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X-Sender: kaymaru@mail.jca.apc.org
Date: Thu, 30 Mar 2000 18:29:20 +0900
To: keystone@jca.ax.apc.org
From: "MARUYAMA K." <kaymaru@jca.apc.org>
Subject: [keystone 2516] Re: 陳情案件について。
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X-Sequence: keystone 2516
Precedence: bulk
Reply-To: keystone@jca.ax.apc.org

At 3:37 PM +0900 00.3.30, 三宅俊司  wrote.
> 沖縄県議会に対する一坪反戦地主排除等の陳情は、本日午後2じ10分
> 自民党ほか多数により採択されてしまいました。
> 「国旗国歌推進県民会議」から提出された陳情を受けてなされたものですが、
> 民主主義の自殺を意味する決議です。
>   代表者は、採択を受けて日の丸のついて扇子を振って喜んでいたそうです。
>   国の方針に反対する者は排除、国の定める歴史観に反すれば排除すると
> いうものであり、まさに、戦前の国家主義を彷彿させるものであり、きわめて
> 危険な状況が、しかも沖縄から始まったということに重大性があると思います。
>  採択されましたが、今後とも継続して、県議会に対する抗議を継続するよう
> 訴えます。
>  採択に賛成した議員は、民主主義を否定するファシストであり、民主主義
> の再生をはかるためにも、本年6月に予定される県議会議員選挙では、絶
> 対に落選させなければならないと考えます。
>  抗議行動の継続をお願いします。
>         三   宅   俊   司  

 丸山です。私は議員という人種についてはほとんど幻想を抱いていないつもりでし
たが、ここまで憲法をないがしろにする感覚がはびこっているとは想像していません
でした。前便( [keystone 2510] )を出したことを悔いています。   

 =========================
本会議での採決で、午後2時8分陳情案件可決。
賛成 25、 反対 22  3票差。
公明党は反対に回った。    
 =========================

 あれを恥と感じない人間が25人もいるのか。絶句。

 
At 11:07 AM +0900 00.3.30, NAKADA Hiroyasu  wrote.
> 仲田です。
> 本題とは関係のない疑問。どなたか教えてください。
>
> いわゆるマッカーシー旋風を一般に「赤狩り」といい、日本で行われた
> 同様の動きを「レッドパージ」と表現しています。
> なぜ、そうなっているのでしょうか。

 レッドパージ(red purge)は英文ではほとんど出てきません。使われている例で
は、いわゆるの意味で、"red purge"ですね。

 日本では、GHQが1950年6月に共産党員などの公職追放指令を出しているの
で、それまであった「赤狩り」とは区別してレッドパージと言うのでしょう。

At 2:04 PM +0900 00.3.30, smori@jca.ax.apc.org  wrote.
> こんにちは、森です。
>
> At 11:07 +0900 2000.03.30, NAKADA Hiroyasu wrote:
>> いわゆるマッカーシー旋風を一般に「赤狩り」といい、日本で行われた
>> 同様の動きを「レッドパージ」と表現しています。
>> なぜ、そうなっているのでしょうか。
>
> 戦後、民主化の過程で、実際にはどうであったかは別にして「戦争に責任あ
> る軍国主義者」の公職追放が行われたわけですが、この動きはその後の反動
> 過程で日本共産党や在日朝鮮人に対する公職追放へと姿を変えていったよう
> です。当たっているかどうかは分かりませんけれども、何故異なる表現とな
> っているのかと考えると、単なる政治的キャンペーン(魔女狩りを語源とす
> る赤狩り)ではなかったことが、そのような異なる表現を与えたのかなとい
> う気がするのですが。

 軍国主義者の公職追放とレッドパージはまったく別物です。政策の変更ですから。

 赤狩りが魔女狩りを語源としているという意味がよく分かりませんが??

 以下、『ベスト&ブライテスト』デイヴィッド・ハルバースタム(朝日文庫)から
引用します。あまりにも荒唐無稽なことが、言い出した本人の予想以上に一人歩きす
ることがある。常識では噴飯ものでも、看過するのは危険だという教訓です。今回も
それに当たりそう。のんびり構えているうちに、世の中は予想以上に悪い方向に向か
っているようです。

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反共主義という幻想の遺産

  時代と偶然が生んだテマゴーグ
 (中略)

 マッカーシーは一九四六年、あまりにもリベラルであまりに自信の強かったロバー
ト・ラフォレットを相手に、戦争中の功績を針小棒大に吹聴して、共和党予備選挙に
勝ち、ウィスコンシン州の上院議員候補となった。「私を含めて何百万という兵士が
戦ったからこそ、諸君はいま日本語を話さなくてすむのだ。……議会には勇気ある兵
士が必要なのだ。……アメリカは闘う勇者を求めている。……外国の地にあって戦い
アメリカを救ったものこそ、平和のいまアメリカのために奉仕する権利をもっている
のである」

 彼は本選拳でも勝ち、上院議員となった。彼は力強くたくましく、候補者として優
れていた。ポピュリズムの根強いこの州にあって、彼にはポピュリストの血が一部流
れていた。また彼は、抜け目がなく手品師のように各種の問題を扱ったが、どこか真
剣さに欠けるところがあり、一つのことに注意を持続できる時間は驚くほど短かっ
た。

 上院に送られてから三年間、彼は自分が得意とする争点を探していた。いつまで日
本人を攻撃していてもらちがあかない。一九五○年一月、彼はそれを発見した。一月
七日、彼は友人、すべてカトリック信者の友人とタ食をともにしていた。海兵隊出身
でドリュー・ピアソンのリベラルな顧問であったウィリアム・ロバーツ、ジョージタ
ウン大学の政治学教授で同じく元海兵隊のチャールズ・タラウス、それにジョージタ
ウン大学副学長のエドモンド・ウォルシュ神父である。とくにウォルシュは同大学の
きわめて保守的な外交学部の部長でもあり、三十年以上にわたる共産主義との闘いを
一冊の本『トータル・パワー』にまとめて出版したところであった。

 夕食の席でマッカーシーは、有権者の注目を集め彼らを動かせるような争点が欲し
いのだと自分の抱える問題を訴えた。セントローレンス河の水路計画はどうだろう、
とロバーツが提案した。セックス・アピールに欠けるな、とマッカーシーが言った。
次にマッカーシーは国民年金計画はどうか、六十五歳以上の老人に月一○○ドル支給
するんだ、と説明した。少し理想主義にすぎないかな、とほかの出席者はあまり感心
しなかった(もしマッカーシーが赤狩りでなく年金計画に情熱を注いでいたら、とい
う思いが一瞬心をよぎるのである。そうだとしたら歴史は変わっていただろうか)。

 夕食のあと彼らはレストランを出てロバーツの事務所に行った。ウォルシュ神父は
得意のテーマ、共産主義について話しはじめた。これは大きな問題だ、これからもそ
の重大性は増すばかりだ、と彼は言った。ウォルシュが話すのを聞いて、マッカーシ
ーはこれだ、と膝を叩いた。これまでにも一回か二回この問題をとりあげたことがあ
る。いつも確かな手応えがあった。考えれば考えるほど、マッカーシーは興奮してい
った。これこそ本当の争点だ。これは使える。考えてみれば、政府は共産主義者で一
杯ではないか。「要するに連中を叩き出すことだ」と彼は言った。同席者の中にはこ
れは十分調査し注意深くかからなくてはならない、と忠告するものもいた。(のちに
彼らはすべてマッカーシーと絶縁する)。だが、もう遅かった。マッカーシーはすで
にこの考えに夢中であった。

 一九五○年二月九日、彼はウエストバージニア州ホイーリングに飛び、ここで最初
の赤狩り演説を行った。「国務省職員の中で共産党員およびスパイ団の団員と名指さ
れたものすべてをここで発表するだけの時間はないが、私はいまここに一つのリスト
をもっている。これは国務長官に共産党員であると報告されていながらも、依然国務
省で働き政策決定にあずかっている二百五名のリストである」。タイミングはまさに
絶妙であった。四ヵ月後には朝鮮戦争がはじまる。国務省では中国専門家はすでに信
用を失墜しており、アメりカの行動が中国からどのような反応を招くかについての彼
らの警告に耳をかさなかったから、中国が朝鮮戦争に介入する事態となった。中国が
介入したから、中国専門家に対する反共主義的非難は一段と高まった。
 一つの悪循環であった。いよいよ本格的に事ははじまった。争点が定義された。そ
れは誤った争点であった。真の問題は戦後の恐れと不安感にあったのである。マッカ
ーシーは国中を飛び回った。新しいリストを示し新しい罪状を加え、空港で記者会見
を開き記者団とのよしみを通じると、次の町に飛んで行った。彼の非難の空疎さは次
々に彼が発表する新しい非難に追いついていけなかった。報道機関も誤った客観主義
のために、徹底的に利用された(有力な政治家や高官が何か言えば、それが事実でな
くとも、ニュースになる。その発言の信憑性について詮索したり論評したりすること
なしに、そのまま報道するのが記者の任務である。それが報道の客観性というもの
だ、という考えである)。

 これはまるでサーカスのようであった。彼はいつも走り回り、新しい種を次々に仕
込んだ。彼の行動にはどこが危なげなところがあり、本来の国家安全保障の問題に真
剣な関心を払っているようには見えなかった。時には、彼自身がことの成り行きに驚
いている様子すらあった。こんな簡単なこととは知らなかった。もっと反論が出ると
思っていたのに。調子に乗って彼はより新しい、より大がかりな罪状を掲げて突っ走
った。彼の非難が実証されないとしても(そして事実、実証されなかった)、その非
難の破壊的効果には変わりなかった。火のないところに煙はたたない。何もないな
ら、彼がこんなことを言うはずがないではないか。

 事実(というより事実の不在)が蒸発したあとも、汚染だけが残った。こまかい具
体的非難を人が忘れても、傷やシミは残った。小物ばかりでない、アチソンやマーシ
ャルまでが汚染され、傷ついた。民主党と国務省も同じ目にあった。彼はとどまると
ころを知らなかった。自分たちこそ反共主義のあり方と限界を決定する立場にあると
考えていた政府の最高幹部にまで、彼の攻撃の手はのびていった。

 これら一連の事態を、共和党は必ずしも不愉快に感じていなかった。マッカーシー
の強さは彼自身の能力や聡明さにあったのではない。問題の本質を的確に把握すべき
であった人びとの拱手傍観が彼に力を与えたのである。

 あの時代、まともに行動したものはほとんどいなかった。報道関係者は彼の意のま
まに利用された。彼に立ち向かい戦った報道人は稀であった(あの有名なエドワード
・R‐マローによるマッカーシズムのドキュメンタリーも、マッカーシーが陸軍を攻
撃したあとの一九五四年三月、実にホイーリングでの演説から四年後に初めて放送さ
れたのである)。あたかも報道機関そのものが、マッカーシーの攻撃の前に、過去の
罪を詫びて悔い改めているかのようであった。

 民主党もマッカーシーに挑戦せず、彼の非難の論拠に反論しなかった。たしかに少
数の民主党員は挑戦を試みたが、議会の党幹部は彼に対決せず、言いたいだけのこと
を言わせて自然に勢いが衰えるのを待つことにした。彼が行きすぎたら、何とか打つ
手もあろう、と彼らは考えた。行きすぎ、とはマッカーシーが共和党自体を攻撃しは
じめるという意味であった。このように民主党は、マッカーシー攻撃の被害者であり
ながら、党としてその力を使うことも戦うこともしなかった。

 だが最悪なのは共和党であった。共和党はマッカーシーを歓迎したのである。彼が
民主党を攻撃すればするほど、共和党にとって都合がよかった。民主党は守勢に立た
されるばかりて、共和党は受益者であった。彼は、ある人の表現を借りれば、「身代
わりに地雷原に放った豚」であった。一九四四年の共和党副大統領候補で伝統的な共
和党保守派のジョン・ブリッカーは、ある日マッカーシーに向かってこう言った。
「ジョー、お前はまったく悪党だよ。でも時には悪党も汚れ仕事に役立つことがある
からねえ」

 黙認していたのは、ブリッカー一人ではなかった。ほかならぬあの高潔の士と言わ
れたロバート・タフトも悪乗りをし、彼の経歴に最も暗い汚点を残すことになった。
タフトはマッカーシーに、一つこの攻撃がうまくいかなかったら、これに執着せず別
の攻撃をかけるように、指示していた(タフトとマッカーシーの奇妙な開係には、個
人的な要素もあった。マッカーシーは病に伏せっているタフトの妻に巧妙にとり入
り、つねに彼女を見舞っては恩を売っていた)。カリフォルニアから選出された若い
野心家の上院議員リチャード・ニクソンは、共和党のよりまともな中間派とマッカー
シーとの橋渡しの役を演じていた。

 騎れる者は久しからず。アイゼンハワーはマッカーシーに自滅の道を開き、一九五
四年マッカーシーの政治生命は絶たれた。彼は調子に乗りすぎていた。一九五○年一
月のあの夕食をともにした初期のプレーンはすでに彼を見放していた。慎重と自制を
忠告する人びとを、彼は断ち切っていた。彼は上院の譴責処分を受け、その後、酒に
溺れた。一九五七年、彼は死んだ。

 だが彼が残した恐怖感はその死後も永く生き続けるのである。彼は辞典に新しい一
つのことば「マッカーシズム」を付け加えた。彼は戦後アメリカ社会に漂っていた恐
怖感をかきたて悪用することによって、国務省と民主党というアメリカ政治の二つの
重要な組織を破壊し、その生存中も死後もアメリカの外交政策をいっそう硬直化させ
たのである。アメリカはこの代価をベトナムで払うことになる。マッカーシーはアメ
リカに遺産として毒を残したのであった。

(以下略)
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 MARUYAMA K.  kaymaru@jca.apc.org
 2GO GREEN (JCA-NET)
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