■■■ 第13回国賠ネットワーク交流集会講演 ■■■
                                                                         

         冤罪の構造と国家賠償  


                    2002年3月2日

弁護士・ 阿 部 泰 雄

 仙台筋弛緩剤事件。その「事件」は、マスコミを通じておどろおどろしくも私たちの頭のなかに叩き込まれ、それがいま、「冤罪」事件となって、驚くぺき展開をみせている。そして、その弁護団長でもある阿部泰雄弁護士による、第13回国賠ネットワーク交流会のメイン講漬である。どこか瓢々としながら、しかし、権力をもった相手に対しては、宗男クンもビックリ、怒涛の怒鳴りまくりの迫カを感じさせる、実にユニークな話し振りである。講演全体の骨格はキチンと出来上がっているものの、話の流れのなかにあって、何よりも"自在"であるのがいい。たぶん、法廷においても、「事件」の大きな骨格を見据えた上は、瞬間、瞬間の自身の反応のなかから、事の本質を突いて、氏の弓は、直感的に引き絞られ、矢が放たれていくのだろう。そこが巷間、「冤罪バスター」とも言われているゆえんだ。
 以下、その講演を、氏が作成したレジュメに沿って、簡単に報告したい。

一、冤罪はどのようにして造られていくのか
 「私の冤罪弁護の体験」
 1974年、氏が弁護士になって最初に参加したのが「松山事件」の再審裁判。そして無罪。その後ひき連げ冤罪事件である「遠藤事件』の弁議を引き受け、1989年に最高裁にて画期的な逆転無罪判決。(現在、その国賠裁判は東京高裁控訴容を闘っており、この通信が出る時点ではすでに判決が出ているはず。)その後、類似のひき逃げ冤罪事件や放火冤罪事件など、これまで7件の冤罪判決を勝ち取ってきた体験が、具体的な事例をもって話された。
 例えば、放火冤罪事件。一連の放火事件に手を焼いた警察が、被疑者を逮捕するため、宮城県警自身が別の事件の被疑者を使つてタイヤ放火未遂事件目撃者をでっち上げ、被疑者に自白を強要。そして起訴。さらには本体の対象放火事件もまったくの警察によるマッチポンプであったこと、すなわち材木の焼けた痕跡は警察がパーナーで焼いたものと考えられ、警察と消防は共同して現場調査をするのが鉄則であるにもかかわらず、警察は写真だけを取り、直ちに現場を片付けてしまったことなど。判決においても、「事件自体が警察の捏造の疑いがある」と指摘され、それは大々的に新聞紙上でも取り上げられた。また、一連の放火事件を認める内容の被疑者の上申書には、何とエンビツの下書きが残っており、警察自らが下書きした上に書かせたことが判明。聞けば聞くほど、とんでもないことが行われていた!

 「冤罪とは何か、冤罪の現状をどうみるか」
 現在、公式には冤罪は一件もない。一瞬えっと思う。つまり冤罪と認定された瞬間、それは冤罪と認められたのだから、すでに冤罪ではなくなっているというパラドックス。ゆえに、常に司法の無謬性は保証されている。よって裁判所の責任は、逆に、極めて大きいということ、つまり認知されない冤罪、すなわちすさまじい数の隠された冤罪が、日本列島に潜在化しており、いま私たちがかかわって闘っている冤罪は、ほんの一部に過ぎないということである。

 「警察・検察・裁判そして刑事弁護の問題」
 裁判所のタガの緩みが、同時に検察、警察のタガの緩みをもたらしている。検察官のしがみつくのはひたすら無謬性。「裁判所とは見解を異にする」「理解を得られなかった」「捜査が及ぼなかった」など、過去一度として検察は過ちを公式に認めたことはない。検察とはそういう組織だと胆に銘じてかかる以外ないということ。裁判官の関心は、人権より治安にあり、「10人逃しても1人の冤罪を生んではいけない」という世界の刑訴法の鉄則が、この国では無視されている。一方、仙台地裁で過去6年間無罪判決が一件もなかったのが、ひとりの裁判官(仙台筋弛緩剤事件の現裁判官)によって、この2年間で4件の無罪判決があったこと。すなわち、裁きは人なりの側面も大きいことなどが話された。

 「代用監獄・拘置所における取調ぺの問題」
 代用監獄は悪で、拘置所は善という図式。目弁連の「代用監獄反対」運動のなかで、ともすれば考えがちなその図式が、いかに間違った認識であるか。そのことが、仙台筋弛緩剤事件での仙台拘置所の守さんをめぐる扱いを通して、阿部さん自身、目から鱗が落ちるように知った経緯が報告された。一見拘置所は捜査から中立、公正であると思いたい。しかし実態は、朝から深夜までの取調べが続き、一日15、6時間もの間、背もたれのない丸椅子に座らされ、まるで拷問の扱いを受けつづけていたこと。すぐさま抗議をしやめさせたが、拘置所は当初「椅子は検察庁の備品、拘置所としては関知しない」と答えるなど、所内の検察の取調室が、検察庁の意のままの施設、すなわち治外法権の場となってしまっているというとんでもない実態が明らかにされた。その延長に、あのマジヅクミラー盗撮事件があった。すなわち接見室の奥のドアを職員があけたら、何と赤ランブのついたビデオで撮影しており、そこがマジックミラーであったという驚き!所長室に殴りこみ、シマッタ!という顔の施設課長などを怒鳴りつけ、直ちに記者会見。目弁連でも大問題となり、昨年7月に、ようやく全国39ケ所の施設からマジヅクミラーが撤去された(法務省発表)ことが報告された。

 「治安維持には<真犯人を挙げる>必要はない?」
 警察・検察は、途中で冤罪だと気づいても後戻りのきかない組縦であり、そのまま突っ走ってしまう。そのなかにあって、裁判所もまた、自身の役割りを「治安維持」と考えており、「治安維持のためには被告が必ずしも<真犯人>である必要はない」という厳然たる事実があること。つまり、冤罪でくやしがるのはごく一部の人間だけであり、その他一億何千万の一般の人にとっては、ひき逃げ犯人は必ず逮捕、起訴され、裁判によって有罪になるという、そのこと自体で、治安維持の当初の目的は達成されるということ。そうしたなかから、判決が、常に有罪へと流れやすくなっている現実。つまり、裁判所が、本来裁きのなかに「治安維持」を目的に入れること自体、大きな間題であることが指摘された。

 「医療過誤に比ぺて司法遇誤が顕在化しない理由。冤罪・誤判が闇に葬られやすいのは」
 後の裁判は置くとして、医療過誤については、それ自体、身体の急激な変化などによって隠し切れない面があるが、司法過誤の場合は、紙に書かれた判決の合理性、非合理性をめぐっての判断のため、極めて分かりにくい面があること。対立当事者がいて、裁判官が軍配をあげる形となるため、刑事弁護のミスが顕在化しにくい面があり、冤罪・誤判は、本来闇に葬られやすい構造にあるとの指摘があった。

 「冤罪を構造的に生み出す土壌」「刑事司法教育の必要性?」
 お上を信用し過ぎるという日本の風土。当番弁護士に対し「自分はやっていないので弁護士はいらない。弁護士を頼めばやっていると思われる。警察はわかってくれる。最後は裁判所が分かってくれる」という、よくある冤罪被害者の話など。なぜ日本ではそうなのか。アメリカなどとは違って、お上にまかせれば大丈夫と考える土壌。自分で闘い、お上には決してまかせないのが自立した市民であるはず。なのにその精神が欠けている風土。第一の要因として、教育の問題が極めて大きいことが指摘された。すなわち、ぺ一パー上の「三権分立」礼賛だけが教え込まれ、刑事裁判の実態が一般には何も知らされていないこと。せめて高校ぐらいでは、具体的な事件にそって、刑事司法、讐察、検察の実態を教えるべきであること。司法修習所においてさえも同様のありさまで、「建前論」に終始。弁護士となって社会へ出て、その一部のみが冤罪事件と出会って初めて大きなギャツプを知るといった具合で、一般国民においておや、という間題。さらには裁判で無罪となっても、「ほんとうはやっているのではないか」と考えてしまう私たちの国民性について、「マスコミ報道」の間題が、極めて大きいことが話された。

二、冤罪国家賠償請求訴訟はなぜ棄却されるか
 「死文と化している裁判国賠の現状」
 国賠裁判は惨憺たる状蟹にある。それを支えているのが、前述の国民のお上意識であり、「松山事件」や「高畑裏件(遠庫裏件と同僕のひき連げ貫棄裏件)」を例にしながら、国賠裁判が棄却されつづけている現状が報告された。

 「事実と証拠の問題なのか?」「官僚司法(お上の裁き)の行きつくところは」
 では、その棄却理由とは何か。「事実と証拠」の問題なのか。それについて阿部さんは、判決は単にその問題へと仮託して(装って)いるに過ぎないという。本来「国賠」の本質は、お上の仕事に非をならすことにあり、お上は最初から非は認めたくないという大前提があるということ。よほどの事件ではないと勝てないという現実。勝つにしても、起訴の事案認定の判断には手をつけないで、拘置に至る判断が違法などというような形で、できるだけお上の非の限度をとどめようとする。遠藤事件において、検察官による検面調書の偽造という驚くぺき事実があるにもかかわらず、裁判所は、苦しい言い訳のなかから、筆跡鑑定を採用せず、もはや国賠裁判において官僚司法には期待できない現状が語られた。

 「事態打開する途は」「司法改革に期待できるか」
 では、事態を打開する途はあるか。結論としては、春の時代が一度も来ず、いまだ冬の時代がつづいている現状。打開に向けては極めて難しい事態にあり、「司法改革」もまた、結局期待はずれの結果に終わってしまった。裁判員制度は、現在参審制度に近い形で模索されているが、いまのままでは冷ややかな目でみるしかなく、「官僚司法」の根本を打破するためには、本来「陪審制」しかないこと。現在は、いまだ闘いの長い長い途上にあるとの認識が示された。

 「最後に、会場からの質問を受けて」
 警察の違法捜査、違法取調べを裁判所に認めさせる際の一番効果的なポイントは何かとの質間を受けて、阿部さんは、「何よりも法廷で、裁判官の面前に、警察の失態をさらすこと。その工夫である」と答えた。スペースの関係で具体的には触れられないが、「放火冤罪事件」のいくつかの事例を聞くと、展開の見事さにうなってしまう。逆にいえば、警察はときにそれほどにも杜撰であるということだ。「無実のゴビンダさんを支える会」の支援者からは、多大なエネルギーと時間を使っての支援運動の効果の問題に触れ、阿部弁護士のキャラクターにも関連づけ、戦略的、効果的な支援運動の方法についての質間があった。阿部さんは、いまの日本の風土のなかに裁判所がそのまま乗っかっている現状があり、ひとつひとつの事件を通して、ひとりひとりが語り部となって実態を知らせていくこと、それ以外に特効薬はないとの答えであった。
 また、別の質間に対し、検察官から福祉活動家へと転進したある高名な法律家の書いた本(司法修習所の副読本にもなっているらしい)に触れ、そのなかに、裁判の引き伸ばしを図る麻原の弁護士たちとともに「あの仙台筋弛緩剤事件でも、弁護士が接見したら突然被疑者は否認し黙秘している。いったいこれでいいのだろうか。これでは国民が弁護を信じなくなるし、裁判の信用にもかかわる」などの記述があったとの報告。この高名な法律家にして、すさまじいマスコミの報道によっていかにマインドコントロールされてしまったか。私たちの国の風土・土壌が、司法の場において、根深くかかわっている問題の大きさが語られた。だからこそ、「人類の英知である憲法に立ち戻り、弁護依頼権の権利を守り抜くことこそが重要である」という阿部弁護士の指摘は、あらためて重要なのだと思う。
 「松本サリン事件の経験はどこに行ってしまったのか」という問いかけが無くなる日が来るのだろうか。阿部さんを見ていると、決してめげない、氏のような闘いのひとつひとつを通してのみ、そうした途が開けるのだという以外ないような気がする。
 私たちもまた、阿部弁護士に見習いつつ、ともに闘いをつづけていきたいと思う。

                    以 上

( O 記 )

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