シリーズ 自由をつくるT 



[増補新版]金子文子
わたしはわたし自身を生きる
―手記・調書・歌・年譜
鈴木裕子編/亀田博・年譜

2013年4月3日発売
定価:3600円+税
A5判 400ページ 並製
ISBN978-4-8166-1301-2

C0023

金子文子(1903年〜1926年)、彼女が残した手記・調書・歌・年譜を記念出版。
1金子文子は1903年横浜に生まれ、大逆罪で死刑判決を受け、減刑されるが獄中で縊死。極貧のなかで子ども時代をすごし、祖母に虐待を繰り返される朝鮮での暮らしのなかで、3.1独立運動に遭遇、朝鮮独立運動に深く共感する。弱いもの小さいものに心をよせ、明快な言葉と論理で天皇制に直接対峙し、自分の生を生ききった、23歳の生涯であった。

●二〇〇六年に刊行した旧版(品切)に収録できなかった、獄中手記「何が私をこうさせたか」を全文収録
●この一冊で金子文子の思想と行動がわかる
※収録に当っては、旧著と同様、旧字体を新字体に、歴史的かな遣いを現代かな遣いに改め、さらに難読語はかなに開き、ルビを付す。また旧著に付した年譜に加筆削除し、参考文献等をも挿入
【プロフィール】
金子文子(1903年〜1926年) 紹介
1903年 横浜に生まれる。出生届がだされず就学できなかった。父が家を出
て母の妹と同棲、母も男との同居をくり返す。「家財道具を売り、床板をはずして薪にかえた」ほどの貧困な暮しであった。1912年9歳から16歳まで、養女として父方の祖母に迎えられ、朝鮮で生活する。だが、「無籍者」として虐待をうけ食事さえ満足に与えられなかった。朝鮮人のおかみさんから「麦ごはんでよければ」と声をかけられ、「人間の愛」に感動し、日本人が権力を振るい朝鮮人を搾取するさまを目の当たりにする。1919年日本にかえされる直前、3.1独立運動に遭遇する。
1920年17歳で上京。新聞売りや「女給」などで自活しながら苦学する。キリスト教、仏教、社会主義、無政府主義の思想に出会う。22年朴烈と知り合い、雑誌『太い鮮人』を創刊。 23年9月3日、関東大震災の混乱の中逮捕、「治安警察法違反」で予審請求される。26年3月25日、「大逆罪」で死刑判決。のち恩赦により無期懲役に減刑されるが、7月23日獄中にて縊死。「すべての人間は人間であるという、ただ一つの資格によって」「平等」であると確信した文子は、「権力の前に膝を折って生きるよりは、死してあくまで自分の裡に終始」した。23歳であった。
【目次 】

*何が私をこうさせたか
忘れ得ぬ面影 栗原一男/添削されるに就いての私の希望/父/母/母の実家/新しい家/朝鮮での私の生活/村に還る/虎口へ/父よさらば/東京へ/新聞売子/露店商人/女中奉公/街の放浪者/仕事へ-私自身の仕事へ!

*調  書
*獄中歌集
*解  説 鈴木裕子
*金子文子年譜 
*解説・鈴木裕子
  
【編者あとがきより】

『金子文子 わたしはわたし自身を生きる』増補新版に寄せて

 今般、二〇〇六年に刊行した『金子文子 わたしはわたしを生きる』が品切れになったのに際し、旧版では、全文を収録できなかった『何が私をこうさせたか』を全部収録しました。収録に当っては、旧著と同様、旧字体を新字体に、歴史的かな遣いを現代かな遣いに改め、さらに難読語はかなに開き、ルビを付けました。また旧著に付した年譜に加筆削除し、参考文献等をも挿入しました。
 金子文子の思想と行動は、本書を読まれることによって、その大凡を知ることができるかと存じます。文子が死去してから八十六年余経過しますが、文子の願いとは逆に、日本と韓国朝鮮との間には、さまざまな未解決の問題があり、また天皇制は、戦前戦中の神権天皇制から象徴天皇制と衣を脱ぎかえたものの、依然として存在し、市民の上に重くのしかかっています。 天皇制は、まだこの国ではタブーとされ、天皇・天皇制の批判をすることは、事実上、メジャーな言論機関からは排除されています。このため、植民地支配、侵略戦争に天皇や天皇制が大きな責任を有し、その罪について明らかにすることはなかなか困難といえます。
 さて、日本軍「慰安婦」(性奴隷)問題が争点化されてから二十二年あまり経過しますが、この「慰安婦」制度を生み出したのは、天皇制国家であり、天皇の軍隊といわれた「皇軍」、すなわち日本軍です。この問題も依然と未解決のまま、被害者は年々亡くなっています。
 天皇・天皇制は、日本以外の地域の人びとにとっては、大方忌わしいものと認識されているでしょう。しかし、日本社会では、そうした歴史認識を共有できていません。この結果、とりわけ韓国朝鮮、中国台湾の人びとと日本市民との間にいまも歴史認識・事実認識の上で大きな隔たりがあるといえるでしょう。
 金子文子は、少女期を植民地朝鮮で暮し、朝鮮人にたいする苛酷な仕打ち、虐待、搾取、酷使を目の当たりにし、植民地支配、さらに帝国主義の基盤となっている天皇制の矛盾を鋭く衝いた女性です。わずか二十三年の人生でしたが、わたくしたちが金子文子に学ぶものはいまだに大きいものがあると思います。
 最後に、旧著で「年譜」を作成してくださった亀田博さん、佐藤信子代表をはじめとするやまなし金子文子研究会の方がた、また本書を刊行してくださった梨の木舎の羽田ゆみ子さんに感謝します。
                                      2013年2月25日

                         鈴木裕子
【編者紹介】
。鈴木裕子(すずき・ゆうこ)
1949年東京小まれ。早稲田大学大学院文学研究科修士課程日本史学専攻修了。

主な単著に『広島県女性運動史』(ドメス出版、1985年)、『フェミニズムと戦争』(マルジュ社、1986年、増補新版1997年)、『水平線をめざす女たち』(ドメス出版、1987年、増補新版2002年)、『女性史を拓く』(1〜4)未来社、1989〜1996年)、『女工と労働争議』『女性と労働組合(上)』れんが書房新社、1989.1991年)、『従軍慰安婦・内鮮結婚』(末来社、1992年)、『「従軍慰安婦」問題と性暴力』(未来社、1993年)、『女たちの戦後労働運動史』(未来社、1994年)、『フェミニズムと朝鮮』(明石書店、1994年)、『戦争責任とジェンダー』(未来社1997年)、『天皇制・「慰安婦」・フェミニズム』(インパクト出版会、2002年)

主な編著に『山川菊栄集』全11巻(岩波書店、1981〜1982年)、『堺利彦女性論集』(三一書房、1983年)、『山川菊栄女性解放論集』(岩波書店、1984年)、『湘煙選集』1・2・4巻(不二出版、1985〜1986年)、『資料 平民社の女たち』(不二出版、1986年)、『山川菊栄評論集』(岩波書店、1990年)、『日本女性運動資料集成』全11巻(不二出版、1993〜1998年〕『ジェンダーの視点からみる日韓近現代史』(梨の木舎、2005年)
【紹介されました】
金子文子没後80年 現代にも通じる思想と行動
  記念出版 鈴木裕子さんに聞

朝鮮新報2006年9月11日掲載

金子文子(1903〜1926年)没後80年に当たる今年、女性史研究家の鈴木裕子さんが「金子文子-わたしはわたし自身を生きる」を上梓した。山梨市牧丘町で行われた「文子忌」(7月23日)には、文子の生き方に共感する80余人の人々が集った。また、南では慶尚北道聞慶市で07年の開館を目指し、「朴烈(金子文子)記念館」の建設が進められている。いま、なぜ金子文子なのか、鈴木さんに聞いた。
 
 
 金子文子は夫、朴烈と共に1923年、関東大震災朝鮮人虐殺事件の国家の責任逃れのため作られた大逆事件の被告にさせられて死刑判決を受けたあと、無期懲役になり、宇都宮刑務所に収監」獄中で、すさまじい転向強要を受けたが、それをきっぱり拒否して、26年獄中で自殺した。鈴木さんは獄中死した文子について、「死に急いだという一部の見解について」疑問を呈す。「はたしてそうだろうか。彼女は死に急いだわけではない。天皇制との対決に又字通り命をかけてたたかったのである。『わたしはわたし自身を生きる』ことを実践したと思う」と語る。
 没後80年を迎え、ますます文子の思想と生き方は、「時代閉塞」といわれる今日の状況において、輝きを放つかのようだ。
 若い頃から、文子の思想に強く魅かれていたという鈴木さん。「文子の生き方そのものが、『反天皇制』であった。あらゆる権威、権力を否定し、人間の絶対平等を求めたLところが、最も魅力的な点だと語る。
 「私はかねて人間の平等ということを深く考えております。人間は人間として平等であらねぱなりません。そこには馬鹿もなけれぱ、利口もない。強者もなけれぱ、弱者もない。地上における自然的存在たる人間の価値からいえぱ、すべての人人間は完全に平等であり、したがってすべての人間は、人間であるという、ただ一つの資格によって人間としての生活の権利を完全に、かつ平等に享受すべき筈のものであると信じております」(金子文子・第12回尋問調書)
 死を覚悟し、獄中で書き残した書葉、幾度となく転向を迫る検事らに屈することなく貫いた文子の絶対平等の思想には、多くの人々、女性たちから共感が寄せられていると、鈴木さんは指摘する。
 文子が生きたのは、まさに日本が朝鮮を植民地支配下に置き、普通の日本人は朝鮮人をべっ視、差別し、虫ケラのように思っていた時代であった。その狂気の時代にあって、「左傾」し、朝鮮人のたたかいに共感した文子を理解できる日本人はほとんどいなかった。文子はそうした孤独の中でも、既成の価画観に妥協せず、自已に忠実に生き抜いたのだ。
 「いかなる朝鮮人の思想より日本に対する反逆的気分を除き去ることはできないでありましょう。私は大正8年中朝鮮にいて朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権カヘの反逆気分が起り、朝鮮の方のなさる独立運動を思う時、他人のこととは思い得ぬほどの感激が胸に湧きます」(同・第4回被告人尋問調書)
 文子は1912年秋から、3・1独立運動が起った19年の4月12日まで、朝鮮にいた祖母、叔母夫婦に引き取られた。鈴木さんは「文子を引取った一家は、朝鮮人を見下し、蔑み、賎視し、傲慢そのものであった。それは一家庭だけでなく、日本の植民地官僚や警察官、憲兵たちも同じ。虐げられる朝鮮人たちと同じ目線に文子は立っていたのではないか」と見る。
 朝鮮での生活は、文子の手記にも記されているようれているように自殺を思うほど悲惨をきわめた。その中で文子を慰め、人の愛を教えてくれたてくれたてくれたのは朝鮮の女性であった。
 食事も与えられず酷使され、惨めな境遇。そんな文子に「麦ご飯でよけれぱ、おあがりになりませんか」手を差し伸べてくれた一人の朝鮮女性。「この時ほど私は人間の愛る。というものに感動したことかった」と手記に記されている。
 権力に対して毅然とたたかった金子文子。鈴木さん「文子はたくさんの歌をれそんな文詠んでいるが、そこには『生活者』の目線で現実をしっかり見たものが数多くとある。朝鮮のおかみさんの言葉に涙し、『人問の愛』に感動することのできる文子の感性も、すぐれて人間的なものである」と指摘する。
 「文子の思想と実践は、時代を超えて、人間が民族、性別、国境を超えて生きる共生の社会の礎であり、今を生きる私たちに力強いメッセージと勇気を与えてくれる」と力を込めた。
(朴日粉記者)