あなたは無実を主張していますね。
ええ、そうです。
それで、どうして有罪になったのですか?
私が自白したからです。ていうか、自白調書を認めたからです。
本当に無実なら、なぜそんなことをしたのですか?
自白すれば、拷問をやめると思ったからです。
誰から、どこで拷問を受けたのですか?
111番街とミシガン通りの交差点の第2区警察署だったと思います。取調室に連れて行かれ、いくつか聞かれました。私には答られませんでした。彼らは部屋を出ていきました。戻ってくると、別のことをいくつか聞きました。そしてまた部屋を出ていくと、電灯が消えました。その後、数人がビニール袋を持って入ってきて、私の頭にかぶせました。私は後ろ手に手錠をされて、壁に向かわされていました。
それから袋をはずされて、ようやく呼吸ができるようになったということですね。それからどうしました?
また何人か入ってきて、さらにいろいろ訊かれました。私は、誰かが頭に袋をかぶせたことを訴えましたが、彼らはまったく、お前は何を言ってるんだというような態度でした。その時もまだ、彼らが言わせたいような答をすることはできなかったのです。それで、同じようなことを、あと2回くらいは、やられました。
またビニール袋を頭にかぶせられたということですか?
そう。たぶん、もう2回です。その後、ずいぶん長いあいだ、部屋に放っておかれました。それから、彼らは私に自白の筋書きを吹き込み始めたのです。それをしゃべって楽になってしまわないか、凶器のある場所に俺たちを案内しろよ、というのです。そんなことはできません。その晩、しばらくたったら、電気ショックをやられたんですよ。壁に取り付けた環に手首を手錠でつながれて、正面を向かされました。そして、お前を絶対吐かせてみせる、と言われたのです。そう言ったのは、バージ警部補です。私がおもに見ていたのはこの男です。ほかの連中の顔は、ちょうど今、私があなたの顔に注意を払っていると、ほかの人はシルエットみたいにしか分からないですね。そんな感じでした。
私が彼をよく見ていたのは、この男が一人でしゃべっていたからです。
どうして彼の名前が分かりました?
写真です。彼らは私の後ろにまわると、なにか電気装置をとって、何かそんなものでケツっぺたを刺したみたいな感じでした。で、一人が私の片腕を下に引きおろして、手の甲に何かを擦り込むと、指を全部うしろに向けて、手を開けないくらい丸めました。その上で、電気ショックをやったのです。
それはどのくらいやられましたか?
分かりません。何度もやるぞやるぞと脅されたのです。実際にやられた時間は5〜6分かもしれません。
悲鳴が出ましたか?
歯をくいしばってるから、うなるみたいになりました。そんなふうにして何とか苦痛に耐えようとするんです。とにかく、部屋の外にいる警官たちには中のことが分かっていると思っていましたから、誰かが助けにくるとは思えませんでした。その後、また尋問されましたが、それでもまだ私は彼らの思い通りに答えることはできませんでした。すると、彼らは私に壁を向かせ、ズボンを引き下ろしました。何かを肛門に入れようとしたので、私は飛び上がったり、身をよじらせたりして逃げようとしましたが、誰かが私のズボンを踏みつけたので、動けなくなりました。その時、肛門に差し込もうとしていたものが陰嚢に当たったので、おそろしく痛かったです。誰かが、私の直腸内に油を塗ろうとしました。何だかわかりませんが、それを中に塗られた
ときのショックといったらなくて、ひどい痛さでした。
その時に、言うことを聞こうと決心したのですか?
どんな話でも、そうですと言おうと決めました。しかし、凶器を隠した場所に警官を連れていくことはできませんでした。何かに署名させられ、あとで自白調書だったとわかったのです。警官たちが部屋を出ると、それとはべつの一人の男が入ってきて、州の司法局から来たと言ったので、私は彼に、自分がどんな仕打ち受けたかを話しましたが、彼は、ばかばかしい、お前がそう思ってるだけだろう、と言って、出て行きました。そのときその男は、私の股に手を伸ばして、陰嚢をぎゅっとつかみ、お前がその気なら、一晩でもそのタワゴトにつきあってやっていいぞ、と言いました。私は誰にも助けてもらえないと観念しましたから、その次に誰かが入ってきて、また州法務局の者だ、と言ったとき、言うことを聞いたのです。
裁判では、拷問をうけたことを話したのですか?
話しました。私についた弁護士が申立をしました。でも、そこで弁護報酬の話になりました。私にはあまりお金がなく、実際、無一文と言ってよかったのです。すると彼は、これには時間がかかる、その間まったく報酬なしになる、今も報酬はもらっていないのに、と言いました。そして、弁護士が裁判官に申立らしいものを出すと、裁判官がそれを突っ返してきて、これは些細なことだと言いました。弁護士は、またあらためて申立をすると言いましたが、けっきょく何もしませんでした。
あなたはもう15年以上も刑務所にいるわけですが、毎日このことを考えているのですか?
いま、私は処刑はならないだろうという希望をもっています。最初の裁判の時は、誰もが私を、こいつの言うことは狂ってる、電気椅子に坐りたくなくて、命乞いしているのだといった目で見ていました。しかし、死刑囚になってからわかったことですが、あの警察署から来た被疑者で、私と同じように拷問を受けた人が、ほかにも59人か60人いたのです。
あなたは身に覚えのない罪と、拷問によって無理に引き出されたと言う自白のために、こんなに長いあいだ刑務所暮らしをさせられて、さぞ怒りは大きいでしょうね?
もちろんです。しかし、当初ほどではありません。怒りに身を任せていると、いいことは何もできなくなり、ただいつも怒っているばかりになってしまいます。私は自分の子供や孫のためにできる限りのことをしようと思っています。趣味で絵を描くことも始めました。今は自分の人生が、少しは充実したと思えるのです。支援してくれる人たちもいますし。
判決はくつがえされると思いますか?
そう願いたいですねえ。シカゴ警察と州の法務局が、私たちアフリカ系米国民が貧しくて、私たちの声を代弁してくれる政治家もいないからというので、私たちに対してきわめて無関心であるということは、明らかにしなければなりません。彼らが、私たちのところに入ってきて、何をしようと言おうと勝手で、それをニュースにすると、楽な場所に身を置いた、実情を知らない人達は、まあなんてことだ、奴らはケダモノだ、処刑する必要があると言うんです。
逮捕されるまでは、どんな暮らしをしておられたのですか。
いろんな仕事をしました。清掃員、家の修理や塗装、整備、装飾など。何年もそれで生計をたてていました。
学校にはいつまで行かれましたか?
高校2年でやめました。
それは、悪い仲間とつきあっていたからということですか?
それも一因です。学校にはいくつかの非行グループがいました。何度か、仲間に入るか、さもなきゃ敵か、と言われたことがあります。そうしたことも、学校に行かず、仕事につくことにした理由でした。
子供の頃、家庭にいて幸福でしたか?
私には何でもあったけど、幸福な家庭だけはなかったと思います。暴力がたえず、私はいつもびくびくしていました。いつ何がおこるか分かりませんでした。家では殴られていました。目を刺されたこともあります。家では、いろんな目にあいましたが、なぜそうなるのかということすらわからなかったのです。
子供のとき幸福で健全な暮らしをしてこなくても、大人になってから幸福で健全な暮らしをすることができると思いますか?
ええ、思います。そのためには努力が必要でしょうけどね。その経験にきちんと取り組まなければなりませんからね。私の取り組み方は、自分が家でいっしょに暮らして、育ってきた人達のようなアルコール依存症にはならないと決意することでした。そして、人を虐待しない、つまり、私を育てた人たちのようにならないと決意することでした。
あなたはここの若い囚人たちと、いろんなことをしていますね?
私は彼らに、ギャング団に入ろうとせずに、実態を知るよう教育するのに役立ちたいと思っています。ギャングどもは、若者のためになるようなことは何一つしてくれません。若者たちが何かタバコとか歯磨き粉や、ケツを洗うのに必要な石鹸とかが必要なときに、彼らが為替を送ってくれたりはしません。ほんとに、彼らがやることといえば、若者たちにギャングを支援させることだけなんです。
夜、夢はまだごらんになりますか?
ええ、孫といっしょにショッピングモールで買い物をしている夢を見ます。孫は三人います。彼らが私の手をとり、店の中をあちこち引っぱりまわしてせがむんです。おじいちゃん、早くおいでよってね。それが私がすごく願っていることなんでしょうね。
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インタビュアーの註: |
| ジョン・バージ(オレンジ氏が拷問を受けたと主張している警部補)はシカゴ警察監督局によって、1991年に調査を受けた。肉体的な虐待と拷問を行ったという容疑によるもの。1993年2月に解雇された。1995年12月、イリノイ州上訴裁判所はこの解雇決定を支持する判決を下した。 |