土田・日石・ピース缶冤罪事件国賠
控訴審判決
直前集会 報告

 88年12月の提訴から13年、土田・日石・ピース缶冤罪事件の国賠裁判は、控訴審が今年の6月に弁論終結して判決が近い。4名の原告と国賠ネットワークの主だったメンバーが話し合い、これまでの経過を報告し、今後の進め方を再確認するような集りを呼びかけることとなった。 
 2001年12月15日(土)の午後、西早稲田の日本キリスト教会館の会議室に、この冤罪事件の刑事裁判当時の方々を含め、20数人が集まった。
 司会は国賠ネットの松永さん。彼は土日P、総監公舎などと並ぶ、70年代初頭の冤罪事件「沖縄ゼネスト事件」で被告とされ、無罪確定後の国賠裁判では、1,2審で勝訴したが2度目の最高裁で敗れている。
 
(1)主催者挨拶
 はじめに、国賠ネットの土屋さんから集会がもたれる至った経緯、これからの国賠ネットにかける決意が語られた。
 続いて、原告の一人の堀さんが挨拶。「冤罪の無罪を勝ち取った裁判の記録は2トントラックでフルに2台分あった。国賠裁判で必要なコピーをとるだけで2000万円も掛かると聞いた。そんなこともあって18人全員には、呼びかけられず、結果的にはP缶の井上さんも入れて、5名が国賠を起こした。日本の人権状況が国際的に問題になってカレン・パーカーさんが調査にきたときに面接した。この事件では最初から証拠が崩れているのに10年も20年も続くのが理解できないと言っていた。IRAを調べるロンドン警察よりもひどいとも聞いた。こうしたひどいことがこれからも繰り返されないようにして行きたい」

(2)講演 石田省三郎弁護士
 土田・日石・ピース缶冤罪事件の国賠裁判の弁護人のひとりである石田弁護士が「土田・日石・ピース缶爆弾事件国家賠償請求事件について」との演題での講演があった(資料2 参照)。石田弁護士は数々の冤罪事件を弁護し、無罪判決後に国賠裁判を手がけてきた。講演の概要は以下のとおり。
 99年11月12日の地裁判決は、国家賠償法第1条1項(国又は公共団体の公権力の行使にあたる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって、違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。)と、最高裁の判決が示す判断(起訴時点で、各種の証拠を総合勘案して合理的判断過程により、有罪と認められる嫌疑があったか)にてらして問題ないだろうか。具体的には親崎検事が起訴した時点で収集されていた証拠を合理的に判断したとき、被告が有罪と言えたか。言い替えれば、起訴したことが合理的な判断であったかどうか。
 この国賠一審判決は最高裁判決の示す基準を当てはめる以前の基本的な理解が欠如している。刑事判決の無理解、そこでの証拠決定や事実認定を覆している。
 「証拠を総合的に判断」とは、証拠の適格性、証拠としての価値に合理的な判断がされているかどうかが問われる。そこでは証拠能力があるか、違法収集でないか、供述の任意性に問題ないか、別件逮捕時のものでないか、などが問われる。言うまでもなく、これらは刑事裁判で検討されている。国賠一審判決は、刑事判決が証拠能力を否定した証拠を認めている。昨今、刑事審で検察官が提出する証拠の証拠能力を否定することはめずらしい。より強度な違法性がある時に限っての刑事審での判断であったといえる。それは民事裁判での判断より厳しいものといえる。とすると、国賠において刑事審で否定された証拠を認めることはあり得ない。99年11月の国賠一審判決はそのような考慮が全くなされていない。
 具体的にいくつかの例について述べて行きたい。まず、SAによる段ボール箱製造についてである。
 山王グランドビルのアメリカ文化センターの受付に段ボール入りのP缶爆弾がおかれた事件(69.11.1)があった。手製で作ったとの自白がある。例えば、74.11.4のSA自白では、川田町アジトで、近くのパン屋から盗んだ大きな箱を切って、15x13x13cmの段ボール箱を作ったとある。その後、SAが箱作りの実演をした写真も撮られている。また、日を経ずしてMHやMSもそれにそう内容を自白している。ところが、客観的にはこの箱は手作りのものではなく、工業製品を流用したものであった。切断面が機械で切られたものであり、ホッチキスも大型機械によるものであることが実物から分かる。つまり、SAの自白は全くの嘘であり、重要なのはその嘘がMH,MSへ伝搬したことである。取調官の誘導としか説明のしようがない。
 刑事審では、既製品の段ボール箱を手作りに取り違えることは有り得ないとして、明白な虚偽自白であり、信用性がないとした。このことは弁護側の反証によって明らかになったのではない。起訴時点ですでにある証拠の基礎的な誤りをおかしたと言わざるをえない。自白をうたがうのが当然であった。ところが、国賠一審判決はこの自白を、「特に不自然なところは認められない」としている。
 また、主犯とされたMSの自白について、国賠一審は任意性を認めている。自白は長期・長時間の取調、別事件の起訴後に違法になされた取調、犯人と決めつけた取調で作られた。みな、起訴時点で検察官に分かっていたことである。刑事審の大久保裁判長でさえ、その任意性を否定せざるをえなかったものだ。その自白に任意性があるかのように国賠一審は判断している。
 このほか日石事件のリレー搬送とNRアリバイ、など多くの点で、国賠一審判決は問題を抱えている。控訴審ではこれらの点を主張してきた。昨今の判決傾向からすると厳しい状況だが、司法のセキュリティホールを探し出し、勝利したい。
 時間に制約があり、2,3の質疑ののち、会場の大きな拍手で講演が終わった。

(3)原告や参加者からの発言
 小休止のあと、原告からの発言で集会を再開した。
EN)国賠ネットの人たちと話し合って空気が入った。不当な判決だったら、上告して最後まで闘いたい。自分たちで公訴した責任をはたし、絶対に勝ちたい。
MA)久しぶりに支援していただいた方にも会えた。この間、いろいろに人生が変わった。逮捕、勾留されたときはやっていないことを言い続けたが捜査責任者は来なかった。国賠裁判は手応えがない。そんな中で甲山事件のニュースに載った国賠裁判への文章に心を動かされた。今は気合いを入れてやっている。
EG)4人でこの国賠裁判を続けてきた。刑事裁判では6年は拘留、13年間かけて無罪判決を得た。その後、この国賠裁判、なにか一生を裁判で終わってしまうような感じがすることがある。会えなくなった人も、新たに会えた人もいる。職場復帰前に薬局に勤めた経験などを生かし、今はケアマネージャーとしてNPO法人を運営している。小野さんの支援、甲山事件、国賠ネットなどに関わってきた。今は袴田再審の支援に取り組んでいる。

 関連して同じく国賠裁判を闘う総監公舎国賠の福富さんが次のように当時を振り返った。
総監公舎の爆弾犯人として捕まって警視庁の留置場に捕らわれている時に、土田邸事件が起きた。警官が険悪なムードで留置場でも空気が変わったような感じだった。拘置所に移された72.2以降で爆弾事件冤罪の取調などを中から報告してきた。そのころ、土日Pのデッチ上げが進んでいた。暴露してきたのと同じような手口で、爆弾犯人が作られていってしまったのが悔しかった。総監公舎国賠は控訴審、実質敗訴で上告中。悪い結果ならばジュネーブまで頑張るつもり。

 そのほか、懐かしい方々の発言があった。司会の松永さんが、この国賠は是非勝ってほしい。希望や怒りが積み重なって行って新しい時代がくるのだと思う と締めくくって集会を終えた。

(報告:磯部)


資料1 集会よびかけ

国賠ネットワーク・冤罪国賠の未来をかかげて!

土田・日石・ピース缶冤罪事件国賠 控訴審判決
直前集会

1970年代初頭に起きた「沖縄ゼネスト事件」、「総監公舎爆破未遂事件」、そ してこの「土田・日石・ピース缶事件」などの冤罪事件を母体にして、国賠ネット ワークは誕生した。公権力の横暴に対して、人権をかかげて闘いを挑んだこれらの国 賠は、いま、ことごとく敗北の瀬戸際にある。 この、人の尊厳をかけた長い闘いを忘れてはなるまい。「無知」と「忘却」は犯罪 的ですらあるからだ。 戦後に自意識をもった人は、日本が侵略した朝鮮、中国等のことを識り、二度とその ような事がないように、平素生きなければならない「有知」が必要だろう。侵略と同 時代の人たちは、それを「忘却」してはならない。個人を強大な権力が蹂躙する、こ の国賠闘争の原点も同じである。風化させないこと、新たに「記憶」し続けること、 そのことがいま大切なことではないだろうか。  69年〜71年にかけて、いわゆる土田・日石・ピース缶爆弾事件が発生し、73 年、18名におよぶ人達がデッチアゲ逮捕された。刑事審では、当然無罪となった が、国賠裁判がまだ闘われている。事件後、30年〜32年間も闘われている。 こ の事件はまだ終わってはいないし、闘いは続いているのだ。  土・日・P事件を知らない「未知」の人は知るために、「忘却」した人は記憶を喚 起するために、この集会に是非、主体的に参加して欲しい。これからの生き方が変わ るかもしれない集会を準備しています。  皆さんの参加で原告、弁護士、支援者への力強い後押しをおねがいします。

 □■ '01 12月15日(土)
 □■ PM2:00〜PM5:00
 □■ 日本キリスト教会館4F
 □■ 参加費:500円
 ■□ 講演:石田省三郎弁護士
 ■□ 発言:原告全員・支援者
 ■□ 声援:国賠ネットと私たち
 ■□ 主催:土田・日石・ピース缶冤罪事件国賠原告団/国賠ネット 
土田・日石・ピース缶冤罪事件 国賠は今!「控訴審」判決直前 報告の集い

今から28年前の1973年3月14日の夕刊に「犯人逮捕―土田邸事件、日石郵爆弾事 件」と大きな記事が載りました。「全面解決」と警視総監が記者会見をし、1969年に 発生したピース缶爆弾事件と合わせて18名の人々が逮捕、起訴されました。  しかし「全面解決」は真っ赤な嘘で、18名を犯人にでっち上げたのです。検察・警 察は別件逮捕で拘束し、取調官の言うとおりにしないと何時間でも拷問的な取調べを 行いました。「やったと認めないと家族を逮捕する」といった脅かしや、睡眠不足、 疲労困憊した中で「自白」調書が作られました。 裁判が始まるとアリバイが証明され、真犯人と名乗り出る人も出てきました。取調 べ室で作られた調書は嘘だということが誰にでも判るような事実が明らかにされ、12 年の裁判を経て無罪判決。検察側はもはや有罪にする手段もなく上告を断念し、1985 年12月18日無罪が確定しました。    この間でっち上げられた者は留置場や拘置所へ拘留され、人権を踏みにじられまし た。無罪確定後国家賠償裁判を起こし、でっち上げを行った警察・検察の責任追及を しています。「土田・日石・ピース缶」冤罪事件では4人が国と東京都を相手取り国 家賠償と新聞への謝罪広告を求めました。しかし1999年11月、東京地裁民事15部は請 求を棄却する判決を言い渡しました。4人は即控訴しましたが、たった4回の公判で 今年6月結審をしました。でっち上げの当事者である取調べ検事の証人申請を棄却し ての結審で不当です。  一方「ピース缶」冤罪事件のみで起訴され、無罪確定した人々のうち国賠に取組ん だIさんの裁判は先に終了し、国家賠償は負け、偽証者Kには損害賠償の判決が出て います。 この28年間、刑事裁判の闘いでは多くの方々の救援・支援をいただきました。救援・ 支援に関わっていただいた方々への国賠裁判の報告も兼ねて、このたび国賠控訴審判 決直前報告の集いを開催します。多くの方々のご参加をお願い致します。

                        土田・日石・ピース缶冤罪事件 国賠原告団

資料2 講演資料

土田・日石・ピース缶爆弾事件国家賠償請求事件について

講演レジュメ
「土田・日石・ピース缶爆弾事件国家賠償請求事件について」

2001/12/15
s.ishida

1 無罪判決と国家賠償
(1)「国又は公共団体の公権力の行使にあたる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって、違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」(国家賠償法第1条1項)
(2)「逮捕勾留はその時点において犯罪の嫌疑について相当な理由があり、かつ、必要性が認められる限りは適法であり、公訴の提起は、検察官が裁判所に対して、犯罪の成否、刑事罰の存否につき審判を求める意思表示にほかならないのであるから、起訴時あるいは公訴追行時における検察官の心証は、その性質上、判決時における裁判官の心証と異なり、起訴時あるいは公訴追行時における各種の証拠資料を総合勘案して、合理的な判断過程により、有罪と認められる嫌疑があれば足りるものと解される。」(最高裁昭和53/10/20芦別事件国家賠償事件判決)
(3)起訴時点で、各種の証拠を総合勘案して合理的判断過程により、有罪と認められる嫌疑があったか。

2 土田・日石・ピース缶爆弾事件国家賠償第1審判決(東京地裁民事15・平成11/11/26、控訴審:東京高裁21民・13/6/7終結)の問題点
(1) 最高裁判決が示した基準当てはめ以前の基本的理解の欠如
(2) 刑事判決の無理解ないし無視
(3) 証拠認定、事実認定を極めて狭い視野で再評価しようとした。

3 具体的問題点
(1) ピース缶爆弾製造
1 HR、ME、EGについて、73年3月13日逮捕(MS逮捕は14日)、4月4日起訴、4月18日、SK、ME、MTら起訴。
2 起訴の時点では、製造の日は、10月16日頃としていた。
 比較的多くのものが供述している日がその根拠とされた。
3 製造の日について、SKらは、概ね69年10月15日以降と述べていた。
 MHをのぞいては、供述調書の内容は、製造に関する謀議と製造の日は、連続する日とされていた。
4 京都地方公安調査局事件の発生は、10月17日午後11時30分である。この事件に使われたピース缶爆弾にもSGCマーク入りのパチンコ玉が入っていた。
 パチンコ玉の同一性からして、同一機会に製造されたものと判断されるべきであった。
5 本件との関係で、京都公調に使われた爆弾がどのような経過で、入手されたものかの検討を行うべきであった。
6 京都事件との関係で、製造日は15日過ぎではあり得ないことが明らかとなり、検察官は、訴因の変更を行っているが、この時点で、証拠全体が不自然と考えるべきであった。
7 SKによる段ボール箱製造に関する自白評価の誤り。
(2) 土田事件起訴
1 HR、EG、MSの起訴は、4月4日、ME、ENの起訴は5月2日。
4月4日の起訴時点では、MS自白をきわめて重要な証拠と判断」していた。
2 MSは、3月6日に8・9機事件で起訴され、3月14日にピース缶製造・日石・土田邸事件で逮捕されるまでの間、土田邸事件などで調べを受けていた。
 証拠決定では、「任意調べとして許容される限度を超えた違法な取り調べ」と判断されている。
 起訴の際して、この調べに違法性がないかどうかの観点の検討が欠如している。
(1) MSの自白調書の証拠能力に関して十分な検討が行われていない。
(2) 違法な取り調べが、警察で行われていないかという観点で、検討がなされていない。
3 3月13日の津村検事が作成した調書の任意性判断は、津村からの報告によるものであるがこれに、誤りがあった。
4 警察では、当時取調状況報告書を作成した。
 津村検事が自白調書を作成するに至るまでの警察の取り調べについて、十分な検討が行われていない。
 3月7日付取調状況報告書には、MSを犯人に決めつけて取り調べを行っている状況が見られる。
 「4機・文化センターの関係において嘘を言っていたことを強力に、今後は中途半端な態度で対処できない旨を強調し、弁解を聞かない姿勢で被疑者の口を閉じさせたうえ、すべてを精算しろと向け、午後2時30分『土田邸と日石を精算しろ』と切り出した。
 『君にやっているのかと聞いているのかどうかを聞いているのじゃなく、君がやったこの事件を精算する決断を下すように話しているんだ。』」
5 4月4日の時点で、土田事件につき冒頭陳述にでてくる以下のような具体的事実を確定する証拠はなかった。
 4月4日の時点で収集した証拠では、本件で提出された冒頭陳述書は書けなかった。

いわゆる日石総括
いわゆる「土田二高謀議」4/13 EN
下見
MS及びMMの神田南神保町郵便局下見 4/11 MM
MS、ME、HR及びENによる神田下見
土田邸事件爆弾製造
NTによる土田爆弾保管
MMによる土田爆弾保管 4/11 MM自白
土田爆弾の搬送及び郵便局への差し出し
土田邸事件総括
(3) 秘密の暴露
 国側の主張によると、NRが4/16にマイクロスイッチの端子に豆ラッカーで赤い印を付けたと供述したとし、これに信用性があるとしている。
坂本警部補の取調状況報告書によると、NRは4/17にはじめて供述したことになっており、その証言によると、坂本はこれを上司に報告すると証拠物もそのようになっているといわれ、そこで初めて、本当のことを言ってくれていると確信したと証言している。
 しかし、刑事事件判決は、4/17の報告書は「坂本警部補がマイクロスイッチの端子に付着している赤色塗料を捜査の上層部が重視していることを何らかのルートで知り、NRがこの点について自発的に供述するに至ったことを印象づけようと作為を試みた」(1118)としている。
 赤い印が端子だけでなく作動線やシャフトにもついていた。
 クランク状に曲げたとの供述に高い信用性があるとしているが、押収直後の作動線はクランク状でなく、かーぶであった。(判決1060)

(4) 日石事件の起訴(5月5日)
1 NRアリバイの存在。
2 捜査当時、NRが運転免許証を持っていないことがわかっていた。
それでも、リレー運搬に関与したという供述が正しいと判断したのは、きわめて不合理である。
3 いつ、運転免許証を取得したか、いつ試験を受けたかということにつき、初歩的な捜査を怠った。
仮に、問題があると意識されていたとしても、十分な裏付け捜査がおこなわれなかった。
4 なぜ時を同じくして、MS、EN、SAらが、NRがリレー搬送に関与したとの供述を捜査段階でしたのか。捜査官の不当な誘導があったとしか考えられない。
5 NRのアリバイがわかった時点で、公訴の取消を考えるべきであった。53年8月に最終搬送者とされたSAに対する無罪判決が確定しているがこの時点でも考えられていない。

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