(創刊:2001年8月18日)
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             メール・ニュース vol.21(2) 発行:2006年1月15日
                            登録者数:333人
               http://www.jca.apc.org/mekiki/index.html 

 おまたせしました。板垣竜太さんによる野島ストーリーの続きです。今回は、
番組作製現場での野島直樹の役割に焦点をあてて、事件の再構成を試みました。
説得力ある筆致で「犯行現場」がまざまざと再現されています。

 ■もくじ■

検証:国会担当局長は番組改変にどう関わったか 後編
                    板垣竜太(メキキ・ネット事務局)

   【1.国会担当局長の「仕事」】
   【2.1月26日総局長試写における役回り】
   【3.1月29日、永田町にて】 以上vol.21(2)に掲載

【4.1月29日試写とその後の関与】
【5.1月30日の行動】
【おわりに】
                  
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検証:国会担当局長は番組改変にどう関わったか 後編

                      板垣竜太(メキキ・ネット事務局)

【4.1月29日試写とその後の関与】

 1月26日試写と29日試写は性格がかなり異なる。26日段階の試写は、教養部中
心で番組を作り直ししている途上であり、24日版からVTRがそっくり入れ替わる部
分もあったりしたことから、素材をラフにつないで、横で解説を加えながら見る
という状態だった。それに対し29日試写は、前日の晩に吉岡部長のOKが出たもの
であり、すでに44分に編集されて、あとは本編集の作業さえ済めば放映できる状
態のものであった。長井氏は、永田CPからきいた話として、26日の試写段階で総
局長らに「できあがったら見ますか?」と尋ねたと証言している。飽くまでも29
日は確認のための儀礼的な試写という程度の意味合いで考えていたという。技術
的に考えても、さらなる作り直し指示があり得るともし想定していたならば、吉
岡部長はその試写を放映前夜の段階に設定しなかっただろう、ということだった。
ところが、実際にはここからさらに大幅な変更があったのである。

 29日夕方に番制局長室での試写に、そもそもなぜ野島担当局長が立ち会ったの
かは分からない。とにかく、この試写後の野島担当局長の関与は本質的なもので
あった。ここで、試写後の状況について、やや詳細に追ってみよう。

 まず試写後、少しの沈黙があった後、最初に「これは全然だめだ。話にならな
い」と言い出したのは、永田町から帰ったばかりの野島担当局長だった。これは、
そのとき現場にいた長井氏が証言しているほか、日放労の調査報告書や、『朝日
新聞』05年7月25日「検証」記事が伝えている。その場には、永田CP、長井デス
クのほか、吉岡部長、伊東局長、松尾総局長がいたわけだが、その中で、最も番
組の内容についてとやかく言える筋合いでないはずの国会担当局長が、番組は
「全然だめだ」と批判しはじめたのである。このことの意味は重大である。

 しかも、その後の「編集」方針の決定段階では、永田CPと長井デスクは部屋を
出ることになる。松尾氏証言では、このときに「私と番制局長と3人で話をしよ
う」と言ったということだが、長井氏証言では「4人」で話をしよう、と言って
いたとのことである。ここでも松尾氏の「野島隠し」の演出が透けて見えるが、
いずれにしても、現場の2人を除く4人(松尾、野島、伊東、吉岡)で、番組変更
の方針が話し合われることになった。

 29日晩の試写後、どのような変更があったかについては、メール・ニュースの
Vol.18で検証したとおり、極めて広範囲にわたる手直しだったといえる。この部
屋の中で、野島担当局長がどの程度の関与をしたのかはまだよく分からない。し
かし、その後、部屋の外のソファで待機していた永田CPに、そこで決められた方
針を指示する役割を果たすことになったのは、なぜか野島担当局長だった。永田
町帰りの国会担当局長が、総局長や番制局長、さらには教養番組部長も飛び越し
て、現場の責任者であるチーフプロデューサーに直接具体的な編集指示を出すな
ど、言語道断である。衆議院総務委員会での答弁でも、野島氏自身が「放送総局
長や番組制作局長がいるところでそのようなこと〔編集指示を出すこと〕はあり
得ません」と言っているし、裁判に提出された陳述書でも同様の主張をしている。
では、なぜそんな「あり得ない」ことが起きたのか。

 今回提出された日放労の報告書(*2)と長井氏の証言によって、その理由が見え
てきた。試写後の番組内容の編集指示(野島担当局長を中心に出されたものとみ
られる)は、極めて広範にわたるものだった。そのため、吉岡部長は、「もうやっ
てられない、放送中止にしてほしい」とまで言い出した。つまり教養番組部長が、
もうそれでは番組にならないと判断し、現場に指示を下すことを事実上拒否した
のである。そうなると、次に職責上、現場に説明する立場にあるのは伊東局長、
その次は松尾総局長である。ところが先述のように、この二人は、政治的な判断
と歴史的な知識が必要な具体的な編集指示を出せるような経験を、どうやら持ち
合わせていなかった。そこで登場したのが野島担当局長だったというわけである。

 日放労報告書(*2)にある永田CPの生々しい言明によれば、この時点での野島担
当局長の指示は次のようなものであった。

「改編の細かな指示は、野島氏から私(永田CP)に局長室前のソファーで逐一伝え
られたのです。時間は1時間余り。決して感想を述べた程度ではありません。そ
のときの私の台本も、残っています。そこには慰安婦の人たちを表現するに当たっ
て、野島氏が『ビジネス(で)慰安婦になった人たちの証言です』と表現できない
かと指示し、私がそれは事実と違うとやりあった時のメモの断片が書かれていま
す。あまりにいろんな箇所が切られた結果、番組のトータル時間が大幅に短くなっ
てしまいました。そこで野島氏は、民間法廷に批判的だった、秦郁彦さんのイン
タビューをギリギリまで増やすことを指示しました。野島氏は『毒を食らわば皿
までというじゃないか』といい、結果として秦さんのインタビューが、常識を超
えるほど長くつなぎこまれました」

 このナレーションの変更指示や、「毒を食らわば…」といった発言などは、野
島担当局長の行ったことがいかに許しがたい行為であったかをよく示している。
代わりに伝えた、というようなレベルをはるかに超えていることは明らかである。
いずれにしても、野島担当局長の番組改変への関与は実に深刻なものだった。

 なお日放労報告書(*2)によれば、この29日試写の時の吉岡部長の台本には、
「フルヤ」「アベ」「アライ」という書き込みが本人の筆跡で残っているという。
これは明らかに、「若手議員の会」の古屋圭司・安倍晋三・荒井広幸である。松
尾氏証言では、この試写時に、部長らに安倍議員らと会ったことなどを伝えたか
どうかという質問に対し、「言った記憶はございません」と言っている。もしも
そうであれば、なぜ台本にこうした具体的な議員の名前がカタカナで残っている
のか。政治家の名前をちらつかせて編集を指示したという証拠ではないのか。


【5.1月30日の行動】

 野島担当局長の番組改変への関与は、29日試写後の指示だけにとどまらなかっ
た。放映当日にも重要な役割を果たしている。これも今回、新たにわかった事実
である。

 これは長井氏の証言にもあり、また日放労報告書にもあることだが、1月30日
の午後、スタジオでアナウンサーのコメント入れ作業をおこなっていたところ、
スタジオに電話が入った。永田CPが電話に対応した。電話でのやりとりの後、永
田CPは、野島担当局長の指示として、VTRのコメントの変更をナレーション担当
の広瀬アナウンサーに伝えるよう指示した。これによって変わった部分は、一見
細かいことのようにみえるが、実はかなり重要なポイントであるため、さらに詳
細に述べてみよう。

 「軍慰安所従業婦等募集に関する件」(1938年)というよく知られた史料があ
る。この史料は、陸軍大臣の命によって通牒されたもので、「慰安婦」募集につ
いて日本軍の関与を示すものとして、92年1月に大きくとりあげられ、日本政府
も関与を認めざるを得なくなる契機となったものである。そのため、秦郁彦氏を
はじめ「つくる会」「若手議員の会」などは、こぞってこの史料の価値を貶める
ため、日本軍が民間業者の不正をただそうとした資料に過ぎないといった解釈を
広めていた。

 「法廷」では、この史料の発見者でもある歴史学者の吉見義明氏がその内容を
専門家証言として解説した。番組では、この部分がVTRで使用されている。1月30
日午前中まで、このシーンへのナレーションは次のようになっていた。

「今回の民間法廷では、歴史の専門家が呼ばれ、『慰安婦』制度への軍の関与を
示す文書が提出されました。」

 ところが、野島担当局長の指示により、放映版では次のように変更された。

「今回の民間法廷では、歴史の専門家が慰安婦の募集に関する文書などを提出し
ました。これは民間の手で慰安婦を集めるときのトラブルをなくすことを目的に
軍が関与したことを示す史料です。」

 これはまさに「若手議員の会」をはじめとする団体の主張する解釈のラインを
強調したものである。そのような具体的な指示が、国会担当局長から出たことは、
極めて政治的な判断に基づいた番組への介入であると評価せざるを得ない。

 しかも、放映当日の関与はこれだけで終わらなかった。放映直前に、放送総局
長と伊東番制局長の判断で3カ所がさらにカットされ、40分版の番組になってし
まったことはこれまでも知られていたが、ここにも野島担当局長の影がちらつい
ているのである。

 3カ所カットの方針は、総局長室でまず吉岡部長に伝えられた。吉岡部長は、
もう時間的にシーンを追加するのは不可能であることなどを理由に反対したが、
「最終判断」「責任は私がとる」といった総局長のことばで押し切られた。この
時に野島担当局長がどう関与したのかは今のところ不明である。しかし、問題は
この後である。

 吉岡部長は、電話でこの方針を永田CPに伝えた。納得のいかなかった永田CPは
総局長室に抗議しに行った。この時の模様について、日放労報告書(*2)は、次の
ように述べている。

「永田CPによれば、総局長室を訪ねると、松尾総局長、伊東局長、野島担当局長
の3人がいた。永田CPは、「こんなことをしていいんですか。なぜ一番大切な元
慰安婦の証言部分を切るのですか。やって良いことと悪いことがあります。こん
なことをするとNHKが深手を負いかねません。お願いです。考え直してください」
と訴えた。すると松尾総局長は、「私が放送の責任を取る。私が納得する形で放
送させてほしい。今後の責任の一切は私がとるから」と答えた。伊東局長は終始
泣きそうな顔をしながら黙っていた。野島担当局長は、「君が一生懸命で真面目
なのは分かった。でも、もう決まったことなんだよ」と言ったという。」

 なぜ、永田CPが抗議しに言った時に、野島担当局長が同席していたのか。この
点について、松尾氏は裁判で尋問されると、「わりかししょっちゅう野島は来て
いましたので〔…〕何を言いに来たのか、私の記憶にはありません」と、曖昧な
証言をしている。たまたま来ていただけなら、なぜ永田CPに「決まったことだ」
などと釘を刺すような発言までしなければならないのか、不可解ではないか。


【おわりに】

 このように、野島担当局長は、1月25日頃から放映当日の1月30日までの節々に
顔を出し、番組の内容変更に本質的な部分で関与した。こうした諸事実から浮か
び上がってくるのは、野島担当局長の能動性である。いや、より正確にいえば、
永田町のタカ派を極度に意識し、それに適合するためにありとあらゆる手を使う
「能動性」である。しかしながらNHKは、裁判等では徹底してこの関与を隠蔽しよ
うとしている。松尾証言の「トロイカ」という表現などは、この隠蔽のための典
型的なキーワードである。それだけ、国会担当局長の番組改変への関与は「ヤバ
イ」部分だと自覚しているあらわれかもしれない。この点を明らかにし、徹底的
に膿を出していかない限り、自らすすんで政権与党の意に添った番組づくりをす
るようなNHKの体制は存続するだろう。NHK内部から、幹部とは異なる事実認識が
表明されるようになってきたのは、ひょっとしたら変化の兆しなのかもしれない。
遅きに失したということはない。事件の全容解明こそが緊要の課題である。真相
究明、責任追及のないところに、「再生」などはあり得ない。       
  
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                       (21号編集担当・岩崎稔)

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│発行= 2006年1月15日                        │
│発行所=メキキ・ネット事務局                    │
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