「人権と教育」30号
特集「歴史の真実は枉げられない」

政治裁判としての東史郎=南京・戦争裁判

芹沢明男


東京高裁・不当判決を行う

昨年暮れに、 東史郎さんたちが著作の一部の記述が名誉毀損にあたるとして訴えられていた、 南京・戦争裁判の控訴審判決公判が東京高裁にて開かれた。 その判決には、日本の司法が戦前の日本帝国主義の中国をはじめとした アジア侵略に対する判断が盛り込まれている。 以下、その判断の内容と問題点を探ってみるが、まず当日の模様から見ていきたい。

1998年12月22日(火)14時、東京高等裁判所810号法廷(第7民事部、 裁判長裁判官・奥山興悦、裁判官・杉山正己、佐藤陽一)で、 東さんの南京・戦争裁判の判決が下された。 奥山裁判長は判決の主文を淡々と読み上げていった。

「主文 1 本件各控訴をいずれも棄却する。
    2 本件各附帯控訴(当審における請求を含む。)をいずれも棄却する。
    3 原判決主文第一項は、請求の減縮により次のとおり変更された。
      控訴人らは、被控訴人に対し、各自金50万円及びこれに対する平成5年
      5月1日から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
    4 平成8年(ネ)第2379号事件控訴費用は控訴人東史郎及び同下里正樹
      の同第2407号事件控訴費用は控訴人株式会社青木書店の、各附帯控訴
      費用はいずれも被控訴人の各負担とする。」

1996年9月に始まった控訴審は、正当な歴史認識を欠き、 国際的には全く受け入れられることのない不当な判決言い渡しで幕を閉じた。 東さんと弁護団は15時より裁判所内の司法記者クラブで行われた記者会見で 抗議声明を読み上げ、この判決が「歴史の事実を根本から踏みにじ」り、 「裁判所が『まぼろし派』に加担し、きわめて政治的な判断をしたこと」、 「この判決をとうてい受け入れることは出来ず、 直ちに最高裁判所に上告するとともに、 東日記と南京大虐殺の真実を広く世の中に訴えて、 歴史の審判を期す」ことを表明した。 また、記者会見後、裁判所前で、多くの支援者とともに、 「不当判決 俯仰天地には愧じず」の文字を内外の報道陣の前に示し、 判決の不当さと、正義は裁判所側でなく、こちら側にあることを訴えた。

東史郎さんの南京・戦争裁判とは

東史郎さんは、1912年生まれで、今年の4月に87歳になる。 元京都第16師団、福知山第20連隊の兵士である。 1937年8月、25歳で召集され、12月の南京攻略戦に参加した。 戦地で書き続けた日記や陣中記録をもとに帰国後清書しておいたものを、 南京戦から50年目の1987年に市民団体の求めで公開、記者会見をしたのである。 そこで東さんは「悪の原動力を探求し、反省し、再び過ちなからんことを願ってこそ、 日中友好の基ではないか」と思い、日記を公開した動機を述べている。
同じ年にこの日記を基に青木書店より『わが南京プラトーン』 (副題、一召集兵の体験した南京大虐殺)が刊行された。 この本を中心とした記述が名誉毀損になるとして、 残虐行為を起こした元兵士が原告となり、1993年4月東京地裁に提訴したのが、 この裁判の始まりである。 1996年4月、同裁判所は、日記の記述を虚構と認定し、 東さんら三者に50万円の支払いを命じたのである。 東さん側は新たに弁護団を結成し、東京高裁に控訴、 1996年9月26日に控訴審第1回公判が始まり、 1998年9月13日の第13回公判にて結審し、 前章に述べた12月22日の判決に至った次第である。

名誉毀損で訴えられた『わが南京プラトーン』の記述

それでは次に、問題の東さんの本の記述からみていきたい。 この本は、本文が259頁あり、前書きが6頁、 昭和12年(1937年)8月26日に召集令状を受け取ってから、 翌1938年9月9日に大別山脈に向かうまでの日記が229頁、 前線から郷里・丹後の友人にあてた手紙が4通分・19頁、 最後に「東日記」を公開する事になった 京都の「平和のための戦争展」の寿岳章子さんが寄せた 「真実をみつめて」が収められている。 そのなかの106頁から108頁までの1頁半分が東さんが訴えられた箇所である。 これはまさに日本軍が南京入場式を行った、 1937年12月17日の直後の記録であるが、次に全文をみてみよう。

十二月二十一日
南京城内の整備を命じられ、郡馬鎮(注)を去る。
中山通にある最高法院は、灰色に塗られた大きな建物である。 日本の司法省にあたろうか。
法院の前にぐしゃりとつぶれた自家用車が横倒しになっていた。 道路の向こう側に沼があった。
どこからか、一人の支那人が引っぱられてきた。 戦友たちは、仔犬をつかまえた子供のように彼をなぶっていたが、 西本(仮名=本名は橋本光治氏)は残酷な一つの提案を出した。
つまり、彼を袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。
泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中に入れられ、袋の口はしっかり締められた。 彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。袋はフットボールのようにけられ、 野菜のように小便をかけられた。 ぐしゃりとつぶれた自動車の中からガソリンを出した西本は、袋にぶっかけ、 袋に長い紐をつけて引きずり回せるようにした。
心ある者は眉をひそめてこの残酷な処置を見守っている。 心なき者は面白がって声援する。
西本は火をつけた。ガソリンは一度に燃え上がった。 と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、 こん身の力で袋が飛びあがった。袋はみずから飛びあがり、みずから転げた。
戦友のある者たちは、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。 袋は地獄の悲鳴をあげ、火玉のようにころげまわった。
袋の紐を持っていた西本は、
「オイ、そんなに熱ければ冷たくしてやろうか」
というと、手榴弾を二発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。 火が消え袋が沈み、波紋のうねりがしずまろうとしている時、 手榴弾が水中で炸裂した。
水がごぼっと盛り上がって静まり、遊びが終わった。
こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。 ただ西本の残虐性に私たちがあきれただけである。
次の時にはこのようなことは少しの記憶も残さず、鼻唄を唄っている一隊であった。
・・・以下略
   (注)郡馬鎮は、馬群鎮の書き誤り。

南京と同じような残虐な記述を原告本人が知らなかった。

じつは、『わが南京プラトーン』には同じように西本(橋本)伍長の残虐行為が、 もう一カ所で描かれている。 名誉毀損を訴えるのなら、何故こちらは取り上げなかったのだろうか。 その記述は下記のようになっている。

四月五日
朝、大八車と馬四頭を徴発し、背のうを積みあげて出発した。
午後、棗荘付近へきた。ぽつんと小高い丘があり、頂きに宮が見えた。
やがて大きな泉に出た。廃墟のような土の城壁がある小さな村である。宿営。
部落に一人の若者がいた。二十五、六歳か。
西本伍長は彼を捕え、
「貴様は、残敵にちがいない」
というなり、布団巻きにし、石油をかけて火をつけた。
火だるまが、地獄の叫びをあげる。
「熱いか。心配せんでも、すぐに楽になる」
西本は、笑いながらよろこんでいる。いつもながら残忍な男である。
燃えさかる若者は、最後に渾身の力で高くとび上がり、くずれおちた。
部隊は、部落から部落、森から森へ前進を続けた。
我々が通過するところ、必ず馬と牛が奪われ、荷車が奪われ、女が犯された。
どの中隊も、各自の車両を十台、十五台と持っていた。 それぞれの車を四頭から六頭の馬や騾馬が引き、苦力が長鞭を鳴らして乗っていた。 大八車の行列だけでも、ゆうに一里はあったろう。
(『わが南京プラトーン』179頁から180頁)

南京での出来事と驚くほどよく似ている。 しかし前記の出来事は、『わが南京プラトーン』の「凱旋の夢破れ、 再び北支へ」の章で、南京大虐殺の翌年1938年のことであった。 昨年6月の第12回公判での橋本氏の尋問の際に 丹羽弁護士は「同じような残虐行為の記述が出てくるのにも係わらず、 なぜ南京での記述のみに絞って裁判を起こしたのか。」と質問をした。 この質問に対する橋本氏の答えは「この本の旧判も新判も」読んでいなく 「そもそも内容を知らない。」というものだった。 他人から本の記述の西本が自分のことだと教えられ、 いろいろな人(偕行社や板倉由明氏などー注) と相談して訴えを起こしたことを認めたのである。 自分が何処に、 どのように記述されているかも知らない者が原告として名誉毀損を訴えるという、 まさしく裁判の主体は橋本氏本人ではないことを物語っていた。
(注)偕行社(かいこうしゃ):  1877年(明治10年)に創立した日本陸軍の将校クラブ。 1952年旧軍人の親睦団体として再発足。 毎回の公判には、多数の老人が橋本氏支援のための傍聴に駆けつけている。

高裁の不当判決の問題点

東京高裁の判決文によると、この裁判には7点の争点があり、 各々について当事者(原告=被控訴人、 被告=控訴人)の主張に続き裁判所の判断が述べられている。 このうち最も重要であり、判決文でも多くを述べているのは、争点3(真実性)、 すなわち東さんの記述が正しいかどうかというこの裁判の核心点である。
そもそも民事裁判において名誉毀損を訴えられた者は、 名誉毀損に当たらないことを立証しなければならない。 この裁判の場合は、 60年前のある一つの出来事の記述に対して訴えられたのであるから、 その記述が真実であることを裁判所に証明する必要がある。 前記の著述の中での争点は、1 中山通の幅員、2 自家用車の位置、 3 沼の位置、4 ガソリンの量と燃え方、5 郵便袋の有無、6 手榴弾の危険性、 等があり、その全てに対し、 東さんの主張やこの控訴審の間に行われた多くの実験や現地調査をも 全て否定する内容になっている。
そればかりでなく、争点3の最後では「『東日記』における右の記述や論調は、 果たして、全て戦前に書かれたものかどうかについても疑問があり、 その一部は戦後に加筆された可能性も」あり、 「『東日記』はすべて実際の体験に基づく陣中メモ等を後日 (昭和15年から同19年3月までの間に)正確に記録したものであるとの 控訴人東の供述は全面的には採用しがたいと言わざるをえない。」 とまで言い切っている。
これらの論調は、東さんの日記が書かれた状況、書かれている内容、 50年も経った時点で初めて日記を公表した経過等を全て無視していると言える。 東さんは「人に見せようと思って書いた日記ではないので、どうして嘘の、 ましてや戦友の不名誉になるような嘘を書かなければならないのか。」と述べている。
個々の争点に対する高裁の判断はここで詳しく述べる余裕はないが、 今述べたようにことごとく控訴人(東さん側)の主張を退けている。 のみならず、個々の事実の論争がいわば「木」とするならば、 この裁判のより重要な争点である「森」は、南京大虐殺の全体像でなければならない。 1937年12月に南京で何が起きたかについての正しい歴史認識抜きには、 その中で起きたこの裁判の記述の正当な判断は出来ないはずである。 ところが東京高裁は、「なお、当事者双方は、 各種文献で触れられている南京事件の真否を問題としてもいるが、 この点を判断することによって本件事件の真否が判明するものでないことは、 (中略)明らかであるから、ここでは右の点を判断しない。」と述べている。 まさに、「この裁判の判決は、南京大虐殺とは関係ない。」と言っているが、 この判断こそが不当判決のそもそもの基本的な問題点といえよう。

内外マスコミの温度差

(1)判決後の記者会見(橋本氏側)での南京大虐殺捏造との発言

この裁判の報道では、日本と諸外国のマスコミの温度差が際だっていた。 これは、日本の裁判所の判断が全く国際性を欠いているのと同じと言っていいだろう。 中国では、とくにこの裁判の意味をよく理解し、判決に注目していた。このことは、 日中の報道の質と量を比べて見れば歴然としているが、 その前に判決言い渡し直後に行われた橋本氏側の記者会見の模様を見てみたい。
中国の報道陣がこの裁判を注目している証拠として、テレビ局だけで、 北京中央テレビ・江蘇(南京の属する省)テレビ・南京テレビ・ 香港テレビの4社が取材陣を送り込んだ。 日本の裁判所では司法記者クラブが取材を独占しており、 外国の報道陣は裁判所の中では一切撮影が出来ない。 しかし唯一の例外は、司法記者クラブの中であり、 ここでは(もちろん日本の)幹事会社が許可すれば報道陣は取材に参加できる。 こうして中国の取材陣が多く見つめる中、 判決言い渡しから30分後に 橋本氏側の記者会見が代理人の高池勝彦弁護士によって行われた。
中国の取材陣が注目したのは、 高池弁護士の後ろに掲げられた幕に「南京虐殺捏造裁判勝訴」と書かれてあったことだ。 判決の内容の説明が終わると、 中国の取材陣からこの幕を書いた意味について質問が相次ぎ、 高池弁護士は南京虐殺は捏造だと思うのかと問いかけがあった。 これに対しての答えは「私(高池弁護士)の個人的見解は捏造だと思いますよ。 戦争ですから日本の兵隊が全く悪いことをしていなかったとは思いません。 なにか悪いことをしたと思います。ただし南京大虐殺はそういうものじゃないでしょ。 例えば殺人3件だったら大虐殺とは言いませんよね。」であり、重ねての、 捏造というのは全体的に否定する意味かとの問いには「そうです。」、 「私は(南京大虐殺は捏造だと)思っていますよ。」と答えている。 日本の裁判所の中では、弁護士が内外の記者を前にして、堂々と自分の考えとして、 南京大虐殺は捏造だと述べているのだ。 これでは、政府・官僚等のその場限りでの誠意もなく口先だけでの「謝罪」など、 とうてい中国及びアジア各国には認められないものだろう。

(2)何故、日本のマスコミ報道はかくも国際性を欠くのか

判決の翌12月23日には、内外でこの判決の報道があった。 ここですでに、内外のこの判決に対する見方の差が現れている。 日本のマスコミは単にこの裁判の判決の発表だけにとどまっている。 見出しだけ列挙すれば、「記述の客観性2審も認めず」(朝日)、 「南京虐殺著者また敗訴」(共同)、「記載の虐殺裏付けなし」(産経)、 「南京大虐殺『記述は疑問』出版社側の控訴棄却」(毎日)であり、 共同からの配信を除けば、すべてベタ組の記事であった。
これに対し、 中国ではこの裁判の意義とこれに対する東京高裁の不当判決を鋭く批判している。 人民日報の23日付の見出しは「歴史の歪曲者が勝訴、過ちを悔いた告白者が敗訴。 東京高等裁判所が史実を顧みない不当な判決。百数名の市民集会で強烈に抗議」である。 本文中に、この裁判は歴史の真実を後世に伝えるのを妨害するものによって起こされ、 東さんは「南京大虐殺」の真相を明らかにし、 歴史の教訓をしっかりと心に刻み 日中両国人民の友好を発展させるために日記を公開したのに対して、 日本の司法当局は(一審に続いて) 再度歴史の史実を顧みない公正さを欠いた判決を行ったと記し、 この裁判及び判決の本質を鋭く突いている。
判決直後からの諸外国のマスコミの報道は東さんの許へ多数届いている。 これに対してこれらの報道に対するコメントも含め、 日本のマスコミはそうした動きを殆ど伝えていない。 何故そうなるのか。 これは、日本の司法が権力より独立していないのと同じように、 いやそれ以上にマスコミは独立していないからだと言わねばならない。 諸外国で、「ナチのホロコーストは無かった、アウシュビッツは嘘だ。」 と言ったり書いたりすれば、たちまちその者はその国の内外から大きな抗議を受け、 出版社は倒産の憂き目にあうだろうし、またそんな者も、出版社もいないだろう。 しかし、日本では違う。 新聞社は自分たちの記者が、南京大虐殺そのものを捏造だと主張しようとするために、 一兵士の体験した著作の一部を名誉毀損で訴え、 それに日本の司法が乗ってしまう判決を出したことの意味を見抜けず、 その判決が国際的にどのような反撃が生ずるかも分からずして書いた記事を 平気で載せている。 これが日本と諸外国のこの裁判・判決に対する理解度の温度差を産む原因であろう。

30万人署名を強力に押し進めよう

年末から年始にかけて穏やかで暖かい日の続いた日本列島だったが、 松も明けた1月8日から日本海側を中心とした大雪に見舞われた。 9日に金沢で「南京60カ年全国委員会」が開かれるので、 金沢からの帰りに10、11日と 丹後半島にある東さんのお宅におじゃまする予定であった。 関東平野は快晴であったが、越後平野は大雪のため電車のダイヤは乱れ、 運休が相次ぎ、金沢へは3時間ほど遅れて着く有様であった。 新潟から、富山、石川、福井、京都と雪は降り続き、 日本海は黒い高波が押し寄せていた。列車の窓から見る雪に埋もれた白の世界と、 荒れ狂う海の暗い光景は、今年の東さんの闘いを暗示しているように思えた。
しかし、判決日以来に再会した87才の老人は、何十枚と綴じられた、 中国を中心とした新聞報道を見せながら、私に熱い口調で話しかけた。 「今回の判決は、当初の11月26日の予定を江沢民主席の来日のために延期した。 中国の主席の来日中にこんな判決では、内外の反響が大きすぎるので延ばしたのだ。 政治の力に司法が押し切られた。 日本の司法は独立していないのではないか。」 「それに比べ、中国をはじめとする諸外国での報道の多さはすごいものがあります。」 「だが、なぜ日本の報道機関はこうした各国の様子を報道しないのか。 北京を始め各国には多くの日本の報道機関の特派員事務所があるはずだ。 その特派員が書かないのか、書いても本社で握りつぶしてしまうんでしょうか。」 「こんな不当判決はありません。 今、最高裁に上告していますが、世界の世論に訴えて、最高裁に、 日本の司法に圧力をかけたいと思っています。ここで負けてはおられません。 私は勝つまで戦います。」食事もとらずに東さんは私に語り続けた。 私は東さんの気力、体力にただただ圧倒されるのみであった。
南京大虐殺記念館の入口の壁には、 犠牲者の数が300000(30万人)と記されている。 この数を超える、30万人以上の署名を世界各国から集めよう。 その世界の世論の力で、日本の最高裁、司法、 さらには南京大虐殺を「まぼろし化」しようとする、日本の政治、 文化状況に打撃を与えよう。これが30万人署名の考え方である。 今年も多くの方の理解と協力で東さんへの支援を続けていきたい。

さいごに

東史郎さんの「南京・戦争裁判」のことを 出来るだけ分かりやすく紹介してほしいという、 編集部の要請に応えていないものになってしまった。 ひとえに私の力不足です。 しかし、以下にこの裁判に関係した書籍を並べましたので、 読者は是非これらをはじめ、 多数出版されている南京大虐殺に関するものをお読みになって、 南京大虐殺及び東裁判への正しい認識をお持ちになり、日本が、日本の社会が、 そして日本人が世界の孤児にならない運動にご支援いただければ幸いです。

東史郎「わが南京プラトーン」[新装版]青木書店、1996年
下里正樹「隠された連隊史」平和のための京都の戦争展実行委員会、1989年
井口和起・木坂順一郎・下里正樹 編「南京事件 京都師団関係資料集」青木書店、1989年


「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。


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