難区域住民の切実な声―国会事故調の住民アンケートより

 国会の「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」(国会事故調)の報告書・参考資料には住民アンケートがあります。このアンケートは事故後約1年の2012年3月15日から4月11日に行われました。事故の情報伝達や避難に関して、避難区域が指定された12市町村(双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、浪江町、広野町、田村市、南相馬市、川内村、葛尾村、川俣町、飯舘村)約5万5000世帯を対象に無作為に抽出した2万100世帯に郵送で行われました。約半数の1万633通の回答が寄せられ、避難した人々が思いを語ることのできるアンケートへの関心が高いと感じました。また、自由回答欄や回答用紙裏面、さらには別紙をつけて意見や思いを寄せられた方は8066人になります。
 事故が起きたとき、そしてこれからのことへの思いが込められたアンケートの一部を紹介します。(T)
 (アンケート全体は国会事故調の下記HPで見ることができます)
  http://naiic.go.jp/blog/reports/reference-documents/ref-4-2/

●事故発生を自治体からの連絡で知った住民は双葉町、楢葉町は約40%でしたが、南相馬市、川俣町、飯舘村は10%台にとどまっています。この地区では、テレビ、ラジオ、インターネットからの情報で知った住民が約50%になります。避難指示も南相馬市、川俣町、飯舘村ではテレビ、ラジオ、インターネットからの情報で知った住民が約40%にもなります。

(双葉町の住民の声)
「取り敢えず避難と着のみ着のまま家を後にし、避難先も車で移動中に防災無線で知った様な状態でした。ふだんなら1時間の距離を6時間以上かかって最初の避難所に到着。この間遠くに住む息子から『当分帰れないと思うよ』と電話で言われ、少しずつ現実がわかりかけた様に覚えています。家を追われ、友人、知人と離ればなれの生活がどんなものかわかりますか」

(南相馬市の住民の声)
「南相馬市原町地区は、『自宅待避』のみで、一度も避難指示は出なかった。TVでは、『ただちに人体に影響はございません』ばかりで、不安をあおられるだけだった。事故から、何も変わっていない。除染もまったく進んでいない中の避難解除は、おかしすぎる。私達、地域の人間の事を、もっと考えてほしい」

(飯舘村の住民の声)
「原発事故の初期の情報がこの地域に全く無かった。放射線もIAEAが調査に入った以降に知らされた。TVでは枝野官房長官が『今すぐ健康に影響がある放射線量でない』とくり返し放送していた。これは情報操作のなにものでもなく、飯舘村民は4/22まで(計画避難)になるまで放射線を浴びてしまった。その後の賠償金の支払でも1年経過したにもかかわらず、財物に対する損害賠償もされないまま、避難地域見直しをしてゴマかそうとしている」

●SPEEDIの情報など放射線の情報公開が遅れたため、高線量地域へ避難してしまいました。

(浪江町の住民の声)
「スピーディが公表されず、一番放射線の高い所に避難した事は、一生健康面で脅かされます。なぜ公表しなかったのか人の命を何と思っているのでしょうか。自宅の方もとても住める状態でなく、インフラの整備、除染等難しく、中間貯蔵施設が近く、大きな不安を感じます。原発は、とめるべきです。第2の福島となって住むところがなくなってしまいます」

●事故後何度も避難を繰り返す事を強いられ、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、浪江町では、約70%の住民が4回以上も避難先を変えざるを得ませんでした(6回以上も避難先を変更した世帯は約50%になります)。

(富岡町の住民の声)
「訳がわからず、川内村に避難しろと放送があり、仕度して川内村に向かいましたが、
川内村はいっぱいで違う所に避難先を変更して、三春に着きましたがそこもいっぱいで、本宮の避難所に行かされました。その後も何カ所か移動しましたが、今はいわき市の借り上げ住宅にいます。あれから1年経ちますが私たちはどうなるのでしょうか」

●事故前は事故の可能性についての説明や避難訓練を受けた事のある住民は立地町村でも10%台にとどまっています。

(大熊町の住民の声)
「原発で働いていたので、まさかあんな事になるとは思っていなかった。一時、東電の派遣社員として1Fで働いていた時、当時のチームリーダーに『スマトラ島の様な事が日本で起きたら?』と質問してみたが、返ってきた答えは『ありえない!ありえない事は考えなくて良い』との答えだった。やはり東電、国、町も昔から考えが甘かったのだろうと思う(自分もだが)」


(12/09/13UP)