■■■ 第12回国賠ネットワーク交流集会講演 ■■■
                                                                         

         弁護士任官者からみた裁判所  


                    2001年1月24日

田川 和幸

---はじめに---

 私は,31年間弁護士をしておりまして,奈良弁護士会という小さな弁護士会ですが,1980年度から3年間その会長,1988年度には日弁連副会長をさせていただきました。その間に最高裁が地裁の小さな支部や簡裁を統廃合する施策を押し進めましたが,私は,余り使いたくない言葉ですが「過疎地」の裁判所をそのようになくしていいのか疑問をもちまして,弁護士界では弁護士が一人しかいないか,一人もいない地域を「ゼロワン地域」と呼んでいますが,「ゼロワン地域」の裁判所で裁判官になりたいと希望しまして,1993年から判事になり,8月間京都地裁,1年間奈良地家裁葛城支部に勤務した後,希望どおり淡路島の洲本と奈良の五条で地家裁の裁判官が一人しかいない支部に赴任して参りました。そして,1999年定年で5年半の判事生活を終えたものであります。
 淡路島は震災後間もないころでしたが,「司法サービス」が必要だとの観点で,神戸(現兵庫県)弁護士会に対して,法律相談所を洲本に設置していただくように働き掛けるなどの努力も致しました。
 このような経験に基づいて,皆さんにお話をするわけであります。

---私の任官に対する元裁判官の意見---

 昨年11月,元最高裁判事園部逸夫さん,元東京高裁総括判事山下薫さん,東京都立大教授前田雅英さんの鼎談から成り立った『21世紀の司法界に告ぐ! 司法の近未来』が発行されておりますが,この本の中で,山下さんが私の任官について触れておられます。それによりますと,「田川氏の例をみますと,民事も,刑事も,その気になればできるかなとは思うんです。ただ,勤務期間はわずか5年間ですし,しかも支部という,特別小さな裁判所ばかりでやってこられましたから,合議の経験もほとんどないし,裁判官本来の勤務形態からしますと,やはり異例に属すということになります。難件に遭遇して,四苦八苦するという経験はまず,得られないと言えるでしょう」と言うものであります。
 この指摘には,私にとって2つの意味があると思います。
 1つは,特別小さな裁判所ばかりで勤務して,合議の経験が少ないことを自覚して,謙虚さをもって発言をしなさいとの指摘であり,それは私にとって心すべきところであると思います。
  もう1つは,弁護士任官に対する否定的な立場からする,事実に基づかない過少評価だという面もあると考えています。先程の山下さんの言葉に続きまして,前田さんが,「制度として『弁護士から裁判官をつくる』というふうに捉えた時に,合理性に問題がある」と言っておられます。また,園部さんも,「(裁判所は)蛸壺社会ですから,…まずそこの中で慣れなきゃいけません。いわゆる「流儀」というものがありますから,その流儀に完全に入り込めるかどうかで,だいぶ違ってくると思いますね」と発言しておられます。いってみれば,司法制度改革審議会が裁判官に多様性が要ると言っているにかかわらず,郷に入れば郷に従えという観点があるわけであります。これも,婉曲な言い方ですが,弁護士任官制度批判と言えましょう。
 確かに,私は,山下さんのご指摘のとおり,合議の経験は8カ月,合議判決を自ら起案した経験は1件しかありません。
  しかし,民事事件は,私が着任するまでに5年以上を要していた事件を13件判決してきましたし,その中には8年以上を要していたものも3件ありました。また,私が生まれる前に破綻して,1936年に破産宣告があったある地方銀行の破産事件の処理に取り組み,報告集会・終結決定は次期支部長に残しましたが,長らくキャリア裁判官がほっておいた事件を解決に導いてきた経験もあります。
 刑事事件も,一人支部も合わせると,5年間刑事裁判に関与してきた経験をもっておりますが,特に,填補という形で合計1年3カ月間京都・奈良の本庁の事件を担当致しました。中でも,奈良本庁では,1年間週1日填補に行くだけで,私が着任するまでに5年近くを要した長期裁判も,同じく 2,3年かかっていた否認事件の裁判も判決し,手持ち事件数を着任時の半分にしてきました。このようにできたのは,弁護士経験と,是非私に判決をしてほしいという弁護人からの希望が多かったことによるものです。
 キャリア裁判官にも能力に様々ありますが,私は普通のキャリア裁判官に比して遜色なく事件を処理できたと思っております。その意味では,難件かどうかの評価は他人に任せるとして,一件一件の事件を大切に扱ってきましたし,控訴審に移行してからも税務官僚出身の調査官を用いてすら2年以上要された刑事事件もありましたから,中には四苦八苦するという経験もあったと考えています。
 なぜ, このようなことを長々と申し上げたかと言いますと,このような発言をされる山下さんの意識は,ナマの事実に基づかないで,如何にも事実に基づくかのように判決を書くキャリア裁判官にふさわしいものと感じるからであります。山下さんは,私が辞令をもらった任地や在任期間から考えて,お話になっておられるのでしょう。そして,私が,本庁の刑事を担当したり,キャリア裁判官が50年以上もほとんど手をつけて来られなかった戦前の破産事件について,倉庫一杯の記録を殺虫をしたうえ虫干しして取り組んできたりした,そんな執務経験を確かめもしないで発言されたものと想像します。そこで,改めてキャリア裁判官の意識の問題と結び付けて,ようここまで言われるなと考えてしまったのであります。

---裁判批判の高まり---

 ところで,最近裁判に対する各界各層からの批判が一段と高まりました。
 くわしく申しませんが,「分かりにくい裁判」や「非常識な判決」と指摘する声も大きく,国民が裁判所を利用しない実情が「2割司法」という言葉によって,相当幅広く市民に浸透しています。
 司法制度改革審議会の委託により,2000年9,10月に全国16地裁で1審の民事裁判を経験した 591人に直接面接して調査したものを,審議会が2001年2月13日に公表したアンケート結果によりますと,そのうち,56.6%の人が裁判所は利用しにくい,39.6%の人が裁判所は紛争解決機能を果していない,32.8%の人が今の裁判所制度を不公正だと感じていて,今の制度に満足している人は僅か18.6%にすぎなかった,4分の1の人が裁判官の常識性に疑問をもっていた,ということであります。

---矢口洪一元最高裁長官の採点---

 また,最高裁人事局長,事務次長,事務総長,最高裁長官を歴任し,長く司法行政に携わってこられた矢口洪一さんは,1999年11月に開かれた第17回全国裁判官懇話会で, 裁判官を前にして,戦後「日本の司法を採点しますと,及第点はいただけないのでないか。」「落第点というのは少しひどいかもしれませんから,60点ぎりぎり,その辺を上下しておったのでないかという気がいたします」と述べております。

---最高裁の「裁判官制度の改革について」---

 このように,国民の裁判への満足度は極めて低いのでありますが,具体的に申しませんが,裁判官の自己満足度は極めて高いのであります。
 しかし,最高裁が平成13年2月19日に審議会に提出した「裁判官制度の改革について」では「裁判所法42条においては,判事補の他に検察官,弁護士,大学教授等からも判事に任命できることとされているにもかかわらず,実際には,わが国の下級裁判所裁判官は,司法修習を終了した者の中から任命された判事補と,判事補の中から任命された判事とが,そのほとんどを占めるという実態になっている。このように裁判官の給源が事実上単一化していることは,裁判官となった者が互いに切磋琢磨して成長していく上でも,また,裁判所全体としての組織の硬直化を防ぐ意味でも,決して好ましいことではない」と,裁判官制度の現状について,その否を認める記述をしております。

---私から見た裁判官---

  そこで,31年の弁護士経験を踏まえて弁護士任官した私から見た裁判所についてお話するのですが,まず,キャリア裁判官のどこに問題があるのか,私が感じた幾つかを指摘することに致します。

---裁判官の社会的経験---

 まず,裁判官の社会的経験不足が気になります。これに対し,新聞や法律雑誌に掲載されたところや,最高裁広報課長のテレビ談話によりますと,キャリア裁判官は「赤提灯にも行くし,カラオケにも興じる」「弁護士よりも多くの事件の処理を通じて社会的事象に接することができる」など反発する声が聞こえてきます。しかし,私からしますと,裁判官の社会的経験のなさ批判をこの程度の批判と理解していることに著しく疑問を感じるのであります。

---社会経験不足---

 確かに,司法試験予備校から司法修習を経て直ちに判事補に任官した裁判官は,学生時代に幅広く司法試験科目以外の勉強をしないし,ボランティアにも参加していません。当然,社会経験が不足し,常識に欠けやすい傾向をもっていますという指摘ができると思います。元検事の河上和雄さんは,「大学を出てただ司法試験に合格しただけの裁判官に過大な期待をするのは誤りであろう。法律試験の答案を良く書け,抽象的知識に富む裁判官が必ずしも事実認定に優れている保証はなく,むしろ心に傷を持たぬ者の傲慢さが,理論だけあって事実から遊離する危険を産み出していることをしばしば経験することであろう」と書いております。
 現在の裁判の仕事の大部分は事実の認定ですから,その指摘のとおり裁判官の判断が事実から遊離することは,大きな問題であるわけです。

---依頼者経験のなさ---

 ただ,私から見ますと,それ以上に問題と思いますのは,キャリア裁判官に依頼者経験がないことであります。「依頼者を勝たせてやりたい」,これは表現が悪いかもしれません,「依頼者と友に勝ちたい」と思って事実をみることと,「どう判断しようか」という立場から事実をみることでは,精神的な負担が全然違ってきます。「どう判断しようか」とばかり考えている方が「公正」という見方があるでしょう。しかし,判断される当事者には,その事件に,地位や身分や社会的影響などの全部がかかっています。弁護士は,そのことを当事者から強く印象付けられて,裁判に関与しているのです。私の場合,3人の奈良県職員が共に自白または自白らしい供述をさせられて,収賄で起訴された事件の公判弁護を担当したことがあります。結局控訴審で3人とも無罪になりましたが,冤罪を主張する被告人が何年も裁判を受ける間の,特に公務員で休職になっている,精神的負担は大きいものがあります。その精神的負担をどう和らげるか,カウンセラー的役割も必要ですが,何よりも,弁護人自身が無実を裏付ける証拠をどう集めるか,有効に用いるには,いつどういう立証趣旨で裁判所に提出するか,色々気遣いしなければなりません。この事件では,贈賄者の関連事件で押収されていた村の会計書類の閲覧を検察庁が弁護人に許しませんでした。そこで,私は「村の決算に必要な書類だから,還付される時期がある。その還付された機会に早く閲覧に行って,何か役立つものがあるか,検討してみよう」と考えました。そして,その閲覧の結果,被告人が書いた2枚のメモを見つけ,それが有力な証拠になって,無罪に結び付けたことがあります。私は,この無罪確定に至るまで,何年も苦労しましたが,そのような経験がキャリア裁判官にありません。したがって,刑事事件を扱っても,証拠開示の決定や自白調書の任意性を判断する基準が理屈にすぎ,捜査・公判を担当する弁護人の意識と大きく異なる結果になっているわけで,刑事事件に関する国家賠償事件を戦っておられる皆さんがよくご承知のとおりであります。
 弁護士経験をもっている良さは,何よりもこのように依頼者の立場を知っていることであります。

---当事者と心を通わせた経験のなさ---

 また,裁判は,記録だけで判断を強いられるという面があります。当然,裁判官が当事者と心を通わせ合う機会がほとんどありません。そこで,いつも皆さんがテレビで判決報道の際に見慣れておられるように,裁判官は同じ印象を人々に与える顔をしておられますが,顔だけでなく,意識も同じ傾向になっていると感じます。そんな人間関係を持つ機会のない裁判官を,私は気の毒に思ってしまうのであります。 
 そして,こんな生活を何十年もさせるキャリアシステムが,若い裁判官を,普通社会で見かける以上に人間臭い当事者が多い裁判に対応することができる人間に育てられるのだろうかと,疑問に感じているのであります。

---自分で証拠を集めた経験のなさ---

 また,裁判官は法廷に出された証拠だけで判断することが義務づけられていますから,証拠のもつ意味が全く違います。日本裁判官ネットワークの裁判官が出した『裁判官は訴える』の中に,裁判官が自転車が事件現場をそっと見にいく話が書かれていますが,そんな裁判官はまずありません。
 弁護士は,自分で証拠を集めた経験が,事実を認定するうえで大きな支えになっています。そこで,弁護士任官者の場合,あそこへ行けばこういう証拠がある,こういう方法を尽くせば新たな証拠が見つかると,裁判をしながら,しばしば思える訳であります。
 それでも,自ら探しに行くわけにいかない,当事者に多少示唆しても,ちゃんとした対応がない場合もありますから,不明の点を不明のまま出来るだけ触れないようにして書ける文章を模索して,裁判書きを作成するということになってしまいます。
 弁護士任官者の,そのことに対する不安・不満は,大きなものでありますが,弁護士任官者に比し,キャリア裁判官は,そんな思いをすることなく済んでしまうことが多いように思うのであります。

---ナマの事実に触れた経験のなさ---

 ジュリスト2000年2月15日号に書かれたエッセーで,弁護士の滝井繁男さんは,「(裁判官が)事件を通じて知り得るのは,当事者の手によって整理された判断資料として裁き手用に出された限られたもので,社会的経験というより職業上得た知識というべきものにとどまるのでないかと思う」と書いておられますが,このように,ナマの事実でなく,当事者が料理した事実でも,裁判官として職業上扱うと事実認定能力を身に付け得ると自負されているところに,キャリア裁判官の問題があると思います。
 その上,裁判官は,当事者の利害に気遣いすることなく,自分の思うまま判決を起案したり,和解を提案したりして仕事をすることができますので,気が楽でありますが,若い時からこんな生活に慣れていては,よほど努力して「ナマの社会的事実」に触れる必要を自覚しません。そこで,経験のなさを埋めることができないのであります。

---主張をしなくてはならなかった経験のなさ---

 加えて,当然の話をするわけですが,弁護士は,当事者から聞いたり,自ら集めた証拠で分かった事実から,どういう構成をして裁判で主張するか,必ず考えなくてはなりません。そこで,多くのナマの事実を前にして,どういう主張をしようかと,日頃から自分の力で主張を考える習慣ができています。
 そのため,任官しましても,ナマの事実はどうなんか,当事者代理人がどんな事実の整理をしたのか,とついつい考えてしまいますが,キャリア裁判官が,そんなに当事者代理人の訴訟準備の姿勢とか問題意識について考えることが少ないと思います。
 それが,裁判官が常識とかけ離れた判断をし,世間知らずと言われる大きな理由になっているのではないかと考えます。

 ---批判された経験のなさ---

 弁護士の場合,裁判所や依頼者,ときには相手方弁護士からも批判されるという機会があります。また,倫理的に問題がある手法をとる弁護士,同様の手法をとる依頼者の言いなりになる弁護士には,当然社会的な批判にさらされることになります。そういう経験が,自らの資質,専門知識,常識をいつも再検討する姿勢を与えてくれるのであります。
 ところが,裁判官の場合,在任中に上訴記録が戻らない限り上級審裁判所から判断について批判されることはありませんし,裁判長から起案について直される形で批判される以外,批判されることも先ずありません。 いま,古川福岡高裁判事の行為が証拠隠滅に当たるのでないかと疑惑をもたれていますが,ふだんから批判された経験をもたないからこそ,このような疑惑をもたれる行為を行うことができたかも知れないと感じております。
 そして,批判された経験のなさが,キャリア裁判官の独善的な姿勢を生む理由にもなっているのではないでしょうか。

---マニュアル依存体質---

 また,司法修習を終了後直ちに採用した,一人で判決できる権限を有しない,採用後5年未満の判事補を未特例判事補と言いますが,未特例判事補に権限を与えられている令状・少年事件などの裁判ほど,執務資料や取扱基準などのマニュアルが多いのであります。そこで,学生時代からマニュアルを用いる機会が多かった未特例判事補は,安易にマニュアルに頼る傾向が生じます。そして,マニュアルと違った判断をしようとしますと,親切に書記官からこんなマニュアルがあると注意を喚起されることもあります。さらに,マニュアルと違った判断をしますと,抗告・準抗告で破られることも多いように感じます。
 キャリア裁判官は,任官当初そんな経験のもとで育ちますので,マニュアルにたよった裁判をする裁判官になってしまい易いのではないでしょうか。

---正義感が生き甲斐=それが独善を生む---

 このようにならないためには,裁判官は,結論より当事者の話を十分に聞き,争点を整理し,必要な証拠調べをする,その課程で当事者の納得を大事にする訴訟指揮をする姿勢,言葉を代えていいますと,プロセスを公正に行うことが最も重要と考えるべきであります。
 ところが,裁判官の訴訟指揮は,ややもすると独善的になり勝ちです。にもかかわらず,「法とは正義である」と考える,そういう意味の正義感をもったキャリア裁判官が多いのであります。なるほど,真実は抽象的にはあるでしょうが,真実は神のみが知り,人間には分からないことが多いことを,判断される側,弁護士はいつも経験しております。
 ところが,キャリア裁判官は,裁かれる人と同じ環境になく,世間の人よりも裁かれる人の真実が分からないことが多いのでありますが,そのことに気付かない人が多いように感じます。
 そして,判断ばかりしていると,一般の人よりは勿論,弁護士よりもおれの方が判断能力があると,キャリア裁判官は自信を持ち勝ちであります。
 ところで,弁護士にも色々な方がありまして,裁判官が弁護士に足りない部分を補う後見的役割を果たしたいと考える機会も少なくありません。そこで,キャリア裁判官は,弁護士がやり足りない部分を補う後見的役割を果たす立場にいる,だから自分の力で真実を発見しなくてはと,力み勝ちであります。
 中坊公平さんが言われるように,民事訴訟法では自由心証主義になっていて,裁判官が自由に裁量で事実を認定することができることになっておりますので,「裁判所の決めたことだから,つべこべ言わずに従え」という,おごった態度になる危険があるのです。
 そうならないためには,裁判官には,弁護士は勿論一般人以上に謙虚さが必要ですが,キャリア裁判官は概ね謙虚さが不足しています。そこで,日本の裁判は,裁判官自身の納得のために時間が浪費され,訴訟の遅延に結び勝ちでありますし,当事者には権威で結論を押しつけている傾向になりやすいのであります。

---当事者を見下ろす意識---

 次に,裁判を傍聴された方はご存じですが,我が国では,法廷の裁判官席は高くなっていて,法廷にいる人達に,裁判官が自分より一段高い存在であると思わせるように作られています。そのうえ,開廷時に法廷にいる者は,廷吏の号令のもとに起立し,裁判官に向かって礼をさせられたうえ着席させられることも少なくありません。このような法廷の構造や運用は,子供時代から成績がよいと言われ続けてきた裁判官のエリート意識をさらに高め,当事者,検察官,弁護士や傍聴人を見下ろす意識を生じてしまい勝ちであります。

---『たくましさ』や『したたかさ』に欠ける---

 10年余り裁判官をして預金保険機構に出向中の浅見宣義さんは,2000年3月東京で開かれた「日本裁判官ネットワーク」の集会で「キャリア裁判官は,自分を鍛える機会が少ないので,『たくましさ』や『したたかさ』に欠ける」と言っていました。私も,まず裁判官に『たくましさ』のなさが気になります。『たくましさ』がない故に,裁判長や右陪席に迎合する裁判官になってしまう危険も大きいと心配になるのです。

---成立しない対等な合議---

 このように,キャリアシステムでは,裁判官に相応しい資質を個人としても育てることが困難であると考えています。
 その上に,まだ大きな問題があります。
 裁判所法が定める合議制は,独立した対等な裁判官同士によって合議をすることを想定したものでありますが,未特例判事補に合議に加わらせ,その者に判決を起案させて,右陪席や裁判長がその起案を添削するのが普通であります。
 これでは,判決起案の練習にはなりますが,未特例判事補は法律知識も社会経験も不足したうえ,たくましさがありませんから,対等の合議が行われていると言い難いのです。そのうえ,裁判長はその判事補の勤務評定に関与しますが,その勤務評定は,司法試験や司法修習の成績と合わせて裁判官の一生の処遇に影響しますから,未特例判事補は合議において自然と遠慮勝ちになっても不思議でありません。
  ところが,合議において裁判官が互いに対等であることが,裁判官の独立に不可欠であると自覚しない人がいますので,審議会47回においても,かって裁判官として相当地位が高かった方が「(判事補は)裁判長等の助けを借り,合議体の陪席の役割は十分果たすことができる」という趣旨のことを言っています。また,寺西裁判官も,2001年2月9日号の週間金曜日で,「判事補になって,最初は単独出判決ができず,合議事件の中で事実認定のトレーニングをして裁判官として成長するというキャリア・システムは良い制度だ」と言って, 法曹一元に消極的な意見をもつ裁判官がいると報告しています。
 こんなことが公然といえる裁判官の存在が,キャリア裁判官制度が憲法に反した存在であることを示しています。
 そこで,なかなか,独立し,自己の良心に従って意見を述べる裁判官に育たないわけであります。そして,かえって上を見る癖が育つ危険も感じさせられるのであります。

---事件処理競争に巻き込まれる---

 それに,今日の司法行政では,裁判官は,その所属する裁判所の同僚裁判官などに毎月自分が何件処理できたかを書いた「裁判官別担任表」を回覧されます。そこで,裁判官は,今月は新受件数は何件,処理件数は何件,黒字になった, 赤字になったと気にさせられますので,毎月処理件数で同僚と競う事件処理競争に巻き込まれてしまいます。
 それが,勤務評定に影響し,昇給の時期や俸給の等級につながるうえ,会議や宴会で等級の上位者が高い席に座る扱いを受けることが多いので,件数の処理が一般より遅れると惨めだと意識してしまいます。そこで,審理の丁寧さや当事者の納得や裁判書きの分かりやすさより,処理件数を増やす気持ちになり勝ちにするのであります。

---自主規制---

 これら合議の仕方,判事補の勤務評価のシステムから,裁判官には,国民から評価されるより,裁判長に評価されたい,所長に好かれたい,最高裁から評価されたいという意識が育ちやすく,そこから,いわば自主規制して,「お利口にしていて,特異な言動をとらないほうが処遇上のメリットがあると思い込む姿勢が生じ勝ちであります。

---「当事者に分かりやすい裁判」より「上級審で敗れない裁判」---

 そのうえ,弁護士も裁判に影響してはいけないと裁判官をたてて,陰では文句を言っても,直接面と向かっては批判することをしませんから,裁判官にとって唯一の批判者は上級審であります。そこで,裁判官はなによりも上級審で敗れにくい裁にしたいと考えます。そのために,まず判断の対象とする認定事実の肉付けを減らして間違いを指摘しにくくする,どの証拠からその事実を認定したか具体的に示さないで,簡潔な判決を書いた方が上級審の批判を受けにくくする,という姿勢が生まれてしまいます。そして,上級審で敗れない裁判より, 当事者に納得してもらう裁判を優先しようという意識が育ちにくいのであります。
 その結果,判例・先例にとらわれて,「生の事実」を無視した非常識な判断とやゆされる,当事者に分かりにくい,納得を得にくい裁判をしてしまう傾向が生じています。

---市民感覚に沿う裁判を阻む---

 こんな裁判官では,当事者や事件そのものの個性を尊重することも,任地の人情・風土にふさわしい市民感覚に合った判断をすることも出来ません。私は,先例にとらわれない姿勢が裁判官にあれば,時の流れが早い昨今でも,その流れに乗り遅れず,もっと容易に判例の変遷を生み,社会の変化に適合した事件解決をもたらすことができると考えるのですが,そんな風になりにくいのであります。

---司法行政との接点---

  次に時間がありませんので,簡単になりますが,裁判と司法行政との接点について話してみたいと思います。
  最近,古川福岡高裁判事の奥さんに関する事件をめぐって,福岡地裁令状部から福岡高裁,最高裁に令状請求記録がコピーされて送付されたということが報道されております。これは,裁判と司法行政とのあり方について,国民が考えるうえで役に立つ問題を提供しているものと考え得るのであります。
 そこで,それに対する論評はせずに,私が経験した裁判と司法行政との接点について,一つだけ披露させていただきます。
 先に触れた戦前から残っていた破産事件は,銀行の破産ですから,地方とはいえ届出債権者数が4750名という多人数の事件で,そのうち800名以上に対し配当金を供託しなければ,事件が終了しないものでした。ところが,丁度住専の処理が毎日のように報道されていた時で,裁判所は,この破産事件の存在をマスコミに知られたくないという姿勢でございました。私は,勿論違法なことはしたくないと言っていましたが,処理をするには裁判所にも法務局にも人員が要りますので,法務局への要請は自らしたのですが,裁判所職員に関しては本庁に依存する他がないのでお願いをしました。そこで,司法行政との接点ができたわけであります。
 そこで先ず,私は,その処理方針について地裁本庁と協議していたのですが,地裁本庁が高裁に処理方針を報告したのか,高裁民事首席書記官から最高裁民事局に対して,「供託に付さない方法がないか,供託する場合,一括弁済供託ですまないか,当事者に供託通知を省略する方法はないか」の検討を依頼していたわけです。そのことを最高裁からの回答を見せてもらうまでは,私自身が全く知りませんでした。その回答でも,私の考えた方法しかないという結果がでました。そうすると,すぐにでも私が処理することができて当然でありますが,そのとおりできませんでした。それは,供託手続によって,この破産事件の存在がマスコミに知られた場合の対応が必要でるとの判断によるものでした。そこで,地裁本庁・高裁がマスコミに漏れた場合の想定問答づくりを協議したからであります。最高裁がかかわったかどうか,私には分かりませんが,地裁本庁と高裁との協議で,報道対応手順が決まり,マスコミには,原則として地裁所長が対応する,どうしても必要な場合は支部長の私もコメントをする,その場合私ではなく,支部庶務課長が私のコメントを示して対応する,こんな手法を決めて来たわけであります。そして,私のコメントも本庁事務局が起案して私の了解をとるという手法がとられました。その決定と同時に必要な裁判所職員を配置してもらえたわけですが,報告集会・終結決定は次期支部長にという段取りまで決められてきたわけであります。その結果,私が在任中に同事件を終了させることが許されませんでした。このような経過は,裁判官の職務上の独立という観点からも,問題だろうと思っています。
 この事件は,戦後50年間私の前任者たちが放置同然にしてきたわけですが, その間の裁判官には,いわゆる出世した裁判官もたくさんおられました。でも,裁判官はどなたも,倉庫の膨大な書類を検討して,多少問題がある解決でも自ら事件を決着させる決断をする姿勢がなかったのでありましょう。そこで,60年も未処理で残っていた事件でしたが,以上の経過で,半年以上も進行させることが許されず,私の在任中に最終決着をつけることができなかったことを,極めて残念に思っています。
 これも,司法行政が裁判に影響を与える一例として,国民が裁判所のあり方を考えるうえで参考にしていただくべきことと考えますし,何よりも,不利な情報を公開しないで,裁判所の権威を維持しようとする強い力が存在する証として,裁判所が,こんな姿勢でいいのか,情報を公開し,その問題点を国民自身に考えていただくべきでないか,国民が検討すべき課題の一例としても,意味があるものと思っております。

---終わりに---

 以上裁判と司法行政との接点については,ほんの一例しか触れることができませんでしたが,時間がオーバーしておりますので,他は省略して,これで私の話を終わらせていただきます。ついては,今後皆さんが司法制度改革のあり方についてお考えになるうえで,参考にしていただけると,幸いであります。
 ご静聴有り難うございました。



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