旅順大虐殺

                                                       村木一郎(2009年6月13日学習会レポート)
                       
 旅順大虐殺とは1894年日清戦争(甲午戦争)において、大山巌大将指揮下の日本軍第2軍が、中国北洋海軍の基地であった旅順(口)攻略時に起こした大虐殺事件である。
 11月21日、旅順占領直後から4日間に渡って、日本軍は、旅順において2万人におよぶ無抵抗の清軍兵士、旅順市民をほとんど皆殺しにするような大虐殺を行った。同時に、それと一環のものとして旅順から金州の到る所での清軍敗残兵掃討戦においても虐殺をくりかえした。旅順から金州に到る敗残兵掃討は、直接的に連続した戦闘行動であるから全く外すことはできない。
 旅順大虐殺はまさに43年後の南京大虐殺を彷彿とさせるものである。無抵抗の兵士・捕虜の虐殺、女性の強姦、子供の惨殺、繰り返される掃討戦によって旅順市民を皆殺しにするものであった。南京大虐殺は詳細はともあれ、その事実については少しは知られているが、旅順大虐殺については、日本の学校では教えられていないし、あまり知られていない。しかし日本で最初の本格的な国民総力戦となった日清戦争における、この旅順大虐殺のなかにこそ、それ以後の日本の侵略と殺戮、略奪、人権蹂躙、アジア蔑視の歴史の発端を見て取ることができるのであって、日本の歴史においても決して忘れてはならない事件である。

一.旅順大虐殺

 1.第二軍花園口上陸

 さて日清戦争では「国際法を守って戦った」とはよく言われることである。これが全くでたらめであることは、旅順大虐殺一つをみても明白である。「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵兵を殺傷すること」は当時でも戦時国際法に違反することであった。
 日本は、「国際法を守った」のではなく、「守ろうとした」のでもなく、ただ「守っている」という見せかけをつくったに過ぎない。この時期、東洋で起きた戦争に欧米諸列強、ロシアは注目した。外国人通信員も沢山派遣され、その注目している前で、日本は「野蛮に対する文明戦争」を演じなければならなかった。
 だが、それでもなお日清戦争は、実にさまざまな問題をはらみ、ついに旅順における戦慄すべき大虐殺を生み出したのである。
 
 次に日清戦争のなかでも、第2軍の編制から花園口上陸、金州城大連湾占領、旅順攻防戦、旅順大虐殺に絞って見てみることにする。
 
 1894年、朝鮮を制圧した日本軍第1軍は、10月24日鴨緑江を越えて清国に進入した。これに呼応して同日未明、大山巌陸軍大将を司令官とする第2軍は、遼東半島旅順、大連の東、盛京省花園口に上陸した。第2軍は、朝鮮半島における第1軍が平壌の戦いと9月17日黄海海戦において勝利し、黄海を制した直後の9月21日、「直隷平野決戦(注:首都決戦)ノ為メ兵ヲ渤海湾頭ニ進ムヘキ根拠地ト定メタル旅順半島ヲ攻略セント欲シ」て編制され、9月25日大山巌を第2軍司令官に任命。10月3日に戦闘序列通達があり、これには定員の他、測量班、写真班、軍楽隊が属していた。すでに15日には宇品港を出航して中国に向かっていた。
 先発した第1師団は10月24日から30日の間に、3次に分かれて上陸した。
 (図1 日清戦争関連地図)
 
 上陸に際して清軍の組織的抵抗はなかったけれども、中国民衆は自衛的な抵抗闘争に立ち上がった。
 26日夜、「土人の風をなしたる清人、藪に拠りつつ来りて我が第二連隊第三大隊の歩哨に迫り、天秤棒をもって打ち掛かりしかば、歩哨は殺気満々、直ちに一人を衝殺し二人を生擒して司令部に送る。詰問の後、全く土民なるをもって放逐す」(歩兵第二連隊上等兵関根房次郎の『征清従軍日記』:以下、関根と軍夫丸木の引用は、一ノ瀬俊也『旅順と南京』から)
 
 関捷総主編『旅順大屠殺研究』社会科学文献出版社2003年 によれば、中国人民の抵抗闘争は以下のようであった。(仮訳)

(一) 庄河民衆反日闘争
 日本軍は花園口から上陸した後、野蛮きわまりない、やりたい放題のことをやった。王際衡老人は悲憤して次のように述べている。
 日本軍は、花園口から上陸したその日、久隆興前後の町で14軒の藁葺きの家を焼き払った。残ったのは見るも無惨な廃墟と化した一塊りだった。花園口の村の上には天后宮を祭った海の女神があったが、上陸した日本軍は廟をぶち破って入り込み、海の女神の頭を割ってもて遊び、それを海に投げ込んで捨ててしまった。ちょうどこの日の夜、花園口村の近海に停泊していた日本の軍艦の一艘に火がつき、一艘は座礁した。噂では、これは我が愛国同胞が民族的憎悪に燃えて、火薬を持って、漆黒の闇にまぎれて、サンパン(小舟)に乗り捨て身の覚悟で敵艦に潜り込み爆破し火を着けたのだという。もう一艘の日本軍艦は驚き慌てふためいて出航しようとして座礁した。
 日本の軍艦に火が着いたその夜、西北の風が非常に強く、火の着いた日本軍艦は濛々たる煙に包まれ、船上のぼうぼうと燃え上がる火炎は西北の風に煽られて十数丈の高さの炎となり、海水に照って一面を紅にした。山上に避難した少数の村人は、炎の明かりで船上の兵士と馬が焼け出されて混乱した一団となり、ある者は船上で焼け死んだり、またある者は海に飛び込んで溺れ死んだりするのを見た。また、船上の弾薬がどかんどかんと爆発するのを聞いた。
 庄河で起きたもう一つの事件は大山巌の刺殺未遂事件である。日本軍第2軍の司令官大山巌率いる部隊が花園口に上陸した次の日、つまり10月27日、3名の中国人の鍛冶屋が日本軍の侵犯に怒りを抑えきれず、その夜、叢家堡子に潜入して大山巌を刺殺しようと準備していたが、不幸にも日本軍の歩哨兵に発見され、格闘となったが捕まり、司令部に連れて行かれた。3名の労働者は死んでも屈しない態度で、「錚々(そうそう)たる態度で、敵も如何ともし難く、日本軍遠藤はその場で三名の烈士をとても貴重な人材であると言わざるを得なかった。」

(二) 普蘭店民衆抗日闘争
 普蘭店人民もまた日本軍に対して頑強な闘争を行った。一つは山地元治刺殺未遂事件である。10月24日、日本軍第1師団長山地元治は李家屯の李という財産家の家に泊まった。李家で働いていた二人の職人が山地を殺そうと決心して、その夜「それぞれが刀を持って山地元治の離れに進入し、護衛兵を殺した」、はからずも山地は驚いて起きたのでこの二人の職人は捕らえられ殺された。
 この日本軍第2軍が貔子窩に侵犯してきた時、農民の高武は付近の農民800余人を組織し、鋤鍬等を武器として日本軍の侵略に抵抗し、命がけで格闘したが、高武と一部の農民はこのなかで犠牲となった。
 11月(注:10月の間違い)26日、日本軍の暴行に激怒した貔子窩の青年農民が、その夜こっそりと劉家店の小山の入り口に上って、棒を持ってパトロール中の日本軍二等兵坂本辛三郎に怪我を負わせ、最後には共倒れになった(亀井茲明『日清戦争従軍写真帖』第76頁)。別の農民徐三は、日本軍がほしいままに略奪するのに憤懣やるかたなく、長矛を用いて日本軍の通訳官藤城亀彦を刺し殺して逮捕された。12月26日徐三は大連湾柳樹屯あたりの海岸で殺された(向野堅一『従軍日記』)。
 貔子窩の西姜屯の猟師姜二は、オオカミを捕らえるやり方で日本軍に立ち向かった。彼は村の東の大通りに三つの広さ1丈、深さ10丈の大穴を掘り、上には沢山の高梁の藁を被せ、さらにその上に土を被せて擬装した。日本軍騎兵が通過する時、人が穴の中に落ち、人はのけぞり、馬はひっくり返るで、日本軍は重大な打撃を受けた。

2.金州城攻撃

 (図2 第二軍背後守備隊之配置図 )

(図3 金州城攻撃前夜第一師団之位置図)

 第一師団には又通訳官(探偵)として藤崎秀(金州方面担当)、向野堅一(普蘭店・復州方面)、山崎羔三郎、鐘崎三郎(金州、復州、蓋平方面)、猪田正吉(大孤山方面)がついた。
 11月1日第一師団長山地は3日から金州城に向けて前進することを決定。敵情視察や電線破壊工作に入る。4日初めて金州街道で清軍と交戦。5日、翌日金州城攻撃の命令。(先の関根上等兵が所属する第3中隊は、清軍の援兵を断ち、かつ敗走してくる部隊を討つべく復州に派遣された=「復州支隊」)
 6日、未明から日本軍は進撃を開始し、本隊は6時10分から陳家屯方面の清軍と交戦。清軍兵士は、約60の死屍を棄て、金州城方向に潰走。7時40分城東北約千メートルの高地端を占領。又乃木の指揮する歩兵第一連隊は6時45分破頭山を占領、清軍は多数の武器弾薬と50余の死屍を棄てて金州城方向に敗走。7時30分乃木は金州城に向けて前進。ここで防衛していた清軍の部隊は、徐邦道の部下の拱衛(キョウエイ=守備)軍の歩兵千五百人、馬隊二百五十騎、砲兵五百人山砲十門等であるが、その歩兵の大部分は新たに徴募したもので、敗れると金州城を顧みることなく、その大部分は旅順口に向けて退却した。徐邦道は李鴻章に対して度々援兵を求めるが一貫して拒否され続けた。
 午前7時30分西寛二郎少将率いる歩兵第二聯隊が金州城最近高地占領をめざして攻撃開始。
 金州城は東西六百メートル、南北七百六十メートル、高さ六メートル8の城壁に囲まれ、人口六千六百。激しい砲撃、銃撃戰ののち9時30分清軍は西門より退走を始める。
 「敵ノ一部ハ九時三十分頃ヨリ三々五々退却ヲ始メタルモ其大部ハ仍ホ頑然死守シ在リシカ今ヤ三面ヨリ夾撃セラレ遂ニ多数ノ死屍、銃砲、弾薬及軍需品ヲ棄テ十時頃ヨリ陸続旅順口及大連湾方向二敗走」した。「その敗走の情、混乱の有様、実に名状すべからず、あるいは銃を抛(なげう)ちつつ走るあり、軍衣を脱して逃るるあり、あるいは民家に潜むあり、土民に混ずるあり」と無規律な混乱を来した。(『連隊歴史』11月6日)
 北門から侵入した歩兵第二連隊の諸中隊は城内を掃討し、歩兵第一連隊第一大隊も11時東門から侵入して、ついに「金州府は関東半島を守るに咽喉の要地」といわれる金州城を占領。
 金州城占領後、更に西少将は追撃命令を出し、午後零時15分蘇家屯、1時45分南関嶺及び兵営を占領。
 金州城を落とした第1師団は、大連湾地方の占領に向かう。
 7日、乃木河野の両支隊は、午後6時頃までに和尚島及大孤山半島諸砲台、老龍島砲台、黄山砲台を占領した。

 7日、金州城北門から侵入した第一師団軍夫丸木力蔵の日記によれば
 「道路ニハ清兵の死体あちらこちらに倒れあり、首ばかりのもあり」「五〇前後の支那人二丈(?)位いな男を前に置き倒れ居り、その子もどこを打たれたる、あおむきに成りチンコを出して居る様、実なさけなく」「二〇才程の娘がどうしたわけかまえもしだらなく死に居もあり」という情況であった。
 福岡日日新聞によれば三日後の情況は以下のようであった。(第1師団に続いて混成第12旅団も11月7日に上陸を完了し、金州城に合流した。)
 「▲無残の死 市街は悉く城門中にあり 此国人の吝嗇なる其の財を吝んで止まりたるか 將た城門固く鎖して逃れ去る能ハざりしか 市民半ばは家に隠れたりしに砲撃甚だしきに堪へず逃れ出でんとして過って無残の死を遂げし者十数人少女あり幼児あり翁媼あり母子相枕で倒れたるもあり 思はず人をして酸鼻せしめたり 干戈の惨是に至りて極まる 
 ▲飢犬屍を咬ふ・・」
 
(三) 一方、金州人民の抗日闘争から見れば次の通りである。(関捷総主編『旅順大屠殺研究』)

 金州は、日本軍第2軍が花園口上陸後第1に侵犯した都市である。日本軍は大挙しておしよせ、至る所で略奪し、金州人民の激烈な抵抗を呼び起こした。
 甲午戦争が始まってから金州の一青年陳宝財は家や村を防衛し、日本軍に攻撃するために4,50人の「紅槍会(註:こうそうかい:華北および華中の農民が組織した自発的な武装組織。多くは白蓮教を信仰、赤い房のついた槍を使用した)」を組織し、日夜立ち回りを訓練し、機会を狙って敵を殺した。
 11月3日、日本軍の斉藤南明少佐率いる歩兵第15連隊、騎兵第1中隊と工兵第1大隊が亮甲店、陳家店、劉家店を経て金州に侵犯している時、陳宝財はすぐに44名の「紅槍会」の兄弟を城東鳳凰山の麓の落鳳溝の中に待ち伏せさせた。ほどなくして日本軍が待ち伏せ地点に接近した時、敵の不備に乗じて陳宝財等兄弟は猛虎の如く山を駆け下り、手を出すいとまも与えず打ちのめし日本軍十数人を死に至らしめた。その他の日本軍は走って逃げた。後に日本軍は大部隊を整えて来て、陳宝財の紅槍会を包囲したので、少ない人数では大勢には太刀打ちできず、全員が壮烈な戦死を遂げた。金州人民は陳宝財等の烈士を祈念するために抗日記念碑をたてた。
 11月5日、日本軍が大黒山北麓の石門子を攻撃した時、金州民衆は徐邦道の守備軍と力を合わせて日本軍の攻撃を阻止した。金州南街の還暦を過ぎた鍛冶屋の馬忠信は町中の鍛冶屋を引き連れて日夜太刀を鍛造し、前線の場内の青壮年の支援のために送った。街の十余のシャオピン店は夜通し大餅を焼いて、若者に石門子陣地に送らせ、日本軍と格闘している守備軍の官兵をねぎらった。石門子付近の民衆は自主的に組織を作って、官兵の築造工事、山頂に砲を引っ張って行ったり、弾薬を運ぶのを助けた。清軍が後退して守勢を取った時には、城内の青壮年は太刀や長矛をもって次々と城を守る部隊に参加した。日本軍が城内に進入してきた時には、民衆は清軍官兵とともに市街戦を戦い、戦死するものもあった。
 11月6日、日本軍が金州を占領した後、日本軍はまた大連湾を侵犯した。日本軍は安全に侵犯するために、なんと金州城内の百姓をつかまえて、地雷を探させた。日本軍は鍛冶屋の劉世宦家の息子の劉玉珍、劉玉珠等男子数人を拉致した。次男の劉玉珍は日本軍のために命を賭けることをせず、「これと戦い」、みんな足を踏み出さなかった。残忍な日本兵は劉玉珍を殺害してしまった。劉玉珠は「数日間拘留」された。南門外の高家窯の農民趙某は日本軍が婦女に暴行を働こうとしているのを見て、自らの身を顧みず必死に戦った。
 旅大地区の広大な婦女もまた自らの力及ばないことを顧みず、日本軍のなりふり構わぬ暴行に対して命がけで抵抗し、逃れることのできるものは逃れ、逃れることができない時は必死になって敵と戦って、死を持って抵抗した。
 金州城内の西街曲氏一家の女達7人と3人の未成年の子供たちは、日本軍の蹂躙から逃れるために井戸に身を投げた。
 劉世宦の娘は邵家に嫁ぎ、劉雲玲の娘翠子は秦家に嫁いだ。11月6日金州城陥落後、「お姑と姪の二人は隠れ、辱めを受けるのをおそれ、毅然として井戸に身を投げ、もって貞節を守った。」

 様々な証言が示すように金州城攻略戦においてすでに兵士のみならず多くの民間人が惨殺されている。女性への暴行もあった。
 また、花園口上陸直後に軍夫による掠奪・強姦事件が発生し、第2軍司令官名で軍夫の監督強化に注意を促し、同時に「正規の兵士でない者に武装させるのは国際法違反」という批判をおそれて11月10日には「非戦闘者ノ戎器携帯禁止規則」を制定して軍夫から刀を取り上げている。(これは戦場に出る軍夫を武装解除するものであり、実際に襲撃されて死者が出たりするのであるが、軍は問題発生と諸外国の目を恐れて刀をとりあげた)

 3.旅順攻略戦(参照:日清戦史、大谷正『旅順虐殺事件再考』)

 さて、先に上陸していた第1師団(乃木、西)が11月6,7日をもって金州、大連湾(海岸砲台、和尚島・大孤山半島)地方を占領し、任務の第1段階を固めたので、大山第2軍司令官は、いよいよ旅順攻撃に向けて、11月7日に花園口に上陸した混成第12旅団を金州に呼ぶとともに、内地に留めておいた第2師団を招致するか否かの検討に入る。
 第2軍司令部は、情報収集によって、旅順要塞を防衛する守備兵は、本来の守備兵8050名と金州及び大連湾の敗残兵3600名他を合わせて合計約1万2千名、そのうち約9千名は新募兵で戦闘能力は低いこと、また大同軍は普蘭店に退却しており、銘字軍が金州回復の命令を受けているとの情報を得たので、旅順攻撃には第2師団の招致をしないと決定した。
 
 旅順に進撃
 11月13日第2軍の部隊が揃う。(図4 第2軍諸団隊之位置図)

 第2軍の編制表は次の表(大谷正による)の通りであるが、

そのうち旅順攻撃の部隊は、
 第2軍第1師団が、野戦師団総数2万86名(うち軍夫は3768名)、兵站部総員4804名(うち軍夫4256名)(第1師団総数およそ2万5千名のうち8000名以上は軍夫で、正規の軍人軍属は戦時定員の1万8492名にも満たなかった)。馬匹は2544頭(計画では5383頭であるから、本来駄馬がやるべき輸送の半分を軍夫が徒歩車両=大八車で担った)。
 混成第12旅団は、全体で8000名程度。輜重は定規の駄馬編制、兵站部隊に軍夫740名、徒歩車両210輌。
 臨時攻城廠。臨時徒歩砲兵連隊、臨時攻城砲廠縦列、臨時攻城工廠縦列から成る。総数2753名、うち1938名が軍夫。25頭の輓馬。
 である。総数で3万5千余名、そのうち国際法上戦闘員としての資格の疑わしい軍夫が1万余で、馬の代わりに輸送を担っていた。
 
 旅順口の防御施設は、海正面防備として海岸線に沿って永久築城の砲台群が並び、重砲58門、軽砲8門、機関砲5門を備え、背面は未完成の仮築城で、旅順街道の東側に松樹山から北山砲台までの諸砲台が並び、街道西側には案子山砲台群があり重砲18門、軽砲48門、機関砲19門を備えていた。海正面に比べ背面の防備は未完成でとりわけ街道西側に弱点ありと見られた。(戦闘後には、清国軍防衛兵力は陸正面に9500名、官衙(カンガ)守備500名、海正面は約3200名と水雷営・)魚雷営守備兵若干、合計1万3千余と修正)
 
 かくして第2軍は第2師団を待機させたまま、攻撃に入ることにした。その概要は、
・大連湾守備隊は、兵站監の指揮下に大連湾付近の守備。
・軍司令官直属の金州守備隊(歩兵第15連隊の第1、第2大隊と騎兵1小隊)は、金州城内外の守備と復州に通じる道路を警戒し、北方からの清国軍の攻撃に備える。
・捜索騎兵は行軍の前面で捜索警戒。
・混成第12連隊の一部(歩兵第14連隊第1、第3大隊を中心とする)から成る左翼縦隊は、旅順街道南方の山間を進み、11月20日旅順東北に進む。
・第1師団(歩兵第15連隊の2個大隊等欠)と混成第12旅団(歩兵第24連隊を中心とする混成旅団の約半分)から成る主力の右翼縦隊は、旅順街道を進み、20日第1師団は本道及びその西側、混成旅団は本道東側に進む。
・攻撃は11月21日の予定。
というものであった。
 日本軍は、遼東半島の最狭部(大連湾が切れ込む金州南方の蘇家屯周辺、半島の幅はほぼ4キロしかない)を押さえ、旅順口の清国軍を「袋の鼠」にするというものであった。
 
 11月15日、西少将の命により、歩兵第三連隊の丸井少佐は、騎兵大隊の主力及び歩兵第三、第四中隊を秋山好古少佐に属させ(秋山偵察隊)、双台溝から旅順口に通ずる道路を偵察し、「危険を冒すことなく成るべく旅順口に接近し敵の情況を偵察すべきこと」命じる。そこで秋山は営城子を出発し、土城子を越え、水師営まで入って清軍を挑発しながら偵察する。17日も騎兵第一大隊は水師営及び其の西における敵情及び地形を偵察した。18日、捜索騎兵は第二中隊を前衛として営城子を出発し山澗堡に達したが、土城子南方に現れた清軍はいつものように退却せず、次第に部隊の数を増やしてきた。ここにおいて日本軍は大量の清国軍の攻撃によって敗北を喫する。
 清軍は総兵姜桂題、同徐邦道、同程允和の部下の歩兵約五千余、騎兵約百、山砲二門。これに対する日本軍は歩兵約六百、騎兵約二百であり、この戦闘で日本側は将校1(中萬徳次郎中尉)、下士卒10名の戦死、負傷者35名(浅川大尉を含む)を生じたが、この時に清軍によって「死体が首を切られ、腹を裂かれるなどの陵辱を受けた」ということが、くりかえし後々の日本軍の「報復」の口実とされた。
 土城子で日本軍が敗北した時、清軍による日本軍兵士の惨殺、死体陵辱があったと日本軍は大宣伝をする。
「首は斬して見えず、手足は散々断たれ、腹は裂きて胃の腑を取り除き、石を填めて充たしめ、甚だしきは陰茎を切断して有り」それを実見した兵士たちは、「切歯扼腕勇々憤々に堪えず」「瞬間も早く旅順を陥落せんとする志気」を高めた(『第2連隊兵士関根の日記』)

 これをもって、山地元治第1師団長は「土民といえども我が軍に妨害する者は残らず殺すべし」と命令する。これを受けて兵士は「旅順兵を鏖殺(おうさつ=皆殺し)するの勇気一層増加せり」となった。

 福岡日日新聞の記事では、
第廿四聯隊第二大隊八中隊の戦闘日記
▲十九日 忠勇なる我が兵士が敵兵の為に無惨至極なる最期を遂げて・・・其の有様或ひは首を刎られ或ひは四肢を断たれ殆ど筆紙に尽し難きまでの惨刻を極め居れり 是れを視たる我々全隊の兵士ハ怒気忽ち心臓に燃えて銘々思はず血涙を啜り口々に「復讐、復讐」の声は口を衝てほとばしりぬ
 とある。
 
 11月20日、日本軍は旅順口背面防御線に到達。
 
 一方清軍は、11月6日以後、金州陥落、大連湾を失守し、敗残兵が続々と旅順口に来るので、士気喪失し恐慌状態となった。行政責任者シュウ(龍の下に共)道台は李鴻章に応援を求めたが逆に卑怯者と譴責され、他に姜桂題、程允和、張光前、黄仕林の四統領と金州、大連湾から来た敗将徐邦道、趙懐業があったが、これらを統一する主将がなく、混乱のうちに日が過ぎていった。徐邦道は出かけて日本軍を迎撃することを度々主張するが、シュウ(龍の下に共)道台らは逃げることしか考えておらず、13日頃からは、日本軍の騎兵が連日水師営附近に出没するのに恐怖し、遂に17日に逃亡。そこで姜桂題・徐邦道等は土城子附近に出て日本軍を掃討して士気を高めようと日本軍を待ち伏せして打撃を加えた。16日には、黄仕林、趙懐業、衞汝成が逃亡したが、姜桂題・徐邦道・程允和等の諸将は依然防衛を固めて21日を迎えた。

 旅順口の攻撃は、11月21日未明から始まった。
 混成第12旅団が街道東側の砲台群を牽制するなか、第1師団歩兵第2旅団長西少将率いる部隊(歩兵第3連隊中心)を先頭にし、師団長山地中将の師団予備隊が弱点と見られた案子山(椅子山)砲台を8時過ぎに占領。乃木第1旅団長は203高地を越え鴨湖嘴附近に進撃。
 混成第12旅団(歩兵第24連隊が主力)は、二龍山・松樹山砲台を攻撃し、11時30分占領。松樹山砲台火薬庫が引火爆発。
 歩兵第12連隊は12時前後に東鶏冠山砲台を占領し、続いて小坡山、大坡山・蟠桃山砲台を占領。
 このころ松樹山砲台から白玉山の線で抵抗し、旅順市内への進入を阻止していた清国軍は、松樹山砲台火薬庫の爆発に動揺し旅順市街方面に退却した。
 ここに至って第2軍司令部は事実上旅順口が陥落したと判断し、12時過ぎ、第1師団長、混成第12旅団長に、旅順東北方面(金州方面)に脱出する清兵を「扼止(ヤクシ:抑える)」するとともに「旅順の占領を確実にする」ようにとの命令を出した。
 ところが、13時30分、旅順口方面に移動中の第2軍に対して、宋慶配下の清国軍が金州を攻撃したとの報告が入った。しかし清国軍の目的は達せず、夜間に入ると旅順口の敗兵を収容して撤退した。
 旅順から敗退した清国軍およそ1万は、金州方面に向けて殺到し、旅順―金州の間の各地で、大混乱のなか日本の警備隊や輜重縦列と衝突した。
 旅順附近の清国軍の抵抗を破壊したと判断した16時頃、第2軍司令部は、金州城守備隊の救援のため歩兵第1旅団長乃木少将に歩兵第15連隊第3大隊・騎兵半小隊・野戦砲兵第1連隊第6中隊を率いていくこと(乃木はこの部隊を把握できず、出発は翌日に延びる)を命令、18時に粟屋幹少佐に歩兵第1連隊第2大隊・騎兵半小隊を率いて金州に向かうことを命令した。
 旅順口では、14時頃、第1師団歩兵第2連隊及び歩兵第15連隊第3大隊は旅順市街を通過して黄金山砲台に向けて前進を開始した。第2連隊は「行々敗兵ヲ掃討シ」た。「敵ハ殆ト抵抗スルコト無ク、・・潰走セリ」。その夜は暴風雨となり気温は華氏35度(摂氏1.5度)に下がったが、歩兵第2連隊と第15連隊第3大隊のみは市街に舎営した。(図5 旅順口戦闘図)

 
 4.旅順市内掃討および旅順―金州間の敗残兵掃討

 (旅順口守備軍1万3000名と言われたが、清軍の指揮官は戦意がなく、守備兵もほとんど戦わないで潰走したので、第2軍は21日一日の戦闘でほぼ旅順を占領した。
 翌日22日、各部隊は旅順口の占領を確実にするために行動を開始した。ここから無差別の大虐殺が広がる。
                          (図6 旅順攻略戦図)


 前夜占領した砲台で露営した混成第12旅団は旅順市街に進出し、市街東部と馬家屯で敗残兵掃討を行う。歩兵第2連隊は前日に引き続き、旅順市街を、歩兵第1連隊は旅順西方の掃討と饅頭山砲台等の占領を担当し、歩兵第3連隊は周辺の掃討に当たる。
 旅順―金州間の敗残兵掃討は、旅順から向かった第1連隊第2大隊、第15連隊第3大隊と元々防衛に当たっていた歩兵第15連隊第1、第2大隊と歩兵第14連隊第2大隊を中心とする部隊が担当。
 
 以上が22日における「旅順大虐殺」の実行部隊である。
 この22日で旅順占領の任務を完了したと判断した大山軍司令官は、23日訓令を
 発して、旅順攻撃のための軍隊区分を解き、以降、旅順・水師営の警備を混成第12旅団が担当すること、第1師団は25日より逐次金州に向け出発し、途中で敗残兵討伐に努めるよう指令した。
 この23日、24日、25日と、なお旅順市内で実は無差別殺戮が続いていたのである。
 この間の虐殺は、敗残兵だけではなく、非戦闘員男性は皆殺しとされ、さらに女性への強姦、殺害、子供の惨殺などが繰り返されている。
 
 日本軍による死体処理(「戦場掃除」)=埋葬の情況は、以下。
 第2軍参謀長井上大佐から大本営への電報
 「敵ノ死者ハ旅順口方面凡ソ2500人、金州方面及金州ト旅順トノ間ニ於テ凡ソ2000人、総計4500人ノ概算ナリ。又目下我病院ニ於テ敵ノ傷者ヲ治療中ノ者約40人余ナリ。又捕虜目下355人ニシテ取調中、其中後送ノ見込ハ約200人トス」(12月9日)
 日本軍は、23日〜26日の間、緊急の「戦場掃除」=死体処理を行う。防疫上の配慮から死体処理の徹底が必要とされ、本格的には、12月5日から「大掃除」が行われ、翌年まで続いた。上記の死者4500名というのは、過渡的な数字である。
 第二軍の法律顧問国際法学者、陸軍大学校教授の有賀長雄は『日清戦役国際法論』で市街に散在する清国人の死体2000人、そのうち500人は非戦闘員だったとしている。
 捕虜は、海軍陸戦隊の1小隊が捕らえた259人を除けば、100人にも充たず(総計355名)、日本軍は、武器を捨てた清国兵士を、捕虜にすることなく、徹底してその場で虐殺したのである。
 有賀長雄は、「捕虜というものは厄介者で虐殺を適切な処置とみなしている」と発言している。
 
 虐殺された被害者数を中国側は、1万8000名から2万名と見ている。
 
旅順大虐殺の証言

 『福岡日日新聞』における報道
 
 旅順大虐殺の情況は、旅順攻略戦に参加した第24連隊の地元福岡の「福岡日日新聞」に報道された。(福岡日日新聞は1877年に「めさまし新聞」として創刊され、1879「筑紫新報」、1880年「福岡日日新聞」と改題した。この頃から福岡県の自由党機関紙となった。一方福岡県には1887年に頭山満によって「福陵新報」が創刊され、後に「九州日報」と改題された。この両紙が第二次大戦中に合併して、現在の「西日本新聞」となる。)
 明治27年(1984年)12月の新聞から記事を拾ってみる。

【12月6日】
●討清軍従征日録 十一月二十七日 第二軍第一師団司令部直属 本社特派員 光永規一
▲敗兵の追撃、
廿一日の夜より大連湾の海岸及び遼東湾の附近に遁れたる清兵は我海軍の斃ほす処となりたるものも随分多きことなるが今日に至るまで金州方面に向かって遁れ来る者数知れず 日として二三十の清兵を斃ほさざるなく、二十一日より今日まで清兵の戦死者を算すれば三千に下らずと云へり

 【12月11日】 
●某軍人乃書簡 福岡第廿四聯隊(11月30日発)
此戦争に我第二軍の負傷者ハ三百名に過ぎず、死亡者三十名斗り 敵の死亡者五千人、負傷者は其数を知らず、彼の広き渤海湾も死体にて海面亦水を見る能はず、我第一中隊にては廿余の負傷者ありしも、幸いに死に到らず

●討清従征日録 十二月二日野戦郵便発 第二軍第一師団司令部直属 本社特派員 光永規一
▲旅順敗兵を粉砕す
翌廿二日午前十二時比旅順の敗兵(歩騎両兵共)山の如く旅順方向より来りたれば、復州街道の右翼、危険となりしにより、急に同街道に対する我兵総て其方面に宛て戦闘せり、依って此敵は非常の損傷を受けて退散せり、
右二戦に於いて我死傷 将校一名即死 下士卒死傷七八十
敵兵は海中に逃込み、我兵の乱撃にて斃るゝもの数知れず 殆ど浜の真砂の如しと云へり 幸に我銃撃を逃れたるものも尽く凍死の惨状を現するに至れり。
▲第二大隊の敗兵追撃
・・・廿三日金州に着途中屡々旅順の敗兵に遭遇せり、・・・捕虜三百廿八名を得たる事なり、
▲乃木少将の敗兵追撃
・・・翌廿三日午前十二時を以て土城子に集合途中二泊の上廿四日午前一時金州に着したり、右進行中敵の敗兵三三五五逃るに遭ふ 多くは我斥候兵にて打払ふことを得たり、然るに廿四日の午前十時頃難□嶺に至りしとき其北方の山より土人一人逃げ来れり、捕て之を糺せば該山陰には敵兵四五百人潜伏せりと云ふ 因て歩兵二中隊をして山の両方に至らしめ、他は金州に向ふ 此二中隊は同日午前二時までに尽く敵兵を殺し尽したり 敵兵は果して四五百にてありし、其の内捕虜三十八名ありたり。
▲豚奴三十名を焚撃す
乃木少将の率ゐたる第一聯隊の第八中隊が旅順より金州に引返すの途中最も愉快なる戦争は豚奴三十名を焚撃にせしことなり 彼豚奴は頑強にも我兵の過ぐるを窺い、村落の牆壁に據り頻りに我兵を狙撃して屈せざるを以て 今ハ已を得ず家に火を放ちしかば何條溜まるべき、豚尾に火を附けしまゝ飛出るもあれば五体火の塊となりて舞もあり、演劇にも見る能はざるの奇絶、快絶の戦争にて遂に三十名共一人も洩れず討平けたりと云へり

また「廣島電報」として「旅順及金州に於ける敵の死傷捕虜」は
11月21日22日旅順口に於いて死傷約千名、捕虜63名
21日金州城に於いては死者は、将校7名、下士32名、兵卒464名
22日より24日に至る間金州城に於いて旅順敗兵死傷及び囚虜○○
金州付近における敵の死体にて我軍の埋葬せしもの及び此の外海岸又は海中に走り入りて我軍に殺されたるもの其数無?なり、聯隊長の言によれば総計千五六百名を下らざるべしと
死傷捕虜の総計は二千百四十六名なり。

【12月12日】
第廿四聯隊第二大隊八中隊の戦闘日記
▲十九日
忠勇なる我が兵士が敵兵の為に無惨至極なる最期を遂げて・・・其の有様或ひは首を刎られ或ひは四肢を断たれ殆ど筆紙に尽し難きまでの惨刻を極め居れり 是れを視たる我々全隊の兵士ハ怒気忽ち心臓に燃えて銘々思はず血涙を啜り口々に「復讐、復讐」の声は口を衝てほとばしりぬ

▲二十二日 午前十一時前山を下り旅順口に入り敵の残兵市街の家屋に潜み尚懲りずに我軍に向かって抗敵する者を引出し銃剣若くは鋭利なる日本刀に掛けて斬斃したるもの幾百なるを知らず
 
 【12月14日】
 金州再戦の實況談
 第二軍が旅順口征討の途に上るや、第一師団第一旅団第十五聯隊の二個大隊並びに騎兵若干を残留して金州縣を守備せしめたり 
 この守備隊は、21日午後二時頃、逃亡してきた四百許の敵兵を銃殺しぬ
 
 同日、旅順私信(某軍人の書簡)歩兵第廿四聯隊
 十一月廿二日砲台を下り港の近くへ行き舎営す 行進中敵兵の(死)体数百名 又敵兵を斬りたること数百 敵兵商人の形装(なり)にて民家に潜み抵抗するもの者を殺したるもの三四百なりき 又散歩せんとて諸所に行き見れば到る處として死体若干有らざるなし 死人を積みなば大山をも生すべきなり
 
 【12月16日】
 特派員通信
 ▲二日間に死体三百余 旅順口に於て敵の死傷は其数実に何千の多きに及び死体の山を築きしは誰人も知る所なるが 去る家屋片隅海岸の凹等より発見したるもの去る十日十一日の両日にて死体三百余もありしといふ
 
 同日、旅順来信(軍人の書簡)《第六師団歩兵弾薬第一縦列第五小隊第三分隊 相島寅次郎》
 21日深夜から22日朝にかけて、「敗兵一人を刺殺」「四人の豚尾兵を銃殺致候」「八百余名の敗兵」を敗走させ、「旅順口へ進発」「廿二日午後一時頃到着仕候所敵の屍は塁々として山の如く 皆覚へず愉快愉快と絶叫致候」
 
 井上常太郎氏の書簡
 支那兵ハ実に弱きものに御座候 廿二日旅順口市街に宿泊す 市街は敵の死屍山を築き 各戸に潜伏して我れに抵抗したる敵兵五人十人と打殺されたる者千三百人ばかりもこれあり候 廿三日に我が中隊は旅順口を発して二里余の土城子へ守備に行き十二月四日旅順口に帰る 土城子にて敵の敗兵四十五人を殺す 内三人は我れ之れを殺したり
 
 【12月19日】
 旅順戦記(某軍曹手記、承前)
 全く水師営の砲台を略取したるは十二時三十分・・・
 夜明けて敵の敗兵十三名を捕す(一下士哨)然れども下士哨にて悉く之を剣殺す 予も三人やりつけたり 部下の兵中にも一人にて八九人も殺したるものあり 翌廿二日は旅順に入るの命令あるや予等已に二三日間も水と食を欠きたれハ 該地に至てハ食は得ざるも一滴の飲水を得んと思ひし甲斐なく 彼の已に井水に毒薬を投しをるを発覚し 医官の検査を終らざれハ飲用するを得ずと 
 敗兵及負傷者毎戸二三人つゝ在らさるなし 皆な刀を以て首を切り 或は銃剣を以て突き殺したり 予等の踏所の土地は皆赤くなりて流るゝ河は血にあらざるなし 吹き来る風は腥く誠に血の河を渉り屍の山を越え血雨に沐し腥風に櫛るとは此事ならずや
 
 【12月20日】旅順戦闘記 福岡第廿四聯隊第一中隊の某兵士(福岡人)
翌二十二日午後旅順口に至り舎営す 途すがら敵兵の死せし者無数此処彼処に散布せり 平常ならば死人を見て気味悪き思ひあるも 今は已に死人を見ること恰も路傍に犬猫の死せしを見ると均し 二十三日午前四時我中隊丈け旅順口を出発し 再び後方三里計の所に立戻り 遁走兵捕獲の命に接して赴きたれ共 更に多数の敵兵に遭遇せず 僅かに八名を捕らえ得たり、

 記事はいずれも11月21日旅順陥落から4日間における虐殺である。場所は、旅順市内と金州方面に渡っている。さすがに、新聞報道の中には、女性の強姦や子供の斬殺に関しては触れていない。しかし、一方、「土城子」の報復を口実として、清の敗残兵に対してこれを捕虜とすることなく殺戮している。
しかも斬殺し突き殺し残忍な殺し方で、死体の山を築いたことを戦果として報告している。

 歩兵第二連隊関根の『日記』では
11月21日:・・この時各砲台は日章旭旗を高く掲げ、到る処敵の屍は累々山を成す。流血川を成す。その惨状淋漓として〔すさまじく〕、恰も悲惨の情況を極めたり。この日敵兵は船艦に乗り込み逃走する者多く、我が海軍これを追撃す。敵は概略鏖殺されたり。
 また第二連隊小川幸三郎の『征清日誌』では
「・・・果たして清兵の一家屋に少なきも三四人、多くは七八人潜伏しあり、俵及び蓆(むしろ)の間にあり土民に換(か)ゆる〔化ける〕あり裏板の上に隠るもあり」「皆戸外に引出し、突くもあり、切りもあり、同市の街道は横死したるもの幾百人か、幾千人かその数算うるを得ず」。こうなった背景には「集合地出発の際男子にして装丁なる清人は皆逃さず、生かさず、切り殺すべしとの命令」が下り、「兵士の勇気皆溢れ」たことがあった。
 また同じく第二連隊の匝瑳(そうさ)富二郎は郷里の父に送った手紙のなかで、「旅順口街に至り老爺老女若男女子を除くの外悉く殺せり」と書いている。
 軍夫丸木は、『日記』のなかで、11月21日、栄城子における捕虜の殺害について書いている。
「清兵の生け取り有り、敵の様子を尋ねれど実を云わず、かえって悪口なす・・・皆これをにくんで、(彼を柳の木にくくし付け)近き所より水をくみ来たりあたまよりあびせる。11月の末寒風はげしく、跡より追々来る兵士この噺を聞、我も我もと水を掛る、見る見る間に体は紫色に変じ氷死にしたり」
 軍夫丸木の日記11月22日 一戸一戸まわりながら殺戮、略奪をくりかえしている様子を見る。
「(土城子)清兵の負傷者・・穴の中より飛びいだし、にげようとする所へ多勢かけきたり、メチャメチャに切り倒したり、」「旅順口に進み行く、道に打死の者両辺に打ちたおれ、・・・清の敗兵成るか身なりの様子では分からねど、捕縛され山景あるいハ畑中なぞニて首打たるる者数しれず」
「少し先へ行けば一寸した家も中ニハありお、・・・そのとなりへゆき、内に入りて思わず奥の室を見れば、支那人二人切られ居り、あわてて飛び出し、筋向かいの油荒物商・・・何やら足元のぶくぶくするゆえ持上ゲて見れば男の死骸 またもこの家を飛び出し、今度は左り横町へまがり裏通りへでたる所、爰(ここ)は驚の外なし、支那人の死体二人三人、あちらにもこちらにも一番多きかたまりは四〇名の余ニて、・・・夫れより海の端を右まわりして旅順街に行けば、・・・前日敗走の折、ここより本船にうつらんとして海中ニ落入る者、はしけ船なくしておよぐ者、あわてまどう中、我兵追打して敵をさんざんいなやます、その折りの敵の死体水の中にうかみ背をいだし、またはしりを出しブクブク浮きあるさまは、遠く見れば海水浴のあり様なり」
軍夫丸木11月23日敗兵殺害
「この日も敵兵数人つれ来たり、松山畑中にて首打たるる、」
(丸木11月25日、「残兵急ニ襲来し、身方手うす故ニ四〇名程うたるる」
丸木11月26日27日(旅順近郊双台溝)軍夫まとめの百人長による捕虜殺害。
「残兵を捕え来り斬殺するにあたり、係りの人より百人長にドウダ斬ってみんかといわれ、・・・チャン公はハアヨハアヨと泣き居り、用意よきゆえ刀抜きはなせば、チャン公にげかかる間に首切りおとしたり」
 関根の日記11月24日
「市中に残匿する兵まで射斬したるを以て屍は積みて山を成す、血は流れて川を成す、屍を以て遮られ、歩行に不便を来したり」

 中国側証言
 以下、関捷総主編『旅順大屠殺研究』社会科学文献出版社2003年 から引用する。
 中国側は解放後、被害者からの聞き取りを行っている。日清戦争といえば、遠い昔のことのように思っていたけれども、実は被害者は、1970年を過ぎても生存していたのである。
 
捕虜の殺害
 日本軍は旅順占領後大虐殺をし、武器を捨て、抵抗をやめた中国清政府の軍兵士をほしいままに虐殺し、また捕虜を惨殺した。これは日本軍が国際法も人道主義の原則も踏みにじった一つの例証である。
 
 日本軍は老若男女を問わず、人を見れば皆殺しにした。日本軍は非戦闘員を殺していないとか婦女子の殺害の事実はないというが、明らかに武器を捨て、抵抗をやめた清の兵士を殺害した。日本軍はただ、軍服を脱いで平服に着替えて抵抗を続けた兵士を殺しただけだといっている。

 日本軍の虐殺は野獣性の表れであり、いわゆる「報復」「敵討ち」というのは殺人のための口実にすぎない。
 日本軍は武器を捨て、抵抗をやめた清軍を虐殺したことをもちろん否定しているが、調査、研究、分析により大量の捕虜惨殺の証拠がある。
 日本軍歩兵窪田仲蔵は《従軍日記》のなかで、明確に「中国兵を見れば殺した」と捕虜虐殺を明らかにしている。

 ここに出ている窪田仲蔵(第1師団第15連隊第3大隊第1小隊二等卒、長野県諏訪郡出身)の《従軍日記》明治27年11月21日の記載によれば、次のようであった。

 「此ノ時余等ハ旅順町ニ進入スルヤ日本兵士ノ首一ツ道傍木台ニ乗セサラシモノシテアリ 余等モ之レヲ見テ怒ニ堪ヘ兼気ハ張リ支那兵ト見タラ粉ニセント欲シ旅順市中ニ人ト見テモ皆殺シタリ  故ニ道路等ハ死人ノミニテ行進ニモ不便ノ倍ナリ 人家ニ居ルモ皆殺シ大抵ノ人家二三人ヨリ五六人死者ノナキ家ハナシ 其ノ血ハ流レ其ノ香モ甚ダ悪シ 捜索隊ヲ出シ或ハ討チ或ハ切リ敵ハ武器ヲ捨テ逃ルノミ 之レヲ討チ或イハ切ル故実ニ愉快極リナシ ・・・夜明ケテ水ヲ求メントシ見ルニ死人ノミニテ実ニ水ヲ飲ム如キ清水ナシ 此ノ時酒或ハ砂糖菓子等ヲ分捕リ亦皮ヲ分捕リ首ニ巻キ将校中ニハ虎ノ皮等ヲ分捕セシモノ沢山アリ・・・此ノ戦後日ノ調ニ依レバ婦人四十余人ヲ殺シタリト云フ 是日暮レテ後見分ノ付カザルナリ且ツ我軍双台溝ノ戦敵ノタメ残酷ノ殺シヲ設ケ奮怒ノ至リノ出来事ナリ此ノ時吾レ戦友ト共ニ裏町ニ入リ見レバ五人一所ニ死シ中ニ大ナル犬一疋之レヲ守リ居ルアリ 是レ其家ノ主人ナラン」
 

 日本軍の従軍カメラマン亀井?明は、《日本出発から日本軍の遼東半島退出まで》という日記の中で捕虜の虐殺を記載している。
 亀井は日記の中で2団8連隊の人員総計230人中、清軍捕虜15人以上を殺したもの18名、30人以上を殺したもの2名、また3団では700余人を斬り殺したと取り上げている。これらは皆捕虜である。
 伊藤連之助は第1師団の上等兵であるが、5,60名の清兵を双台溝まで追撃して10名の戦友とともに「半分以上を殺した」と、友人への手紙の中で詳細に描写している。そこでは抵抗をやめ武器を捨てた清兵を惨殺したとある。

婦女強姦、子供の惨殺
 日本軍は旅順を占領した後、前代未聞の大虐殺を行うと同時に、女性に対して鬼畜にも劣る性的暴行を行い、白髪の老女であろうが、妊婦であろうがあるいは十数歳の少女であろうが、容赦なく襲いかかり、沢山の女性を強姦し、またその後殺害した。ある者は蹂躙されて死にいたり、ある者は強姦されて死んだ後もなおほしいままに侮辱された。日本軍は女性と子供に対して様々な手段で残酷に虐殺した。ある女性と子供は服をはぎとられ、木に縛り付けられて凍死し、ある者は凍った河の上に転がされ大きな石で押さえつけられて凍死した。ある女性と子供は四肢を壁に釘で打ち付けられて死に、ある者は石の上に頭を叩きつけられて死んだ。またある日本軍は捕まえた人を一つの家の中に閉じこめて、綿花と石油と唐辛子を使って焼き殺した。その残虐さ野蛮さはいまだかつて聞いたことのないものである。日本軍の暴行を自らの耳で聞き、目で見たたくさんの国内外の人々は、歯ぎしりをして、ひどく恨みに感じざるを得ず、日本軍を「野獣の集団」と呼んだ。
 日本軍の婦女強姦と子供の惨殺という暴行に関して、日本軍は強姦した後、また残忍な殺し方で殺し、その上この暴行を行った者に、恥ずべき行為を極力隠させたので、こうした沢山の暴行を徹底的に白日の下にさらけ出すのは難しくなった。それでもわずかに我が研究者が発見した日本軍の婦女強姦と子供の惨殺に関する暴行の資料のなかで、日本軍の旅順占領以後の大虐殺となりふり構わぬ強姦と、子供の惨殺という罪業を十分見て取ることができる。

 第1旅団第1大隊の数人の日本兵は、3人のきれいな女性を捕まえて兵営に連れて帰り、この3人の女性を3日間、2名の少佐を含むなんと300人の日本軍で輪姦し、ついには死に至らしめた。第1大隊の兵営と第1旅団長乃木希典少将の指揮所は200メートルも離れていないのであるから、乃木が兵士のこの暴行を黙認していたということである。

 強姦が習わしとなっていた日本軍は、なんと宗教施設という神聖な場所でも、すなわち静楽庵の中で白昼強姦をした。静楽庵は天后宮からすぐのところであるが、そこで庵主の素真と4人の尼:妙修、妙空、慧音、慧霊は「捕まえられ、服をすべてはぎ取られて強姦され、その後、乳房を切り取られ、目をえぐり出され、最後には焼き殺され、刺し殺された。実に髪の毛が逆立つほど憤りを感じることである。」
 何年かして、一人の日本軍の従軍記者が、当時旅順を占領した後日本軍が女性を強姦し、残虐にも虐殺したという話を聞いて、「私は、そのような銃剣を持った輩が私の同胞だとはとても信じがたい。彼らは人間ではなく、獣であり、悪魔である」と述べている。

 大虐殺時の生存者王宏照老人は1951年に、日本軍が焼き殺し、強姦し、悪事の限りをつくしたと証言した。

 私たちの村からそう遠くない火石峰村の趙永発家に18歳になる娘がいたが、日本兵の手から逃れるために陳明義の家に駆け込んだ。陳家にも18歳になる娘がいて、日本の鬼の暴行から逃れるために二人は泣きながら、梁に縄をかけ首つり自殺をした。・・・家々は皆戸が開けられ、中には死体がごちゃごちゃに入り乱れて倒れており、ある者は首が切り落とされ、ある者は腹が裂かれている。腸が外に引っ張り出されて固まりになっており、鮮血が壁一面に飛び散っている。日本兵は焼き殺し、略奪する他、女性を強姦した。ある女性は強姦された後殺された。・・・ある両替屋のカウンターの上の木の柵には数個の人の首が差し込まれ、子供がひとり壁に釘で打ち付けられ、この情景は痛ましくて、見るに忍びない。

 節天理老人は1971年に調査に応じた時、日本軍は老若男女を問わず殺しまくるという野蛮な暴行を行ったと証言した。

 私は旅順の人間です。甲午戦争の時日本の軍隊は旅順に入ってきて三日間人間を打ち首にしまくった。老若男女を問わず、人を見れば殺し、子供を叩きつけて殺した。人々はみんな家に逃げ帰って固まっていた。日本の鬼は戸を蹴破って入ってきて殺した。ひとしきり惨めな叫び声があがり、人は皆突き刺されて地面に倒れ、日本の鬼は皆殺しにすると別の家に行って殺した。人は地面に倒れ、鮮血が飛び散ったのは本当のことです。私の隣人は2人の学生の兄弟がいたが、家から日本の鬼に外に引っ張り出された。一人の学生が煉瓦を拾って鬼に殴りかかると、鬼はバッバッと銃を撃って2人の学生を撃ち殺した。どの家にも死体があった。後になって死体は大八車を使って先に掘ってあった大きな穴に運んでいったが、運ぶのに何日もかかった。私がどうやって逃げたかって? 私は老鉄山呂家溝に住んでいたが、日本軍が来るというのを聞いて、私の母が私を背負って谷の下の石の洞穴に逃げ込んだのです。旅順の人はあちこちに逃げたが、逃げなかった人はほとんど日本の鬼に殺された。

 前に述べたような情況だったので、鮑紹武もまた日本軍に捕まって死体の処理をやらされた時に、その目で同胞の被害状況をつぶさに見た。彼は上溝の一つの店の中で、会計係が帳場にそのまま倒れて刺し殺されているのを見た。さらにかわいそうなのは、ある家のオンドルの上には母親と4,5人の子供が殺されていた。大きいのは8、9歳で、幼いのはまだ数ヶ月で母親の懐で乳を吸っていたところを刺し殺されていた。彼らは皆、扉を開けたとたんに殺されたのだ。死者の大多数は老人と婦女、子供である。
 蘇万均は、日本による旅順大虐殺の後、一人の息子とともに旅順西大街(現得勝街)に来て、「大塢北面機器製粉所の中に死体があたりを血だらけにして倒れているのを見た。小さな店の中にいた人はみんな地面に倒れていた。私は数カ所の家に入ってみたが、老いも若きも皆日本兵に殺され、オンドルの上や地面に倒れていた。さらに小さい子供がオンドルの上に横たわっていた。どのようにして殺されたかは分からない。私はその時裸足だったが、家に帰って足の裏を見ると血だらけだった。」
 大虐殺に参加した日本兵の小野次郎は、戦友とともに殺人、強姦、惨殺、略奪をやったと包み隠さず白状している。小野は中国侵略戦争に参加した中学生兵士であった。たくさん虐殺したので、次第に「勇敢な」殺人狂兵士になって昇進させられ、最後には精神病に冒されて日本の広島病院に送り返された。
 私は人に操られているロボットのようになって人間性のかけらもなく、道理もなく、機械のように人殺しをし、略奪をし、女性を強姦した。
 我々が旅順を占領した日の午後から旅順はもう安らかではなく、4日3晩の間虐殺があり、そこにいた人々はすべて殺され尽くした。(略)
 小野は人殺しをして出世した。こうしてますます異常になっていった。
 小野は村西頭で一人の逃げ遅れた27、8歳のお産を間近にした女性を捕まえて暴行した。

 日本軍は集団虐殺を行っているとき、同時に婦女と子供の虐殺をした。
「旅順荷花湾(今では干上がっている)は、この年日本軍の旅順住民の集団大虐殺があった現場の一つである。当時日本軍はたくさんの旅順住民を縄で縛って湾内に連れて来て、岸の上に立たせ、それを標的として射撃した。身に寸鉄も帯びない同胞は惨めにも銃弾の餌食となった。死にきれない同胞が浮いて岸辺に近づいて浮いていたら、日本軍は生きている中国人を捜し出して刀で刺し殺した。鮮血が荷花湾一帯を真っ赤に染めた。日本軍はこのようにしてたくさんの人を殺して荷花湾を埋め尽くした。その悲惨な情景は目を覆うばかりである。
 イギリスの海員ゼームス・アイルは《龍の旗の下で》の中で、この荷花湾付近で日本軍が難民を大虐殺し残忍にも婦女や子供を惨殺するのを目撃した恐ろしい情景について書いている。
 (略)
 日本の特派員甲秀輔は『第二軍従軍雑記』の中で次のように記載している。
「旅順の街頭は至る所死体が一面に横たわっている。ある者は首と体が別々になり、ある者は頭を半分割られており、ある者は脳みそが飛び出し、ある者は内蔵が外に出、ある者は眼球が飛び出し、またある者は腕を切り落とされ、足の骨が砕けて血の海の中に倒れている。これを見ると身の毛もよだつ。もし婦女がこれをみたら卒倒するかもしれない。

 ながながと引用してきたが、書いていくだけでもおぞましい。ほかにもまだ沢山の証言があるが略す。最後に載せている資料を各自参照されたい。しかし、これだけでも旅順大虐殺の実相がいくらかでもつかめたと思う。
 まさに武器を棄てた無抵抗の清軍兵士の斬殺、旅順市内各戸を巡っての敗残兵狩り、旅順・金州間での敗残兵狩り、女性の強姦、こどもの斬殺、銃殺というよりも、刀をもっての斬殺、あるいは凍死させるなどの暴行がくりひろげられた。

(四) 旅大地区民衆の自発的な抵抗闘争(関捷総主編『旅順大屠殺研究』)

 甲午戦争の間、旅大地区の広大な民衆は自発的な抗日愛国闘争が土地と家を守るという素朴な信念をもって、日本軍の野獣のような暴行と立ち向かい必死の抵抗闘争を激しく起こした。
 旅大地区の農民は全力で清軍の作戦を支援した。1894年の9月だけで、清軍は新兵6個大隊を募集した。馬玉昆がまさに6個大隊を連れて行った後、宋慶は旅順において新たに2個大隊を招集した。
 黄仕林と張光前は各1個大隊を付け加えることを求め、姜桂題と程允和が併せて1個大隊、徐邦道は大連湾で1個大隊を募集し、各隊約500人だから6個大隊で3000余人であり、これは当時の旅大守備軍の約5分の1になる。
 金州で負けた後、徐邦道は旅順に戻ってきたが、意気消沈したわけではなかった。日本軍に反抗するために当地の地理を熟知し、馬上での戦闘に長けた勇士を選んで軍に従わせて敵情偵察をやることにした。水師営西溝の農民猟師庄大等10余人が選ばれた。彼らは牧城駅に向かって敵情をつぶさに見ていた時、敵と遭遇したので、馬を躍らせて敵を殺し、たくさんの敵を殺した。庄大は肩を負傷して失血し不幸にも犠牲になった。
 旅大地区の一部の農民は抗日の軍隊に参加し、一部の民衆は積極的に軍隊を支援し、築造工事、地雷の埋設、弾薬物資の輸送を行った。清軍が戦に勝利した時は民衆は大いに喜び食べ物や飲み物をもって部隊を慰労した。
 日本軍の侵略、虐殺に反対する闘争の間、旅大地区では沢山の感動に値する事柄が起きた。
 小平島のある寺の住職の円明和尚はいつもは俗事にかかわらないけれども、凶暴な日本軍に出くわして凛然として威厳をただした。日本兵が寺を壊して暖を取るために扉や窓を取ろうとし、また寺の中に指揮部を作ろうとした時、円明に拒絶された。彼は憤りをもって責めて言うことには、「この海賊めが! 名もない所から、持ち主のある土地に侵略してきて、故郷を破壊し、村人を殺戮した・・・どうして我が神聖な土地をお前等の殺人の巣窟にしてなるものか。海賊め! 馬鹿も休み休みにしろ!」。最後に円明和尚は日本軍に磔(はりつけ)にされ焼き殺されたが、火の中でも円明和尚は少しもおそれることなく罵り続けた。その夜、小坊主は村人が寺の建物を爆破するのを手伝い、寺にいた日本軍は皆爆死した。旅順南小山の火神社の前の苑鍛冶屋は、日本軍が来たというのを聞いて、二人の息子を守備軍に送って兵隊とした。上の息子大勇は金州防衛戦争中に戦死し、下の息子二勇は旅順陥落の時戦死した。ほどなく彼は家中の者を田舎に避難させ、自分は大きな錘を持って扉を塞ぎ、日本の鬼が首を伸ばして覗き込んだところをありったけの力を出して頭を打ち砕き、一連の戦いで5,6人を殺し、その死体で扉を塞いだ。最後に日本の鬼が窓から踏み込んできて、勇敢な苑鍛冶屋は殺されてしまった。20数歳の謝沛桐は南の小山ではやっている果物屋をやっていたが、日本軍が踏み込んできて彼の弁髪をつかみ、刀で斬りつけてきた。謝沛桐は武術の心得があったので、一蹴りで日本兵の刀を蹴り落とし、刀を日本兵の頭上に激しく振り下ろした。日本兵は惨めな声を上げて死んだ。謝沛桐は刀を持って裏門から本籍のある山東省黄県に逃げた。彼の次男の謝守林は大連の古い労働者だったがいつも父親が日本兵をやっつけた話をしていた。ある日水師営の小作の王さんが水を担いでいた時、日本兵が刀を持って斬りかかってきたが、王さんは目ざとく手早かったので、天秤棒を振り上げて日本兵の頭蓋骨をたたき割った。
 南の小山の「和順大劇場」の劇場主の王浜は日本兵が来たというのを聞いて、すぐに清朝の礼服に着替え、劇団員を連れて迎えに赴いた。日本軍は彼は清朝の役人だと思ったので、王浜を刺し殺した。後ろにいた劇団員はこれは変だと思ったので身を翻して逃げた。日本軍が追っかけると劇場が見えた。なんとこれは劇場で、劇団員が演技をしていたのだ。劇団員は銅鑼や太鼓を鳴らして劇をやるしかなく、日本軍はとても喜んだ。時間が長くなったので、日本軍は次々に去っていって、ただ二人を舞台の上に監視役として残した。数人の立ち回り専門の役者が刀を振り回していると、二人の日本兵がうとうとし始めたので、日本兵の頭上に斬りかかった。その後、劇団員は裏門から逃げた。
 数人の日本兵が農民の王宗岐の掘っ立て小屋で殺されていたのを別の日本兵に見つけられ、王に命を持って償わせようとした。王宗岐の甥達は抵抗しようとした。日本兵はたくさんの中国人にとりかこまれて恐れをなし、ほうほうの体で逃げ出した。
 日本の一軍官が寺児溝の塾の先生侯玉?の書斎で行軍の絵を描いていたので、侯は大声で抗議したら、日本兵に一太刀で刺し殺された。その兄弟の侯玉宝はこれを見てとても憤り斧を持って後ろからこの極悪人を叩き殺した。
 日本軍は一少年を拉致してお茶を煎れさせた。だが、どうしてこの少年が毒薬をもっていたのを知っていただろうか。日本軍の飲用にしていた大きな缶の中の茶壺に毒薬を投入したので少なからぬ日本兵が毒殺された。このことを日本兵に見つけられて少年は殺された。
 旅順人民は日本軍がほしいままに暴行を行い、この世のものとは思われない凄惨な虐殺を行うのに対して、座して死を待たず、奮起して抵抗し、おそれることなく抗争を繰り広げ、中華民族の不屈強靱な精神を明らかにしたのである。


 5.日本の弁明
 陸奥宗光の弁明
 当時の外務大臣であった陸奥宗光は、アメリカの記者に初めて旅順大虐殺のことを聞かされて困惑する。
 11月29日、米国「ワールド」紙は大虐殺の記事を載せた。陸奥宗光は、11月30日、英国「タイムス」特派員から虐殺事件のことを聞いた。
 記者は、まさに占領が行われた後に、虐殺があったことを告げた。
 
「日本軍は老若誰であろうと射殺し、掠奪と殺戮は3日間で極に達した。死体は手足を切断され、手や鼻、耳まで切り落とされ、もっとひどいことも行われていた。住民は無抵抗であったにもかかわらず、日本兵はこの地域をあさり尽くし、清国人とみれば全てを殺害した。旅順の全市街と港湾は死体でいっぱいになっている」
 
 外国人特派員は大虐殺を直接見聞きしており、特に次の諸点を問題とした。
 (1)旅順の戦闘が終了したあとから虐殺が始まっていること。
 (2)武器を捨てた無抵抗の清軍兵士、捕虜を虐殺していること。
 (3)婦女、子供が多数虐殺されていること。
 (4)切り刻まれるなど、惨殺していること。
 (5)指揮官が黙認していること。
 
 陸奥は直ちに事実を調査するとともに、外国人特派員の記事を大きくしないように買収し、一方政府見解をまとめて沈静化をはかる。
陸奥の弁明
(1) 清国兵は制服を脱ぎ捨て逃亡した。
(2) 旅順で殺害された平服を着た者は、大部分が姿を変えた兵士であった。
(3) 住民は交戦前に立ち去った。
(4) 少数の残留した者は発砲し抗戦するよう命令され、そのように行動した。
(5) 日本軍は、日本兵捕虜の何名かが生きながら火焙りにされたり、また責め苛まれたりした上、恐ろしいほどに切り刻まれた死体を目にして大いに激昂した。(土城子事件のこと)
(6) 従来どおり日本軍は軍規を遵守していた。
(7) 旅順陥落時に捕らえられた355名前後の清国人捕虜は厚遇されており、2,3日うちに東京へ連行される。
(8) (外国人記者の離脱の問題は事実ではない)

 陸奥宗光は、その著『蹇蹇録――日清戦争外交秘録』の中で
次のように書いた。(第一次刊本は1896年3月、その2ヶ月後に作られた第二次刊本では旅順大虐殺の主要部分は削除された)
 ―― その後いくほどもなく、不幸にも彼の旅順口虐殺事件という一報が世界の新聞紙上に上るに至れり。
 この虐殺事件の虚実、また仮令事実ありとするもその程度如何はここに追究するの必要なし。しかれども特に米国の新聞紙中には、痛く日本軍隊の暴行を非難し、日本国は文明の皮膚を被り野蛮の筋骨を有する怪獣なりといい、また日本は今や文明の仮面を脱し野蛮の本体を露したりといい、暗に今回締結したる日米条約において全然治外法権を抛棄するを以てすこぶる危険なりとの意を諷するに至れり、而してこの悲歎すべき事件は特に欧米各国一般の新聞上に通論せらるるに止まらずして、社会の指導者たる碩学高儒の注目を惹くを免れざるに至り、当時英国において国際公法学の巨擘と知られたる博士チー・イー・ホルランドの如きは、今回日清交戦の事件に関し初めより日本の行動に対し毎事賛賞を惜しまざりし人なりしも、この旅順口一件については如何に痛歎せしや、同博士が「日清戦争における国際公法」と題する論述中に、「当時日本の将卒の行為は実に常度の外に逸出せり。而して彼らは仮令旅順口の塁外において同胞人の割断せられたる死骸を発見し、清国軍兵が先ずかくの如き残忍の行為ありしというも、なお彼らの暴行に対する弁解となすに足らず、彼らは戦勝の初日を除きその翌日より4日間は、残虐にも非戦者、婦女、幼童を殺害せり。現に従軍の欧羅巴軍人並びに特別通信員はその残虐の状況を目撃したけれども、これを制止するに由なく空しく傍観して嘔吐に堪えざりし由なり。この際に殺戮を免れたる清人は全市内僅かに30有6人に過ぎず。しかもこの30有6個の清人は全くその同胞人の死骸を埋葬するの使役に供するがために救助し置かれたる者にして、その帽子に「この者殺すべからず」といえる標札を附着し僅かにこれを保護せり」という。これ過大の酷論なるべし。しかれどもこの事件が当時如何に欧米各国の社会を聳動せしやを見るべきなり。

―― 旅順口の一件は風説ほどに夸大ならずといえども、多少無益の殺戮ありしならん。しかれども帝国の兵士が他の所においての挙動は到る処常に称誉を博したり。今回の事は何か憤激を起すべき原因ありしことならんと信ず。被殺者の多数は無辜の平民に非ずして清兵の軍服を脱したるものなりという。・・・

 それはまさに捕虜の虐殺、女性の強姦、子供の惨殺、繰り返される掃討戦によって旅順市民を皆殺しにするものであった。この殺戮は外国人従軍記者の目の前で行われたので、彼らによって世界中に知れ渡ることになった。
 
 福澤諭吉
 金玉均らの甲申政変に深く関わり、またこれが失敗するや『時事新報』に「脱亜論」を書いて、日本は「西洋の文明国と進退を共にし、中国、朝鮮に対しては「西洋人が之に接するの風に従て処分するのみ」とした福沢は、この旅順大虐殺に関しても「旅順の殺戮無稽の流言」を書いて、日本軍を防衛する。
 「我旅順の大勝に付き外国人などの中には其殺戮の多きを聞て往々説を作す者あり。・・・左れば旅順の事に関しても今日まで我輩の視察し得たる所を以てすれば、我軍人が無辜の支那人を屠戮しあるが如きは実に跡形もなき誤報なりと云うの外なし。・・・日本の軍隊は真実紛れもなき文明の軍隊にして、其敵に対するに寛大にして争ふ可らず。」しかし、中国兵は民家に潜入し、隠れながら抵抗したので「其怪しむ可き者を殺したるは至当の処置にして正当防衛の止むを得ざるに出でたるのみ。」市民は逃げる余裕があったのに逃げなかったので、逃げ遅れた者がたまたま巻き込まれるのは「戦争の場合に普通の談にして毫も驚くに足らず。・・・誰れか之を目して人民を屠殺したりと云ふものぞ。我輩は其無稽を警むると共に、今後とても斯る場合には遠慮なく殺戮を行ふて毫も差支なきことを敢て断言するものなり。」
 
 内村鑑三は、1984年9月には、日清戦争を「義戦」とし、「日本の勝利は東洋六億万人の自由政治、自由宗教、自由教育、自由商業を意味し、日本の敗北と支那の勝利は其結果たる吾人の言を煩はさずして明らかなり」と書いたが、講和後「『義戦』は掠奪戦に近きものと化し、その『正義』を唱えた予言者は、今は恥辱のうちにあります」と悔悟した。

 6.なぜこのようなことが起こされたのか。

 秦郁彦は旅順と南京の相違点について、
 中国側の要因として@地形の類似(旅順の海、南京の長江)住民は逃げ道がなく退避が困難だった。A正規兵の便衣化B責任者の逃散
 日本側の要因@土城子事件(南京では上海戦の苦戦)による復讐感情A捕虜を取らぬ方針Bサディズム的指揮官(旅順の山地中将、南京の中島今朝吾)B責任者を処罰せず
 とまとめているが、そうか。

 日本軍の三つの弁明はただの口実にすぎないと関捷総主編『旅順大屠殺研究』は批判する。
 第一は、金州副都から旅順に至るところで当然の報いで殺された日本軍の3名の軍事諜報員の「報復」をしただけだという。鐘崎三郎、山崎羔三郎、藤崎秀奉は中国農民の扮装をして清軍の情報を探索し、日本軍の金州、旅順侵略の手助けをした。その罪業によって3人は殺されたのだ。
 第二に、日本軍は、徐邦道等が土城子で侵略してきた日本歩兵小隊長中万徳次郎中尉以下12人を撃ち殺し、浅川敏靖大尉等43人を負傷させたということ。
 第三に、清政府は旅順駐防官兵に最後の一人になるまで防衛せよと言う命令を出し、15歳以上の男子はすべからく抵抗し、民家に武器等を隠していた。
等を述べて、口実としている。

 これらは侵略者のただの居直りでしかない。
(1) 南京大虐殺における「上海戦」のように、旅順大虐殺では「土城子攻防」における清軍による日本兵の惨殺の報復だといわれる。しかし、日本軍司令部は、それを口実にして虐殺を煽り立てたのである。

(2) 直接の命令関係
第1師団長山地元治の「虐殺命令」、第2軍司令官大山巌の黙認

 以下、(関捷総主編『旅順大屠殺研究』社会科学文献出版社2003年)から

虐殺密命の発布
 日本侵略軍は旅順口占領以後、残忍な獣性を発揮させ、身に寸鉄も帯びていない市民を手当たり次第に殺しまくり、世界を震撼させた旅順大虐殺事件を起こした。大虐殺は11月21日から25日の、5日間の長きに渡り、虐殺された無辜の民は約2万人にもなる。こうした日本侵略軍によって行われたこの世のものとは思われない凄惨な大虐殺には多くの原因が考えられるが、我々は虐殺密命の書類原本を探し出すすべがない。虐殺密命がいったいどのように下達され、誰に直接署名されて下達されたのかということについてはすべてもっと調査されなければならない。日本が大虐殺を起こした日から100年以上を過ぎた今日、またすべてひた隠しに隠されているということで、上級軍官が大虐殺命令を出したと言うことを認めず、甚だしきに至っては旅順で大虐殺事件が起こされたと言うことさえ認めないものがいる。
 しかし、日本政府や関係する軍当局がいかに言い逃れ、また否定しようとしても、旅順口で約2万人が虐殺され、人々の血が河となり、死体は山をなし、市内には生臭い匂いが充満し血の雨が降ったという鉄の事実は永遠に抹殺することはできない。戦争のあと発見された日本軍兵士の回顧録や虐殺の事実を記している文献、および虐殺された旅順民衆が2万人もいたという規模から見て、この大虐殺は日本侵略軍兵士のいわゆる「規律違反」行為ではなく、攻撃軍の責任者であった日本軍第1師団長山地元治がみずから下命したものであり、なおかつ日本第2軍司令官大山巌大将が同意し承認した計画的かつ組織的な大規模な皆殺し作戦だったということができる。
 日本軍当局に関して言えば、旅順大虐殺事件の発生は、あらかじめ計画された組織的な系統だった行動であり、日本の軍事間諜向野堅一が『従軍日記』で書いていることがもっとも真実に近いし、もっとも説得力のある証拠であろう。
 日本軍のスパイとして、向野堅一は1893年に上海日清貿易研究所を卒業し、1894年甲午戦争勃発後に帰国して広島で日本軍の間諜の任に着いた後、中国侵略の日本軍第2軍の第1師団に派遣されるとともに通訳も務めた。併せて10月24日大山巌の指揮する日本軍に従って、大連庄河花園口に上陸し、藤崎秀、大熊鵬、猪田正吉、山崎羔三郎、鐘崎三郎等6人で「特別任務班」を編成し、中国遼東半島南部戦地に秘密裏に潜入し、軍事情報を採集した。彼らは、時には中国農民を、時には商人を、最後には中国民工を装い、中国駐留軍の築造工事のために機会を見つけては普蘭店、金州一帯で軍事情勢を偵察していたが、その最中に中国巡邏兵に逮捕された。靴の中に制作した軍用地図を隠していたので、わざと泥水の中を歩いて靴の中に隠していた地図を踏みつけてぐちゃぐちゃにした。後になって日本軍は、彼の提供した情報によって第2軍の計画を変更し、一挙に金州に攻めのぼって占拠した。向野堅一は大山巌や山地元治等将校に大変重んじられた日本軍間諜の一人である。
 同時に向野堅一は日本軍が派遣した6人の間諜のうち幸運にも唯一逃げのびて生還し、日本軍が大連、旅順等を攻略するのに従った。向野堅一は11月19日の日記の中で次のように記している。
「日本軍は営成子から旅順に進攻する時、軍官は「敵兵を見つけたら一人も逃すな」と命令した。
 だから、日本軍歩兵第3連隊の兵士は民家を過ぎる時「村人が2人いる」のを見つけると、「勝手に家に入り込んで、彼らを殺した。鮮血は四方に飛び散り、庭に血が溢れた」「師団長(山地元治)はこの光景を見て・・・やむを得ない場合以外は、外でこの話をするな、と言った。」向野堅一はまた1924年9月23日、金州民政署で間諜の三崎の処刑(つまり山崎羔三郎、鐘崎三郎、鐘崎秀が甲午戦争の時に金州副都統連順派兵で捕まり、金州西門外で処刑された)を追悼して話した時に、次のように述べた。
「旅順で山地将軍は、非戦闘員でも逃さず捕まえて殺さなければならんと言った。・・・山地将軍は、婦女と老人子供以外は皆殺しにしろと命令した。それで旅順は実際凄惨な上にも凄惨な事態となり、旅順市内はあたかも血が流れて河となる有様だった」
 この他、大山巌大将と同郷の鹿児島の武家の出で18歳で中国甲午戦争に参加した第1師団第2旅団第1大隊の兵士小野次郎は、山地元治が疑いもなく虐殺命令を出したと回顧している。小野次郎は初めて人を殺した時のことを思い出して「11月20日晩、大山巌大将が旅順進攻命令を出した。我が旅団が主力部隊(すなわち旅団長西寛二郎少将、第1大隊長秋山好古)であり、椅子山砲台を占領した後、師団長山地元治中将は、婦女老人子供以外旅順口の男は有無を言わさず全て殺せ」と命令した。以上のような日本軍の自ら語ったことから旅順大虐殺事件を引き起こしたのは、自ら命令を下した日本軍師団長山地元治中将であり、彼の部隊が担った組織的計画的な行動であるということが見て取れる。(以下略)

(3) 軍夫問題
 日清戦争では沢山の「軍夫」が参加している。
 「軍夫」とは、西南戦争と日清戦争において使われた、日本軍の補給業務を担当する臨時傭いの軍属のことである。
 その歴史は、江戸時代の「陣夫」に由来する。江戸時代の本百姓は、戦時に(例えば戊辰戦争)武士の組織する軍団につき従い、補給を担当する人夫となった。日本では馬の数が少なく、また体格貧弱、調教不全、道路未整備につき荷馬車を使えなかった。さらに、軍馬を持ち込み、馬糧を運ぶには相当の手間がかかるので、軍馬がやるべき仕事を軍夫にやらせることにしたのである。一方、西欧型近代軍制が輸入され、正面装備は徐々に整備されたものの、補給兵站部門、輜重兵・輜重輸卒は少数で訓練不十分なため、兵站はほとんど民間人臨時軍属に頼る以外になかったのである。
 さらに、日清戦争の軍夫の場合は、不平士族の不満を対外的に振り向ける形で組織されたので余計統制がとれなかった。
 6月朝鮮への出兵が報じられると士族層を中心に義勇兵運動が高揚する。士族層、さらに対外硬派、撃剣団体、博徒等が参加して拡大していく。しかし、政府は統制上不安をもち義勇兵を受け入れなかった。8月7日義勇兵停止の詔勅が発せられると、この運動は軍夫送出と献金献納運動に変わっていく。義勇兵として志願したもののそれが認められないものは軍夫となったものも多い。
 「軍夫」の雇用と管理は軍が直接に行えず、軍出入りの請負業者が担当した。小頭など末端の実務者の多くは博徒であった。
 軍は軍夫の統制にかなり気を遣り、「不品行なる人夫」は度々解雇した。それでも不断に問題を起こした。
 日本からも多数の「人夫を渡韓せしめしが此人夫等は我国内に在るも或は法を犯して其非を知らざるが如き所謂無頼漢ともいふべきもの多きより渡韓以来益々横暴の行為をなし」「財物を掠め婦女を犯」していたが、また彼らをして徴発した朝鮮人夫を監督させたのであるから、生命の危険すら感じた朝鮮人夫が抵抗し逃亡したのは当然であった。
 
 10月15日、第二軍司令官大山巌大将は出発に際して以下の訓辞をのべ、注意を促している。すなわち、
「我軍は仁義を以て動き文明に由て戦ふものなり 故に我軍の敵とする処は敵国の軍隊にして其一個人にあらざれば敵軍に当りては固より勇壮なるべしと雖も其降人俘虜傷者の如き我に抗戦せざるものに対しては之を愛撫すべきこと 嚮(さき)に陸軍大臣より訓辞せられたるが如し 況や敵国一般の人民に対しては尤も此意を体し 我が妨害をなさざる限りは之を遇するに仁愛の心を以てすべし 秋毫の数と雖も決して掠め奪ふことあるべからず ・・・顧ふに我軍人は平素之等の教示を受け善く習得せしことなれば固より不法非義の挙動なかるべしと雖も人夫に到りては予め教示を経たるものにあらざれば特別に注意して規律に服従せしむることを要す ・・・」

 軍夫は戦闘部隊の後方の兵站部隊としてではなく、野戦師団内部の支援部隊である輜重兵大隊、弾薬大隊、工兵隊の担い手でもあったので、戦線が混乱すると攻撃の対象となった。そこで帯刀が黙認された。だが、法被、股引、鳥打帽子で腰に日本刀をさした民間人集団が、奇妙な服装のリーダーに引率されて大量に参加している姿は、欧米の従軍記者にとって「不正規兵」の投入であり、「国際法上の戦闘員としての資格が疑わしい」とみなされた。また、「軍夫=名誉の半軍人」という意識が強かったから、客観的にも意識的にも義勇兵との混同が続いた。戦闘の局面では、直接朝鮮中国人を殺害することがあった。
 花園口上陸直後に軍夫による掠奪・強姦事件が発生し、第2軍司令官名で軍夫の監督強化に注意を促し、11月10日「非戦闘者ノ戎器携帯禁止規則」を制定して軍夫から刀を取り上げたことはすでに述べた。(しかしそれは軍夫にとっては自衛手段をもとりあげることでもあり、戦場で襲撃されて戦死するということが起きた)
 
 「軍隊のあとから、人夫、運搬夫等々として雑多なる最下級の群れが来て、これらは支那人から恐怖の混じた軽蔑をもつて見られた。彼らの無作法な衣物とむき出しの身体とは
 断えざる嫌悪の感をよび起こした。泥酔その他の悪行が彼等の間に普通であり、而して彼等は兵士の如く厳格なる規律のもとに置かれなかった」(『奉天三十年』)
 
 「軍夫」には軍服も軍靴も与えられず、笠を被り、法被に股引、草鞋を履いて任に当たり、大八車と背負子で補給業務を担当した。冬季に参加した部隊は綿入れなど防寒に注意したとしても、それも自弁であったので、全く不十分であった。このため極寒の冬の朝鮮北部から中国東北で沢山の凍死者と栄養失調、病気のために死亡した。
 数は正確に記録されていないので掴みにくいが、
日清戦争に参与した陸軍軍人は、24万616人、その内海外出征軍人は17万4017人(残りは内地勤務)、軍夫10万人以上(もしくは15万3974人)。(清国・台湾にて現地雇用した人員はのべ1211万人)-
 日清戦争の日本側死亡者は軍人1万3000人強と軍夫7000〜8000人と見ている。(大谷正)

(4) 徴発問題
 太平洋戦争の中国戦線において、「十分は補給なしに現地調達する」という方針がとられたのは、有名な話である。しかし、これは「戦線が拡大したから」でも何でもなく、もともと、日清戦争の時から、日本軍には、「補給、兵站」という考えがなかったのである。日清戦争において、現地徴用した人員はのべ1211万人余にものぼる。

 大本営がどのように考えていたのかは次の訓令を見ればよくわかる。朝鮮出兵後まもなく混成旅団から「補給の困難」を訴えてきた時、大本営は次のような訓令を出す。(1984年6月29日)
 
 軍を行(や)るに要するのこと一にして足らざるも、煩累物の随伴を減ずるをもって最も緊切の要務とす。煩累物とは何ぞや。すなわち敵を殪(たお)すの力を有せざる非戦闘員の謂いにして、いやしくもこれを減ぜざれば軍隊の運動自在なることあたわず、・・・輜重運搬の人夫のごときはすなわち非戦員の首なるものなるともって、つとめて地方の人民を雇役しもって常備の輸卒を減ぜざるべからず。・・・人民の性命に関する糧食すらなお且つ敵地に所弁すべし、いわんやこれを運搬する人夫においてをや。・・・
 今般、朝鮮国へ派遣の混成旅団には臨時輜重隊を付し、これを幹部となし糧食などの運搬はすべて徴発の材料を用うべきことを命令せられたり。しかるに6月28日、仁川発兵站監の報告に、軍隊は輸卒を備えざるがため給養行われず飢渇におちいらんとすうんぬんの言あり。これ甚だ解せざる所なり。・・・これ大いに因糧於敵の原則に背き煩累物減省の道に戻る故に、成るべくその地に現在する運搬材料に因るものと決心し、内国よりの追送を請求することを慎むべし。

 かくして日本軍は無理矢理徴発を進めるものの、それは更に朝鮮官民の反発を買い、「徴発」は困難を極めた。1984年7月23日、日本軍は朝鮮王宮を襲撃し、大院君(テウォングン)を威嚇して朝鮮人民からの挑発を合法化しようとした。しかし朝鮮政府の公式依頼はすぐ出なかった。大島旅団は「韓廷よりの依頼の有無に関せず」牙山の清軍攻撃に向けてソウルから南下する。しかし朝鮮政府の公式依頼なしに人馬を合法的に徴発することはできなかった。
 7月26日、陸軍最初の重大な決戦とされた成歓の戦いに際して、歩兵第21連隊第3大隊長古志(こし)正綱少佐は、力を尽くして徴発した朝鮮人および馬匹(ばひつ)が翌朝みな逃亡し、予定の出発ができなかったが故に、引責自殺するということまでが起きた。

(5)朝鮮、中国に対する差別意識
 日清戦争の兵士たちが実感として差別意識を認識したのは、上陸して感じた「不潔」と「におい」だった。第一軍の兵士濱本は「さらに驚きは、聞きしに勝る不潔である。道路は塵糞にておおわれ、臭気鼻をつき、嘔吐をもよおすなり」「由来、韓人は怠惰性」「愚鈍」と日記に書いた。戦場で見聞きした異民族の生活を、文化的風俗的な違いをそのままにして蔑視観とした。1872年学制発布後に生まれた彼らは、学校と軍隊において「衛生」「清潔」をたたき込まれ、それを「文明の証」と考えていた。「不潔」は「野蛮」と解釈され差別意識を増幅した。そして「野蛮」に対する「文明国」日本の懲罰を正当化したのである。

 ついでながら「不潔」と関連して、実際には日本軍においても、日清・日露戦争では多数の戦病死者がでている。その多くは脚気であり、また赤痢やコレラである。彼らはさらに「不潔による伝染病」を恐れた。しかし脚気の死亡者数が一番多い。(陸軍省医務局によれば、死者4064名、日露戦争では3万人近い。陸軍では当時「細菌感染」説をとっていた)
 今一つ兵士、軍夫を苦しめたのは、猛暑、酷寒であった。「実に釜中に座し、火中を歩行するに等しい」夏は華氏125度(摂氏51.7度)になり、冬は冬でこれも多くの凍死者が出ている。

(6)戦争美談による宣伝
 最初の軍国美談の誕生。錦絵による宣伝。
 成歓駅の戦いにおける喇叭卒「死んでもラッパを口から離しませんでした」の話、「勇猛義烈」の「白神源次郎」報道から木口小平の「忠義」として国定教科書「修身」に。
 また、平壌戦における「玄武門一番のり原田重吉」の話や、「牛荘の市街戦で左手に支那人の捨て子をかかえ、右手に剣をふるう大寺少将の雪中奮戦」が宣伝される。
 戦争記念碑、追悼碑、忠魂碑の建立
 靖国神社への合祀
 在郷軍人会、青年団への組織化などが進められる。

 7.旅順だけではない虐殺事件
 こうした問題が直接の引き金になったとしても、そうした条件だけでこの大虐殺事件の原因を語るわけにはいかない。
 旅順大虐殺以前には、では虐殺はなかったのか。
 「東京朝日新聞」(1984年9月9日付け)には、朝鮮王宮襲撃直後の牙山の戦闘に関連して、「清軍の懸賞」と題する記事には、清軍が日本人を捕らえてくれば賞金を与える旨の告示を出していると伝え、その告諭文に次のような部分があると伝えている。
 「倭兵嚮(さき)に牙山に乱入し無辜の朝鮮人三千余人を虐殺せり 其の惨酷黙過するに忍びず 今天兵特に来って被害三千韓人の為に倭兵を殲(つく)して其仇を報ぜんとするものなり」
 日本軍はもともと東学農民運動鎮圧を一つの目的にしていたのであるから、各地で農民を大量に虐殺している。しかも、6月日清両国の武力介入の口実をあたえないためにとして結ばれた全州和約は全く裏切られ、日清戦争における日本軍の徴発と「討伐」作戦によって村々が焼き払われ皆殺しされるなかで、朝鮮民衆は抗日闘争を激化し、軍用電線の破壊や兵站部への襲撃など執拗に日本軍を悩ませた。
 全羅道を中心とする東学南方派は武装再蜂起を主張し、10月全?準(チョンボンジュン)を中心に春の決起を上回る規模で蜂起し、官衙から武器を奪取して公州方面に向かった。
 福岡日日新聞によれば、旅順攻略戦の最中にも朝鮮民衆の戦いは続いている。
 10月28日 「(26日6時頃)東学党二千余人我が安豊兵站部を襲ひ火を放ち射撃す 守備兵三十八名にて苦戦し 遂に之れを撃ち退け尚追撃す」
 11月28日 「(11月24日発)晋州方面に派遣の鈴木大尉より報告達す 十七日十九日の両日河東府の南方に於いて東学党と戦い之を撃退す・・」等
 1894年11月から翌95年4月にかけて東学農民軍に対する弾圧が徹底する。激しい12月の公州攻撃ののち全?準は逮捕され、刑死した。民衆は「緑豆」の童謡を歌ってその戦いを伝えた。5ヶ月間の農民軍の戦闘回数は46回、参加人員はのべ13万4750人と推定されている。
 この時、東学農民軍の死者は3万人、負傷後死亡した者を入れると5万人といわれる。(趙景達『異端の民衆反乱』)
 まだ、詳細に調べる必要があるが、この過程で大量の虐殺があったのである。
 また旅順大虐殺後においては、
 「山東半島と威海衞において、日本帝国主義分子たちがなした所業は、旅順口での行為に決して劣るものではない」(『日本侵略山東史』劉大可、馬福震、沈國良共著 1991)
 日本軍は山東半島で『三光』を実行した。日本軍は村に到着すると庶民の食料と家畜を奪い尽くし、至る所で放火し家々を焼き尽くし、様々な手段で人々を惨殺した。「長峰村では17名、九家?村では8名、海埠損では20数名」「さらに、三光のほかに許し難いのは、婦女を暴行した獣のような行為であり、威海衞一帯で乱暴された女性は非常に多い」
 1895年下関条約締結以後、台湾占領をすすめる日本軍に対して、台湾民衆は激しい抗日武装闘争で抵抗する。日本軍は台湾民衆を「皆兵の観あり」として、住民を無差別に殺害した。
 「日本兵士による姦淫、惨酷、暴虐は天も日もなし」
 樺山総督に対して劉永福将軍は「貴国の軍律厳ならずして、姦淫焚戮いたらざるところなし」と抗議している。
 
旅順大虐殺の原因はさらに深いところにあると言わなければならない。
 どうみても、こうした虐殺事件は、単なる「行き過ぎ」「報復感情」のなせるわざとはいえない。むしろ明らかな軍司令部の組織的扇動があり、ことさら残忍な殺害によって、朝鮮人民、中国人民に恐怖心を与えることが目的だったのではないかと思われる。
「野蛮に対する文明の戦争」と位置づけた日本軍にとって、「勝つ」ことが文明国への仲間入りと考えていたから、表向きは「文明国としての『国際法遵守』」を語っていても、その現実はむしろ、「野蛮」への「みせしめ」とでもいうべき、ことさら残忍な虐殺を行っている。


8.まとめにかえて
 旅順大虐殺の背景を探るには、さらに日清戦争が何だったのかを明らかにする必要があるだろう。

 征韓論の系譜は古く、豊臣秀吉までさかのぼるが、江戸末期の国学者たちの皇国史観形成が直接の影響を与えているだろう。
 佐藤信淵「皇国よりして攻(せめ)取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。・・・満州を得るのみならず、支那全国の衰微もまた此より始まる事にして、既に韃靼(蒙古)を取得るの上は、朝鮮も支那も次で而して図るべきなり」「軍船、兵器を多く備えて朝鮮国の西南諸州を取り、これを以て支那を征するの根幹と為」す。
 吉田松陰「間(すき)に乗こじ蝦夷を墾(ひら)き、琉球を攻め、朝鮮を取り、満州を拉(くじ)き、支那を圧し、印度に臨み、以て進取の勢を張り、以て退守の基を固くし、神功の未だ遂げざりし所を遂げ、豊国の未だ果たさざりし所を果すに如かず」
 こうした征韓論議と朝鮮政策は明治政府に引き継がれていく。征韓論は西郷だけの専売特許ではない。木戸孝允、大久保利通、榎本武揚等はいわずもがな、さらには自由民権運動を標榜する板垣退助も征韓論、派兵を主張している。
 自由民権運動の敗北
 日清戦争においては、はじめて天皇が東京を離れ、広島に大本営を開設し戦争を指導する。天皇は軍の最高責任者として認識され、皇軍意識に国民を統合していく。場面場面で天皇はまた勅語をもって戦勝を讃え、皇軍を鼓舞するという構造ができる。
 国民統合の精神的支柱としての天皇制が確立していく。
 
 忠君愛国意識
 日清戦争はまた肉弾戦でもあった。
 福岡日日新聞12月9日には、混成第12旅団の司令官長谷川少将は次のように述べたと報道している。すなわち「長谷川少将の決心」と題して
 混成旅団の敵塁に迫る攻城砲效を奏せず 野砲亦来り 援ふの遑(いとま)あらず 而かも長谷川旅団長ハ司令部の命なれば死を決して敵塁□陥る、戦い罷むの後 旅団長は人に語りて曰く 余は旅団の半を殺すの覚悟なりしも死傷甚だ少なかりしは真に天幸なりと、旅団の苦戦想ふべく其決心の勇猛驚くべきなり
 当時の日本軍が如何に自らの兵士の命すら軽視していたかを示してあまりあると同時に、そのことを賞賛すべき決心として報道する姿勢に戦慄を覚える。
 また、9月13日には、平壌の戦いを前にして、第1軍司令官山県有朋が麾下の第1軍将校に対して
 「万一、如何なる非常の難戦にかかわるも、決して敵の生擒(いけどり)する所となるべからず、むしろ潔く一死を遂げ、もって日本男児の気象を示し、もって日本男児の名誉を全うすべし」と訓示している。
 ここに、日本魂、日本道徳が称揚されていく。
 それは「天皇国家への忠誠としての死」が「武士道」として賞賛され、国民意識として普遍化されていく過程でもある。
 「主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、ならびに親に対する孝行・・・武士の傲慢なる性格に服従性が賦与せられた・・・皇室をば全国民共通の遠祖となした」「名誉を高く重んずる念は、多くの者に対し自己の生命を絶つに十分なる理由を供した」「国家への服従」と「名誉のための死」を「武士道」として美化する。この「武士道特有の徳と教えとが、武士階級のみに限定せられなかった・・・国民全般に及ぼしたる感化」「『大和魂』は遂に島帝国の民族精神を表現するに至った」
 「『矮小ジャップ』の身体に溢るる忍耐、不撓ならびに勇気は日清戦争において十分に証明せられた。」「これ以上に忠君愛国の国民があろうか・・・『世界無比』」(新渡戸稲造『武士道』1899)

 日清戦争においてはじめて32万5千(当時の人口は3500万)人という大量の日本国民が国外に出て、朝鮮、中国人民と接した。
 彼らを「野蛮」と見、犬猫のように虐殺することによって、つくられた実感としての差別意識であり、日清戦争を通して形成された国民意識とは、天皇国家への忠誠と朝鮮・中国蔑視の思想であり、天皇主義、国家主義と排外主義であった。
 これは後の戦陣訓と南京大虐殺に繋がっていく。

 そして今なお、「サムライJAPAN」という用語が簡単に語られるとき、歴史の反省なき、相変わらずの国家主義と排外主義の継承を感じないだろうか。
 
 日清戦争は、明らかに歴史の転換点であった。日本を「圧迫された国」から「圧迫する国」に転換し、目的とした朝鮮の植民地化を直接には達成できなかったとはいえ、明らかにその基礎を築き、そして帝国主義諸列強の東アジアへの注目のなかで、三国干渉を引出して、東アジア分割の端緒を開いた。それは朝鮮をめぐるロシアとの確執を強め、台湾の植民地化を進めた。明治維新後まだ未成熟だった日本は日清戦争を通して、産業基盤を確立し、社会矛盾を激化させながら、新しい帝国主義侵略戦争に向かっていくことになる。この転換点である日清戦争を国民総力戦として戦うことによって、日本は初めて日本人、日本国家として国民意識を確立していった。そこに旅順大虐殺があり、朝鮮、中国(台湾)民衆への虐殺があるのだとしたら、まさに旅順大虐殺こそ日本人が心にとめておかなくてはならない歴史である。
  
 最後に、旅順大虐殺で犠牲となった中国人は白玉山東麓の「万忠墓」、正式には「中日甲午戦争中旅順殉難同胞墓地」に埋葬されている。2009年中国東北フィールドワークと慰霊の旅はぜひここを訪れたい。
 
(補)
 ノーモア南京の会の「2009年中国東北部への旅」において、ぜひこの旅順大虐殺の被害者を埋葬している旅順の万忠墓に行きたいと思っていたが、それが実現した。
 万忠墓紀念館を参観の後、万忠墓記念碑に花を捧げて一同黙祷した。万忠墓には被害にあった2万人が祀られている。現在の万忠墓は、1994年の修築によるものであるが、光22年(1896年)と中華民国11年(1922年)の墓もその傍らにあった。
 またこの旅行で、現場までは行くことができなかったが、旅順大虐殺の折り、たくさんの市民が虐殺され血の海となった何花湾がどこにあるかも分かった。「湾」というからには、海の一部だろうと思っていたのだが、「湾」は「湾曲」の意味のようで、海に近い陸地(蛇島自然博物館の南)にある池のようなものらしい。
 ついでながら、司馬遼太郎の『坂の上の雲』においては、旅順攻略戦直前の土城子戦闘と秋山好古のことが書かれている(文庫本(二))。しかも、そこで秋山の土城子における行動が詳細に記述されており、その行為は「蛮勇」である(117頁)とまでかかれているが、肝腎のその後の旅順攻略戦と旅順大虐殺に関しては、「『半年はかかる』といわれた旅順要塞は、おどろくべきことにまる一日で陥ちてしまった。云々」とわずか5行で書かれているのみで、旅順大虐殺に関しては触れていない。「土城子の攻防」に関してかくも詳細に書いた司馬は、その資料収集の過程(神保町にトラックで乗りつけてかたっぱしから関連書を放り込んだと言われている)で当然にも旅順大虐殺に関する多くの資料を手にしたはずである(当時の参謀本部も外相陸奥宗光も外国の新聞もとりあげているのであるから)。司馬遼太郎は、旅順大虐殺の実相を知りつつ、「明るく、希望に満ちた、明治」のために、意図的に隠蔽して、まったく別の歴史を作ったのだ。(2010年5月5日)

 二.日本は日清戦争で国際法を遵守したのか

 いまだに「日清戦争は国際法を守った」という人々がいる。『文藝春秋』2009年4月号は、「教科書が教えない昭和史――あの戦争は侵略だったのか」という特集をやっているが、その中で「日清戦争は清国の仕掛けた戦争」だとか「国際法で日本は勝利した――日清戦争」として、豊島沖海戦時のイギリスの商船「高陞号(こうしょうごう)撃沈事件」をとりあげ、イギリスの国際法学者ホルランドとウェストレーキが「巡洋艦浪速のとった処置(撃沈のこと)は、国際法に完璧にかなったものだ」と認めたなどと、「明治期の日本は国際法に敏感だった」と主張している。

 そもそも国際法とは、何か普遍的なものがあるわけではなく、その当時の諸列強間の合意事項であるから、その歴史性に強く規定されている。日本は「日清戦争」「日露戦争」「第一次世界大戦」における宣戦の詔勅においては、「国際法規ヲ遵守」を唱ったが、それは正義人道に反する行為を避けようとしたからではない。あくまでもいわゆる「文明国」としての国際的地位向上、公平な条約改正が目的であって、したがって「国際法遵守」はあくまで諸外国に対するポーズであり、侵略戦争は侵略戦争であって、実際のところは、諸列強とアジアに対する二重基準、国際法無視が行われた。とりわけ、日本はあくまで「外交上においてつねに被動者の位置をとらん」としつつも「一旦事あるの日は軍事上においてすべて機先を制せん」(陸奥宗光)としていたのであって、日清戦争においても、8・1の宣戦の詔勅以前に7・23朝鮮王宮襲撃、7・25豊島沖海戦と奇襲を以て戦争は始められていたのであり、また日露戦争においても、1904年2月6日ロシアに国交断絶を通告するとともに8日、陸軍先遣部隊が仁川から韓国への上陸を図り、連合艦隊による旅順港外のロシア艦隊への夜襲作戦がとられ、その後、10日の宣戦の詔勅となっているのである。つねに奇襲を以て緒戦で可能な限り敵の戦闘能力を奪うという日本軍のお得意の戦術は、最初の日清戦争以後続いていることなのである。

 さて日清戦争における旅順大虐殺が国際法違反であることはいうまでもないが、それ以外によく取りざたされ、あるいは隠蔽されている問題について以下見てみる。

1.豊島沖海戦と高陞号撃沈事件

 日清戦争における国際法遵守で、必ずとりあげられるのが高陞号事件である。
 まだ清国への宣戦布告がなされていない1894年7月25日、豊島沖海戦の最中に、中立国であるイギリスの商船高陞号の撃沈事件が起きた。これが国際法違反であるかどうか大問題となるのである。第1に、撃沈が「宣戦布告」前であったから、「戦時」であったのかどうか、第2に、高陞号は「敵艦」ではなく、戦争の第3国であるイギリスの所有船であること、が国際法上の合法性において大問題となった。第1の「戦時」に関しては、この時まだ、宣戦布告を「戦争開始」の条件とする国際法が成立していなかった。それはむしろこの事件を契機にして、1907年10月18日、第2回ハーグ国際会議で決められた。それ以前のこの時代は、「実際に戦争が始まった時」を「戦争開始」とする「実戦説」をとっていた。
 日本はイギリスの武力干渉を恐れて、増派計画を一時見合わせる。だが、結局のところ著名な国際法学者ホランドが「国際法上合法である」という主張をのせたので、この騒ぎは治まった。
 では事実はどうだったのか。この豊島沖海戦に至る情況はどうか。そもそも日本は1894年6,7月軍隊を動かしはじめ、開戦の口実を探していた。そして7月23日ついに朝鮮王宮襲撃事件をおこすのであるが、これと同時に、「駐留中の清軍の退去を朝鮮政府に求める」として、清軍に対する攻撃を準備していた。朝鮮王宮を襲撃した日本軍は南下して牙山に向かいそこに駐留する清軍が増強されない前に撃破する計画をもっていた。
 7月中旬、大本営に牙山の駐留清軍増強の動向が次々と伝わってきた。大本営は増派阻止を連合艦隊に命令した。
 一方、陸奥宗光は
 「初め我が政府が・・清国に対し我が最終的照会を発し、五日を限り回答を要求し、かつもしその間清国より朝鮮へ兵隊を増派するの挙あらば、日本政府は直ちにこれを脅嚇的運動と認むべしとの事を断言したるの当時において、西郷海軍大臣は余に向かい、もし日本艦隊がこの最終的期限後に清国艦隊に出会うか、または清国が更に軍隊増派の事実あらば直ちに戦端を開くも外交上何らの故障なきやと問いたることあり。余は外交上の順序としては何らの差支えなしと答えたり。〔(注:注:草案原文)外交上ノ順序トシテハ何等差支ナシト雖モ我ハ可成ハ彼ヲシテ間ツ戦ヲ挑マシムルノ位置ヲ執ルコト得策ナラント答ヘタリ 西郷海軍大臣ハ此意味ヲ斟酌シテ艦隊司令官ニ訓令シタリト云フ〕」と認識していた。(「蹇蹇録」)
 すなわち日本政府の出した回答最終期限の22日をもって清軍との開戦の条件は整ったと考えたのである。
 そこで牙山偵察の第一遊撃隊に対して、正当防衛の口実としうるように「牙山を偵察して、若し敵艦隊が弱小であったら戦争するな、強かったら打て」と訓令が出された。しかし、釜屋忠道常備艦隊参謀は、「強いか弱いかは戦争をしてみなければ判らない、是は甚だ困つたが、兎に角何でも彼でも打つて了はう、是れ即ち命令の本旨を遂行する所以であると解釈した。
 25日未明、日本艦隊は清国巡洋艦済遠、同砲艦広乙を発見した。この時日本艦隊の総トン数は1万1千トン、清国艦隊は3300トン、備砲は日本30門に対して清は6門であり、日本の優位は明確であった。そして日本艦隊と清国艦隊の間に応酬がはじまった。
 そしてその海戦の最中にイギリスの商船高陞号が接近してきた。浪速艦長東郷平八郎は臨検し捕獲を宣言したが清国将兵は降伏を拒否し、東郷はイギリス商船が清国軍隊によって不法占拠されたものとみなし、停戦命令を出した4時間後の午後0時40分に砲撃を開始し撃沈したのである。
 いうまでもなく、どちらが先に発砲したのかは、侵略戦争の性格を変えるものではない。中国資料によれば、日本艦隊が先に砲撃したとされているが、日本側は「清が先に砲撃した」としている。
 しかし、清にとっては兵の輸送が任務であるから戦闘はできるだけ避けなければならなかった。
 牙山沖の豊島におけるこの海戦で日本軍の第一遊撃隊が戦術目標にしていたのは軍艦の撃破ではなく、増援陸兵の上陸阻止、すなわち輸送船の拿捕か撃沈であった。日本軍は後にこの高陞号撃沈事件を陸戦遂行上も必要な軍事行動だったと総括している。豊島沖海戦は混成旅団が有利に陸戦を進めることのできる条件を作り出し、成歓の戦いの帰趨を左右したのである。
 従って、これについて当時においても京城帝国大学法文学部教授田保橋潔は問題をするどく見抜き、次のように指摘した。
 「注意を要するのは開戦の責任いづれにあるかの問題である。済遠管帯方伯謙が、日本海軍側の主張の如く、戦闘準備を整頓して居なかったのみならず、自己に数倍する優勢なる敵艦隊に対して、戦意を有して居たとは信じ難いところである。(中略)釜屋参謀の談話によれば、済遠、広乙両艦を望見した坪井司令官は、敵艦の優勢劣勢を問わず、我より攻撃すべく、之が司令長官命令の本旨を実行するとの解釈を持し・・・日本国艦隊が清国艦隊の挑戦により、止むなく応戦したとの説明は、日本国内に於ては別として、第三国に於ては全然信ぜられていない。」田保橋教授は「・・・発砲の時間はいづれが先にしても重要な問題ではない。開戦の責任は日本艦隊に存する」と書いたが、これは丸秘扱いとなった。
 「日本が先に発砲した」という事実は隠蔽され資料が改竄された。(原田敬一『日清戦争』)
 伊東祐亨連合艦隊司令長官から海軍省主事山本権兵衛に届いた電文は以下。
 □井(虫損)司令官吉野ナイユ(浪速ならん)秋津州を引率八重山陸奥丸と会合のため豊島附近に回航せしに二十五日午前七時清国軍艦靖遠号、いわみ(不明)出会せり然るに我わ(不明)対し礼砲を発せず且つ戦争準備の模様なるにより即刻開戦砲撃す一時二十分間猛烈攻撃の後ち彼一は牙山の方向、2の(不明)は直隷湾に遁け去れり(以下略)大本営副官部『着電綴(三)』
 この電文は山本権兵衛によって改竄される。山本は「我は礼砲用意為せるに拘わらず彼は戦闘準備を為し〔済遠は我艦隊の側を通過し後備に出て水雷を放て我を襲撃せしに由り我は之に応じて砲火を開きたる〕相近くに及び遂に砲火相見ゆるに至れり」と勝手に書き加えたのである。
 これが日清戦争において日本が認める実際上の開戦の状況である。輸送船が来る前に日本にとっては「事実としての戦争」が始まっている必要があった。かくして豊島沖海戦は始められるべく始められた、輸送船を撃沈したのである。国際法上の問題はイギリスの権威ある国際法学者が認めることとなって、日本の行動に違法性なしということになった。(もちろん、これには日本とイギリスの条約改正問題、およびロシアとの関係、今後の東アジアの情勢の判断を含めてのイギリスの思惑もあったと思われる)
 
 いま一つ、高陞号撃沈の時に船員を救出したといわれているが、これも事実と反する。高陞号に乗っていたのは、イギリス人、フィリピン人、中国人の船員79名と清兵1116名であるが、日本の軍艦が救出したのは、イギリス人の船長、一等航海士、舵工の3名と清兵2名(捕虜)だけであった。その他は、フランス艦が42名、ドイツ艦が112名、イギリス艦が87名、自力2名の計245名の清兵と船員20名であり、その他の船員56名と清軍兵士871名は海の藻屑と消えたのである。日本艦隊がヨーロッパ人のみを救助し、清兵を見捨てて立ち去ったことは、のちにイギリス東洋艦隊司令長官フリーマントル中将によって厳しく批判された。これも国際法違反である。
 

2.日清戦争は、いつ始まり、いつ終わったのか。
 日清戦争の宣戦の詔勅は、8月1日である。しかし、実際の戦争は豊島沖海戦をもって始まったので、日清戦争は7月25日に開始されたとされている。しかし、ここにも二重三重の歴史の偽造がある。
 日本では第2次伊藤博文内閣は1894年6月2日の臨時閣議で混成1個旅団8000人の朝鮮への出兵を決議した。これは、朝鮮が清に「借兵」を要請するよりも1日前である。6月5日には大本営を設置、6月7日、天津条約の行文知照に基づき、日清両国は出兵を通告。だが、大本営設置の5日、帰国中の大島公使に軍艦八重山に陸戦隊488名と巡査29名尾を帯同して横須賀から出航しており、9日仁川上陸、10日ソウル進入した。同時に旗艦松島を派遣し、すでに派遣されていた軍艦6隻と併せて日本の軍艦の半数近くがすでに朝鮮沿岸に派遣されていたのである。さらに6月6日に清軍が山海関から出発するという情報を得たので、その機先を制するために、混成旅団の完成を待たずに、9日、歩兵第11連隊1024名を先発隊として宇品港から出発、12日には仁川に上陸させた。続いて15日、2700名が仁川に入港。日本はこの出兵を済物浦条約第5条「日本公使館および居留民の保護」を根拠にしていたが、こうした大規模の軍隊の移動は条約違反という外ないので、朝鮮政府に対して数を少なく報告し、混成旅団派遣の第一陣であることをひた隠しにしたのである。(ここにも右翼のいう「清が先に兵を動かした」という嘘がある)
 さて、実際の開戦の状況も例によってごまかすのである。戦争の開始日は、国際法上の「交戦国としての権利問題」、「敵国」とされる外国との関係だけにとどまらない、国内的な問題もはらむ。戦争が開始日以降は、陸海軍刑法の戦時規定の適用を受けるかどうか、軍人給与は付加給を伴う特別給与やその後の恩給計算などにも影響する。死ねば「戦死」扱いになるが、それ以前であれば、「事故死」や「変死」である。手当、追悼形式等々変化する。銃後の生活の上でも「戦時」と「平時」では行政上の様々な違いが生じるのである。従って、「宣戦詔勅」ではなく、「実際に戦の成立した日」というのは極めて重要な問題なのである。日清戦争では、7月25日の豊島沖海戦の前に、7月23日日本軍によって他国である朝鮮王宮が攻撃されている。しかし、これは日本の公式見解としては日清戦争に入れられていない。日本は以下のように、朝鮮を敵国扱いすると、戦争の口実に矛盾を来すので、7月23日を開戦日にするわけにはいかなかったのである。これによって、当日京城で戦死した陸軍歩兵一等卒田上岩吉は法的には日清戦争の「戦死者」ではなくなったのである。

 終結に関しても、日清戦争は、7月23日をもって始まる朝鮮侵略、中国への侵略、そして台湾占領に続くものであり、1895年4月17日下関講和条約ではなく、少なくとも大本営が解散する1896年4月1日としなければならない。


2−1)宣戦布告における「敵国」の混乱
 日本は8月1日の「宣戦の詔勅」において、
「天佑ヲ保全シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国皇帝ハ忠実勇武ナル汝有衆ニ示ス?
 朕茲ニ清国ニ対シテ戦ヲ宣ス 朕カ百僚有司ハ宜ク朕カ意ヲ体シ陸上ニ海面ニ清国ニ対シテ交戦ノ事ニ従ヒ以テ国家ノ目的ヲ達スルニ努力スヘシ 苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ」
と述べた。だが、あたかも国際法を守ろうとしているかのごとく装いはしたが、決して国際法を守ろうとしたわけではない。日本にとっては朝鮮さらには中国への侵略が第一義であったから、そこには大いに混乱があるのである。

 実は、宣戦詔勅に関しては、6次の変遷を重ねた後に「清国ニ対シテ戦ヲ宣ス」となった。その草案第3、第4においては「清国及ヒ朝鮮国ニ対シテ」となっていたのである。
 一方で、天皇裁可された文章では、「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ 其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ」?とされ、「朝鮮の独立」を守るために日本が戦うかのごとく装われた。
 「宣戦布告の対象」となるかどうかが議論されているのであるから、当然「朝鮮の独立」を守ろうとしたのではない。
 
 では、日本は朝鮮に対してどのように対処しようとしていたのか。
 もともと、1890年12月6日、歴史上初の帝国議会の施政方針演説において、山県有朋は、「国家独立自衛の道」は、第1に主権線を守護すること、第2に利益線を保護することだと強調し、国境という「主権線」だけではなく、「その主権線の安危に、密着の関係ある区域」という「利益線」を保護しなければならず、「予算に掲げたるように、巨大の金額を割いて、陸海軍の経費に充つる」のは、その趣旨からだと主張した。
この「利益線」は、北では朝鮮国、南では澎湖、台湾島から呂宋(ルソン=フィリピン)までが考えられていた。
 朝鮮に関しては、従来特別な意味を持ってきたことはいうまでもない。
 1875年雲揚号事件(江華島事件)、1882年壬午事変と条約、1884年甲申事変、1885年天津条約と一貫して朝鮮侵略をもくろんできたのであり、1894年東学党の乱を口実として、清の出方がどうであれ、まず日本の出兵が画策されたのである。
 甲申事変の翌年(1885年3月)、福澤諭吉は時事新報社説でかの有名な『脱亜論』を主張する。
「我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖も、其国民の精神は既に亜細亜の固陋を脱して西洋の文明に移りたり。・・・然るに爰(ここ)に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ。・・・」「今の支那朝鮮は我日本国のために一毫の援助と為らざるのみならず・・・」「左れば今日の謀りを為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。」
 それだけではない、福澤諭吉は、在野から一貫して朝鮮、中国への出兵、侵略を煽り立てていくという重要な役割を果たすのである。

2−2)7月23日、朝鮮王宮占領戦争
 日清戦争が「朝鮮の独立」のために戦われた戦争であったかどうかについて、さらに検討する。朝鮮と清、日本との関係において、朝鮮は清の属国とされており、それゆえ清は「野蛮国」であり、日本は「文明国」として、朝鮮を独立のために戦った戦争である、と宣伝された。この「野蛮」に対する「文明」の戦争という論理は、極めて広範かつ強烈な論理として使われてきた。その論理は、現在のアメリカとイラクやアフガニスタンをみるまでもなく侵略者がよく使う論理である。
 当時の東アジアおよびこれを取り巻く諸列強の状況は、確かに新しい時代に向かっていた。封建的秩序から、帝国主義的秩序への転換点であり、下級士族を中心にして封建的秩序の転覆をはかったものの、まだ未熟な資本主義国であった日本は、この日清戦争という国民総力戦を通して、富国強兵を進展させ、中央集権国家としての骨格を形成し、植民地掠奪―帝国主義としての基本骨格を形成するのである。
 旧来の中国を中心とする「華夷秩序」と、日本の「鎖国―大君外交」という形で進んできた東アジア世界を、欧米帝国主義のアジア進出を意識しつつ、それに対応して先んじて転換させるものとして、朝鮮を制圧し、中国の分割戦に乗り出していくという意味で、画歴史的な戦争ではあった。欧米型国際秩序の論理は、主権をもつ国家が国内的には罪刑法定主義の「近代法」体系を持つと同時に、「万国公法」という国際法による外交関係を築くことを原理とするが、その実際は、「帝国主義的な力の論理」に依拠するものであった。こうした近代的法体系をもたない国に対しては「野蛮な国」として、帝国主義国は「領事裁判権」を認めさせた不平等条約を押しつけた。日本は自ら押しつけられたこの不平等条約の改正を早急に進めると同時に朝鮮に対してはおしつけたのである。
 話を日清戦争に戻す。
 日清戦争は、どのようにして、どのような名分で始まったのか。天皇の宣戦の詔勅は8月1日であるが、その前の6月2日には朝鮮への出兵が閣議決定され、6月5日には大本営が設置されている。では、この過程で一体何が起きたのか。
 すこしその前に遡るが、日本は1874年台湾出兵、1875年には雲揚号事件(江華島事件)を起こした。そしてこれを口実にして1876年日朝修好条規を押しつけ、以降、朝鮮への進出を続けていた。釜山と元山に特別居留地を置き、朝鮮経済を破壊するような治外法権的な商業活動を繰り広げていた。こうしたなかで1882年7月23日、ソウルで軍卒の反乱が起き反日暴動に発展する。壬午軍乱である。日本は直ちに、陸軍1個大隊、海軍陸戦隊150名、軍艦4隻を派遣することを決定するが、山県有朋は、さらに陸軍卿代理の資格で、東京と熊本の鎮台を動員し、他の鎮台にも動員準備を指令(後の師団、当時は6鎮台:東京、仙台、名古屋、大阪、広島、熊本)、福岡で混成旅団を編成することを下令、輸送船待機を命じた。世間は「開戦」の声かまびすしく、「大いに国威を海外に轟かすにしくはなきなり」と自由新聞は訴え、福沢も「遂に城下の誓まで迫らざるべからず」と煽り立てた。
 清も軍艦3隻と陸兵3000を急派、日本と朝鮮との談判にも介入した。ともあれ、日本は済物浦条約を結び、この中で「公使館護衛を名目とした日本の軍隊駐留権」を獲得した。日清の対立は激化し、朝鮮政府は、清国に依頼して政権を維持しようとする事大党と、日本の援助で内政、外交を刷新しようとする独立党に分裂し、暗闘が続いた。
 1884年には、独立党の金玉均や朴泳孝らによる、日本の肩入れによるクーデターが起こされるが失敗する(甲申政変)。優勢な清軍の前に、駐留日本軍は撤退。日本の内政干渉に憤激した朝鮮民衆は公使館を焼打ちし、改革派(開化派)はあるいは殺害され、あるいは日本に亡命した。日本と清は、1885年天津条約を締結する。当事者朝鮮を抜きにして、日本と清は相互に事前通告により朝鮮出兵を認めるという条約を結ぶのである。甲申政変の失敗によって朝鮮改革派に期待することができないと判断した福沢諭吉は、かの「脱亜論」において、「隣国の開明」を待つのではなく、「西洋人が之に接するの風に従て処分するのみ」と欧米を見据えた独自的な軍事的分割戦を主張するのである。
 この当時軍部は、更に具体的な案をもっていた。参謀本部第2局小川又次大佐は1887年、「清国征討案」において、清国軍隊が改革を実現するか、または欧州各国が東洋に遠征する実力を獲得する以前に戦略的要点である朝鮮を事前に確保し、対清戦争を起こすことが必要と提起していた。「列強による東洋の侵略」が現実問題となるのは、今より10年後シベリア鉄道全通の日であるから、英仏露諸国を敵としうる兵力を整えなければならず、そのため、1892年までに対清戦争の準備を整え、「時機の乗ずべきがあれば攻撃」をかけるべきだと考えていた。1893年には、川上参謀次長は作戦の予備調査に清国・朝鮮へ出発し、戦時大本営条例を公布するなど、10年後の対露戦争計画を含む対清戦争計画を動かし始めていた。一方外務省が中心課題としていたのは条約改正であった。陸奥宗光は「日本帝国が亜細亜州中の特例なる文明強力の国であるという実証」を外国に与えなければならないと力説し、その機会を伺っていた。
 一方1890年代、朝鮮では李王朝の腐敗のもとで生活できなくなった農民の自然発生的な反乱が続いていた。2月農民の反乱は全(王奉)準のもと大規模な蜂起として発展した(甲午農民戦争)。1984年3月、この金玉均が朝鮮の刺客におびき出されて上海で殺された。清国は金の死体と暗殺者を日本に引き渡すことを拒否して朝鮮に送り、金の死体は刑場にさらされ、家族まで処刑された。
 日本では対清感情がさらに悪化し、陸奥宗光は日清戦争を決意した。
 もはや、日清戦争は「如何なる口実をもって始めるか」という事態になった。朝鮮では東学農民運動が高揚し、5月全州を陥落させた。朝鮮政府内部は混乱のあげく清に出兵を求めるが、袁世凱は直ちには応じなかった。しかし、日本は、6月2日独自に出兵を決議するのである。ただし、それはまだ済物浦条約に基づく公使館保護の名目であった。
 大島公使は、6月10日、朝鮮政府の兵力を帯同しないようにという要請を拒絶して陸戦隊420名の護衛のもとソウルに入る。清軍も2100名を牙山湾に上陸させた。しかし全州を占領した農民軍は外国の武力介入の口実を与えないために、6・10和約をもって全州から引き上げた。ソウルはもはや平穏であった。清は、「日本を防ぐことが民乱鎮圧よりも重要である」と考え「共同撤退」を求めるが、日本はもはや派兵理由が失われたにもかかわらず、出兵に固執し、口実を考えた。陸奥は清韓宗属問題(清朝中国が朝鮮を属国と言っている)を口実にしようとするが、伊藤博文は、それでは欧米各国を納得させられないとためらう。そこで持ち出されたのが、まさに開戦のための口実としかいいようのない無理難題であった。
 すなわち、1876年日朝修好条規においては、「朝鮮は自主の邦にして・・・」と唱っている。しかるに今「属邦を保護する」として朝鮮に清国軍がいるのは条約違反である。朝鮮は清国の属国なのか、独立国なのか、独立国なら清国軍を国外に追い出せ、朝鮮にその力がないなら、日本軍が代わって追い出すから、朝鮮政府は日本に対して「清軍駆逐」の公式の依頼書を出せ、というものであった。
 陸奥自ら「狡獪手段」というほど強引な論理であった。しかしこれに伊藤も同調する。しかし、朝鮮政府はこの要求を受け入れようもなかった。大島公使は7月20日最後通牒をつきつけ、22日中の返答を求める。一方、日本はイギリスとの間で、7月16日懸案の条約改正交渉に成功していた。
 かくして7月23日朝鮮王宮襲撃、威嚇が始まる。
 7月23日午前0時30分、大島旅団長は公使から電報を受けるや諸隊に計画の実行を命じた。まず武田中佐の率いる歩兵第21連隊第2大隊(第8中隊欠)および工兵1小隊が行動を開始する。部隊は景福宮迎秋門を破壊し、3時間に渡る戦闘の後、王宮を制圧する。続いて国王を虜とし、国王の実父大院君(テウォングン)を威嚇して執政とし、閔派政権を打倒した。これをもって日本は戦時体制に移行した。
 しかし、朝鮮政府の公式依頼はすぐ出なかった。大島旅団は「韓廷よりの依頼の有無に関せず」牙山の清軍攻撃に向けてソウルから南下する。しかし朝鮮政府の公式依頼なしに人馬を合法的に徴発することはできなかった。日本軍は広範な朝鮮人民の抵抗に出くわすことになった。







図1.日清戦争関連地図(原田敬一『日清戦争』から引用)
図2.第二軍背後守備隊之配置図
  (参謀本部『明治二十七八年日清戦史』から引用、但し見やすくするために若干手を加えた)
図3.金州城攻撃前夜第一師団之位置図(同上)
図4.第二師団諸団隊之位置図(同上)
図5.旅順口戦闘図(同上)
図6.旅順攻略戦図(レポーター作成)


参考文献

参謀本部『明治二十七八年日清戦史』
亀井茲明『日清戦争従軍写真帖-伯爵亀井茲明の日記』
『福岡日日新聞』
福沢諭吉『福沢諭吉全集』(「時事新報」など」)
一ノ瀬俊也『旅順と南京』(2007年 文春新書)
原田敬一『日清・日露戦争』(2007年 岩波新書)
藤村道生『日清戦争』(1973年 岩波新書)
クリスティー『奉天三十年』(1938年 岩波新書)
陸奥宗光『蹇蹇録 日清戦争外交秘録』(1983年 岩波文庫)
井上晴樹『旅順虐殺事件』(1995年)
大谷正『旅順虐殺事件再考』(大阪歴史学会『ヒストリア』149号1995年)
大谷正『福岡日日新聞と日清戦争報道』(専修大学人文科学研究月報143号1991年)
大谷正『兵士と軍夫の日清戦争』(2006年)
原田敬一『日清戦争』(2008年)
中塚明『現代日本の歴史認識』(2007年)
中塚明『『蹇蹇録』の世界』(2006年)
中塚明『歴史の偽造をただす』(1997年)
中塚明『日清戦争の研究』(1968年)
大濱徹也『庶民のみた日清・日露戦争』(2003年)
濱本利三郎『日清戦争従軍秘録』(1972年)
朴宗根『日清戦争と朝鮮』(1982年)
崔碩莞『日清戦争への道程』(1997年)
関捷総主編『旅順大屠殺研究』(中国社会科学院中日歴史研究中心文庫 2004年 中文)
戚其章『甲午戦争史』(2005年 中文)