、ジャーナリズムによる時局迎合的な戦争鼓吹のキャンペーンも 大きくあずかっていたと思います。
そして12月7日には早くも「祝南京陥落」 「皇軍大勝」ののぼりや垂れ幕が東京の盛り場にあらわれ、 その大衆的熱狂におされて政府は12月11日の土曜日、 南京占領をすでに既成のこととして、 祝賀行事を全国的に繰り広げたのです(日本軍による南京占領は12月13日)。 そして、この日の午後は、 埼玉県久喜町(現、久喜市)の小学校も祝賀旗行列にくりだし、 その中に私もいたわけです。 夜は、父につれられ提灯行列の見物に行きましたか、 町のメインストリートが人また人であふれかえり、 あらゆる工夫をこらした提灯の波がうねるようだったのを、 いまはっきりと思い出すことができます。 それから数日は、日本全体が祝賀ムード一色で染め上げられました。 1931年9月の柳条湖事件をきっかけとする「満州事変」 (当時の日本側の名称)から45年の敗戦までを、 日本では十五年戦争と呼ぶならわしがありますが、こんな全国民的なお祭り騒ぎは、 私の記憶では、この「南京陥落」のときと、 1942年2月15日の英領シンガポール陥落のときの2回ありました。 しかし、幼かった私の記憶をもってしても、 この「南京陥落」のときのお祭り騒ぎのほうがより大げさだったように思われます。 それは文字どおり全国民的な祭りとして現出していたのです。

ですが、まさにこの同じ瞬間、南京特別市行政区では、 日本軍将兵によるあらゆる形のアトロシティーズが荒れ狂っていた関係にあります。 そこでも、東京とは別のかたちで、 つまり中国人大衆の老若男女の血と涙であがなわれた、 日本軍将兵どもによる「祭り」が演じられていたわけです。 それを考えると、前記日本人大衆の祝勝気分も、ひとときの陽炎のごときもので、 その背後にニヒリズムの影がヌラーッとそそり立っていたと思えてならないのです。
そして、そういうことを私が、 自分の幼児体験に重ねて痛切に自覚させられるようになったのは、 戦後もかなり遅くなってから、つまり1980年代初頭以降のことなのです。 言い換えれば、この段階になって初めて私の内面で それが思想的に問題化されるようになったということです。 それには、後に見るように客観情勢の推移もありますが、 その間も生き残りえた中国人犠牲者にとっては 肉体的・精神的苦悩が継続していたわけで、そのことを思えば、 まことに忸怩(じくじ)たるものがあります。 それにしても私は、1949年、日本共産党に入党、 その後ずっと各種民主主義的人民運動に関わってきたのですが −−そして、それは今も変わりませんが−−、 やはり一国的な観点だけからしかものを考えて来なかったように思います。 その点でこの本は、 私の戦争責任と戦後責任を不十分ながら果たした結果であるといえましょう。 戦争責任といっても、私は中国の戦場に行ったことはないし、 中国人を虐殺したこともないので、個人として法的な責任はないものと思っています。 しかし、幼いながら日本人の一員として、 あの総力戦という形をとった侵略戦争に関わり、その責任の自覚もなく戦後、 民主主義的な運動に関わってきたものとしては、少なくとも道義的には、 戦争責任に重ねて戦後責任をも、 一人の知識人として引き受けなければならないと考えます。 この点は戦後生まれの若い世代にとっても同様でありましょう。

では、なぜ日本人であったが故の道義的責任を分担しなければならないのか。 それは一つには、戦争の性格によります。 むかしの戦争−−たとえば日本の戦国時代の戦争−−は、封建諸侯の間の戦争であり、 直接戦場となった地域の民衆を別にすれば、人びとは、 その戦争に対していわば第三者でいることができました。 しかし、一つながりの戦争であった十五年戦争は−−とくに日中全面戦争以降は−− 経済・文化の全局面を国策の線に沿って再編成し、 反体制運動を徹底的に弾圧して国民一人一人をも国家的に編成して、 それこそ国民的な総力戦としての「聖戦」としてたたかわれたのです。 そこでは、被支配民衆の一人一人が国家的に動員されたし −−小学生だった私もその点変わりなかったといえます−−、 それのみか時局迎合的なジャーナリズムの宣伝・扇動にも躍らされて、 一般民衆の側に先走り的な「暴支膺懲」気分(「暴支膺懲」は当時の国策スローガン) が醸成される局面もみられました。 私はもちろん、日本人大衆の戦争責任を問題にすることで、 天皇制帝国主義を免罪しようなどというのではありません。 最大の戦争犯罪人が、 天皇裕仁を中心とする天皇制帝国主義の指導部であったのはいうまでもないところです。
しかし、あの戦争が国民的な総力戦としてたたかわれ、 国民一人一人が戦争の遂行主体として動員されたかぎりにおいて、 戦争指導部のそれとは別の次元の問題として、 日本人大衆の戦争責任も問われなければならぬということなのです。

そういうところから、本書執筆にあたっての私の問題意識も帰結されてきたわけです。 その問題意識とは、日本に復員してくれば、 「普通の家庭人」「真面目な労働者」「平凡な大衆の一員」であるような日本人男性が、 ひとたび軍服を着せられて中国の戦場に赴くと、なぜあれだけの残虐行為に及びえたか、 たとえ無理な作戦によって自暴白棄の傾向が現われていたにしても、 それにしてもの残虐行為がなぜ為しえたのか、その辺りのことを、 たんに戦場における異常心理の問題に還元するだけでなく、 日本人大衆の日常意識のなかに探ろうということでした。 勿論、「南京大虐殺と日本人の精神構造」というからには、 アトロシティーズの諸相について可能な資料渉漁のうえ 一定の紹介をすることはしました。 その殺害方法を含めて残虐性で際だっている殺人、 何の罪責も自覚することなくやられた住民からの掠奪、 とくに酸鼻をきわめた対女性暴力の問題−−強姦、輪姦、それに強姦=殺害−−、 そういうことが為しえたのは、 文字どおり日本軍将兵の人格崩壊を反映する以外にないのです。 そして、それを銃後で支えた日本人大衆の道徳的荒廃、つまり、これらの根拠を、 大衆思想批判の問題として大衆の日常意識のなかに探ろう、 というのが私の問題意識でした。 そのへんは本文をお読みくださればご納得いただけると思います。

ただ、ここでとくに強調しておきたいのは、 このようなアトロシティーズというかたちで現象した 日本人の精神構造の批判的分析の必要は、たんに戦時中の問題、 歴史研究の問題に限定されるわけではありません。 それは今日的必要の問題でもあるのです。 まず第一に、私たち日本人は、 大衆的な戦争責任の問題に今日なお決着をつけておらず、 外交や軍事の問題をアメリカに託し入れたまま 戦後五十余年を経過して来てしまっているという問題があります。
日本は1960年代以降、およそ80年代まで高度経済成長を謳歌し、 その問に大国日本意識ともいうべきものが再形成されてきたといえます。 日本人は、 かって銃剣をもって東南アジアに出て行ったと似たような精神構造のもとに、 今度は企業戦士として進出していって、 現地大衆の搾取と自然破壊をすすめているのです。 そして、このような日本人の行動様式によりそう形で、 十五年戦争の性格評価を転換させるようなキャンペーンが、 いますすめられているのです。

かつて1964年、かつてのプロレタリア作家でその後、 転向を貫いてきた林房雄は『大東亜戦争肯定論』をひっさげて 論壇に登場したことがあります。 しかしこのときの林の問題提起は、ついに大衆的浸透力をもつには至りませんでした。 侵略戦争への反省が、日本人大衆の問に十分思想化されることはなかったとはいえ、 一定の価値感をもって潜在していたからだといえるでしょう。
ところがごく最近、敗戦50周年、 村山内閣が戦争謝罪決議を国会上程しようとしたところ、 その前年あたりから閣僚たちの暴言が相次ぎました。 94年5月には、羽田内閣の法相永野茂門が、 日本の「戦争目的そのものは」正当なものだったと発言、 「南京大虐殺」=デッチ上げ論を開陳して辞任に追い込まれ、 同年8月には、村山内閣の環境庁長官桜井新が、 日本がすすめた戦争でその後アジア諸地域は独立し 「むしろ民族の活性化につながった」などとおらんで、 これも辞任に追い込まれました。 対外的な面子のために辞任させざるをえなかったのですが、 これは文字どおり氷山の一角にすぎず、 自民党を初めとする反動政治家諸君の本音は まさにこのへんにあるといっていいでしょう。

そして、この1995年からこっち、草の根レベルでの戦争=見直し論、 「大東亜戦争肯定論」が、かなり多くの青年たちを捉えはじめているのです。 それは、 東大教授の藤岡信勝が主催する「自由主義史観研究会」(1995年7月発足)や、 「新しい歴史教科書をつくる会」(96年12月発足)の運動などに代表されますが、 いわんとするところは、いままでの「現代史」の見方は、 何でも日本を悪者に仕立て上げる「自虐史観」であったから、これを改め、 若者たちが自国の歴史に誇りをもつようにしなければならないと いうところに尽きています。 それは結局、「大東亜戦争肯定論」の、より大がかりな再版でしかありません。 それに「産経新聞」や同社刊行の『正論』、小学館の『SAPIO』、 文芸春秋社の『諸君』などを総動員して、 右の反動イデオロギー攻勢が強められています。 そして、昨年、1998年には、小林よしのりの大冊漫画『戦争論』が出版され、 今日までに50万部も売れたといいます。 小林の基本的構えは、 「有色人種を下等のサルとしか思わぬ 差別主義欧米列強の白人どもが植民地化したアジアを解放した大東亜戦争は、 決して侵略戦争」ではなく、「東京裁判とは、 南京虐殺という犯罪をでっちあげるなど国際法無視の集団リンチ」であったから、 「死を賭しても祖国のために戦った祖父らの功績を讃える」 のだといったようなキャッチフレーズに象徴されているといえるでしょう。 しかもこれがコミックというかたちで大衆化してきているということです。
右に一瞥したところからもわかるように、 私が『南京大虐殺と日本人の精神構造』を世に問うた1995年から今日まで、 わずか4年しかたっていないのに、日本人の大衆レベルでの反動化は、 急激にすすんでいるということなのです。 先に、この本は、 私の戦争責任と戦後責任を不十分ながら果たした結果であるといいましたが、 右に見たような状況にかんがみれば、日本人大衆の戦争責任の追及は、 これからも継続されなければならぬ課題として私どもの前に横たえられているのです。

ところで中国側の指導者たちは、いつも次のように言うのを常としていました。 ”中国人民は日本軍国主義の犠牲になった、同じく日本人民もその犠牲者である”と。 このような中国当局の言明をもって、 日本人大衆一人ひとりの責任が免責されたかに 日本人民の立場に立つものとして受けとめてしまうのは、 あまりにも極楽トンボというほかないでしょう。 こういう中国側の立場は、 日本反動派(自民党その他)とたたかう「人民」主体の形成にかんする 期待表明と受け止めるべきであると、私は考えております。 しかるに、さきに見たような最近の動向は、この「人民」主体が解体され、 反動的「大衆」が形づくられつつあるものと見られます (ここで私が、「人民」という日本語と、 「大衆」という日本語を区別して使っていることを御留意ください)。

親愛なる燕子よ、そういう時期、君が私の著書を見出してくれたのは、 この反動的逆流とのたたかいのための大きな援助となると考え、 感謝する次第なのです。
最後に、この「中国語版への序文」を終わるにあたり、 一言メッセージを書きつけることをお許し願います。 私は、どのような意味でも日本国家を代表するものではありませんが、 一人の日本の知識人として、いや、 その前に一日本人として本書の読者を通じて 中国人民に対して謝罪の意を表明するものです。 と言って私は、民族ニヒリズムの立場に立つものでもなく、 卑屈になっている訳でもありません。 実践的行動を伴う謝罪こそが、 日本人民の民族的誇りを回復するゆえんとなると考えるからです。
  1999年3月1日

II 新しい国粋主義−−戦後日本の思想的岐路

1998年12月22日、 東史郎さんの『わが南京プラトーン−−一召集兵の体験した南京大虐殺』 の中の一箇所の記述をめぐって、 元日本軍兵士、橋本光治との間で争われていた「名誉毀損」問題での民事訴訟で、 東京高裁は東側敗訴の結論をだしました。 それは極めて政治的な判断にもとづくものだと私は考えます。 しかし、12月22日というこの偶然の日付に、私は或る象徴的なものを感じました。 そのちょうど50年前の1948年12月22日、 極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けていた東条英機たちに対する処刑が まさにこの日に執行されていたからです。 このとき処刑されたA級戦犯のなかには、 南京アトロシティーズの最高責任を問われた松井石根もはいっていました。
日本国は、講和条約で、この東京裁判の判決を正当に受け入れ、 とにもかくにも国際社会に復帰することができたのでした。 そして、主権在民と戦争放棄を二本の柱とする日本国憲法のもと日本国民は、 侵略戦争の反省のうえに、平和と民主主義を普遍的価値として受け入れ、 敗戦による経済的・生活的・文化的打撃からの復興と、 経済高度成長をなしとげてきました。 勿論、国内的には、1960年の日米安保条約反対闘争に代表されるような 自民党政府と労働者・人民の間の闘争もずっと継続されていたといえます。 しかし、平和と民主主義の大衆的価値は、その間に一連の改憲策動があったとはいえ、 ごく一部の右翼勢力を除いて、 70年代くらいまで一般には堅持させられてきたといえましょう。
ところが、A級戦犯が処刑されたまさに50年後の同じ日、 東史郎=南京事件裁判でのあの反動的な判決がでたのです。 それに私は或る象徴的なものを感ずるといったのです。 どういうことか。

それを私は、ここ数年、 日本で大衆的な拡がりをもって登場してきた”新しい国粋主義”の大衆思想運動を 念頭において言っているのです。 それは端的に言って「大東亜戦争肯定論」の登場ということなのです。
もっとも、1964年にも、かつてのプロレタリア作家で、 その後も転向をつらぬいてきた林房雄が、 その名も「大東亜戦争肯定論」(『中央公論』7月号以降連載) という論説をもって登場したことはあります。 しかし、このときの林の問題提起は、 ついに大衆的浸透力をもつには至りませんでした。 侵略戦争への反省が日本人大衆の間に十分思想化されることはなかったとはいえ、 一定の大衆的価値をもって潜在していたからだといえるでしょう。
ところが、敗戦50周年の前年、1994年あたりから、 一連の閣僚たちの「戦争目的」=正当化論や、 「南京大虐殺」=デッチ上げ論などの妄言が相つぎ、併せて地方議会では、 村山首相の意図した国会での「戦争謝罪決議」に反対する「意見書」が、 つぎつぎとあげられ、遂に「戦争謝罪決議」は、 うやむやのうちに葬り去られてしまったのです。
そして、この1995年からこっち、草の根レベルでの戦争=見直し論、 「大東亜戦争肯定論」が、かなり多くの日本の老若男女をとらえはじめているのです。 それは、 東大教授の藤岡信勝が主催する「自由主義史観研究会」(1995年7月発足)や、 「新しい歴史教科書をつくる会」(96年12月発足、代表・西尾幹二、 副代表・藤岡信勝)の運動などに代表されますが、いわんとするところは、 いままでの現代史の見方は、 何でも日本を悪者に仕立て上げる「自虐史観」であったから、これを改め、 若者たちが自国の歴史に誇りをもつようにしなければならないというに尽きています。 それは結局、「大東亜戦争肯定論」の、より大がかりな再版でしかありません。 それに「産経新聞」や同社刊の「正論」、小学館の『SAPIO』、 文芸春秋社の『諸君』などを総動員して、 右の反動イデオロギー攻勢が強められているのです。
そして、昨1998年には、小林よしのりの大冊漫画『戦争論』が出版され、 今日までに50万部も売れたといいます。 小林の基本的構えは、「有色人種を下等なサルとしか思わぬ 差別主義欧米列強の白人どもが植民地化したアジアを解放した大東亜戦争は、 決して侵略戦争」ではなく、 「東京裁判とは、 南京虐殺という犯罪をでっちあげるなど国際法無視の集団リンチ」であったから、 「死を賭しても祖国のために戦った祖父らの功績を賛える」のだという キャッチフレーズに象徴されているといえるでしょう。 しかもこれがコミックの形で大衆化してきているということです。 ついでに申せば、私の住む埼玉県久喜市では、 いま市議選がたたかわれていますが、その候補者のうち最低二人は、 小林の『戦争論』を読んでいるということを、私は最近、市会議員である友人、 猪股和雄さんから聞き及んでおります。
では、なぜこれを新「国粋主義」と、敢て「新」の字をつけて呼ぶかというと、 その一つの特徴は、彼らが”民族の誇り”とか”祖国の栄光”とかはいうけれども、 戦前的な天皇崇拝の要素をもっていないところに、その「新しさ」があるからです。

それでは、なぜいま、こういう草の根の「国粋主義」ともいうべきものが、 日本人大衆をとらえつつあるのか。 それは、一言でいうと冷戦の終焉と、それと軌を一つにした、日本経済の落ち込みに、 その基礎が求められます。 つまり、かっての経済大国日本、大国日本論、金持ち日本論などが、 ここに来て影をひそめ、何をもって日本人の誇りを回復するかということで、 かつての戦争の”栄光”が持ち出されてきているのだと私は考えます。
それと、基本的には、先程、戦後日本は、 平和と民主主義を共通価値としてきたと申しましたが、 それはやはり「一国平和主義」でしかなく、 南京アトロシティーズなどに象徴される戦争責任の問題に決着をつけないまま、 今日に至っているところに、より深い原因を、私は見るものです。 その意味で南京アトロシティーズの問題は、過去の問題ではなく、 すぐれて今日の問題であると考えるものです。    (1999・3・27)

III 日中戦争と日本帝国主義の性格

南京アトロシティーズの問題をふくむ日中戦争の問題は、この10年程日本においても、 その研究成果がいろいろ現れつつあります。
しかし私は、ここで理論的な問題について三つの事を述べて見たいと思います。

第一に、南京アトロシティーズにおける日本軍の個々の行為が、 どれほど戦時国際法に違反しているかを言い立てる傾向についてです。 武装解除し投降した捕虜や一般住民の集団殺人などの問題です。 私は勿論、 これらを国際法違反の問題として追求する必要を認めないのではありません。 しかし問題は、その手前のところ、 日中双方における戦争の性格評価の問題にありはしないかと思うのです。
19世紀初頭、プロイセンの将軍、カール・フォン・クラウゼヴィッツは、 戦争は別の(つまり暴力的な)手段をもってする政治の延長であると語りました。 つまり、どのような政治が、それぞれの背後にあるかということです。 このクラウゼヴィッツの命題を受けて、 地球上の陸地が資本主義先進諸国に分割され終わり、 この世界が「諸国家の体系」(レーニン)として現出した帝国主義段階においては、 世界は、帝国主義諸国と植民地・従属諸国に区別されたので、 戦争の性格評価についても それぞれの側の政治内容にかんして評価しなければならないとしました。 帝国主義諸国がすすめる戦争は不正義の侵略戦争であり、 植民地・従属国の側の民族解放戦争は正義の戦争であるという 一般的基準を提起したのです。
これを日中戦争にあてはめれば、日本側がすすめたのは不正義の侵略戦争であり、 これに対応した中国側の抗日戦争は正義の戦争であったということになります。 この観点からすれば、中国の一般住民、それも女性や子どもを含む一般住民が、 日本兵の目をあざむいてこれを殺害したのは卑怯だなどという言い方がありますが、 −−現に小林よしのりがそういっている−− これも全国民的な正義の抗日戦争の一環として評価されなければならなくなる訳です。 あるいは上海派遣軍の長勇(ちょういさむ)参謀のごときは、 通州事件(1937・7・28)の仇討として 南京の捕虜を皆殺しにするのだとほざいたといいますが、 こういう言い方も全く成り立たなくなるのです。 この通州事件が、 中国側の不信行為であるかに語るやり方に私は全く与することができません。

つぎに第二に、右の戦争の一般的性格評価の問題として、 私は日本帝国主義のすすめた侵略戦争は、 たんなる近代資本主義的な帝国主義戦争だったのではないと、思うのです。 勿論、その要素もありました。 しかし、毛沢東は『持久戦論』の中で、 「もう一つ、日本は、 軍事的・封建的性質をおびた帝国主義であるという特徴がそれに付け加えられ、 (ここから)その戦争の特殊な野蛮性がうみだされており、云々」と言っております。 日本の優れた魯迅研究家である文学者の竹内好は、またこう言っていました。 「今度の戦争が帝国主義の侵略戦争であったというのは、ほんとうは、 思いあがった判断なので、じつは近代以前の掠奪戦争であった。 少なくとも、帝国主義的に偽装された原始的掠奪という、 二重性格的な特殊な日本型ではないだろうか。」
しかし、この日本帝国主義の特殊な性格を、 より明確な形で指摘したのはレーニンでありました。 彼は革命直前のロシヤについて「ロシヤでは、ペルシア、満州、 蒙古にたいするツァーリズムの政策に、 最新型の資本主義的帝国主義が完全に現れたが、しかし全体として、 ロシヤでは軍事的・封建的帝国主義が優勢である」 (『社会主義と戦争』)といっています。 また戦前日本をふくめて「日本とロシヤでは、 (軍事的・封建的帝国主義による)軍事力の独占や広大な領土の独占、 あるいは異民族、中国その他を略奪する特別の便宜の独占が、 現代の最新の金融資本の独占を、一部はおぎない、一部は代位している」 (「帝国主義と社会主義の分裂」、カッコ内は引用者)とも言っているのです。 問題は、これをどう考えるかということでしょう。

レーニンのいう「軍事的・封建的帝国主義」を日本に即して私は、 天皇制帝国主義と言っていいと思います。 つまり絶対主義天皇制の閥族集団(寄生地主制や軍部) の利害を独自に追及する帝国主義ということです。 しかし、この天皇制帝国主義のすすめる侵略戦争は、 おのれの利害を独自に追及するのと併せて、 独占ブルジョワの利害をも代位・補完する関係にありました。 ここに「二重の帝国主義」(神山茂夫)という規定も成立してきます。
そこで、日本帝国主義の性格を規定するファクターとしての 軍事的・封建的帝国主義と近代資本主義的帝国主義の二重性、 二重規定性といった場合の、その二重構造が問題となります。 二重性とは、いうまでもなく、歴史的に性格を異にし、社会的に対立する二つのもの、 二つの歴史的・社会的権力(Macht)が運動(侵略戦争) のなかで統一していたということなのですが、その統一のあり方は、 直接的統一であるのと同時に媒介的統一の関係に立ちます。
天皇制帝国主義は、 ドイツにおけるファシズムとは明かに歴史的性格を異にしていました。 このことは、しかし、枢軸国連合として日独伊ファシズムの世界征服計画の一環に、 天皇制帝国主義が組み込まれ、 洋の東西からする「世界新秩序」を形づくろうとする野望に与することを 妨げることにはなりませんでした。 第二次大戦が、全体としてファシズム・対・民主主義の戦争であったとして、 日本がファシズム陣営の一翼を担ったのは、 世界政治のダイナミズムのなかで大いにありうるし、現実にあった訳です。 しかし、そのことをもって日本帝国主義を単純にファシズムといってしまうのは、 先に申したような日本帝国主義の特殊性を見ない謬論であると私はかんがえます。

第三に、一つながりの戦争であった十五年戦争は−−とくに日中全面戦争以降は−− 経済・文化の全局面を国策の線に沿って再編成し、 反体制運動を徹底的に弾圧して国民一人ひとりをも国家的に編成して、 それこそ国民的な総力戦としての「聖戦」としてたたかわれたという問題がありますが、 長くなりますので別稿にゆだねることにします、
     (1999・3・27)


「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。


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