2005年11月号
 テロを考える 
 
 旗手 明 (自由人権協会)


 7月のロンドンでの同時爆破テロに続いて、10月1日インドネシアのバリ島でも同時爆破テロが実行された。不特定多数の市民を殺害するテロを許せないと感ずるのは、ごく自然な感覚と言えよう。そして、日本政府も別稿にあるようなテロ対策を実施しようとしている。私たちの日常でも、地下鉄のゴミ箱がなくなったり、駅頭に警察官や警備員が立ち、街のそこここにテロ対策実施中の張り紙が見られ「不審者や不審物を見たらお知らせ下さい」と勧められるようになっている。しかし、「テロは悪いことだから、テロ対策は当たり前」ということで済むのだろうか。ここで、ちょっと立ち止まって考えてみたい。

疑われたら弁明の余地なし

 私は、ロンドン・テロに関連して7月22日に武装警官から8発もの銃弾を頭部に撃ち込まれて殺害された無実のブラジル人男性(27歳)のケースと、アルカイーダやタリバンと疑われた者たち500人以上を何ら法律上の根拠がないまま無期限に秘密拘禁し続けているグアンタナモ米軍基地に、テロ対策の究極の姿を見る思いがしている。すなわち、国家権力からテロリストと一方的に認定された者は、何らの反論も弁明も許されず、ただただ人間としての尊厳を奪われ続けるのだ。

 ロンドンの事件では、警察当局がテロ対策として地下鉄周辺に厳しい警戒体制を敷いており、そこにイスラム教徒あるいはアラブ人と思しき若者が通りかかった。何故かひっかかりを持った追跡班の警官が跡をつけたが、特別不審を抱くような行動はなかった。しかし、地下鉄構内にいた射撃班との間で何らかの意思の齟齬が生じて、2度目のロンドン・テロの翌日でもあり、緊張感の高まっていた警察官2人が過敏な反応をして射殺してしまったものと推測される。

 この状況を被害者側から見ると、いつもどおり地下鉄の駅構内に向かったところ、私服で武装した人物(警察官とは分からない)から突然に銃を突きつけられ、あわてて逃れようとしたところ、何らの予告もないまま頭部に銃弾を受けて命を奪われてしまったということになる。そこには、反論や弁明の機会が保障されず、ただ一方的にテロリストと決めつけられ、防御手段を持たないまま国家の暴力装置にさらされた普通の市民がいただけだ。

 グアンタナモ米軍基地には、9.11以降のアフガニスタンへの攻撃に際して捕らえられた、タリバン戦闘員あるいはアルカイダメンバーと疑われた者たちが、2004年末時点で35ヵ国500人以上が拘禁されている。本来、彼らは戦争捕虜としてジュネーブ条約に基づいた取り扱いがなされなければならないが、ブッシュ政権は対テロ戦争における「敵性戦闘員」という曖昧な概念を使っており、条約も国内法も適用していない。裁判にかけられることもなく、何らかの罪に問われることもなく、拘禁理由の開示もなく、弁護士や家族に会うことも許されず、完全に外部から遮断され、いつまで拘禁が続くかも分からない。彼らが、本当に「敵性戦闘員」に該当するのかどうかさえ、何ら客観的な確認手続きは取られていない。

 こうして、あらゆる法の支配が排除された上で、「軍事的必要性」に応じた拷問・虐待がまかり通っている。そこでの尋問には、睡眠剥奪、食事操作、苦痛を伴う姿勢の強要、擬似処刑など、愚劣な方法が使われている。

 これをたまたまタリバンと疑われたアフガニスタン市民の立場において考えてみると、いくらタリバンではないと主張しても、米軍から決めつけられれば聞きいれられることはない。家族と連絡を取ることなどとても期待できず、裁判所で拘禁に対して無実を証明して争うこともできない。身体の自由という最も基本的な人権が、何らの法的手続きもなく奪われているのであり、自由権規約第9条「すべての者は、身体の自由及び安全についての権利を有する。何人も、恣意的に逮捕され又は抑留されない。何人も、法律で定める理由及び手続によらない限り、その自由を奪われない。」に反することは明白である。

 しかし、ラムズフェルド国防長官は、「今は、テロとの戦いという未踏の領域にいる。犯罪者や捕虜に対する従来の規則は必ずしも当てはまらない。」として、法及び人間の尊厳への侮辱を表明している。ちなみに、同長官は、イラクのアブグレイブ刑務所で明らかとなった「裸にする、犬をけしかける」などの不法手段を承認した覚書にサインしていたのである。

「テロ」「テロリスト」とは何か?

 テロ対策としてバイオメトリクスやITを活用した様々な手法が採り入れられてきており、そこにもプライバシー等との関連で多くの問題があるが、テロそのものに対する考え方という点では、テロリストの入国規制問題が試金石になる。

 何故、テロリスト規制を新たに考えなければならないのか。犯罪者であれば、現在の入管法でも基本的に入国を拒否でき、また退去強制できる。それ以外に規制を設けるのは、特に犯罪を行った訳でもないのに、その者の思想や政治的・社会的行動に対してテロリストとして評価するということである。言い換えれば、その者の行為について評価するのではなく、行為者自体を評価するのであり、客観的というより主観的なものだ。

 ここに「テロ」とは何か、という定義の問題が出て来る。テロの定義は、国連でも合意されておらず、説得的な定義は確立していない。アメリカの愛国者法では、「人々の生活を脅かす犯罪行為で、明らかに人々を威嚇、弾圧したり、大量破壊、暗殺、拉致によって政府の活動に支障をきたすもの」とされているが、極めて曖昧かつ広汎である。アメリカではテロリスト・テロ団体のリスト作りが9.11以前から行われていたが、反核運動、環境保護運動、動物愛護運動なども対象として想定されている。EUでは、「政治的、経済的、もしくは社会的構造に深刻な変化を及ぼすことを目的とする」と考えられるものも、テロリズムとみなされるが、極めて広汎で濫用の危険性が高いと言わざるを得ない。このようにテロを定義することは難しいし、また多くの危険性を伴うことはお分かりいただけると思う。

 世界各地に存在する地域的な独立運動は、かつては民族自決権の名のもと武力闘争も当然視されていたが、現在は武力を使えば直ちにテロという烙印を押されることになる。冷戦終結以降、大国がその内にある民族独立闘争を抑圧する論理として「テロ」という用語を活用している側面も見逃せない。

 世界的な言語学者であるチョムスキーがしばしば指摘しているように、国際司法裁判所が国際的テロで有罪を宣告した唯一の国がアメリカである。1990年代のイスラエルによるレバノン侵攻では、レバノンとパレスチナの市民が1万8千人殺害されたが、アメリカはこれを支持した。チョムスキーは、「アメリカ自身がテロ国家の親玉だ」としている。ナチですら、反テロリズムの名のもとに、パルチザンへの弾圧を行ったのである。

 新聞用語では、イスラエルに対するハマスの武装闘争は「テロ」だが、イスラエル軍によるパレスチナ人の殺害は「武力侵攻」と言われる。こうした認識では、テロを本質的に語ることはできない。不特定多数の市民を殺害する点で、両者に違いはない。国家により行われるか、国家以外の集団により行われるかで、被害を受ける者にとって違いはない。「テロ」という言葉には、予め大きな政治的バイアスがかかっているのであり、余程注意深く受け止めなければならない。

 ちなみに、日本における最大のテロ対策は、直ちにイラクから撤退し、アメリカ追随の外交政策を改めることではないだろうか。

|  Site Top  |  Japanese Top  |  Sitemap  |
Solidarity network with Migrants Japan