Date: Wed, 18 Oct 2000 23:25:41 +0900
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Subject: [keystone 3179] 共同の力で、九条改憲を阻止するために
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【問題提起】  共同の力で、九条改憲を阻止するために
 
          発信者=井上澄夫(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)
          発信時=2000年10月18日
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 以下、本文
 
  〈憲法を活かす生き方〉について
      ―九条改憲阻止運動を発展させるための試論―
 
           井上澄夫(戦争に協力しない!させない!練馬アクション)

  昨年末、佐賀県で「信教の自由」に関わる重要な訴訟が起こされた。同県鳥栖
(とす)市に県外から転入した夫婦が、月額500円の自治会費に神社費が含ま
れていることに気づき、神社費を除く相当額の自治会費の支払いを自治会に申し
入れたが、認められず、総会への出席通知が来ないなど不当な扱いを受けた。こ
れは「信教の自由に反し違憲」であるとして、自治会員の地位確認や慰謝料など
を求める訴訟を、佐賀地裁に起こしたのである。
  被告の自治会側は、「神社費を支払うのは、歴史的伝統にのっとった習俗で、
それにより地域の和も保たれてきた」と反論している。裁判は進行中であり、そ
れについては田中伸尚氏の報告「〈ルポ〉自治会神社費拒否訴訟」(本年6月号
『世界』)を参照してほしいが、ここで紹介したいのは、この訴訟が佐賀市の他
の自治会に好ましい影響を及ぼしつつあることである。

  西田代町自治会はこれまで、県護国神社を含む市内の三神社に、自治会費から
の寄付を続けてきたが、本年4月の総会で、本年度予算からの削除を決定した。
「特定宗教のための一律徴収はおかしい」と言う声があがったことに対応したも
ので、同自治会長が「いろんな考えや信仰を持つ人がおり、一人ひとりを尊重す
るためには現状の方法には問題がある」と、執行部として削除を提案したのであ
る。
  それ以前に、多布施三丁目自治会が自治会費からの神社奉賛金の支出を取りや
めていたが、西田代町自治会の決定の直後、県営鍋島団地自治会も、本年度予算
から神社費を削除した。
 先の裁判の決着を待たず、「信教の自由」が、佐賀市内で定着し始めたのであ
る。
 自治会員は地域の神社の氏子であって当然という「常識」が通用している地域
が、この国にはなお無数に存在しているのだから、佐賀市で起きていることは、
特筆すべきである。しかしこのような事態は、個人の内面の自由という、人間に
とって最も大切な価値の一つである「信教の自由」が、いまだに社会生活の規範
になっていないという深刻な現実を照し出すものでもある。
 
  憲法問題を論議する際、なにより大切なのは、「〈改憲〉対〈反改憲〉」とい
うカテゴリーで一括して、現憲法の是非をあげつらうのではなく、日本国憲法の
諸規定のうち、どの部分を、普遍的な価値観に基づく重要な規定ととらえるの
か、それをまず明らかにし、それらが、どれほど活用され、実現されているか、
いないか、その点を検証することだろう。しかしその検証作業は、現憲法を支え
る基本的な原理(主権在民主義、非武装平和主義、人権実現主義)を否定するた
めではない。
 現憲法が旧憲法よりはるかにマシであっても、もとより完ぺきであるはずはな
い。まして制定から半世紀余も経れば、制定時には想像することさえできなかっ
た現代的な問題がいくつも起きてくるのは当然である。だがそれらの現代的諸問
題は、「現憲法に明確な規定がないから」生じたのではない。そのアタリマエの
ことを、何度でも強調したい。

 日本国憲法は、この国のありようの基本を定めているのであり、歴史の進展に
つれて次々に生起する〈現代的諸問題に対応する法を、どういう原理に基づいて
制定すべきか〉を示しているのである。
  したがって、新たに生起する様々な問題への対応は、まず既存法体系をもって
なされねばならず、それで不十分なときは、新規の立法によって問題を解決す
る。その際、新たに制定される法が依拠すべき原理を明示しているのが、憲法な
のである。
 憲法であれ、それに基づいて制定される法であれ、どうあっても歴史的な制約
を免れることはできない。だから、その気になれば、いくらでも「難点」を指摘
することができる。

 だが、現在なされている「憲法論争」は、本質的に問われている問題を脇に置
いたまま、展開されているのではないだろうか。実は問題の基底にあるのは、現
憲法を成立させている基本原理(以下、憲法原理と略すこともある)をどうとら
えるか、ということなのだ。
 いま現憲法にあれこれケチをつけている人びとの本当のねらいは、現憲法の土
台でもあれば骨格でもある、主権在民主義、非武装平和主義、人権実現主義など
の基本的原理や、それらが依拠する普遍的価値観を転覆することなのだ。当面、
攻撃は第九条にしぼられつつあるが、改憲派のめざすものは、経済における新自
由主義(ネオ・リベラリズム)に対応する新国家主義の実現である。21世紀以
降、日本国家が、世界を牛耳る列強の一員として生き残るには、それにふさわし
い国家再編、新国家への脱皮が不可欠であり、まさにそのために、新しい国家の
土台・骨格をなす新憲法が必要なのだ。

 だが改憲派も、世論の現状を無視するわけにはいかないから、憲法を成立させ
ている基本原理を、いきなり正面から否定する手法は採りにくい。だから、とり
あえずはまず、現憲法が占領軍に「押しつけられた」と論難したり、現憲法が
「時代遅れ」であると強調したりして、改憲ムードを煽り、憲法原理の外堀を埋
めようというのである。そういう扇動を続けながら、次第に焦点を九条改憲に絞
り込み、そこを突破口に、〈新憲法に基づく新国家の建設〉を展望しているの
だ。
  しかし、現憲法を成立させている原理の是非に触れることなく、憲法の条文
に、あれがない、これが足りない、ここがおかしいと「欠点」「短所」をあげつ
らいながら、それらが、いかにも憲法原理そのものが持つ問題に発するかのよう
に、論点をすり替えて、憲法原理そのものを葬り去ろうとする手法は、詐欺とい
わねばならない。この本末転倒の詐術の犯罪性こそ、声を大にして指摘されねば
ならないのだ。

  実例をあげて考えてみよう。環境問題は、いよいよ深刻な相貌を見せ始めてい
る。ゴミ焼却から発生するダイオキシン、JCOの臨界事故などは、私たちの生
活を、新たに襲い始めた脅威である。公害対策基本法やそれに基づく関連法、あ
るいは既存の原子力関連法では、もはや対応できないとするなら、新たに包括的
な環境基本法を制定すべきであろうし、それが、既存の法の修正や廃棄、あるい
は新規立法の基本になるはずだ。
 そのような場合、新たな基本法の制定に当たって無条件に依拠すべき基準が、
主権在民主義と基本的人権のまったき実現という原理であることを、現憲法は、
明確に規定しているのだ。
  いま私たちに迫りくる環境上の深刻な脅威に、既存の法が対応できないという
なら、それは、行政の怠慢や、財界の意向におもねる政府の、意図的なサボター
ジュによるのである。その事情を理解するには、公害対策基本法が一定の力を発
揮するまでに、どれほど多くの痛ましい被害の広がりがあったか、それを想起す
るだけで十分だろう。

 〔公害対策基本法は、1967年に制定されたが、それは公害発生源の企業に
きわめて有利であり、むしろ全国的に汚染を広げた。そのため、同基本法は、7
0年に全面改定された。そしてそれに伴い、従来の関係法が廃棄され、新たに1
4の関連法が制定された。〕
 
 ところで、現憲法には、最重要の規定として、「象徴天皇制」が掲げられてい
る。それが、この国の民主主義の発展を妨げ、支配層による「国民」統合を容易
にしていることは、言うまでもない。「象徴天皇制」は、まるで悪性腫瘍のよう
な役割を果たしている。
現憲法の基本原理の体系からみても、「象徴天皇制」にかかわる条項は、きわめ
て不自然な〈接ぎ木〉のようなものである。だから天皇制関連条項をそのままに
しておけないという主張は、当然でもあれば正当でもある。だが、〈この今〉、
それを改憲必要論として主張とすることが、政治的に妥当かつ有効だろうか。
  憲法問題に関して、当面、私たちが、共同の力をもって立ち向かうべきは、九
条改憲の動きである、と私は思う。《九条改憲を許さない運動》を、ともに、ど
う発展させるかを明確に打ち出しつつ、天皇条項の問題を突き出し、共同の重要
課題にすることは、不可能であろうか。

 この国が、「民の国」になるためには、骨がらみ親天皇、天皇制支持である人
びとや、そこに傾斜しがちな人びとの心情の根をどうやって絶つか、そこに触れ
ないわけにはいかない。
 その際、当面、最もわかりやすい切り口は、「日の丸・君が代」の強制問題、
あるいはA級戦犯分祀による靖国神社の特殊法人化(非宗教化)―国営化の問題
などであろう。そういう問題を明確に、繰り返し提起しつつ、九条改憲阻止運動
をともに担うことは、むろん可能であろう。
  「護憲」を掲げる人びとは、「象徴天皇制」にどう向き合うかについて、答え
を出すべきだろう。「改憲派にスキを与えないために、現憲法を批判すべきでは
ない」という心理が働くなら、それはかえって政治の現状を無視する不誠実な態
度であると私は思う。そこを越えて、かりに、この国を徹底的に民主化すること
によって「象徴天皇制」を骨抜きにすると主張するなら、それを「いかにして」
実現するかを鮮明に語るべきだろう。

 現憲法から天皇制関連条項をすべて削除することを、私は求め、支持する。し
かし「論憲派」の支援を得て九条改憲派が勢いづいているこの現状、今にも奈落
の底に落ち込みそうな、この危険な情勢の下で、自ら「改憲派」を名乗り、九条
改憲派の改憲ムードを「左」から煽る気はない。「角(つの)を矯(た)めて牛
を殺す」手法を、私は採らない。
 言うまでもなく、私たちの眼前にある天皇制は、すでに「象徴天皇制」ではな
い。「皇室外交」なるものが果たしている国際政治における役割をみるだけで、
それは、誰にもわかる。天皇は、事実上、元首に限りなく近づけられつつある。
その意味でこの国は、戦前と同一ではないまでも、やはり一種の「天皇制国家」
に変質しつつある。 
 しかし、この忌まわしい現実は、そもそもどのような事情、歴史に由来するの
か。問題をそこから考えることが必要だろう。

 敗戦直後の日本の民衆は、自らの戦争責任を自覚すること、実(まこと)に微
弱であり、それゆえ「象徴天皇制」を受け入れてしまった。裁くべき者たちを裁
く気力さえ持たぬ日本の民衆は、天皇制の存続を、九条と引き替えに容認させる
旧支配層の戦術に、見事に引っかかってしまったのである。天皇制の存続は、そ
ういう負の歴史に由来する。その克服が容易でないことは、95年の「戦後五〇
年国会決議」を初め、この国の戦争責任・戦後責任をめぐる状況が、うんざりす
るほど証明している。
  であればこそ、九条改憲の策動をはねのけ、現憲法の土台や骨組である基本原
理と、それを支える普遍的価値を実現する共同の事業は、日々新たに開始されね
ばならない。だがこれまで、そのような努力が十分なされてきただろうか。
 かつて勢いがよかった「革命派」は、主権在民主義、非武装平和主義、人権実
現主義という、日本国憲法を支える基本原理と、それらが依拠する普遍的価値を
実現する努力に、総じて背を向けてきたのではないだろうか。
 一方「護憲派」は、戦後天皇制に触らず、あるいはそれと妥協したり、積極的
であるか消極的であるかはともかく、それを支持したりしつつ、現憲法を支える
基本原理がどう実現されているか、いないかについて、きめ細かい検証をなさぬ
まま、「護憲」を単なる金看板とし、現憲法の空洞化に協力してきたのではな
かったか。共産党の路線転換によって、自衛隊容認を基軸とする翼賛体制が完成
したが、その事態こそ、戦後「護憲」勢力の内実をあからさまに象徴している。
  どこまでも「護憲」という言葉にこだわりたい人びともいるだろう。私は、そ
れを批判しない。しかし、たとえば「アイ・ラブ・憲法」という標語を用いる時
も、「象徴天皇制」への向き合い方が鋭く問われることが、常に意識されるべき
だろう。そしてやはり「象徴天皇制」は問題であるというなら、自分たちが立ち
向かう課題をはっきりさせるために、「九条護憲」などとすべきではないだろう
か。
 
 朝日訴訟(後註参照)が、かつてこの国の社会福祉・社会保障政策に及ぼした
影響を振り返り、愛媛玉串料訴訟の最高裁勝訴判決に続いて、佐賀の訴訟の及ぼ
しつつある影響を凝視するにつけ、〈憲法を活かす生き方〉が、どれほど重要
か、改めて考えざるを得ない。
 私たち一人ひとりが〈憲法を活かす生き方〉を実践することと、憲法調査会の
動向などに機敏に対応することとを、いわば車の両輪とするなら、私たちの九条
改憲阻止運動は、もっとふくらみのある、もっと豊かなものになると私は思うの
だが、どうだろうか。
 
〔註 朝日訴訟=1957(昭和32)年8月、国立療養所に入院中の朝日茂
が、生活保護制度において支給される日用品費があまりに低額すぎて、憲法第2
5条に違反するとして提訴した訴訟。この訴訟は、憲法第25条の規定する生存
権の具体的制度化を求めた訴訟として最初のものであり、当時「人間裁判」と呼
ばれ、国民的な広がりをもつ社会保障運動をひき起こし、その後の社会保障訴訟
とそのための運動の先駆となった。最高裁では原告の敗訴に終わったが、第一審
では原告が勝訴し、生活保護基準の大幅引き上げなど、生活保護制度の改善がす
すんだ。
 出典・『戦後史大事典』(三省堂)
 
*日本国憲法第25条 
  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
  二 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向
上及び増進に努めなければならない。〕
 
◎本稿について◎ 
 執筆者は、憲法学や法学の専門家ではない。だから本稿の憲法解釈、あるいは
憲法とそれに基づく法との関係などについては、見当違いがあるかもしれない。
憲法や法学を専攻している方々が、問題を指摘して下さることを切望する。
 たとえば私は、従来「基本的人権の尊重」と表現されてきた現憲法の基本原理
の一つを、あえて「人権実現主義」と記した。それは私が、人権には、基本的で
あるものと、そうでないものがあるのか、という疑問を持っているからである
が、もう一つ理由がある。
 人権というものは、その権利の主体たる〈私〉が、まず自分の人権を自分自身
の努力によって実現しようとする意志に始まるものであり、そのような意志を持
つ〈私たち〉が相互に保障し合うところに成立する、と私は思う。
 個々人が帰属する国家・社会は、それを保障すべきである。しかしかりに人権
というものを、棚から落ちてくるボタモチのようにとらえるなら、〈私〉と〈私
たち〉の人権は、永遠に確立されないだろう。人権は、まずなにより自ら実現し
確立すべきものであるが、現実の国家は常にそのような意志を、妨害し、抑圧す
る。だからそうさせないために、国家に「人権の尊重」が義務づけられるのだ。
尊重をいうなら、〈私〉は〈私〉の人権の実現に努力しつつ、他の〈私〉の人権
の実現に協力しなくてはならない。
 そういう思いを込めて、「人権実現主義」という表現を使用した。
 
  執筆者は、すでに大きな流れと化している改憲の動きに抗して、九条改憲阻止
運動をどうすれば成長させることができるか、そのことに神経を集中しつつ、本
稿を起こした。副題に明示したように、本稿は、あくまで試論であるが、「九条
改憲阻止運動を、どう進めるか」の議論の活性化に、いささかなりとも資するな
ら、幸いである。
                    脱稿・2000年10月18日
 



 
  • 1998年     3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
  • 1999年     1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
  • 2000年     1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月

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