一、湯山は南京城から東へ約30キロにあります。昔から温泉で有名な所です。民国時代、多くの高級官僚たちが好んでこの温泉に浸かりに来ました。
 民国時代、湯山にあった陸軍砲兵学校は大変有名でした。俗に「湯山砲校」と称されていました。校長は蒋介石が兼任していました。
 付近の老人たちが口々に語る多くの話は、日本軍の湯山での暴虐に関することことがらばかりです。
二、 湯山は南京の東大門で、日本軍が南京を攻撃するのに必ず通らなければならない所です。
 1937年12月はじめ、日本軍は句容を攻撃しました。砲声がますます近づき、湯山の村民たちはこぞって家を捨て、避難をはじめました。ある者は山に逃げ込み、ある者は洞窟に隠れ、他の地域に避難していきました。その様子を当地の人々は“?反(*パオファン=逃避行)”と称していました。この逃避行は1938年4月下旬まで続きました。おおよそ5ヶ月間にわたります。これは湯山の歴史はじまって以来の、最大かつ最長の難民大移動と言えます。

 1937年12月7日午後、
 第16師団が湯山砲校を占領

 日本軍の湯山での暴虐は、主にこの避難時期に発生しています。おおよそ3つの段間に分かれます。
1937年12月5日、第16師団が句容を攻略し、続いて湯山を攻撃します。一路殺戮が行われ、多くの惨案が生まれています。これが第一段階です。12月13日、南京陥落後、南京から東に脱出した広東部隊を捜索する為に、第16師団は繰り返し掃討を行い、再び多くの惨案を作り出しました。これが第二段階です。1938年1月22日、第16師団が南京を離れ、続いて別の部隊が引き継ぎます。春節前後に一連の虐殺が行われます。これが第三段階です。湯山地区はこうした三段階にわたる血なまぐさい虐殺を経験することになったのです。こうして南京大虐殺の重点被災地となったのです。
日本軍の湯山での虐殺は、小規模なものから、集団虐殺もありました。同一地点で、数度にわたって数人から数十人の虐殺が行われた場合もあります。この大避難時期、湯山では少なくとも47の集団虐殺が行われています。以下、4例だけを紹介します。

第一例:姚家辺の虐殺
  12月7日の午後、第16師団(注:歩兵第33聯隊が攻撃)。
 日本軍はあたりで強姦を行った後、村に隠れていた人々を根こそぎ縛り上げ、槽坊(*醸造所)に監禁した後、30余人をことごとく焼き殺しました。注目していただきたいのは、この虐殺が起こったのが12月7日、つまり南京陥落の12月13日以前から、日本軍は城外の農村で既に虐殺を行っていたという事実です。多くの人々は「南京大虐殺」は南京陥落後に、城内や長江一帯で行われた虐殺を指すものと思っていますが、決してそうではないのです。

第二例:于右任別荘一帯での虐殺
 12月8日、湯山が陥落します。日本軍は至る所で敗残兵の捜索を行いました。于右任別荘付近でも15人の村民が殺されるという惨案が生じています。

第三例:王後村の虐殺
12月9日、日本軍は青龍山を守備する部隊に対し猛烈な攻撃を行い、無辜の平民に対する虐殺も最高潮に達しました。一日の内に10数件を超える集団虐殺を起こしました。12月9日午後、二人の日本兵が王後村に捜索のためにやって来ました。若者を見つけ次第、祠に連れ込み、銃剣で刺し殺しました。一人殺しては再び捜索に出るといった具合です。ここでの虐殺は2時間ほど続き、24人が殺されています。

第四例:後巷の虐殺

 12月12日の夜、(国民党の)広東部隊の一隊が命によって太平門から東に向かって包囲を突破することになりました。彼らは経鶴門から湯山に侵入し、12月13日、日本の封鎖線を突破して句容に入りました。
 12月14日、日本軍第9師団人見連隊(注:歩兵第19連隊ー敦賀)が湯山の後巷で掃討を開始しました。人を見れば殺しました。藍洪銀の従兄弟はこの時まだ5才でした。日本兵は彼を持ち上げて地面に叩きつけた後、更に銃剣で突き刺しました。藍洪銀の叔母はその時、お腹に子供を宿していましたが、日本兵はそのお腹を裂き、中の胎児を剥き出しにしました。藍洪銀の祖母は銃声を聞いて、門を出たところを撃たれ、壁の根本に倒れました。藍洪銀も当時5才でしたが、穴の中で隠れていて見つからず、一命を取り留めました。

三、南京大虐殺から74年が経ちました。この惨劇を経験した人は今ではそう多く残ってはいません。しかし今もいるのです。湯山には潘巧英さんのような幸存者が今でも数十人残っています。
 日本では一部の人が南京大虐殺を認めず、虚構だと吹聴しています。こうした人々に、是非とも南京や湯山に来ていただき、老人たちと語り合って欲しいと思います。彼、彼女たちの話を聞けば、誰がデマを吹聴しているのかがはっきりと分かるでしょう。