Date: Sat, 31 Mar 2001 02:17:04 +0900
To: keystone@jca.ax.apc.org
From: "M.Shimakawa" <mshmkw@tama.or.jp>
Subject: [keystone 3741] [aml]舞鶴、相馬原にヘリ基地完成
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X-Sequence: keystone 3741
Reply-To: keystone@jca.ax.apc.org
 

   (from 『オルタナティブ運動情報メーリングリスト』 改行位置等若干変更)
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 Date: Fri, 23 Mar 2001 18:29:54 +0900
 From: 和田 喜太郎 <YRX00535@nifty.ne.jp>
 Subject: [aml 21401] 舞鶴、相馬原にヘリ基地完成
 

【海自(舞鶴)陸自(相馬原)の新飛行場相次いで完成】

<海自・舞鶴飛行場の開港>
 かねて舞鶴市の長浜に建設中だった、海上自衛隊のヘリ基地が完成し、3月22日に
開港運用開始され、同24日に開港式典、31日には一般公開される。96年に総工費
約290億で着工され、約22万平方メートルの敷地に、滑走路( 45×400)・格納庫
(2棟)・体育館・管制塔・隊員宿舎(6階)・航空隊庁舎など(3階2棟)の建物の
ほか、周辺山間地に各種レーダ、航空灯台などが設置された。
 これにより護衛艦「はるな」(3機)「みねゆき」「はまゆき」(各1機)の搭載ヘ
リ(SH−60対潜哨戒機)6機が常駐、あらたに第123航空分遣隊(約 100人)・第2
1整備補給分遣隊(約90人)・舞鶴航空基地隊(約 180人)など計約370人によって
編成され、日本海側唯一の海自航空基地となった。
 舞鶴は「舞鶴地方隊」艦隊基地であると同時に、護衛艦「はるな」を旗艦とする「第
3護衛艦隊群」の母港でもある。しかし航空整備基地がないため、ヘリは館山(千葉)
に常駐、「はるな」も佐世保に常駐するなどの状態がつづいた。これをもって自衛隊関
係者は舞鶴を「欠陥基地」などと言っていた。97年にイージス4番艦「みょうこう」
が同第3艦隊に配備され、99年のいわゆる「不審船」追跡銃撃事件を契機に、高速警
備艇の配備や特別警備隊(約60人)編成も予定されるなど、朝鮮半島有事に備えた「防
衛」体制が一段と強化されるにいたっている。

<陸自・相馬原飛行場も完成>
 陸自第12師団の「機動」旅団化に伴い、同相馬原演習場(23万平方メートル)内に
建設中だった相馬原飛行場(群馬県榛東村)も2月に完成、3月末には引き渡される。
 99年に着工、滑走路( 30×500)と誘導路、駐機場(4万1000平方メートル、コン
クリート舗装)・格納庫(2棟)・消防車庫・燃料タンクに、管制塔(6階)・管理庁
舎などの建物で、観測小型ヘリ(OH-6)5機、大型輸送ヘリ(CH-47)8機など13機
が配備される。(滑走路や誘導路があることから小型固定翼機なども離着陸できる。)
 これまで陸自大型輸送ヘリと言えば陸幕直轄の第1ヘリ団(木更津)だったが、方面
隊に配備されるのは今回が始めてとなる。これらは「9師団・6旅団体制」(2010年完
成メド)整備のなか、機動力をもった都市部対ゲリラ戦を想定した「政経中枢・戦略機
動旅団」の構想などとも言われ、三個中隊規模(約 500人)の部隊は米国への訓練派遣
も予定されている。

<民間共用空港という幻想>
 88年にヘリ基地設置案が舞鶴総監部から表明され、これに対し舞鶴市議会は設置反
対を決議した。舞鶴は帝国海軍四大軍港の一つで海軍工廠など空襲をうけ、戦後は中国
やシベリアからの引揚げ港となったことから市民は戦争の愚かさを見ている。50年に
は「旧軍港都市転換法」が施行され非軍事平和都市をめざした。
 しかし、保安庁警備隊がいつの間にか海上自衛隊となり東港を占有、どうにか西港だ
けは商業港として使い分けしてきた。蜷川革新府政の影響のもと、軍事施設拡大はある
程度制限はされてきたとも言われるが、利益誘導型保守首長出現のなか、ヘリ基地建設
反対決議は撤回されるに至る。
 当時(89年)の町井市長と防衛庁が建設合意したのは、散在施設の集約化(土地交換
等)、騒音規制や市民の安全保障、災害緊急時の基地使用などのほか、地元の活性化を
図る「民間共用」空港とすることだった。しかし結局できあがってみれば、建設合意の
目玉であったはずの民間利用は、市民に幻想を与えただけで民間機格納庫の片鱗もない
ものだった。聞けば約20年近く運行実績をみないと開設メリットがないという。何だ
かよく分からない理屈だが、そんなことは始めからわかったはずである。

<浮島丸フィールドワーク>
 敗戦9日目の8月24日、朝鮮人労働者や家族を乗せ、釜山をめざして帰国途中の浮
島丸が舞鶴に寄港したとたん、原因不明の爆沈で25人の船員を含め524人が犠牲と
なった。これらの事件経緯についての学習と殉難碑めぐりなど、京都・大阪の戦後補償
裁判関係グループが企画し呼びかけたフィールドワーク(3月20日)に参加した。
 舞鶴へは89年当時の、ヘリ基地建設反対運動以来の訪れとなったが、22日の開港
前のこともあり、断片的な浮島丸事件についの情報も補充することができた。
 舞鶴と言えば、引揚げ記念会館や旧海軍レンガ街など観光の目玉とする。引揚げ記念
館では予想通り「岸壁の母」が終日流れ「興安丸」の展示はあっても浮島丸の記録はな
かった。また自衛艦や海軍記念館見学も土日・祝日に公開するなど、舞鶴の観光コース
となっているようだった。午前中は「真相究明委員会」のリ・ビョンマンさんの案内、
午後は須永安郎さん(ヘリ基地を許さない舞鶴市民の会)の案内で、戦前の軍事施設が
今も使われている状況や開港直前のヘリ基地を観察した。
 
<全国初の原発防災訓練>
 舞鶴ヘリ基地開港と同じ22日、関電高浜原発3号炉が事故を起こしたと想定、半径
8キロ周辺の舞鶴市・綾部市・福井県などで全国初の原発防災避難訓練が行われた。
 舞鶴湾からひと山越すともうそこは高浜町。99年2月、護衛艦「はるな」が機関砲
の誤射事件をおこしながら隠蔽され6月に明るみにでた。実弾は青葉山に当たったが、
もし山を越えていたら高浜原発に命中するところだった。春になり中国大陸から黄砂が
やってくる。放射能を含んだ風は「8キロまで」とは限らない。
 
01/03/23 和田



 
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