教科書に書かれなかった戦争56 
次世代に語りつぐ生体解剖の記憶
  
――元軍医湯浅謙さんの戦後 ――


小林節子
著 
A5判並製 126頁
定価:1700円+税(税込1,785円)
C0021
978-4-8166-1005-9


【内容紹介】
 
●日中戦争下の中国で、日本軍は、生体解剖を軍命により実施していた。それは日常の業務であり、軍医、看護婦、衛生兵など数千人が関わっていたことが推定される。
●湯浅謙さんが、生体解剖が犯罪であると認識したのは、戦犯として、収監されてからだった。特別軍事法廷で起訴免除され、日本に帰国後、湯浅さんは、自分の体験を、次世代につたえるため600回に及ぶ講演や、100回以上のテレビ出演をつづけている。現在93歳である。
●著者は、湯浅さんたちを変えた中国共産党の捕虜政策とは何だったかを追う。

湯浅謙さんは、1916年、開業医の家に生まれ。41年、医科大学卒業。42年、中国山西省 安陸軍病院へ軍医中尉として任官する。赴任1ヶ月半後、「手術演習」という名目の「生体解剖」に病院スタッフとともに参加する。以後軍命による生体解剖は、日本の敗戦まで繰り返される。
 45年8月、日本の敗戦後、民間医師として太原に残留。49年人民解放軍の捕虜になり、太原戦犯管理所に収監され、はじめて自分の罪を認識する
【プロフィール】

小林節子(こばやし せつこ)
1939年 東京生まれ、2008年 東京経済大学  世紀教養プログラム卒業。撫順の奇蹟を受け継ぐ会会員。何知会会員
著書『撫順の空に還った三尾さん』(杉並けやき出版)


【目次 】

はじめに
1 湯浅謙さんの証言
2 生体解剖の告発――中国側の資料から
3 山西省で
4 中華人民共和国の戦犯政策
5 帰国、そして医療活動再開
【まえがき 】より
はじめに
 2009年5月、湯浅謙さんは母校東京慈恵会医科大学の教室で、将来医師と看護師になろうという若い後輩たちに向かって語りかけていた。次のような内容であった。

 私は今年92歳になる。日中戦争に軍医として参加し、生きている人間を解剖するという人間として許されない行為をくりかえした。死刑になって当然の人間であったが、中国政府に許されて帰国することができた。しかし許されたと考えたことは今日まで一度もなかった。
 私の人生は、戦争によって狂わされたと言えるが、それは受けた教育を疑いもせず、なにが正しいのか深く考えることをしなかった自分にも責任があった。
 医学を平和と結びつけて考えてほしい。
 いま、自分たちが生きている社会はどのような社会か。また、これからどのような時代になるのか想像することはむずかしい。まさかと思われることが起きるかもしれない。しかし、危険な時代と社会に生きていると感じたら、いち早く行動してほしい。戦争というものがどのようなものか知ることが何よりも重要であると思う。そこから正しい歴史について考えを深めてもらいたい。若い君たちに託します。

 いつもおだやかな態度で淡々と語りかける湯浅さんだが、この日はとくに優しさにあふれていた。それでいてどこか安心感をただよわせた表情で、90分の講演を終えた。
「自分の恥、日本の恥を話すのはつらいけれど聞いてほしい」という湯浅さんの思いがこめられた話に、学生たちは真剣に耳を傾けていた。自分が医師を志したころと同じ年代の青年たちに向かって、消すことのできない過去を語りつづけた。自分の轍【わだち】を踏んでほしくないと切々と訴える湯浅さんの姿は、子どもたちに遺言を聞いてくれることを願う父親のように見えた。
 昼夜を分かたず、貧富の差を厭【いと】うことなく奔走する開業医の父親を目標に、湯浅さん自身も父親のような医師になりたいと考えていた。無医村に行くことさえ考えていた。しかし時代はそれを許さなかった。青年医師は軍医となり、中国に派遣された。そして派遣された中国で、生体解剖という医師として決して許されることのない行為を犯したのだった。湯浅さんがそれを犯罪であったと気づくのは、日本の敗戦後であった。戦犯として収監された永年捕虜収容所(中国河北省)、太原戦犯管理所(中国山西省)で中華人民共和国の戦犯政策を自分の身体で知ってからである。日中戦争中は罪の意識に悩まされることなどなかった。むしろ国のために自分は医師としての使命を果たしていると考えていた。
 1945年8月、中国山西省には5万9000名の日本軍(第一軍)将兵が駐留していた。この将兵のうち2600名が山西軍の残留要請に応じ、国民党軍の一翼となって共産党軍と3年半にわたり戦闘をつづけた。
 太原で敗戦を迎えた湯浅さんは、国民党政府の要請に応え、軍医としてではなく、民間医師として太原に残る道を自ら選んだ。家族の消息も不明であるし、戦火に荒廃した日本に帰るより軍の言うように、残留が日本の復興に役立つならば中国に残ろう、日本人が太原に残っている限り、医師は必要となる。そう考えた湯浅さんは、日本人だけでなく、中国民衆の信頼も得て医療活動をつづけた。医師として日本人、中国人の区別なく施療しているという自負さえあった。
 1949年4月、最後まで抵抗をつづけていた山西省太原が人民解放軍[著者注・1947年、八路軍、新四軍を統合して人民解放軍と改称]によって解放され、日本人将兵および軍属700名が捕虜になった[著者注・1948年7月に300名、49年4月に400名]。このとき、湯浅さんは収監されなかった。新政府の命令を受けて、太原の北に位置する陽泉の省立病院に赴任した。
 51年1月、湯浅さんの日中戦争中の行いがあきらかになり、永年捕虜収容所に送られる。しかし、このときも自分が重い罪に問われているとはまだ気づいていない。2年後、太原の戦犯管理所に収監され、合わせて5年半におよぶ歳月を学習、労働、罪状告白など、自分自身と向き合う苦しい日々を送ることになる。中国政府は、ふたたび他国を侵略し、残忍な行為を犯すことのないように、軍国主義者たちに人間としての心を取りもどすことを求めた。自分が犯した罪を考える時間と施設を用意して、細心の注意をはらいながら過ちに気づくのを待った。この政策に触れてはじめて湯浅さんは自分を取りもどすことができた。
 生体解剖という重い罪過を背負い、逃れることのできない罪の意識と闘いながら、湯浅さんは帰国後の長い年月をどのような気持ちで過ごしてきたのだろうか。
 湯浅さんには、すでに生体解剖に対する告白・謝罪、戦犯生活そして起訴猶予となって帰国するまでの記録(『消せない記憶・元軍医の告白』吉開那津子著 日中出版 1981年)がある。
 私が湯浅さんに出会ったのは、アジア・太平洋全域の民衆から起こされた、戦争責任・戦後補償を求める裁判の法廷であった。閉廷後開かれる被害者と弁護団の報告集会で湯浅さんに会う機会が増えた。そして報告会席上で発言する湯浅さんの姿にふれ、その足跡を知りたいと考えはじめた。
 父親を師と考えていた湯浅さんは、なぜ軍医になろうとしたのか、なぜ生体解剖という許されない行為を4年間にわたってくりかえしてしまったのか、赴任した中国山西省とは日本にとってどのような意味を持つ地域だったのか。さまざまな疑問が浮かびあがってきた。
 また、千名余の日本人戦犯が収監されていた1951年からの5年間といえば、中華人民共和国にとって、建国(1949年10月)から日も浅く、8年にわたる日中戦争、つづく国共内戦によって荒らされた国土の回復に向けて歩みはじめた時期であった。さらに朝鮮戦争(1951年〜53年休戦)への支援が重なった。その困難な年月のなかで、中国の民衆は戦争犯罪者が自らの過ちに気づき、再生するのを援けた。ひとりの戦犯も処刑することなく、罪の重い45名を除き、起訴猶予処分にして帰国させた。世界中の人びとから奇蹟と呼ばれたこの事業がなぜ実現できたのか。くわしく知りたいと考えた私は、起訴猶予となって帰国を許された人びとが結成した、中国帰還者連絡会(略称中帰連)をたずねた。そこで、三尾豊さん、金子安次さん、土屋芳雄さん、湯浅謙さん、稲葉績【いさお】さんたち中帰連会員をはじめとして、元日本人反戦兵士、解放軍兵士など多くの関係者に出会えた。インタビューをかさねながら、歴史的な事実を探りはじめた。
 中華人民共和国建国後、撫順、太原ふたつの戦犯管理所で千名余の戦犯を覚醒に導いた中国政府の戦犯管理政策とはどのようなものだったのか。さかのぼって、日中戦争下、国民党軍、共産党軍双方が採った捕虜政策とはどのようなものだったのか。資料、研究書を読みすすむうちに、捕虜政策の根底にながれていた思想と戦犯政策とのつながりにたどりついた。
 それはまた、私たちの国の戦争責任、戦後責任を考えることでもあった。医師であり軍人であった湯浅さんが語りつづける、中国人生体解剖への深い悔恨と被害者への謝罪には、他国に侵攻し、人命を奪う戦争を二度と許してはならないという強い願いがこめられている。
 全国で600回を越える講演会、テレビ・ビデオ映像への出演も100回をかさねている湯浅さんを、ご存知の方はたくさんいらっしゃると思う。語られた重い内容を思いかえしていただけることを願っている。
小林節子 
  2010年7月