東海村臨界事故「最終報告」批判

事故を隠し、被害者を切り捨て、
政府の責任をすべて免罪する東海村臨界事故「最終報告」
重大事故と被曝被害を前提にした原発強硬推進を許すな
(2000年2月12日)

 昨年12月24日、原子力安全委員会事故調査委員会は、東海村臨界事故についての「最終報告」をとりまとめた。事故の波及を最小限にくい止め、大きく崩れた原子力政策を立て直すため、何が何でも年内に幕を引くことがその狙いであった。政府は、矢継ぎ早に、防災法等、原子力関連二法を成立させ、「最終報告」を作り上げた。事故からたった3ヶ月。拙速で強引な幕引きである。
 事故調査報告でありながら、事故の事実、被曝者の数と被曝量について、ほとんど何も書いていない。これが「最終報告」の最大の特徴である。「最終報告」の目的は、被曝を隠し、被害者を切り捨て、政府・推進側の責任をすべて免罪することにある。
 さらに「最終報告」は、「事故は起こりうる」が、今後は「『絶対安全』から『リスク管理』へ..転回」し、あくまでも原発を推進するという方針を正面に打ち出してきた。重大事故と被曝被害を前提にした強硬推進であり、被曝も被害も受け入れよという許し難い主張である。自らが合唱してきた「絶対安全」に対する自己批判など一切ない。逆に、あたかも国民が「絶対安全」を信じてきたことが悪かったかのように描き出している。まったく無責任な居直りである。
 日本原発史上最悪の重大事故を前に、政府は「事故は起こりうる」と居直るしかなくなっている。政府・科技庁・安全委員会に事故を防ぎ、住民の健康と生命を守る能力はまったくない。居直りの上にしか、原発推進を続けることができなくなっているのである。今こそ、脱原発への方向転換をさせなければ、さらなる重大事故と被曝被害の発生は不可避である。
 「最終報告」を徹底的に批判してゆこう。無責任な内容を広範に暴露宣伝してゆこう。脱原発の声を強めよう。
[1]事故なき事故調査「最終報告」。
事故の実態を隠し、被害を認めず、したがってそれに対する責任も、
補償も一切認めない「最終報告」
 事故調査報告でありながら、事故の事実についてはほとんど何も書いていない。これが「最終報告」の最大の特徴である。どんな事故だったのか、どれだけの住民・労働者がどのような被害を受けたのか、本質的な事項が全部抜けている。

(1)大内さんの死が明らかにした放射線被曝の恐ろしさを無視する「最終報告」

 今回の事故の最大の犠牲者である大内さんの死を通して、われわれは放射線被曝の恐ろしさを改めて知った。免疫機構が破壊され、身体中の臓器や組織が次々と死んでゆく。放射線の恐ろしさは、生命の根本であるDNAをズタズタに切断し、細胞そのものを再生不可能にしてしまうことにある。
 しかし「最終報告」は、その恐ろしさをまったく書いていない。苦しみの果てに命を奪われたという事実について何も触れていない。「きわめて遺憾」という一言だけで済ませている。謝罪の言葉すらない。
 16シーベルトもの高線量を浴びれば、どんな治療をもってしても命を救うことはできない。さらなる犠牲者、第二、第三の大内さんを前提に、政府はなお、原発を続けていこうとしているのである。これ以上の犠牲者を出さないためには、原子力そのものをやめるしかない。大内さんの死を真剣に受け止めるならば、これ以外の結論は出てこないはずである。

(2)住宅密集地でまるで中性子爆弾が炸裂したかのような事故の異常性、一時制御不能となった事故の恐ろしさ、本当の姿がまったく書かれていない「最終報告」

 まるで中性子爆弾が炸裂したかのような異常な事態が住宅密集地の真ん中で発生し、それが20時間も続いた。「地獄のカマ」状態の転換棟の外では誰も何が起こっているか把握できず、どうしたらいいか分からず慌てふためき、もがいていた。途方に暮れた関係者は「臨界事故が起きた−緊急!!!」と、Eメールで海外に対処法を問い合わせていた。パニック状態だった。
 一時的な制御不能状態となった恐ろしさ。いったん事故が起これば、止めることができないという原子力事故の危険性。労働者の決死的な水抜き作業と大量被曝がなければ止めることができなかったという深刻な事態。住民の避難、20万人の「封じ込め」、交通の遮断、封鎖、一切の経済活動の凍結、160億以上の経済的損失等々。このような事故の実態はまったく書かれていない。

(3)住民の大量被曝については一切認めていない。

 「最終報告」は、住民被曝については一貫して認めていない。住民の被曝被害を徹底的に切り捨てている。認めているのは、JCO従業員、動燃職員140名と、わずか7人の建設作業員のみである。それ以外の住民については「調査中」であり、被曝を確定できないとしている。被曝者の数も、被曝量も分からない状態で、なぜ「最終報告」が出せるのか。政府は、被曝問題の一切を、健康管理検討委員会に先送りし、被曝を認定せず、事故調査の幕引きをはかろうとしている。
 今回の事故は大量被曝事故であった。どれだけの人が被曝させられたのか?被曝線量は?生命と健康に対する影響は?これが本当に知りたいこと。必要なことである。安全委員会と科技庁には、何を置いても、被曝量の確定を優先し、大規模な健康調査と医療体制を早急に確立する責任があったはずである。
 しかし政府は、「調査中」「検討中」を口実に、対策をすべてサボタージュし続けている。住民には何も知らせていない。「最終報告」だけは急ぎに急いで取りまとめるが、必要なことは何もしない。これが政府の基本姿勢である。

(4)徹底した被曝線量の過小評価と被害者の切り捨て。「最終報告」は被曝線量の計算を恣意的に操作している。
@ 根拠も何も示さず、改訂の度に被曝線量が値切られている
−最終報告の被曝線量は、中間報告の1/2、
われわれの評価値から1/3も値切られている

 「中間報告」と併せて出された11月4日付けの科技庁の資料では、中性子の毒性を半分に切り下げることになる「実効線量当量」が使用され、大幅に被曝線量が値切られた。そして「最終報告」では核分裂数は変わらず、したがって放出された中性子の数は同じであるはずなのに、11月報告の被曝線量がさらに約1/2に切り下げられている。その結果、JCO敷地周辺の中性子線モニタの実測値に基づいてわれわれが評価した被曝線量に対して、「最終報告」の被曝線量は約1/3もの過小評価となってしまっている。
 報告書が出る度に計算方法が、何の説明もなしに変更され、被曝量が小さくなっていく。被曝量を小さくするため、データや計算方法を恣意的に操作していることは明らかである。
 「最終報告」は、11月科技庁の「中間報告」を、こっそりと何の説明もなしに、大幅に切り下げた。「最終報告」は、どこがどう間違っていたのか、釈明も何もせず、突然これまでの計算方法を削除し、別の方法に置き換え、その結果、中性子の数が変わらないにもかかわらず被曝量を半分に減らしている。
時刻 9/30 16:00 10/1 06:15
距離(m) 11月報告 最終報告 われわれ 11月報告 最終報告 われわれ
80 110 44 202 160 92 294
100 62 25 114 90 53 165
150 21 8.6 38.4 31 18 56.8
200 9.3 3.7 17 13 7.9 23.7
300 2.5 1.0 4.55 3.6 2.1 6.55
350 1.4 0.58 2.54 2.1 1.2 3.82
500 0.34 0.14 0.616 0.49 0.29 0.888
1000 0.0076 0.0031 0.0137 0.011 0.0065 0.0198
1500 0.00031 0.00013 0.00055 0.00045 0.00026 0.00081

A ホールボディカウンタによる線量計算は明らかに不当な過小評価となっている

 「最終報告」は、ホールボディカウンタの値から被曝線量を計算した結果、建設作業員の被曝量は最大15mSv、消防署員は最大12mSv、JCO従業員は最大62mSvであることが「確認された」としている。
 ところが、個人線量計を所持し、さらにホールボディカウンタの検査を受けていた水抜き作業員だけは、「線量は確定していない」とされている。個人線量計による実測値とホールボディからの計算値が大きく食い違っているからである。
 水抜き作業員の中で、個人線量計による最大の被曝量は120mSv。ところが、この120mSvもホールボディカウンタからの計算によると44mSvとなってしまう。約1/3に減ってしまうのである。結局、実測値と計算値のこの大幅な食い違いを説明することができず、水抜き作業員だけは「確定」することができなかったということである。ところが、線量計を持っていなかった人たちに対しては、実測値が存在しないので、約1/3も低い値となるホールボディからの計算値を「確定」値にしてしまっている。ホールボディからの被曝量の計算が不当な過小評価となっていることは明らかである。(この後、1月31日に科技庁が発表した被爆線量では、この水抜き作業員の120mSvも44mSvに大幅に切り縮められている!)
[2]JCO労働者に責任を押しつけ、政府の責任をすべて免罪
(1)政府・科技庁・安全委員会の責任はまったく書かれていない。

 「最終報告」は、今回の事故は、作業工程の無許可の変更と、「逸脱行為」によるもので、政府の安全規制には基本的に欠陥はなかった。したがって責任はなかったとしている。しかしこれは真っ赤な嘘である。
 沈殿槽には、いくらでもウランが入るようになっていた。臨界事故の防止のために絶対必要な、形状と容量制限による規制を政府・安全委員会はまったくおこなっていなかった。申請書には2.4kgづつしか入れないと書いてある。この単なる紙の上の文言を根拠に、安全委員会と科技庁は事故は起こらないものとし、臨界量をはるかに超えるウランが入るような容器を認可し、住宅地の真ん中での操業を認めてきたのである。政府の責任は明らかである。

(2)原子力の無責任体制を作りあげてきたのは政府・科技庁である

 JCOは事故は起こらないとたかをくくり、何をしても許されると思いこんで、平然と法律に違反するような危険な操業を続けてきた。この事故は起こらないという思いこみ、何をしても許されるという状況、つまり「危機意識の欠如」がどうやって作り出されてきたのか、誰に責任があるのか。このことが明らかにされなければならない。
 しかし「最終報告」は、この責任の所在については一切触れていない。「モラルハザード」や「企業の倫理観」等、一般的な道徳論にすり替え、「安全文化の醸成」「安全社会システムの総合設計」「自律分散型プロジェクトの管理システムの開発」「コーポレート・ガバナンス」等々、抽象的な文言を「提言」と称して並べ立て、結局、誰にも責任がないようにしてしまっている。
 事故を生み出したのは、原発推進者の一種の無条件の特権、治外法権とでもいうような特別の扱いにある。マスコミも真正面から批判しない。安全性を後回しにしても原発推進を最優先し、事故が起こっても誰も責任を取らず、罰則もない、批判もされない。まったくの無責任体制である。動燃など、原発・核燃開発の上から下までこの体質が染みついている。JCOもしかりである。この原発推進者という特権とタブーに保護された、あらゆる非難・批判を免れた原発推進体制造りを先頭に立って主導してきたのが政府・科技庁・通産省である。彼らの責任こそ、厳しく問われなければならない。
[3]国民が「絶対安全」を信じてきたことが悪かったかのように描き出し、「絶対安全からリスク管理へ」と称して、事故も被曝も我慢せよと居直る「最終報告」
「いわゆる原子力の『安全神話』や観念的な『絶対安全』という標語は捨てられなければならない。....重要なことは、確率は低くとも事故は起こりうるものとして....関係者はもとより、国民的にも理解される必要がある。このことは『絶対安全』から『リスクを基準とする安全の評価』への意識の転回を求めるものである。」
 これが今回の事故に対する政府の総括である。「安全神話」を作り上げてきた私たちが悪かった。「安全神話」を捨て、これからは心を入れ替えます。申し訳ない。こう政府は反省しているのだろうか?ようやく目が覚めたと政府は言っているのだろうか?そうではない。まったく逆である。自分たちは悪くない。「安全神話」を信じてきた国民が悪い。これが「最終報告」が言っていることである。事故の最大の原因は、社会全体の「危機意識の欠如」にある。「日本人全体」が「安全神話」を信じ、「絶対安全」だとして、事故の危険性を忘れ、「危機意識」を「風化」させてきた。このことが事故を生み出したのだ。「安全神話」を捨てるべきは国民の側である。これが「最終報告」の主張である。
 なんということか。いったい「安全神話」を作り上げてきたのは誰なのか?住民の不安と、反対の声を踏みにじり、「絶対安全」だと言い続け、原発推進を強硬してきたのは誰なのか?政府は、自分の責任をすべて棚に上げ、国民全体に責任を押しつけようとしている。
 さらに「最終報告」は、「『絶対安全』から『リスク評価』へ....転回」すると称して、事故を受認せよと主張している。重大事故と被曝被害を前提にした原子力の強硬推進を押しつけようとしているのである。「最終報告」を受け、安全委員会は、原子力施設のリスクの許容レベルを数値で示してゆくという方針を打ち出してきた。重大事故と被曝を前提にした原発推進への転換である。

         *              *              *

 住民に直接被害を与えるという日本の原発史上はじめての重大事故が起こった。このはじめてのことを受けて彼らは何をしたのか?原子力事故、住民被曝と被害が実際に起こった時、それに対して国がどのような態度を取るのか?「最終報告」が示したように、責任放棄と居直りである。
 このままでは、またとんでもない事故を起こし、被曝と被害を押しつけてくるだろう。「最終報告」の無責任な内容を広範に暴露宣伝し、批判の声を強めてゆこう。脱原発への声を強めてゆこう。


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