(創刊:2001年8月18日)
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┏━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┓
★メディアの危機を訴える市民ネットワーク┃メ┃キ┃キ┃・┃ネ┃ッ┃ト┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┗━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┛
                      メール・ニュース vol.11(4)発行:2003年 2月12日
                            登録者数:334人
                              http://www.jca.apc.org/mekiki/index.html


      ▲▲▲お待たせしました! 車座討論集会の報告特集!▲▲▲
 ▼▼▼▼ 2002.12.21「メディアのどこかに希望はあるの?」  ▼▼▼▼


 みなさん、お待たせしました! 今号は、昨年12月21日に東京で開かれた緊急
車座討論集会「メディアのどこかに希望はあるの?」の報告です。昼過ぎから開
かれた会は6時間におよび、6名の話題提供者による話とその後の議論が続きま
した。記録をまとめた事務局の吉田さんの序文のあと、報告記へと続きます。
(め) 


《目次》
■ 報告記―はじめに  ――――――――――――――――事務局・吉田俊実
■ 第1部:話題提供 
(1)「日朝」問題 …………………………… 李孝徳、板垣竜太
(2)「イラク」と「有事」…………………… 太田昌国、鵜飼哲
(3)「教育改革」と「心のノート」………… 福島博子、大内裕和
■ 第2部:議論

*********************************  1  ***********************************

■【報告】メディアのどこかに希望はあるの?
  ――――ジャーナリスト・研究者・市民による緊急車座討論集会―――■ 
					
                                  吉田俊実(メキキ・ネット事務局)

 記録をまとめながら、討論会の熱気をふたたび感じることができました。外界
ではなぐりつけるような雨が降るなか、四十数名がメディアについて語り、メディ
アについて憂い、怒り、嘆いた数時間でもありました。しかし、私たちは一体ど
のような立場からメディアについて語っていたのでしょうか。

 討論会のタイトルへの言及が参加者から一度ならずありましたが、「ジャーナ
リスト・研究者・市民による緊急車座討論集会」と銘打ってみたものの、じつは
この区別そのものがかなり怪しいものであることも、私たちは気づかざるをえな
かったのです。 たとえば、「ジャーナリスト」は情報の発信者ですが、まぎれ
もなく、さまざまなメディアの受け手でもあり、「研究者」、「市民」もまた情
報の発信者になる局面がさまざまにあるはずなのです。とくにインターネットを
通して、情報の発信者にいつでもなれるということにもっと意識的になるべきで
しょう。

 パソコンとやっとの思いでお付き合いしている私などは、情報源は紙媒体、あ
るいはTVなどと捉え、その影響力はすざまじいと実体化しがちなのですが、その
ようにメディアを自分の外側へ置いてしまうことは、潜在的な発信者、表現者の
一人としての「責任」を回避することになっているのかもしれないとも思うので
す。

 組織のなかでつぶされた記事をインターネットでゲリラ的に流すことはできな
いのか、という意見もありましたね。私たちが作り上げる「オールタナティヴな
メディアの可能性」にもっと議論が及んでもよかったかもしれません。

 もちろん、そうは言ってもマス・メディアへの依存度はいまだに高く、個々の
ジャーナリストがその良心において表現した内容・情報をマス・メディアを通じ
てきちんと受け手に伝えることができる、受け手は知ることができる、そのよう
なシステムの必要性もやはり痛感しました。

 メキキはETVの改ざん事件に端を発して出来たネットワークです。この事件に
関与したジャーナリストたちを思い起こすと、改ざんに抗議し、その全容を公表
するために職を辞された方もいました。「女性国際戦犯法廷」を伝えようとした
番組制作への高い志をみずからドブに捨ててしまったように見える人もいます。
結果的にはジャーナリストとして、まったく正反対の道を選んだように見えます
が、最初の志はそうかけ離れたものではなかったはずです。 

 ジャーナリスト個々人の「覚悟」を応援するとともに、ジャーナリストが構造
的につぶされ組織を離れざるをえないとしたなら、良心を捨てないと組織にとど
まれないとしたら、ジャーナリストの置かれているその構造そのものをなんとか
しないと「メディアに希望はあるの?―ないのよ」ということになってしまいそ
うです。 

 構造的に右傾化しているマス・メディア内にどのようなシステムを導入すれば、
私たちはマス・メディアを取り戻すことが出来るのでしょうか。ひとりひとりが
「受信者」「発信者」として何ができるのでしょうか。しっかりと考えて行きた
いものです。

********************************* 2 **********************************

■ 日時:2002年12月21日(土)1時より6時(時間超過でほぼ7時まで)
■ 場所:東京外国語大学本郷サテライト

■ 第1部:話題提供 (要点のみ要約)
(1)「日朝」問題 ……………………………… 李孝徳さん、板垣竜太さん
(2)「イラク」と「有事」……………………太田昌国さん、鵜飼哲さん
(3)「教育改革」と「心のノート」…………福島博子さん、大内裕和さん
  第2部:議論

******* 第1部  *******

◆(1)「日朝」問題 ……………………………… 李孝徳さん、板垣竜太さん
<李さん>
「日朝」問題をメディアの問題としてとらえると、報道は拉致被害者に集中し、
北朝鮮をめぐる「日朝」の歴史性がまったく欠落している結果、家族主義、排外
主義を助長するプロパガンダとなっている。朝鮮人学校生徒への暴力などは、そ
のような報道を背景として起きている。 

<板垣さん>
報道のフレームの問題(鵜飼さんの論考から触発)。「日朝」報道に関しては、
例えばフレームの内側には日本人の被害の物語は詰め込まれるが、日本人の加害
の物語は外側におかれる。フレームの内側にある限りは何でもありで、不必要な
ほど細部まで情報が提示されるが、フレームの外側の諸問題については全くとい
っていいほど情報がない。「それはそれ、これはこれ」で、ではいつになったら
「それ」は論じられるのか。このようなフレームは一体誰がつくり出しているの
か。視聴者か、現場か、デスクや上層部か。ETV問題でも「編集権」の問題が浮
上してきているが、戦後マスメディアの構造の問題だといわざるをえない。

◆(2)「イラク」と「有事」……………………太田昌国さん、鵜飼哲さん
<太田さん>
ラジオとテレビというメディアの比較をしてみると、事前調査と録画が基本とな
るテレビは、生収録が基本のラジオよりも検閲や自己規制、自粛がかかりやすい
媒体である。出来事を報道との関係をさまざまな角度から(たとえば、国際情報
網など)検証しなければならない。批判的報道、分析的報道もないが、誰かの発
言をそのまま載せるのではなくアイロニカルに載せることによってその発言の真
意を暴くといった能力もメディアは失っている。報道に見られる分析能力の欠如
は大衆運動の力の弱さの反映であり、我々の責任でもある。

<鵜飼さん>
世論とメディアはフレームの問題でもあり、同じ時期に「別の」フレームがなけ
ればならないが、ひとつのフレームからしか報道されない。誰もが「アメリカ」
からものをみている。また、レトリックの問題が大きい。部分を全体としてみて
しまう(みせてしまう)「報道」を受けとる側。イスラエルのユダヤ人に反対す
る人間は「ナチス」と同じ、という言い方にみられるように、すべてのレトリッ
クは暴力である。

◆(3)「教育改革」と「心のノート」…………福島博子さん、大内裕和さん
<福島さん>
「心のノート」は実質、戦後初の国定教科書である。「心のノート」の構成は
「自分」「他」「自然」「社会・国家」との関わりを軸としている。子どもの時
から「目標管理システム」で自己管理させられながら、しだいに「自然への畏敬」
から「神への畏敬」、更には「国家への帰属意識」を高めるように設定され、最
終的には「国家のため」という目標に自分を合わせるようになっていく仕組みが
恐ろしい。ジェンダーの面では情緒的なものを表す時には「女子」、決意などを
表す時には「男子」が登場するとも指摘されている。使用している教員はまだ僅
かだが、今後、国立・広島攻撃の手法=○○新聞や週刊誌、右翼議員を動員して
の狙い撃ちによって現場での使用強制が行われることは確かである。教育基本法
第10条では、「教育行政は条件整備」に徹するはずなのだが、現状では「教育
委員会の監督権」を持ち出すことで教育内容にまでの口出しが横行している。

<大内さん>
2002年夏に愛媛県では、公立一般中学としては全国で初めて「つくる会」教科書
採択が決定した。一連の「教育改革」の背景として中曽根から小泉へとつながっ
ている新自由主義と国家主義の流れがあり、1999年の「国歌・国旗法」の成立は
ナショナリズムの浸透と同時に異論の排除を示すものでもある。さらに、「心の
ノート」から教育基本法「改正」(最悪の場合、2003年通常国会で成立の可能性
も)へと向かっている。55年体制とそこでの敗北によって成立している現状に対
して、新しい質の運動をいかにつくっていくことができるかに今後がかかってい
る。 

::::::::::::::::::::::::::::::::::::

【「日朝」問題―「イラク」と「有事」―「教育改革」と「心のノート」。メディ
アとの関わりのなかでなされた問題提起に対して、メディアの現状への批判とと
もに、「どうジャーナリズムはあるべきか」「視聴者はメディアに対して何がな
しうるのか」、この2点に討論が集中した感があります。特定の所属やお立場を
推測させる内容を公にはしないお約束が参加者の方々との間にありますので、討
論の一部のみの要約を記録とせざるをえないことをお許しください。】 

******* そして、第2部の議論に *******

◆ NHKの記者たちにおいて際だっているが、家族を食べさせられないなどとし
ながら、組織内での改善行動の可能性を否定する。家族は実際にそんなことを言
っているのか疑問。言い訳にしか聞こえない。家族は辞めてもいいと言っている
かも。一年ぐらいブラブラしていても大丈夫なジャーナリストの相互保険構想
(有志による)。これが実現したら言い訳は通用しない。
 近年右派の人の方が活発。非常にフットワークがいい。これに対して、左派も
フットワークを軽くするべき。例えば朝鮮日報の不買運動とか。非常事態には、
適度に過激になるべき。品が良くては駄目。

◆ ジャーナリストの権利が規制されているのは明らか。「はらをくくればよい」。
手段を選ばない。 

 ◆ 『週刊金曜日』への非難は、「メディアスクラム」対策の約束事を抜け駆
け的に崩したという思いから起きた。この「メディアスクラム」問題は和歌山カ
レー事件が端緒。以降、家族や被害者への直接取材を回避。「メディア3法」へ
の危機感が自主規制につながっているが、これが結果として国家のメディア規制
と軌を一にしてしまっているような構造がある。国家に対する臆病さ。
 批判は出来ても、どうすれば変えられるのかは、未だ判らない。著作権、メディ
ア3法にしても、法律が問題を巡るキー。システムを分析するなど法律の専門家
がこういう問題を考えるには必要。メディアの問題を構造、システムの問題とし
て考えなければ、メディアへの批判、メディアの萎縮という堂々巡りに終わって
しまう。

◆ たとえ『週刊金曜日』であっても、メディアの基本的な問題は克服できてい
ない。 NHKには、社内民主主義はない。民放には、ジャーナリズムがない。見
識を持ったジャーナリズムが日本では成立していないと言わざるをえず、たんに
視聴者の欲しがる情報を垂れ流す情報産業でしかない。 批判をしてもこの声は
メディアの内部に届かない。メディアだけではなく、教育への批判が教育の現場
に届かないのと同様に、自浄能力がない根拠のないプライドが高い硬直した構造
が問題。
 「女性国際戦犯法廷」番組の裁判問題について、 NHKの中では一切議論がない。
NHKの中では、比較的良心的番組を作ってきたスタッフにも、自由討議の保証が
なされていない現状。批判する側はもっと知恵を絞るべき。<メディアのどこか
に希望はあるの?について>希望はないの?と言われても、現実世界にはメディ
アがある。その立て方ではなく、とにかく希望を創り出さなくてはならない。

◆ 現政権が、今度の(北朝鮮問題の)外交を有利にどんな風にもっていこうと
しているのか、という分析が「北朝鮮問題」から欠落しているのではないか。現
実にある重みを見れば、テレビ視聴率は、まともな番組が低いのが当たり前。サ
ラリーマンジャーナリズム。突き詰めて考えようとしない、思考停止状態。

◆ ジャーナリストの法的、社会的自由を市民社会がバックアップすることが重
要である。

◆ ジャーナリストの自由を保障する法律の整備という意見があったが、もうこ
れ以上法律は作るべきではない。今までの法律で十分に出来る。それを活かすこ
とで十分闘える。

◆ 記事に対して、左派や市民から圧力を掛けて欲しい。戦後民主主義の市民か
らいい意味で圧力を掛けて欲しい。戦後民主主義を守る側からの運動が少ない、
足りない。

◆ 学生は新聞をそもそも読まない。一方で『作る会』の本は書店で平積みにな
っている。こういう状況を直視すべき。大衆の不満はうっ積しているのに、それ
を排外的批判を展開する『作る会』が引き受ける構図になっている。

◆ フランスの場合ジャーナリストの記事、地位、当然守られている。記事が掲
載されなかった場合の生活保障もある。組織内でのジャーナリストの自由を守る
ことが日本でも必要。アイデアを持ち寄ろう。ボツ記事のweb上での公開、署名
記事を増やさせること、琉球新報などのメディアを読んで比較・批判する視点を
持つこと。「この記事よかった」と評価することも。いろんな切り口が出された、
自分でも整理したい。 

◆ ジャーナリズムを有効にするためには何が必要か。@「表現の自由」:あり
方と「現場」の記者の立場 A「メディア」の問題:情報を受け取る側の批判的
視点。 

◆ 教育現場では「心のノート」の問題はタブーに近く、批判的に扱うメディア
も皆無である。巧妙に作られている分、きちんとした内容分析が急務。

◆ 表現の自由に関して。「編集権」がNHKや組織の側の編集権になってしま
っている問題。 もうひとつはメディアの問題で、メディアとその外側を取り巻
く市民の役割の問題。

◆ 大手メディアと違った形での発信をどうやっていくのか。地域レベルでのメ
ディアの攻防がある。地域レベルでの防犯意識の問題や、行政文書の問題など。
外国人犯罪を強調して地域レベルでの「治安立法」ともいえる状況が作られてき
ている。

◆ 「制作者に突き刺さる批判を」という発言があったし、そうしたいけれど制
作者と発信元が異なるという問題がある。NHKが「ドキュメンタリー・ジャパ
ン」に責任をとらせたように、責任リスクを分散させて本体は生き延びる。「編
集権」とは「検閲」そのものだ。産業構造自体がこうなっているなかで、オール
タナティブをどう作り上げていくのか。ボツ記事をまとめてインターネットで流
すとか?

◆ 広告代理店の存在はどう関わるのか知りたい。これらは「スペクタクル的権
力」とでも言えるもの。アカデミシャンは自由に批判できる位置にある。 

◆ 小林よしのり『戦争論』の流行で考えるのは、戦後左翼の中で自らの過ちに
気づいた人が多いのではないかということ。安保の敗北、連合赤軍事件、89−91
年のソ連、東欧の崩壊で発言していた人が黙ってしまった。より深刻なのは主体
の問題。北朝鮮について自分たちが何をやってきたのか自己検証しないといけな
い。自分たちがだめだったことを自己批判しないといけない。「アカデミシャン
は自由に批判できる」というのは間違い。産学協同などの影響を実際に受けてい
るではないか。 

◆ 拉致被害者の家族会を「救う会」が囲っている。メディア側に「救う会」を
批判すると取材ができなくなるのではないかという自己規制がある。週刊金曜日
を読んで曽我さんが「怒っている」と県議が伝えたが、実際の状況は相当違って
いたのに、その自己規制の結果、批判検証的な情報が伝わらなかった。

【余談ながら、40数名の討論会参加者のうち、2次会は31名が出席するという大
盛況ぶりでした。 みなさん、豪雨のなかを本当にありがとうございました。】

                    (文責  吉田・村山・坂本・小林)
**********************************************************************

■みなさんからの御意見・御感想、なにより投稿をお待ちしています!

                     (メキキ・ネット事務局一同)

◇─────────────────────────────────◇
│発行= 2003年 2月12日                                             │
│ 発行所=メキキ・ネット事務局                                    │
│ ホームページ: http://www.jca.apc.org/mekiki/index.html         │
│ 電子メール: mekikinet-owner@egroups.co.jp                      │
│ FAX: 020-4666-7325                                          │
◇─────────────────────────────────◇