スピーディ・ライス
ゴンザーガ大学法学部

ウイリアム・B・モフィット
全米刑事弁護士協会会長
President of the National Association of Criminal Defence Lawyers.

萩谷良/訳

「そもまた去り行かん」

In Neez Bogzarad
 恥ずべきことだが、アメリカ合州国では、38の州と連邦政府が、自国の市民と外国人に死刑を執行している。合州国では、致死薬注射、電気椅子、ガス室、絞首、銃によって、この恐ろしい行為が遂行される。
 1976年[米国で死刑執行が合憲とされ再開された年]以来、1999年の終わりまでに、合州国は、およそ600名の人間を処刑していることになるだろう。死刑存置州のパレードの先頭に立っているのはテキサス州[知事は共和党大統領候補ジョージ・ブッシュ]で、190名以上を処刑している。
 だが、過去四半世紀で600名という事実も、そのうちほぼ100名が1999年という1年で処刑されたという事実に比べれば、衝撃は薄いくらいだ。不幸なことに、この数の増加が停止、あるいは鈍化しようとする様子はない。
 私たちは、男も女も、子供も、精神遅滞者も精神病者も、どんな人種や肌の色でも、国籍をかまわず、また国際的な減刑要求もかまわずに、処刑している。死刑判決を受けるのは大多数が貧困層である。無実の者でさえ、合州国では処刑されることがないとは限らない。合州国で20世紀に入ってから処刑された無実の人は、控えめに見つもっても、23名を下らない。現在、無実でありながら処刑を待つ身の人々の数は、推計不可能である。弁護士やジャーナリストや専門の研究者などの提供してくれる情報によって我々が知り得ているのは、1973年以来、82人の人が、 真に無実であることを証明されて死刑囚監房から解放された、ということである。そのうちには、処刑のほんの数時間前になって釈放された人も多い。そしてそれは、多くの場合、世間に寃罪を訴える宣伝活動のおかげであって、公正で役に立つ法制度が存在したおかげではないのだ。
 私たちの最高裁は、死刑囚再審請求の根拠として挙げられる無罪の主張を、そのような主張は知事による温情措置に委ねるとして、却下してきた。州知事は州知事で、法廷での審理こそが、無罪かどうかを扱う正当な場だと言って、温情措置を拒むのである。このたちの悪い挟み撃ちと、その悲劇的結果は、普遍的人権という理念に対する、あからさまな冒涜である。
 この国を代表する政治家の中には、無実の人々を処刑することを支持する者さえ見られる。フロリダ州選出の連邦下院議員ビル・マッカラムは、無実の人々が処刑されることも、それで社会の安全が保たれるのだから、認めてよい、と、公けの場で述べたことがある。そして、再選を続けている。
 フロリダ州は最近、欠陥のある電気椅子で処刑された人の写真を公開した。それは、不手際な処刑の恐ろしさを示していた。残念ながら、フロリダ州のウエッブサイトに寄せられたコメントの多くは、その処刑を支持していた。中には、この忌まわしい写真を「ワンダフル」とか「ビューティフル」と書いていた人もあったのである。
 アメリカ国内が、こうした病弊に冒されているだけに、死刑囚監房に入れられている人たちの一人一人に人間の顔を持たせることは、きわめて重要である。
 わが国の死刑による政策遂行は、恐るべき悲劇の犠牲者たちを、検察、政治家、被害者の権利推進グループによって糸を手繰られる、あやつり人形にしている。彼らは、激怒にかられる風潮と死刑支持の世論を維持するために、メディアの前を練り歩き、踊り回る。悲嘆を経験し、自己の生を整序するという人間的な必要事が、それより大きな、死の調達人たちの必要事によって、退けられてしまうのだ。
 合州国の死刑囚監房の状況は、私たちの訪問を認めた刑務所のように、ごく思いやりのある所から、テキサスのように、真夏にすら十分な換気装置も冷房もない、過酷で非人道的なところまで、さまざまである。私たちは、1998年12月にこのプロジェクトを開始したときには、これは2か月かかると見ていた。たいていの刑務所当局者が、どれほど、死刑囚の人間的側面を隠したがるものか、私たちは分かっていなかったのだ。われわれの取材は、多くの州で、保安、政策、政治的事情などを理由に、当局から拒否された。たんにノーの一言ではねつけられたこともある。
 われわれの死の文化の中にあっても、きわめて奇妙なのは、死刑囚の最後の晩餐に同席するという儀式に固執する、ある刑務所長である。自分を、囚人の最期を看取る神の使者として聖別したこの人物は、その食事の時を、キリスト教による救済を説くことに用いるのだ。それに成功すると、彼は処刑後、死んだ囚人の手を握るが、囚人に断られると、彼らを避け、彼らの生の最後の数時間に残されたわずかな特典を取り上げてしまう。この所長は、われわれのプロジェクトに自分の出る幕がないと知ると、我々が囚人を訪問することすら断った。
 なぜ、世界でもっとも富める国、国境の外では人権の守り手を以て自ら任じている国が、このもっとも非人道的な刑罰が続くことを許しているのか。
 じつはその理由は簡単だ。合州国で死刑囚監房に入れられた人々は、もはや人間ではないのである。
 こうした人間性剥奪と悪魔化がなされると、今度はそのゆえに、警察や検察、また場合によっては裁判所までが、虚偽と証拠捏造を行うことを正当化される。死刑制度支持者たちにとっては、あんな連中をわれわれの社会から一掃することの必要性に比べたら、どんな悪も悪すぎることはないというわけだ。報道によれば、最高裁の職員たちさえも、いくつかの死刑執行のときには、シャンペンで祝杯をあげたという。
 奴隷制、合法的リンチ、そしてアメリカ先住民をほとんど絶滅に追い込んだ行為など、過去に数々の悪業を犯しながら、そこから学ぶことのできない私たちは、ますます処刑の計画を増やす一方のまま、新たな千年紀に歩み入ろうとしている。しかし、われわれが立ち止まり、「われわれの本性のうちにある、よりよき天使たち」に耳を傾けるなら、「そもまた去り行かん」ということが望めるのではないか。
#In Neez Bogzarad「そもまた去り行かん」
英語訳ではThis also shall pass
12世紀ペルシャの詩人・哲学者ガズニのサナイ(Sana'i of Ghazni)の言葉
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