2001年5月12日
福冨弘美
ハンセン病国賠勝訴を喜んで
2001年5月11日、熊本地裁のハンセン病国賠第一陣判決を知って、ともあれ喜んでいます。当方の国賠の敗北のあとだけに、待ち焦がれていた勝訴判決でした。ただし、多分、要求額の1割程度にしかならないのではないかと思われる認容額(人権侵害のコストが低く見積もられていること)については、いつもながら大いに不満です。関係する厚生労働省であれ法務省であれそして裁判所であれ、役人諸君は、自分たちの生涯賃金と被害者の人生について、どう秤にかけているものか、不思議でならないところです。
それでも原告のみなさんがあんなに喜んでいる。けちをつける気は全くありません。それにしても、その人生にひきかえ、たとえば「救らい活動」に対するご褒美としての文化勲章に守られて、安穏に死んだ一人の男、らい予防法とともに生き、それを死守した男の人生を思わずにはいられません。
以下の原稿は、小生が一昨年『明治維新から現代』(1999年ポプラ社刊)という日本近現代史の小中学校図書館向けのセット本に書いた原稿です。子どもたちに、ハンセン病に関してこの国で起きた最低限の知識を知ってほしくて書いたものなので、その歴史を知らない人に、参考までに読んでもらえればと思います。この本は、小生の知らぬ間に部分的な改ざんをほどこされて刊行されてしまったため、修正を申し入れていますが、再版の見込みが立たず未だ旧版のままとなっています。この部分でいうと、主に改ざんされているのはハンセン病に対する差別(この後の項にあるエイズでも)が「無知から生まれた」としていることです。それが「つくられた無知」であることを、私は書いたつもりでした。
(『明治維新から現代』第4巻「人として生きる権利の歴史」)
第2章 社会で弱い立場におかれた人の人権 p16・17
「らい予防法」の廃止
]患者はとっくに完治していた^
ハンセン病という病気があります。「らい」という古くからのよび名のほうが知られているかもしれません。医学や法律のうえでも、この名がずっとつかわれてきたからです。そして、その名のもとに、患者だった人びとは、家族や社会からきりはなされ、人権をうばわれつづけてきたのです。
患者だった人びとを、特別の「国立療養所」に入れるための「らい予防法」という法律は、つい最近になって廃止されました。1996年4月のことです。ところが、現在も療養所にいる人たちのハンセン病はとっくに完治し、現在治療中の人は在宅の人をふくめて、日本にはほとんどいません。
つまり、ハンセン病は完全になおる病気なのです。第二次世界大戦中の1941年、プロミンという特効薬が開発され、その後通院治療も可能となりました。ノルウェーのA・G・ハンセン(1841〜1921)が、遺伝病と考えられていたらいの病原菌を発見したのは、1874(明治7)年。感染力が非常によわい病原菌だったのです。
]療養所からでられない元患者^
このように、ずいぶん前から特別の伝染病ではないことがわかっているのに、ハンセン病は隔離しなければならないおそろしい病気だと思われてきました。一生なおらないものと思いこんでいる人も世間にはたくさんいます。
全国に15か所ある療養所には、らい予防法が廃止になった後も約5200人の元患者が残っています。厚生省は、療養所を出て社会復帰する人にたいする支援事業を始めましたが、申請した人は数えるほどしかいないといいます。
なぜ、こういうことになっているのか、そこにはハンセン病にたいする偏見と差別の長い歴史がありました。
●Q&A
Qハンセン病ってどんな病気?
ハンセン病の病原菌は、結核菌のなかまで、むかしはいずれも不治の病いといわれました。病気にかかる割合や死亡率は、だんぜん結核のほうが高かったのですが、ハンセン病は病気が進行すると体の変調が外側にあらわれるのでおそれられたのです。
まゆ毛や頭髪がぬけおちたり、顔や手足の組織が部分的に死んで、皮膚が変色したり、形が変わったりするからです。その結果、失明や手足を切断することも、むかしは多くありました。
Qハンセン病はいつからあるの?
日本には、奈良時代のころ大陸からはいってきました。遺伝病や天刑病とみなされ、隔離されることはありませんでした。天刑とは、先祖が悪いことをしたむくい(天罰、仏罰)で悪い病気になったという考え方です。慢性の感染症で、大流行したりしないため、かえって天罰のせいにされたのでしょう。このため、重い症状になった人の多くは、家族にめいわくをかけまいと故郷をはなれて放浪生活をしました。
p18・19
ハンセン病対策の歴史
]放浪生活している患者を収容^
1874(明治7)年、ハンセンが病原菌を発見すると、日本でも伝染病として対策をすすめます。しかし、それに先立って、アメリカ人の女性キリスト者が、各地で、らい患者に食事や宿泊場所を提供する活動を始めていました(○○ページ)。
そこで政府も、これでは外国にたいしてみっともないということで、定住せずに放浪生活をしているらい患者を警察の手で取りしまり、コレラ患者のように強制的に隔離することにしたのです。1907(明治40)年、最初の「らい予防法」が施行され、収容施設(療養所)が全国5か所におかれました。
療養所は、しだいに刑務所と同じになっていきます。見はりがおかれ、職員の指示にそむいたり脱走をはかると、鉄格子の部屋にいれられ、食事をへらすなどの罰をうけるのです。罰は短い期間ですが、治療法がないのですから施設からは半永久的にでられません。そして、この予防法は1931(昭和6)年にはさらに人権を無視した内容に変わります。
]自宅にいる患者も強制収容^
国立の療養所が全国に整備されるとともに、新しい「らい予防法」では自宅にいる患者も収容することになったのです。患者がいることがわかると、警察が家庭にふみこんで手錠をかけて連行していきます。そのとき、患者がふれた可能性があるということで、となり近所まで大々的に消毒しました。消毒で、近所にめいわくをかけたおわびに自殺してしまった家族もいます。多くの患者は、警察がくる前に、親兄弟の縁を切って自分から療養所に出むき、名前まで変えたのです。
このことが、らい予防法が廃止された今も、元患者が療養所から出られない理由です。病気はなおり、好きなところに住めるようになったのに、帰る家も故郷もない人がほとんどです。新しい患者が出ないので、高齢化はすすむ一方、平均年齢は70歳をこしています。はたらき口もみつかるはずはありません。どの療養所にも、そこで亡くなった何千人もの遺骨が、墓もないままおいてあります。骨になってからも帰る先のない人が多いからです。
●コラム
◆ハンセン病患者への人権侵害
療養所は、男子と女子の居住区がわかれていますが、長年のあいだには恋愛や結婚の問題がおきてきます。これにたいして、療養所は断種手術を結婚の条件とするという悪質な人権侵害をおこなったのです。断種手術とは、子どもをうめない体にする手術で、男女いずれにも簡単にできますが、療養所では男性にたいする手術(精巣をとりのぞく)がおこなわれました。遺伝病でもないのに、子どもをつくらせないことが療養所の方針でした。 ハンセン病の病原菌は、保菌者との直接的な接触をくりかえさなければ感染しません。このころには、そういったことは医学の常識で、欧米では隔離政策は廃止されはじめていたのです。ところが日本では、隔離がてっていし療養所では人権侵害がつづきました。
p20・21
らい予防法は廃止されたが…
]戦後も生きのびた「予防法」^
戦後、新しい憲法で基本的人権がうたわれてからも、国のハンセン病対策はまったく変わりませんでした。
1948(昭和23)年に制定された優生保護法には、子を産まない優生手術ができる場合として、本人または配偶者がらい疾患にかかっている場合をあげました。もちろん、伝染病や感染症で優生手術の対象としたものはほかにありません。そして、1953(昭和28)年には、新しい「らい予防法」が成立したのです。
この改正に向けて、1951年11月8日の衆議院厚生委員会で、国立らい療養所の3人の園長が証言をしています。そのひとり光田健輔は、5日前に皇居で長年の「救らい活動」にたいして文化勲章を受賞したばかりでした。光田はつぎのように証言しました。
]光田健輔の国会証言^
「らい患者の療養所への収容は、元は警察権力がやっていたのが現在は保健所の職員にまかされている。これでは伝染はふせげない。また、らい予防のためには、優生(断種)手術をすすめる必要がある。患者の療養所からの逃走にたいしては逃走罪が必要だ」
この年、全国らい患者協議会が結成され、強制収容反対をうったえていました。光田らの証言に抗議し、予防法改正反対闘争をおこないましたが、世間からは無視されました。多くの人は、社会をおそろしい伝染病からまもるためには患者の人権がおかされてもしかたがないと思っていたからです。
ところが、予防法改正の3年後、国際らい学会は不必要な患者の隔離をやめ、差別法を廃止することを決議しているのです。光田が指導する日本らい学会は、この決議を平然と無視しました。日本のらい研究者で、文化勲章を受けた光田に反論できる学者は、まだ育っていなかったのです。それから40年たった1995年、日本らい学会は、ハンセン病患者・元患者にたいして、世界中でただひとつ日本だけが強制収容をつづけ、人権をおかしつづけたことを反省し、らい予防法の廃止をうったえました。
●ことばメモ
◆優生保護法
第二次世界大戦中、ユダヤ人を大量虐殺したナチスドイツは、障害者や精神病者を遺伝によるときめつけ、子を産むことを禁止する「断種法」をつくった。ドイツの同盟国だった日本は、1940(昭和15)年「断種法」にならって「国民優生法」を制定した。戦後、これを改正したのが「優生保護法」。これは人工妊娠中絶をみとめるための法律だが、中絶がみとめられる場合として、断種法の考え方をうけつぎ、精神病者と精神障害者、ハンセン病患者をあげていた。1996年、母体保護を目的とする「母体保護法」に改正。
◆優生手術
男性・女性にかぎらず、妊娠する能力をなくすための不妊手術や、女性が妊娠してからの人工妊娠中絶手術。
◆配偶者
夫婦の一方からみた相手のこと。
◆日本らい学会
日本らい学会は、1995年の「らい予防法廃止」をうったえた見解で「日本のハンセン病患者は、最初にらい予防法ができたころから急速にへりはじめて感染の危険がなくなっていた。もともと予防法は不必要だった。戦後は、特効薬の登場でなおさら必要なかった」とのべています。
同じらい学会が、らい予防法と患者の隔離政策をささえてきたのです。この大きな変化の理由は、日本の隔離政策が世界の学会の流れからとりのこされていることがだれにもわかり、また光田健輔らの影響をうけた人びとが第一線からいなくなったことにあります。師弟関係のきびしい日本の医学会の古い体質がわざわいした形です。
光田は、ハンセン病患者を「けがれたもの」とみて、これを根絶させることで「国土を浄化(きよめる)」するという考えをもっていました。