シリーズ 旅行ガイドにないアジアを歩く 
旅行ガイドにないアジアを歩く マレーシア

高嶋伸欣・関口竜一・鈴木晶著

 定価:本体2,000円+税
 192頁 A5判変型 
 ISBN 978-4-8166-1007-3
 C0026

北海道新聞・図書新聞に紹介されました!
【内容紹介】

過去をを見つめ、未来をひらく、1人で歩けるガイドブック。住民虐殺の追悼碑45ヶ所をたずねる。口絵カラー8頁、写真190点、地図20点、収載。

ガイドは30余年にわたり100回近い旅を重ねてきた高嶋伸欣さんと、二人の高校教師関口竜一さんと鈴木晶さん。


 1977
年、マラッカの村の食堂で高嶋さんは地元の人から問われた。「戦争中に日本軍がこのあたりで住民を大勢殺したのを知っているか」。「…知らない」。「それならば案内しよう」着いた所がマラッカ市内の追悼碑だった。…そこで日本の残虐行為の事実にはじめて直面したのである。(あとがきより

【プロフィール】


高嶋伸欣 (たかしま・のぶよし)

 1942年生まれ。琉球大学名誉教授。高校教諭だった1975年以来、東南アジアでの皇軍による住民迫害を調査。その記述を削除させた検定に対し、横浜で教科書裁判を提訴(1993)。81年度「日本史」教科書検定で沖縄戦住民虐殺の記述削除以来、沖縄戦と教科書問題にも取り組んでいる。

関口竜一 (せきぐち・りゅういち)
 
1959年生まれ。埼玉県立高等学校教諭。1988年よりにマレー半島の戦争被害のスタディツアーに加わり、主にマレー半島東海岸における日本軍政の実態を調査。平和のための埼玉の戦争展実行委員。

鈴木 晶 (すずき・あきら)
 
1960年生まれ。横浜市立高等学校教諭。大学講師。1995年よりマレー半島のスタディツアーに参加、主に東マレーシア(ボルネオ島)における戦争被害を調べている。アジアフォーラム横浜、教科書市民フォーラムなどの活動にかかわる。

【目次 】

第1章 マレーシア総論
第2章 クアラルン・プール(KL)とその周辺
第3章 ペナン島とその周辺・タイ国境地帯
第4章 ペラ州   
第5章 マラッカとその周辺・ネグリ・セン・ビラン(NS)州
第6章 ジョホール・バルとその周辺
第7章 マレー半島東海岸(関口・鈴木)
第8章 東マレーシア
第9章 もう一つのマレーシア
参考文献・解題

【組み見本】
【編者まえがきより】
はじめに――マラッカの村の食堂で問われて

 私が教員になって間もない1970年頃、高度経済成長の波に乗って、教員もしきりに海外へ出かけていた。ある大規模教職員団体では、夏休みにジャンボ機をチャーターして、ヨーロッパとアメリカへの研修旅行を毎年実施していた。現地では各コースに分散し、帰路は集合地点からまたチャーター便で帰国するというものだった。
 報告会に参加した時、私は世話役に「なぜアジア向けを企画しないのか」尋ねた。「中国にはまだ行けないし、東南アジアやインドでは参加者が集まらない」
という返答だった。
当時、私は日本復帰前の沖縄へ何度か通い、途中で石垣島から台湾へ渡って島内を一周したりしていた。学生時代には日本全国を歩き回り、駅のベンチやテントで寝ながら、農村漁村や戦後の海外引揚者による入植地で、限界ギリギリの状況でも、たくましく生き抜いている人々と接っした。みな、人間味にあふれ、多くの感動を得た。
そのためか、台湾の先の東南アジア各地へ出かけることに、何の違和感もなかった。むしろ親しみと魅力さえ感じていた。
1975年夏、バンコクの日本大使館勤務になった兄に誘われて、タイとマレーシアを鉄道とバスで回った。マレーシアは、道路はよく舗装されているうえに、車の数は少なかった。運転マナーもイギリス流が継承されていて、レンタカーで各地を回れる自信を得た。1977年、ペナンでレンタカーを借り、南端のジョホールまで寄り道をしながら、一人で旅をした。社会科地理の授業に使うためにゴム園とスズ鉱山などを撮影するのが目的だった。

マラッカ郊外の農村で昼になった。村の食堂に入り、客が食べている料理を見ながら、手まねで注文をした。待つ間に年配の店員が出てきて「日本人か」と問われた。「そうだ」と答えると、「それなら戦争中に日本軍がこのあたりで住民を大勢殺したのを知っているか」と尋ねられた。あり得ることと思えたが、具体的知識はなかったので「知らない」と返事したところで、注文の品が運ばれて会話は終わった。
食事の後、店を出るところでまた店員に声をかけられた。
「さっきの話の証拠を見にいく気はあるか」と。「是非見たい」「では案内する」。車で案内された所が、後に思い出してみるとマラッカ市内の追悼碑だった。
碑文は中国語で書かれていて、意味は大半読み取れた。虐殺の犠牲者が中国系住民(当時の華僑)だったことも分かった。中国での日本軍の蛮行については、本多勝一氏の『中国の旅』などで、広く知られていた。マレー半島地域も華僑が多く、日本軍は敵視していたのだから、虐殺はあり得た。店員が、私(日本人)に伝えたかった事実にはじめて直面したのである。
「日本に戻って、調べてみる」とその店員に告げて、別れた。
日本国内では断片的な情報しかなかった。シンガポールの「血債の搭」やペナンの追悼碑のことなどを、松井やより氏のルポルタージュなどから知って、毎年8月にはそれらの確認確認や調査のために1人で出かけた。
 
 1982年夏、教科書検定で日本政府が、アジアへの「侵略」を「進出」と改変させていた件で、近隣諸国から抗議が集中するという事態になった。日本政府が事実上謝罪し、以後は「侵略」記述を認めるとしたことで、ことは一応落着した。
しかし、社会科教師の間では「それでいいのか」という反省の声があがった。アジアの人々は、日本政府だけでなくそうした不当な検定を見過ごしてきた一般日本人、とりわけ社会科教育関係者も、批判していたのではないかと。教師のわれわれはどうすべきなのか。議論を重ねていった――何よりも授業で侵略の事実を生徒に伝えるべきだが、東南アジアについてはそうした事実そのものが、まだほとんど分かっていない。それなら自分たちで現地へ行こう――という結論になった。
私が案内役に指名され、83年夏に「第1回・戦争の傷跡に学ぶマレー半島の旅」がスタートした。

タイのバンコクを起点にシンガポールまで2000Kmを、鉄道とバスを利用し、約3週間かけて、各地を回った。前例のないツアーであるものの、現地の旅行社やガイドの人たちも主旨に共鳴して協力してくれた。帰国後に情報が届けられもした。
 ツアーは原則として年に1回ながら内容は次第に充実していった。
 5年目の87年、前年の中曽根首相の靖国神社参拝に反発した市民運動「アジア・太平洋戦争の犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」の取り組みの一環として、海外現地集会の一つを東南アジアで開催することになった。8月15日の日本国内集会(大阪)に呼応したものだった。
 以後タイのカンチャナブリ(映画「戦場に架ける橋」の現場)、コタバル、シンガポール、ジョホールバルなど各地の地元華人団体に協力してもらいながら、ツアーの日程の中で、現地集会を開催してきた。
 96年、クアラルンプ−ルの華人団体から、自分たちが主催するとの心強い申し入れがあり、日本側は協賛のゲストという位置づけに変化した。その後毎年8月15日にマレーシア各地で、追悼行事が開催されている。
 こうした取り組みの中で、私たちにもたらされる情報や証言は急増した。
 特に確認できた各地の追悼碑など約30ヵ所を『写真解説・日本の侵略』(大月書店 1992年)で見開き2頁に収録したところ、それを見た現地の若い記者たちが「もっとあるのではないか」と競って資料探しに動いてくれたことが、大きな流れとなった。現在では東マレーシアを含め、70ヵ所を越えている。
ここに至るまで100回以上現地訪問でさまざまなことがあった。遺族や目撃者たちからののしられたり、殴られかけたり、石を投げられたり、数時間のつるしあげにあったりした。でも必ず、「こんな日本人もいるのだから」と、とりなしてくれる人がいて、ことなきを得てきた。
30数年の個人的な営為に共感してくれた関口竜一、鈴木晶の両氏との共同作業を通じての作品としての本書を通じて、「こんな日本人」がすこしでも増えたら」と願っている。  
                                                                              2010年11月 高嶋伸欣
【口絵から】

【口絵から】

【北海道新聞2011年3月27日ほん欄紹介」
【読書新聞2011年4月9日書評記事】