「人権と教育」30号
特集「歴史の真実は枉げられない」

南京事件における少女レイプ

南京レイプを明らかにする東京集会(98/12/13)によせて

津田道夫


1995年、敗戦五十周年を期して、 私は『南京大虐殺と日本人の精神構造』(社会評論社)という一著を上梓した。
そこでの私の問題意識は、「内地」に復員してくれば、普通の家庭人、 いわゆる真面目な市民であるような日本人男性が、ひとたび中国の戦場に赴くと、 なぜ、あれだけの残虐行為に及びえたか、 たとえ無理な作戦によって自暴白棄の傾向を現していたとはいえ、 それこそ無意味な殺人−−しかも、その殺人方法をふくめての残虐性−−、 略奪、酸鼻をきわめた強姦、輪姦、強姦=殺害などに及びえたか、 その人格崩壊の根拠を、日本人大衆の日常意識の中に探ろうということであった。 当該著作で私は、そのことを或る程度説明しえたと思っている。 私は勿論、日本人大衆の戦争責任を問題にすることで、 天皇制帝国主義を免罪しようなどとしたのではない。 最大の戦争犯罪者が、 天皇裕仁を中心とする天皇制帝国主義の指導部であったのはいうまでもない。 しかし、一つながりの戦争であった十五年戦争は−− とくに「支那事変」段階以降−−、経済・文化をも国家的に再編成し、 国民一人一人を国策の線に沿って組織した国民的な総力戦としてたたかわれた。 そこでは、被支配民衆の一人一人が国家的に動員されたし、 それのみか時局迎合的なジャーナリズムの宣伝・煽動にも躍らされて、 一般民衆の側に先走り的な「暴支膺懲(ようちょう)」気分 (「暴支膺懲」は当時の国策スローガン)が醸成される局面も見られた。 ここに戦争指導部のそれとは別次元の日本人大衆の戦争責任の問題も 問われざるをえぬゆえんも認められるのである。

しかし、このような問題意識に導かれて私はあの本を書いたのではあったが、 南京アトロシティーズの実相については、最小限整理しておく必要が認められた。 そこに、農村危機その他にあえぐ日本人大衆の日常的な意識構造が 媒介的に反映していたからにほかならない。 なかでも対女性暴行の問題は、どんなに割引きして評価しても、 作戦行動とは全く関係のない行ないで、何とも弁明の余地のないものであった。 これがまた、中国の民衆を憤激させる最大の要因になったのもいうまでもない。 それは中国人女性の凌辱ではあったが、 併せて中国人男性に対する最大の侮辱でもあった。 そこで私は、『南京大虐殺と日本人の精神構造』の 第一部「打算とニヒリズム」の第III章から第V章までを、 その論述にあてた「実相の一端」(1)(2)(3)において、 蒋介石の発言、日本陸軍省の秘密文書、極東国際軍事裁判での論告や証言、 同時代的な中国側の証言・レポート、それに、日本人元兵士の手記や回想を、 それぞれ事柄の実相を対比・対応させるような形で引用し、 ”日本人大衆の精神構造”の分析のために必要なコメントをも述べておいたのであった。

そして、とくにIV「実相の一端(2)−−中国側の文献から」において、 『漢口大公報』や『武漢日報』の記事から、 その典型的なものいくつかを引用しておいた。 私をとくに驚かしたのは、家族の面前での強姦・輪姦 −−父母の面前での娘にたいするレイプ、夫の面前でのレイプ、さらには、 親族同士を交接させて喜ぶような行為にまで、それは及んでいて、 まさに酸鼻を極めたとしかいいようのない事態の現出であった。
なかでも1943年中国国民政府軍事委員会戦史会の孫リョウ(?、人偏に良)工が 各種手記を集めて編集した『被占領区惨状記』には、こんな事例が認められ、 私は前記著書に引用しておいたのだった。ここに再引用をお恕し願う。

《日本侵略軍(の南京への)入城後、武装を解かず住宅や商店に乱入し、 女性を捜し出して捕まえ、9歳以上45歳以下の女性はことごとく輪姦された。 水西門外の某未亡人には娘が3人−長女18歳、次女13歳、三女9歳がいた。 しかし3人とも輪姦され、次女はその場で殺され、長女も意識不明である。 某日獣兵が民家に乱入し少女一人を見つけた。 無理矢理に衣服を脱がせ、その父母に両足を持たせたうえ、かわるがわる強姦した。 続いて父にも服をぬいで娘を強姦するよう命令した。 しかし応じなかったため、獣兵は銃剣で父親の腕を突き刺し、 父母は同時に命を落とした。 一般の少女は身体が未発育で日本兵の獣欲を満足させることができないため、 まず陰部を手で引き裂いてから輪姦した。 成人女性は輪姦後、多くが銃剣で下腹部を突き刺されて殺された。 また、ある婦人は妊娠数か月であったが、 獣兵による輪姦後に出血が止まず命を落とした。 また獣兵は各所広場で常に好き放題に強姦していた。 ある日、某国領事は獣兵3人が1人の女性を輪姦しているのを目撃するや、 すぐその場に行き穏やかに忠告した。 しかし獣兵は頬をたたき銃で脅かしたので、領事は止むを得ず我慢して立ち去った。》 (『南京事件資料集 2 中国関係資料集』より。下線とカッコ内は引用者)

拙著を読んでくれた障害者の教育権を実現する会事務局の山田英造は、 とくに下線箇所を指して、その余りの酷さに驚いていた。 その山田の反応には、”いくら何でもそこまでは”というニュアンスが認められた。 当時彼には小学生の娘がいた。 私としても、被侵略国民としての憤激を収攬するべく、 いくらか事態を誇張して伝える面があっても、 それは当然であろうという風に考えていた。 しかし、そうした事実が、どうやら誇張でないのは、その後、 繙読することをえた日本陸軍の文書の中でも、また、98年12月13日、 東京で開かれた「南京レイプを明らかにする東京集会」での 2人の性暴力被害者の証言のなかでも、裏づけがとれたのである。 私の想像力は、『南京大虐殺と日本人の精神構造』を執筆していた段階では、なお、 「一般の少女は身体が未発育で日本兵の獣欲を満足させることができないため、 まず陰部を手で引き裂いてから輪姦した」というような記述を、 そのまま事実として受け入れるには、一定のためらいもあったということであろう。 それは、私が80年代のフェミニズムと女性学の達成に 全く不案内であったことにもよるかもしれない。

しかるに、たとえば、国府台陸軍病院附軍医中尉早尾乕雄は 「支那事変応召中提出セル論文(自昭和十二年十一月至十四年一月)」 と称するマル秘文書中の「戦場生活二於ケル特異現象ト其ノ対策」において、 明かになった強姦事件の実例を十例列挙しているが、 そのなかの第六項、第十項には、就中こう見えるのだ。

《(六) 或ル兵ハ支那酒二酔ヒツゝ支那店二立チ寄リ焼鳥ヲ食スル時 其ノ傍二居タ支那少女(当六年)ヲ見ルト同女ガ十三歳未満ノ少女デアルコトヲ 認識シナガラ姦淫セント思ヒ同女ヲ抱キナガラ室内へ入リ 同女ノ父親二銃剣ヲツキツケ退去ヲ命ジ置キ同女ヲ姦淫センモ 少女ノ為メ目的ヲ達シ兼ネ指頭ヲ以テ押シ開カントシテ負傷セシメタ ・・・(中略)・・・
(十) 或ル兵八街上ノ支那家屋二入ルト母親ト娘トガ居タ、 娘へ要求スルト承知シタ母親ハ是ヲ見テ出テ行ツタノデ 其ノ娘ヲ姦淫セントシタガ発育シテ居ラナクテ出来ナカツタ (娘八十歳位)、其ノマゝ帰ツタ、 娘へ隊へ来レバ残飯ヲヤルカラト隊名ヲ書キ置イタコトカラ憲兵二捕ヘラレタ》 (吉見義明編集・解説『従軍慰安婦資料集』より、下線は引用者)

早尾が挙げている強姦事件は10例にとどまるが、 「以上ノ述ベタ様ナ例ハ尚沢山二挙ゲル事ガ出来ル」 といっているうちの10例にとどまる。 しかも、早尾は、それを憲兵に摘発された事例中から−−事例中からのみ−− 列挙していることも指摘しておかなければならない。 つまり彼は伝聞などにもとづく事例を挙げているのではなく、 憲兵から提供された「強姦事件ノ実例」を列挙しているということなのだ (このことは、この「実例ヲ列挙スル」すぐ前段のところで、 「・・・憲兵ノ活躍ハ是ヲ一掃セントシ 皇軍ノ名誉恢復二努力シツゝアルコトハ感謝ニタヘヌ」と、 あえて述べているところにも暗示されている)。 ということは、これら「実例」は、当該兵士等が憲兵の取調べに対して、 その罪過をなるべく軽く見せようとして語ったところを、 憲兵の側で文書化したものであるのを勘案しておかねばならぬということである。 「少女ノ為メ目的ヲ達シ兼ネ指頭ヲ以テ押シ開カントシテ負傷セシメタ」とか 「姦淫セントシタガ発育シテ居ラナクテ出来ナカツタ」などというのは、 可成り割引いて評価しなければならぬであろう。 よしんば、結果において、「発育シテ居ラナクテ出来ナカツタ」としても、 この犯罪行為の対象とされた6歳や10歳の少女の側に即してみれば、 それは並大抵のことではなかったであろう。 「娘へ要求ヲスルト承知シタ母親ハ是ヲ見テ出テ行ツタノデ、云云」ともあるが、 母親は決して自発的に「承知シタ」などではなかったであろう。 母親が「是ヲ見テ出テ行ツタ」際、 どれほどの叫声と抵抗と暴力のドラマが伴なったか、想い半ばに過ぎるものがある。 とすれば、これらのことを被害者である中国側が、 「一般の少女は身体が未発達で日本兵の獣欲を満足させることができないため、 まず陰部を手で引き裂いてから輪姦した」と受けとめたとて、 決して誇張とはいえない。 その程度の想像力をめぐらせることは、私にもできる。 繰り返すが、これらは憲兵に摘発された「実例」のなかの一部であり、 実際に存在したレイプ事件のそれこそ氷山の一角にすぎぬということである。

ところが、1998年12月13日、 「南京レイプを明らかにする東京集会」が星陵会館(東京、永田町)で開催され、 実際、9歳と7歳のときに被害にあったSさんとCさんという二人の 「歴史の証人」が来日され、 初めてレイプ被害者本人として日本人公衆の前で証言された。 この「東京集会」は、「ノーモア南京の会」「南京大虐殺60ケ年全国連絡会」 「中国における日本軍の性暴力を明らかにする会(山西省・明らかにする会)」 「中国帰還者連絡会」「在日の慰安婦裁判を支える会」「VAWW−NET」 「戦後補償ネットワーク」が実行委員会を作って開催され、 私も「ノーモア南京の会」の会員である関係で、当然出席する予定であったところ、 病を得てそれが不可能となったので、 ここではノーモア南京の会ニュースの第4号(99年1月)から 当日の模様を紹介したい。 日本のジャーナリズムには、あまり取り上げられることがなく、 殆ど知られていない関係もあってそうするのである。

この「東京集会」では、上海師範大学歴史学科教授の蘇智良の講演や、 元日本人兵士の加害証言、パネル討論のほか、 例の7歳と9歳のときレイプされたという2人の被害者の証言があり、 閉会後100人以上が参加して星陵会館から銀座、 東京駅まで追悼デモがやられたのであった。

なかでも元兵士の加害証言が紹介されているが(編集部による要約)、 そこでは就中、こんな証言が得られた。

《元日本兵は山東省における日本軍の残虐行為を証言した。・・・ 1939年以降、山東省では八路軍の抗日ゲリラの勢力が強くなり、 日本軍の被害が増加した。 そのため、1940年以降北支那方面軍は八路軍の討伐、 尽滅作戦を繰り返し行った。 それは三光作戦と呼ばれる無差別のものであった。 特に味方の死者が出た後の報復攻撃はすさまじく、 章邱県近くのある部落の掃討では完全に無差別の住民皆殺しの跡を目撃したが、 損傷のひどい死体が散乱するさまは凄惨をきわめた。》
《また、戦闘のない時に、分隊長の許可のもとに、 女性を強姦する目的で部落を襲ったこともあった。 自らの強姦の事実に関して反省の涙を流しながら(元兵士は)証言した。 白身が分隊長として指揮した延べ100人以上の兵士の中で、 性暴力に関係がないといえる人は一人もいなかったと断言した。》 (カッコ内は引用者)

そして同誌には、劉彩品がまとめとして、 「南京の片隅にいた歴史の証人−−『Sさん』と『Cさん』」を書いているので、 そのレポートに依拠して、まず「Sさんの証言」から聞くことにしよう。 なぜSさん、Cさんと、名前をふせざるをえなかったかについては後述する。

《★12月13日(1937年・・・引用者)
朝7時か8時頃、3、4人の銃と刀を持った日本兵が一家の扉を開けて入ってきた。 当時は家屋に3家族が住んでいたが、銃を乱射して押し入ってきた日本兵に、 まず、父が左腕を撃たれて倒れた。 母も引きずり倒された。 次に管理人のおばあさん、家主のおじいさんが撃たれた。
午後2時か3時頃、2人の兵士が母を取り囲み、 刀で母のシャツや身につけていた衣類を切り裂いた。 取られまいとして身につけていた、銀の首飾りやお金を奪われ、 母は「やめてください」と言ったが、布団まで何もかも奪っていった。

★12月14日
午前2時か3時頃、父の傷も深いので近くの避難所に逃げようとしたが、 手前で多くの日本兵に銃でさえぎられ、家に追い返された。 その日は朝まで何もなかった。 真冬で寒かったので、午後庭の日だまりでひなたぼっこをしていると、 二人のひげを生やした日本兵が馬に乗って入ってきた。 私を馬上に抱き上げズボンをぬがそうとした。 激しく泣く私に父は「泣かないで、泣かないで」と言った。 私を取り返そうとした父は日本兵に殴られ、その場で馬乗りにされ、 首を三度も切られた。 血だまりの中で父は動かなくなって横たわっていた、

★12月15日
午後2時か3時頃、台所の下で母と私が寝ていると、2人の日本兵が入ってきた。 父は意識不明のままだった。 日本兵は父の所へ近づき、父の目を指で開き、刀を口に入れ、 中国語で「死了、死了」と言った。 父が死んだと確かめてから、先に私を押し倒しズボンを剥ぎ取った。 ふとももを両手で開き、指を膣に押し込んでえぐりだした。 殺されるのが恐くて、泣くこともできなかった。 そのまま私は日本兵に強姦された。 母は強姦を恐れて顔に煤を塗っていたが、もう一人の日本兵に顔を強くこすられ、 強姦されてしまった。 その後、銃口を膣にねじ込まれ、 苦しくて「やめて」と泣きながら哀願したが聞き入れられなかった。 もし私が泣き叫んでいたら、母も殺されると思っていた。
日本兵が去った後、性器が膨れあがり、痛くて動くこともできなかった。 小便が流れだし、出たままだった。 父も母も動けなくなり、傷の手当ては自分でするしかなかった。 布切れを股にあてていたが、小便が泌みて身体を動かすことができず、 前かがみになって股を開いた姿でしか歩けなかった。 父は首を切られたため、重体で食物も受けっけず、半月ほどして死んでしまった。 母も精神的におかしくなり、悲憤で毎日泣き暮らし食物も受けつけなくなって、 父のすぐ後で死んでしまった。
私は体の痛みを我慢して、街の人から食物をものごいして歩いた。》

これが61年を閲して後、漸く公衆の前で語りえた、 9歳で暴行されたSさんの記憶表象である。 では、なぜSさんは61年間、自分が暴行された事実を −−それはSさんの責任では何らないのに−−語りえなかったか。

SさんとCさんが61年の沈黙を破って証言するに至ったのは、 南京大虐殺記念館が被害者の証言を募っているというニュースを、 南京のテレビで見たことがきっかけになった。 しかし、Sさんは、初めて記念館を訪れた時、 応対に出てきたのか若い男性だったので、恥ずかしくて自分のことは言えず、 父母のことしか話せなかったそうである。 Sさんは、また自分の子どもたちに自分の経験を話せないでいるのだ。 そんな関係で、彼女らが証言に立つさい、 壇上と聴衆席の問をカーテンで仕切らざるをえなかった。 このカーテンで隔てられた証言の重みこそ歴史の真実 −−南京レイプの真実−−でなければならない。

劉彩品は、同じく「ノーモア南京の会」の芹沢明男といっしょに、 「東京集会」が開かれるその12月13日朝、はじめてホテルでSさん、 Cさんに会った。 その時の印象をこう書いている(前掲レポート)。 「Sさんは大柄で大声で話し、Cさんは小柄で物静かに話す。 私が南京の紫金山天文台で働いていたことを話すと、 Cさんは見学に行ったことがあるといい、 Sさんは紫金山天文台のことは知らないと言った。 南京の玄武湖附近に住んでいることを話すと、 Sさんはそこならば行ったことがあるとすぐ打ち解けて、 堰を切ったように話し始めた。 Sさんは、自分や家族が蹂躙をうけた経過、12月13日、14日、 15日に起こったこと(前引)を話していると怒りが募ってくるのか、 声がだんだんと大きくなって行った。 7歳で両親をなくした彼女は、金もなく、住む所もなく、 ボロボロの服を着て町をさまよいながら11歳まで乞食をしたことを話しているうちに、 彼女は声を出して泣き崩れた。 『我命苦呀!我苦命呀!』(日本語に訳しようがない、命・運命、苦・辛い) と言いながら大粒の涙が次から次へと溢れ出た。 慰めの言葉もなく、しばらく手を握っていっしょに泣いた。 11歳の時、彼女は、 油条(小麦粉をこねて油で揚げた食物)の店で15歳年上の男に会い、 家に連れて行かれ、その後結婚した。 それがいまの夫だが、 夫の姉 (故人) からは、日本兵に強姦されたこと、 乞食で汚いことなどについて罵られつづけたと話していた。」 (下線は引用者)
夫は、事情を了解してやさしくしてくれた人らしいが、 義理の姉にはスティグマを刻印されつづけたということである。 自分の責任では何ら無いスティグマに耐え、耐えんがために、 その記憶表象を認識内面に抑圧して来たであろうSさんにとって、 心を許すことのできた劉彩品との会話は、 俄かにその記憶表象を意識表層部分に引き出し、 想起せしめるところとなったのであろう。 それが、ひとときの激情となってほとばしり出、 その場に「泣き崩れ」「大粒の涙が次から次へと溢れ出た」ということなのであろう。
以上で61年目の証言、 カーテンで仕切られた壇上での証言の意味については余計な解説は不要であろう。

私は、本論冒頭部分で、中国側の同時代的レポートを引用、 「一般の少女は身体が未発育で日本兵の獣欲を満足させることができないため、 まず陰部を手で引き裂いてから輪姦した」などというところは、 ”いくら何でもそこまでは”という山田英造の疑念に、 『南京大虐殺と日本人の精神構造』を刊行した直後の時点では、 やはり一定の共感を示しておいた。 くり返すように、私の想像力がそこまでは及ばなかったということである。 しかし、最前の引用のなかでSさんは、「(日本兵が)ふとももを両手で開き、 指を膣に押し込んでえぐりだした。・・・そのまま私は日本兵に強姦された」 (カッコ内は引用者)と自らの経験を証言されたのだ。 傍若無人などという言葉が色あせて見えるというほかない。 そういえば、前記芹沢明男は、SさんであったかCさんであったかが、 テレビ・ニュースを見て、南京大虐殺記念館に被害を訴えようと出向いたところ、 一度は、そのまま帰されたという話をしてくれた。 年齢を聞かれ、そこから逆算したら、1937年当時は、なおあまりに幼なく、 通常の意識では日本人兵士の強姦対象としてはありえないと思われてのことであろう。 だが、そのありえないことが、ありえたのを、一日本人である私は、 或る戦慄とともに認めざるをえない。 この点で、右証言の事実を争うことなど、だれにもできはしない。

最後に、この「東京集会」に出席した中学2年生の少女の感想 「私が日本人としてほこりをもてるようにちゃんと謝ってほしいです」 の引用をもって本稿の結びとしたい。

《鈴木さんや中国の被害者の方の証言を聞いてすごくショックでした。 日本兵は考えられないような事をしていたんだと腹がたちました。 殺された人も、殺した人も大きな傷を負ったんだと思います。 性暴力と聞いても、あまりよくわからなかったけど、 話を聞いてそれはひどいことなんだとわかりました。 泣きながら話してくれるのを聞いているとこっちもつらくなってきてしまいました。 日本が謝って、それでその人たちの傷が少しでもいやされればいいと思うのに、 日本は謝りもせず、もっと被害者を傷つけているということを自覚して、 反省しなければいけないと思います。 私が日本人としてほこりをもてるようにちゃんと謝ってほしいです。》 (ノーモア南京の会ニュース第4号)

                          (評論家)

[編集部付記] 本文中でふれられている津田道夫『南京大虐殺と日本人の精神構造』は、 実現する会事務所にも在庫があります。 税引き2500円でお分けいたします。


「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。


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