か ぶ と や ま じ け ん            
冤罪・甲山事件



 第1章 「冤罪・甲山事件」はこうして起きた

    1、 甲山事件とはなにか
    2、 事件のロケーション
    3、 なぜ山田悦子さんは逮捕されたのか
    4、 取り調べと「自白」
    5、 国家賠償裁判
    6、 検察審査会と再逮捕
    7、 偽証罪 ―もう1つのフレームアップ


 第2章 「甲山裁判」― 何が争われたのか

    1、 証拠と検察のストーリー
    2、 3年以上経って出てきた”新供述”
    3、 園児証言は真実を語っているか(青葉寮の模式図)
    4、 園児証言の信用性
    5、 自白は真実ではない
    6、 物的証拠
    7、 虚構の殺人罪 ― 真実への模索
    8、 三つの無罪判決
 
 第3章 「甲山事件・裁判」から見た日本の刑事司法

    1、 冤罪の背景 ― 捜査、裁判とマスコミ報道
    2、 代用監獄
    3、 長期裁判と検察上訴


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    第1章 「冤罪・甲山事件」はこうして起きた


 1-1、甲山事件とは何か

 1974年3月、兵庫県西宮市の知的障害児の収容施設「甲山学園」で、2人の子どもが相次いで死亡するという事件が起きた。まず3月17日の午後、m.さん(女・12才)が突然行方不明となった。懸命な捜索が続く中で、2日後の19日にはs.君(男・12才)が、午後8時の就寝時刻になっても見当たらないことに気付く。当直の職員や、事務室にいたこの裁判の被告たちも、慌てて青葉寮の各部屋を見て回ったり、園児たちにも「s.を知らないか」と尋ねるなどして、必死に園内を捜し回った。結果、その日の夜遅く、2人の遺体が園内トイレ浄化槽から発見された。死因は溺死だった。

 「甲山事件」はこの2人の園児死亡事件を発端として、学園の保母山田悦子さん が、 状況証拠しか無いまま、園児の一人s.君殺害の犯人とされたフレームアップ事件で ある。同時に、山田さんのアリバイを証言した学園園長の荒木さん、同僚の指導員の多 田さんも偽証罪で逮捕され、その後23年間もの長期にわたって被告の座に置かれる こととなった。
 日本の刑事裁判史上最長の経過をたどり、絶望や困難のなか、弁護団をはじめ多く の人の献身的な努力、熱意、膨大なサポートによって、最終的な無罪判決を勝ち取っ た。冤罪事件史上まれにみる、市民の勝利である。と同時に、司法に対し、人権の未 成熟な社会に対して、多くの課題を提示した事件でもあった。


 1-2、事件のロケーション

 事件の起きた社会福祉法人・甲山学園は、兵庫県西宮市の北部、標高390mの甲山(かぶとやま)の西側にある。周辺には墓地・貯水池・寺などがあって、松林に囲まれた静かなピクニックコースとなっている。
 事件当時は、学園には中・軽度障害児の青葉寮47人(男31人、女16人)と重度障害児の若葉寮32人、計79人の子どもたちが2つの寮で生活し、30人の職員が世話をする。彼らの年齢は6才から24才まで、兵庫県の各地から家族のもとを離れ、生活指導と学校教育を受けるために入園していた。学園には、地域の小・中学校から教師が派遣され、園内の学習棟で授業が行われていた。
 事件のあった青葉寮での子どもたちの生活は、午前6時半の起床から午後8時に年少児童(小学生以下)、9時に年長児(中学生以上)の就寝まで、食事、学習、入浴・遊びなどが、決められたスケジュールに沿って、職員の生活介助・指導の下に規則正しく行われていた。日常の生活以外には、季節ごとに、運動会・遠足・キャンプ・クリスマスなどの行事がある。しかし、地域との交流や、園外での生活体験をする機会はほとんどなく、子どもたちは学園の限られた人間関係の中で生活をしていた。


 1-3、なぜ山田悦子さんは逮捕されたのか

 警察は、2人の子どもが連続して行方不明となり、同じ浄化槽から発見され、見つかったとき浄化槽のふた(17kg)が閉まっていたことなどから、翌日には「殺人事件」と断定して捜査を開始した。さらに、事件から2日後の新聞報道によると、捜査本部は早々に、外部からの侵入の形跡がないとして「内部犯行説」を採ったとある。この捜査開始にあたり警察は、捜査方針の重大な誤りを犯したといえる。まず17日と19日の両日、園内にいた青葉寮職員の犯行と決めつけたこと。それは知恵遅れの子どもは犯行を犯すはずがないとして、事故の可能性を含めて、子どもたちのかかわりを排除したということだ。それに加えて、現場の保全、鑑識のすさんさなど、初動捜査の方針と重大な捜査ミスが、この事件の真相究明への道を閉ざしてしまったと言えるのではないだろうか。

 警察の捜査は死体発見のその日から始まる。翌日には学園内に「取調室」が設けられ、園児、職員からの事情聴取が連日行われ、アリバイと殺害の動機を中心に、人権を無視した、個人のプライバシーに立ち入った取り調べが進められた。「職場のなかの誰かが犯人だ」という警察の脅しは、疑われることへの保身、さらに同僚への猜疑へと発展し、学園の職員も父兄も疑心暗鬼の中で分断させられていった。
 事件から2週間が過ぎ、4月に入る頃になると、警察は山田悦子さん一人を有力容疑者として絞っていった。他の職員の供述にも4月に入ると急に、何の証拠もないのに、「山田さんがあやしいと思う」という調書が出来てくる。園児の供述にしても、それまでに親、職員が尋ねても出てこなかった供述が、4月4日の警察官の前ではじめて、園児Aさん(女児11歳)の「目撃供述」として山田さんの名前が出てくる。
 警察は逮捕理由の説明として、
 1, 17日と19日の両日ともに学園内にいたこと。
 2, 19日の午後8時前後の「犯行時間帯」のアリバイがない。 
 3, 園児の遺体が見つかった時と、葬儀の時に激しく泣いて取り乱した。
 4, 園児の一人Aさんの「山田先生がs.君を連れていくのを見た」という警察調書。
  
 いずれも状況証拠でしかないが、4月7日、s.君一人の殺害容疑で山田悦子さんは逮捕されたのである。


 1-4、取り調べと「自白」
 
 山田悦子さんの逮捕は、Aさんの供述調書という間接事実を証拠としていたが、実質的には何らの直接証拠も得られないままの、見込み逮捕であった。証拠がないからこそ、「自白」という証拠を得るための逮捕が必要であったとも言える。
 逮捕・拘束された山田さんは、全く身に憶えのない園児殺害という容疑を押しつけられ、連日10時間もの執拗な取り調べを受けた。10日後、断片的だが「ウソの自白」をさせられている。その取り調べと「自白」の背景はこうだ。
 当時山田さんは、22才。2年前に四国徳島県の短期大学を卒業したばかりの、社会経験の乏しい純朴な女性であった。警察に対しも、敵対心や嫌悪感を持ってはいなかった。むしろ警察を信用していたといえる。(取り調べが終わって釈放された後、新聞を見た山田さんは初めて、警察が自分にウソを言っていた事実を知ったという。これも冤罪事件のひとつの特徴である。)
 
 取り調べは、山田さんの犯行時間帯のアリバイ追及から始まった。「やっていないのなら、アリバイを証明しろ。言えなければおまえが犯人だ、説明できたら釈放してやる」というのである。「本当のことを言えば必ずわかってもらえる」そう信じていた山田さんは、必死にアリバイを思いだそうとした。しかし捜査官は、3月19日事件当日の夜8時前後の行動に1分1秒の説明を要求する。だが一ヶ月も前のある日の夕方、分刻みでの自分の行動が思い出せるものだろうか。山田さんがいくら説明しても捜査官は納得しない。説明のできない、記憶の空白の時間は、「思い出せないのは無意識にやったからだ」と、さらに山田さんの記憶を混乱させていった。はじめての逮捕、連日の長時間の取り調べ、留置場での日々は、精神的にも、肉体的にも消耗するものであったろう。
 取調官はそのような山田さんの様子を見ながら、「ポリグラフが黒と出た」「s.君を連れ出したところを見た園児がいる」「きみのコートにs.君のセーターの繊維が付いていた」「これだけで判決は有罪だ」など、虚実を織り交ぜてなおも自白を迫った。
 そして逮捕から10日後の4月17日、とどめが刺された。その日は死亡したm.さんの「月命日」。父親と面会させた上で、取調官は「父親は、悦子がやったのではないかと疑っている」、さらに「園長や同僚たちも山田さんを疑っている」とウソを言い、山田さんの支えである肉親や友人との信頼の絆を断ち切った。
 「黒い証拠ばかり出てくるし、もう誰も私を信じていない」、絶望のどん底に突き落とされた山田さんは、「私がやりました。あとは明日話します」と言って留置場の房に戻ると、ストッキングで自分の首を締め、自殺を図った。幸い、それは未遂に終わった。

 それは「自白」と言えるものではなかった。
 4月17日供述調書。「m.ちゃんとs.君をマンホールに落として殺したのは、本当に、私に間違いありません」というのが最初の自白となる。ここで注目するのは、逮捕容疑とされたs.事件だけでなくm.死亡についても、同一態様の殺人事件として自白が出てきたということである。
 m.事件は逮捕容疑ではないし、後述するように、捜査官もm.さんの死亡は事故だと想定していた。山田さんが真犯人なら、m.事件・s.事件が同一態様の殺人事件の自白となって出てくるはずがないのである。犯人でないからこそ、「m.とs.が同じ浄化槽で死亡した」ということで、2つの事件を区別することなく「2人とも殺した」という自白になったのであろう。
 その後も、供述は波のように揺れる。犯行をはっきりと否認する時間と、もうどうなってもいいというように取調官に迎合していく時が、大きな波、小さな波のように繰り返されていた。
 「昨晩、一昨晩の調書を取り消すつもりはない」という同じ調書に、「動機を聞かれますが、やってないから語れるはずはありません」と否認する記載がある。あるいは「私は警察の人の真心のこもった捜査や取り調べに感謝する」、と述べられているかと思うと、同じ調書に「警察の言われた証拠は、全てわたしに不利です。ですからもういいです。私の真心は誰にもわかっていただけません。ですから、もういいです。」という悲痛な言葉が続く。こうして、自白と否認が繰り返されたが、この揺れ動きそのものが、「自白」すべき犯行体験を何ひとつ持っていなかったことを示す証左でもある。

 勾留期限いっぱいの、23日間の拘留と過酷な取り調べの後、山田さんは釈放された。つまり起訴はされなかった。
山田さんを証拠不十分として釈放した検察は、「犯行に及ぶ動機がない」ことを筆頭に、次のように釈明している。「検事に対しては否認を続けた。警察で一時、犯行を認めるような供述をしたが、動機、殺害方法などについて、完全に筋道の通った供述をしたわけではなく、これは自白とは言えない」との判断を下した。
 これが、山田さんの取り調べと、「自白」虚偽性のすべてを物語っているのである。

 
 1-5、国家賠償裁判

 釈放から3ヶ月後、山田さんと同僚は「国家賠償裁判」を提訴した。日本国憲法37条に基づいて、国家賠償法が1947年に制定された。その1条には「国または公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意、または過失によって、違法に、他人に損害を加えたときは、国または公共団体が、これを賠償する責に任ずる」としるされている。
 この法律にもとづき、山田さんは職場の同僚2人とともに、逮捕・勾留の不当性を訴えるため警察、検察を相手に、損害賠償の請求を求めたのである。山田さんは今回の逮捕と勾留によって、計り知れない大きな心の傷を受けた。身に覚えがないにもかかわらず、殺人の嫌疑を受け、逮捕され、自白を強要された。マスコミを通して虚偽の事実を報道され、誇りとしていた保母の仕事と園児たちとの関係を破壊され、釈放されたものの社会からは「犯人視」された。このような状態に置かれた山田さんが泣き寝入りせず、自分の人権と尊厳の回復のために起こしたのが、この国賠訴訟であった。
請求内容は新聞への検察・警察の謝罪広告と、600万円の賠償金を求めたものである。しかし真の目的は、国賠裁判を通して身の潔白を明らかにすること、警察や検察の違法・不当な権力行使であったことをみとめさせること、そして、このようなことが二度と起こらないようにするためであった。
 国賠裁判は荒木さん、多田さんによるアリバイ証言によって原告たちの有利にすすみ、警察・検察は追い詰められていた。その裁判の最終段階となった1978年2月、検察の再捜査も大詰めをむかえていた。
    

 1-6、検察審査会と再逮捕

 山田さんが逮捕・釈放されてから1年半ほど経った1975年9月、神戸地方検察庁は山田さんを正式に不起訴とすること(不起訴処分)を発表した。理由は「証拠不十分」。犯行の動機がないこと、山田さんの供述については前にも述べたが、園児Aさんの目撃供述についても、「山田保母がs.君を連れ出すのを見たという園児の証言も、念を押していくと曖昧な部分があり、証拠能力を欠いている」と発表し、山田さんと犯行を結びつけるものがなかったことを、検察自らが認めたのである。
 ところがこの「不起訴処分」の直後、s.君の遺族が「神戸検察審査会」に不服申し立てを行った。
 「検察審査会」というのは、不起訴となった事件について、被害者などの申立てを受け、この不起訴処分の当否を審査するための制度。検察審査会は全国で200ヶ所以上置かれ、審査員は選挙人名簿の中から籤で選出される。審査会議では、検察官に対して必要な資料・証拠の提出を求めて、申立人や証人を尋問して、不起訴処分の是非を審査するのである。
 この制度は、検察官に対して強制力を有するものではないが、「不起訴不相当」との議決をした場合、そこの検察庁の検事正は、あらためて起訴すべきか否かを考慮する、というものである。しかも注目すべきは、審査にあたって被疑者が審査会で弁明する機会が与えられていないこと。さらに、審査の内容も、審査結果についても知らされることのない閉鎖的な制度である。
 この甲山事件でも、山田さんは申立ての事実も知らされず、本人も、山田さんのアリバイ証人も弁明の機会も与えらなかった。審査会は被害者や捜査側の一方的な意見聴取のみによって、「不起訴は不相当である」との議決を発表した。この検察審査会の議決(議決の要旨はこちら)を受けて、神戸地方検察庁は再捜査を開始した。
 そしてさらに、2年半後の1978年2月、山田悦子さんは「s.君殺害」という、4年前と同じ容疑で再逮捕された。「複数園児の目撃証言」という新たな証拠を得たと検察は述べているが、それ以外の証拠はすべて、4年前のものであった。
 山田さんは起訴されるまでの取り調べにおいて、今度ははっきりと否認を貫き通した。
 この再逮捕の特筆すべき点は、この同じ日に、山田さんのアリバイを述べた事件当時の甲山学園園長・荒木さんと、同僚の指導員・多田さんが「偽証罪」で逮捕されたことである。



 1-7、偽証罪―もうひとつのフレームアップ 

 偽証罪というのは、公判廷で「真実を述べる」と宣誓した証言において、自己の記憶や体験、そして客観的事実に反して虚偽の証言をした場合に適用される。
 荒木元園長と多田保母への容疑は、山田さんたちが提起した国賠裁判で山田さんのアリバイを証言したことを、検察は「偽証」だというのだ。だが、「s.君殺害」の犯行時間帯とされる3月19日の午後8時前後、山田さんや荒木さん、多田さんたちは学園の事務室に一緒にいたのである。
 事件のあった19日、夕方の7時半、山田さんとNさんが学園事務室に戻ってきた。近くのターミナル駅で、m.さん捜索のビラを配っての帰りである。事務室にはすでに荒木園長と多田さんがいた。4人はm.さん捜索の打ち合わせをしたが、その中で山田さんが、ラジオ大阪にツテがあるので、放送でm.さん捜索をお願いしてみようと発案した。早速、ラジオ大阪の幹部宅や放送局のディレクターに依頼の電話がかけられた。この間、電話が何本かかかってきたり、かけられたりしている。
 そして問題のH氏からの電話が入る。電話を切った後、m.さん捜索のことでH氏と会うために、急遽、荒木園長は学園を車で出発した。H氏からの電話は8時15分だった。それは荒木さんもNさんも時計を見て確認している。
 このH氏からの電話、つまり荒木園長の学園出発時刻が山田さんのアリバイのポイントである。検察の主張する「犯行時間帯」は8時頃から8時7、8分までの数分間。だが荒木園長が学園を出発するまで、山田さんが荒木園長や多田さん、Nさんたちと事務所に一緒にいたことは、荒木さんや多田さんの国賠裁判の証言によって立証されている。つまりH氏の電話、荒木さんの出発時刻が8時15分過ぎであれば、山田さんのアリバイは完全に成立するのだ。検察にとって、山田さんと同室していた荒木園長と多田指導員の証言が立証の障碍となった。この、都合の悪い二人の証言を封じ、変更させるため、検察は偽証罪で逮捕するという恐るべき権力の乱用を行ったのである。
 山田さん、荒木さん、多田さんは起訴された。しかし、3人とも裁判が始まる前に保釈されている。日本では、否認している、重罪事件の被告人に保釈が認められるケースは少ない。この場合、それは例外的なことであったろう。




    第2章 「甲山裁判」― 何が争われたのか


 2-1、証拠と検察のストーリー

 裁判が始まった。まず、検察自らが、「山田には犯行の動機がない」と認めていたことから、この〈動機〉をどのように説明するかが注目された。検察は冒頭陳述で、次のように述べた。
 「山田は、3月17日、夕食時に食堂に姿を見せないm.を捜すため青葉寮裏へ行ったところ、m.は浄化槽の上で1人で遊んでいた。山田が『m.』と声をかけたら、m.はフタの開いていたマンホールから浄化槽内に落ちた。山田はあわてて、狼狽するあまり、救助することなくフタを閉めて立ち去った。自分の当直の日に園児がいなくなったということで、このままでは自分が疑われると思い、他の職員の当直の日に、別の園児がいなくなれば、自分が疑われないだろうと考え、誰か他の園児を連れ出して殺し、行方不明のように装うことを思いついた。」
 いわば「m.死亡事件」が、19日の「s.殺害」の動機となった、と位置づけたのである。

 さらに犯行の態様について、こう述べている。
 「3月19日午後8時頃、青葉寮女子棟に侵入し、殺害に適当な児童を物色するうち、“さくら”の部屋で遊んでいるs.を発見した。山田が「s.おいで」と呼び出し、一緒に廊下を歩いて非常口に行き、持っていたマスターキーで扉を開けた。ところがそれを見てs.が座り込んだため、両脇をかかえて立たせようとした。するとs.は「あん、あん」と怒りの声を出しながら必死に抵抗し、四つん這いの格好で廊下を逃げ出した。10メートルほど逃げたところでs.に追いついた山田は、足首をつかんで、抵抗するs.を引きずりながら非常口のところまで連れていった。そこで寮外に引きずり出し、再びマスターキーで非常口のかぎを閉めた。s.を前から抱きかかえるようにして浄化槽の上まで運び、いったん降ろしてから浄化槽のマンホールのフタ(鉄製17Kg)を開け、再びs.を前から抱き上げると、足から浄化槽の中にs.を落としこんだ。」
 
 殺害の実行行為の説明も、はなはだ現実離れしたものであるが、それ以上に、理解できないのは動機である。いわば過失死の責任を隠蔽するために、更に大きな疑惑・危険を招くことになる「殺人」を犯すなど、動機としてあまりに不自然、不合理である。かりに検察の言うとおり、m.を見殺しにしたことを隠蔽しようと思ったならば、どうするであろうか。すでにm.は行方不明として、その捜索は学園外に及んでいる。彼女はまず、m.の死体が発見されることを一番恐れたはずである。カムフラージュの必要性が出てくるのは、それはm.の死体の発見以後でなければならない。ましてs.を同じ浄化槽に投げ入れたのでは、m.の死体も同時に発見されることになって、事故死の偽装にはならない。
 実はこの動機の筋書きは、1974年の最初の逮捕の際に、警察官が苦し紛れに誘導して、山田さんが「ウソの自白」として喋った供述内容そのままなのである。検察は不起訴と決定する段階で、このような自白では動機にならないとして、「動機が見つからない」と判断したものなのである。
 それに加えて、犯行時間帯とされる午後8時前後の連れ出しは不合理、否、不可能である。午後8時というのは、12才以下の年少児童の就寝の時間である。着替えや歯みがき、トイレなど、寮内は、行き来している子供達がたくさんいる。二人の当直職員も、就寝の介護、部屋の見回り、脱いだ下着などの回収や整理と、慌ただしく動きまわっている。誰にも見られずに子どもを連れ出すなど不可能な時間帯なのだ。このことは、職員なら誰でも、山田さんも知り尽くしている。山田さんが真犯人ならば、その時間帯を犯行時間に選ぶなどあり得ないことである。

 このような検察の「虚構のストーリー」を支える証拠構造とは何か。
 このあとで詳しく述べるように、園児Aさんと新たに加わった4人の園児の目撃供述がある。それに最初の逮捕の時の山田さんの自白。それと、唯一の物的証拠と言われる「繊維の相互付着鑑定」が挙げられる。(「繊維の相互付着」の問題については2-6の項で述べる)
 犯行にかかわる証拠と呼べるものはそれだけである。検察はこの一連の裁判の中で、数多くの証拠や証人を出してきたが、そのほとんどは、犯行の立証とはほど遠い状況証拠。検察官自身、「この事件には直接証拠というものが無く、間接証拠を積み上げて行くしかない」と、法廷で述べている。


 2-2、 3年以上経って出てきた”新供述”
 
 検察は、検察審査会の「不起訴不相当」の議決(Oct.1995)を受けて、本格的に再捜査を開始したが、その捜査の中心は園児からの目撃供述であった。第1次捜査・逮捕の時にあったのは、園児Aさんの供述だけ。しかし、この第2次の再捜査の過程で、新たに4人の園児の「新供述」が出てきたのである。
 あらためて、この4人の園児たちをAさん、B君、C君、D君、Eさん、として、その供述内容を見てみよう。その供述を検討する時、次のことがらを知らねばならないだろう。この元園児たちの警察での聴取はそれぞれ10数回に及び、そのつど変遷する調書が作られたこと。また警察での供述と、非公開で行われた法廷での証言では大きく食い違うものも出てきている。さらに弁護側反対尋問では、陳述の不可能な混乱した証言も見られ、何を持ってその子の確定供述とするのか定かではない。ここでは、警察での調書を中心に紹介するが、B君(男・15才)とD君(男・15才)の二人の供述はほとんど、AさんとC君の供述を補強するだけの内容なので、ここでは割愛する。(園児の年齢は事件発生当時)

 Aさん(女・11才)
「7時半過ぎ、デイルームから自室の『さくら』の部屋に戻ったら、s.が同室のSちゃんと遊んでいた。自分はパジャマに着替えて布団に入った。D君がs.を呼びに来たが、s.は帰らない。そのあと山田先生がデイルームの方から来て『s.おいで』と呼び出し、部屋から連れ出した。自分は廊下の方を向いて目をつぶっていたので、声を聞いたり、足音でわかった。s.が部屋を出た後、起きあがって戸を閉めにいった。そのときs.の後ろに山田先生が並ぶようにして廊下を非常口の方に歩いて行くのが見えた」
 この供述は第一次逮捕の前に警察に取られたものである。しかし、このような「保母が園児を『おいで』と言って連れていく」という光景は、学園内では日常茶飯のことである。不起訴を決定した検察官も、「事件のあった3月19日の特定ができない」とした供述であった。

 C君(男・12才)の”最終的”な供述は次のようなことである。
 「8時前に、デイルームで見ていたテレビのアニメーション番組が終わり、(宿直保母が)テレビのスイッチを切ったので、トイレに行った。トイレを出たところで、D君と出会った。D君は、s.が自室に戻らないので呼んできてくれと言った。s.を呼びに女子棟保母室の前に行ったところ、『ぼたん』の部屋の前あたりに、山田先生とs.が非常口の方に歩いて行くのを見た。山田先生がs.の肩を押すような感じだった。これを見て、こわくなったので、女子棟トイレに入って、覗いてみた。非常口のところでs.がしゃがみこみ、山田先生が立たせようとしたが、手で石を投げるような格好をしたり、アアン、アアンと言って嫌がった。s.は四つん這いになって『ばら』の部屋あたりまで這ってきたが、後ろから先生が歩いてきてs.の両足を掴んで、非常口まで後ろ向きに引っ張って行った。山田先生が非常口を開けようと、s.の片足を離したとき、s.が足で先生の顔を蹴った。そのとき先生の顔が見えたが、山田先生に間違いない。先生は赤いタートルネックのセーターを着て、その上に黒いコートを着ていた。山田先生がs.を非常口から引きずり出し、ドアを閉めた。自分は非常口のところへ行ってドアに触ったが開かなかった。そこで、女子棟の洗面所に上って窓から青葉寮の裏を見たが、暗くて見えなかった。その後、当直の先生がs.を知らないか、と捜しに来たとき、自分が見たことを言うと、自分も同じような目に遭うかもしれないと考え、知らない、と答えた」

 これが、事件から3年2ヶ月の後に初めて出てきた目撃供述である。先に紹介した「検察の冒頭陳述」にあるドラマティックな活劇のストーリーは、C君のこの供述からきていることが分かるだろう。

 Eさん(女・16才)の警察での供述を見てみる。
 「(宿直保母から年長組だけ)おやつのチョコレートをもらい、食べながらテレビの歌番組を見ていたとき、山田先生を見た。先生は女子棟保母室の前辺りにいたが、デイルームと反対の方に歩いていった。自分が女子トイレに行ったとき、『ぼたん』の前の廊下に山田先生とs.が一緒にいた。便所にC君がいた」
ところがEさんは、法廷ではこの警察での供述をことごとく拒絶して、沈黙を通した。かわりに今までに出てこなかったm.死亡時の状況を語りはじめた。このm.死亡時の証言については、2-7「虚構の殺人罪」で詳しく触れることとする。
  
 この5人は、それぞれ20回以上の事情聴取を、3〜4年間にわたって受けている。その全てが弁護側に開示されてはいないが、法廷に出されているものだけでも、Aさんは22通、C君は25通、Eさんは24通の供述調書と警察官が聞き書きした「捜査復命(報告)書」がある。実際、100通以上もの5人の供述証拠類を通読すれば、その変遷・変動・矛盾のあまり多さに驚かされる。その中で検察側の筋書きに添った供述は、ごく一部分にとどまると言わざるをえない。ところがこの無数に変遷・変動・矛盾をかかえた膨大な供述が、4年という時の経過とともに、次第に一つにまとまっていって、最後に完全な相互の符合を見せるのである。
 この3年以上経ってからの「新供述」の出現を、検察は、職員などの園児への「口止め」があったからだと主張する。ところが検察は、この職員の「口止め」について、誰が、いつ頃、どういう状況でなされたか、証拠も出せず、証明もなされなかった。
 しかしなぜ、3年以上過ぎた後からこのような重要な<目撃証言>が出てくるのかという疑問は、誰しもが持つであろう。だがそれは、園児への取り調べ回数、調書の膨大さを見れば、自ずとその歳月の意味が理解できるのではないか。つまり3年以上経ってから、突然にこれら供述が出てきたのではなく、3年、あるいは4年を費やさなければ、こうした供述を作ることが出来なかったからなのだと言えるのではないだろうか。


 2-3、 園児証言は真実を語っているか

青葉寮平面図 事件の翌日、警察によって学園内で職員と子供たちへの事情聴取が行われている。しかし、この調書は法廷には全く出てきていない。そこには検察にとって有利な、めぼしい情報がなかったことを意味している。記憶がもっとも鮮明なこの日に、何のめぼしい情報も得られなかったのである。それが4年の歳月のなかで、断片的で未分化な記憶が一つの筋書きに添った体系へと収斂していく過程が、この園児供述問題の核心をなしているのだ。これら供述を見る場合、幾つかの大きな問題が潜んでいることに気付く。まずはじめに、その供述が本当に3月19日、s.殺害の日の記憶であったろうか、と言う疑問である。
 最終的に完成された供述だけを見ると、確かに3月19日午後8時前後のデイルームという、時間と場所の特定がなされているかのように見える。ところがその供述を、作成された順に追っていくと、年月が経つにつれて日時の特定が明確、詳細になっていくことがわかる。
 たとえばEさんの供述には、当初、「山田目撃」は出てきていない。その後「山田先生を見た」となるのだが、それは「s.不明の前」だと言う。さらに一ヶ月後には、テレビの歌番組の時だとなる。宿直保母が19日の8時過ぎ、年長児だけにチョコレートを配ったという事実を知った捜査官は、Eさんにチョコレートを貰った前か後かと聞いているが、そこでは「わからない」と答えている。ところが翌日の調書では「チョコレートを食べているとき山田先生を見た」と変わってくる。さらに一ヶ月後には「チョコレートを食べ終わったとき、先生たちがs.がいないと捜していた」と、次第に断片がつなぎ合わされ、時間特定がなされていくのである。
 そもそも前後の脈絡無く、Aさんの「山田先生がs.を連れ出す」、Eさんの「山田先生がデイルームの方に来た」という極ありふれた状況を、何週間・何ヶ月も経ってからひょっこり思い出すということ自体、記憶の法則に反することである。園児たちにはそもそも、19日当夜のことを聞かれているという認識はないように思う。日付のついていない日常の光景と、時間の流れに沿って展開される体験とが、明確に区別されることなく混然と混じり合っているのだ。供述の形成過程は、子供たちの日常の情景から、捜査官が自分たちの筋書き=心証の形に合わせて切り抜いた切り絵のようなものだった。
 
 非公開で行われた元園児たちへの証人尋問は、Aさんの主尋問から開始されたが、ここで早速つまずきを見せた。検察官の予定していた供述が得られず、主尋問は2回目に持ち越されることになったのである。以降、主尋問5開廷、反対尋問は11開廷、3年近くを費やして行われた。
 Eさんを除いて園児たちは、検察官の主尋問ではおおむね同じ証言を維持した。だが、主尋問ではかなりすらすらと出てきた証言が、反対尋問になると「わからない」「知らない」という答えばかりになる。例えばD君の尋問では、主尋問260問に対して、「わからない」と答えたのはたったの6回、2.3%。それが反対尋問では935の問いに対して469回、じつに50.1%も「わからない」と答えている。
 主尋問と同じことがらの質問をしても、その質問の表現、順序が異なると「わからない」と答えるのである。質問の意味を理解できないというのではない。本人の記憶に根ざした答えではなく、検察官との繰り返されたリハーサルでのやり取りを再現しているだけである。子供たちは証人尋問前日の検察官とのリハーサルを認めている。だから、決まった問い以外の質問に対して応答する術を持たず、混乱をみせるのである。
 また、この園児証言の特徴として、同じ質問にまったく異なった、矛盾した答えをすることである。嘘というのは、本来、真実をはっきり記憶していて、これを意識的に偽ることを言う。しかし元々の原質記憶がなく、そこに捜査官のヒント・誘導で付け加えられたイメージを供述した場合には、自己の記憶との差異・識別が出来ないため、矛盾や嘘の意識がないとしても無理はない。だから矛盾する供述に、園児たちが「嘘はない」と主張すること自体、もはや現実についての明確な記憶を消失していることを意味しているのである。

 元園児の証言の中で、一番の核心はC君の供述であることは言うまでもない。事件直後をはじめ、記録に残っているだけでも74年に4回、75年に3回の事情聴取を受けている。その間警察官、職員、両親などに対して、事件に関連する事柄は何も喋ってはいない。
 その彼が1977年5月、突然、詳細な「新供述」をはじめる。その後多数の供述書が作られ、法廷証言へと行き着くのであるが、その中に証言の虚偽性とともにC証言の特徴・特性を見ることができる。
 その一つが、何にでも詳細に答えてしまう供述姿勢である。それは目撃の核心部分についてだけではなく、周辺の、日常のありふれた事柄にまで及ぶ。例えば事件の日、3月19日の夕食のメニューについて、「ハヤシライスだった。おかずは野菜を巻いたもの」(勿論事実は違う)と答えてしまう。
 何年も経ってから、このような日常的なことを覚えているはずはない。それも、捜査官の誘導によるものとは考えにくい。いわば、彼の創作なのである。その他にも、その場に居るはずがないのに、情景を語ってしまう供述が随所に見られる。つまり、質問に対しては、論理的に答えられない事柄まで答えてしまうという「作話能力」を持っている。自分が体験したことと想像力とが分別されず、しかもその「混同」を認識していないので、たとえ供述が矛盾したり、結果的に虚偽であっても、その不整合性に気付かない。C君の聴取を何ヶ月にもわたって担当した警察官・検察官を「知らない、会ったこともない」というように、嘘に対する罪責感は全くない。
 「先生とs.が廊下を歩いているところを見て、こわいと思って女子トイレに隠れた」という供述、また、二人が非常口から出た後も、執拗に青葉寮の裏手(浄化槽のある方角)ばかりを覗こうとする行動など、固定した事実の記憶に基づくものだとは言えない。これはまさに、後から知り得た情報によって「作話」したものと言うしかない。
 さらに、宿直の男性職員がs.を知らないかと捜しに来たとき、『自分が見たことを言うと、自分も同じ目にあうかもしれないと考え、知らないと答えた』という供述の虚偽性は、誰の目のも明らかであろう。すべて、<青葉寮裏の浄化槽からs.の死体が見つかった>という事後情報をもとに供述しているのだ。しかも「こわい」といった心理的な事後反応だけではない。このC君の目撃供述は、「トイレに隠れる」「洗面台から浄化槽の方を覗く」「s.は知らないと答える」といった、具体的な行為・行動を伴うことで支えられている。これらC君の目撃行動が虚偽である以上、「見たこと」の前提そのものが崩れ去ったと言わなくてはならない。
 
 C君の供述は、核心部分についても供述の転変が見られる。「山田先生がs.を連れ出す」というできごとが現実にあって、C君がこれを目撃し、記憶に保持し、3年後にはじめて供述したというなら、この目撃自体についての記憶像は、その長い年月の間に固定化されていると考えるのが自然である。
 物事の記憶というのは、直後からしばらくはもっとも忘れやすく変動しやすいが、一定期間を経過すると、変動部分は減って固定化されていく。しかも、誰にも喋らず、頭の中だけで反芻して留めていた記憶は、より強固に固定化されるものである。それが、C君の供述の場合、数日で大きく変動を繰り返す。例えば「四つん這いで逃げる」という印象的で見逃しがたい行動が、後日になって供述されてくる。また、「ドアを開ける」「アンアン嫌がる」「座り込む」の順序もことごとく、供述する度に変動する。
 この変更はC君自身の記憶内部での修正ではない。他の子供たちとのつじつまが会わないがゆえの、変更である。事実、その後供述は見事に、他の園児供述との整合性を得ていく。C君の新供述に合わせてB君の供述が変わり、C供述に引きずられてD君とEさんも目撃したと言い出す。
 そこに、捜査官の意図した方向性をはっきりと見ることが出来る。
 この園児証言、ことにAさんとC君について検察は、心理学者と精神科医に委嘱して3通の「鑑定書」を作らせている。その結論の非論理的な根拠を簡単に言うと、
1、「精神薄弱者」だから供述に矛盾・変動があっても仕方がない。
2、「精神薄弱者」には自らの体験しない事実を、抽象的に記憶する理解能力に欠け、人から教えられただけ の事柄を記憶して供述することはできない。
3、「精神薄弱者」は自分の記憶に無いことを作話することは不可能。
 この鑑定の本質は、すべて「精神薄弱者」だからという不確定な特殊性に逃げ込み、ひとつの枠に押し込めることで、彼等ひとり一人の特性や多様性を見ようとはしていない。しかも、最も大切な、捜査官とのやりとりの場の状況、それによって変わっていく供述心理については、まったく知見を放棄しているのである。
 ところが社会的には、こうした「精神薄弱児(者)」の証言に対して、我々とは違うというラベルを貼り、特殊化して見ようとする隠れた偏見がある。検察はこの偏見を利用して、裁判官を納得させようとしたのだろう。
 私たちは園児証言を、「知恵遅れの精神薄弱児(者)」のそれとは見ずに、それぞれに個性と特性を持った、普通の目撃証人として捉えようとした。鑑定書の1の、「転変・矛盾は当然」についても、それは「精神薄弱者」だからではなく、供述の変遷にはその子なりの理由があること。その理由を見定めなくてはその供述の真偽はわからない、という姿勢をとってきた。
 鑑定書の2、「捜査官が誘導しても、そのことを供述することは出来ない」、 3、「作話能力はない」にしても、すでに具体的に供述を検討するなかで、この考えが間違っていることはお分かりであろう。人が、そして「精神薄弱者」がことばを持ち、他者と対話できるということは、そもそも自分の直接体験以外の世界を取り込むことにほかならない。ことばを身につけた子供は、物語という架空の世界に入り込み、やがて自己の中に架空の世界を作り上げもするのだ。鑑定書は「抽象的なものを理解し記憶する能力はない」と言うが、彼等の供述はすべて、身の回りの、ごく具体的なことがらの組み合わせで成り立っている。捜査官の<ヒント・暗示>というものが、具体的なイメージを描くことのできる具体的モノ、ヒト、場所であるならば、 園児の直接体験の有無にかかわらず、子どもたちが内的世界で言葉=供述に置き換えることは簡単なことである。
 
 甲山学園の元園児たちの供述、それは強力な磁場にまかれた鉄粉のように、園児たちの日常的な情景の断片が、捜査官のイメージする磁場に吸い寄せられ、繋がり、形作られていった。子供たち自身が、これに抗するだけの力を自分の中に蓄えていたならば、捜査官の磁場に引きずり込まれずに済んだかも知れない。しかし、社会と隔てられた収容施設の中で「保護」という名の精神的拘束を受けていた彼等には、現実への権利と同時に責任性をも剥奪され、自分自身の場(自己人格の認識)というものを確保しえなかった。子供たちが事件の渦中に巻き込まれていったこの裁判は、m.・s.の死亡という第1の悲劇、山田さんがでっち上げられるという第2の悲劇に続いて、第3の悲劇と言えるかも知れない。
 


 2-4、 園児証言の信用性

 C君、Aさん、Eさんの供述に対して、無罪判決では次のように評価・認定された。
まずC君の供述について。
 《C証言の供述内容には、客観的事実に反するもの、不自然、不可解なもの、矛盾したものが多くみられ、その証言状況も、尋問を受ける時期、尋問者が異なれば、同じような質問でも様々な答えをし、質問の仕方をかえれば同じような質問でも矛盾した答えをするとか、質問されたことにはほとんど何らかの応答をし、知っているはずがないとか、覚えているはずがないことでも、質問されると知らないとか覚えていないということがほとんどないという特徴がみられるのであり、どの証言部分に信用性があるのかCの法廷証言だけでは判断することは困難であり、検察官の主尋問にあらわれた目撃供述部分が信用できるということもできない。》
 《C証言には、客観的事実に反するもの、不自然、不可解なもの、矛盾したものが多くみられ、その信用性には大きな疑問があるうえ、C証言を含めたCの供述については、検察官がそれが信用できるとしてあげる諸点はいずれも疑問点が指摘できるとか理由がないといえるのであり、殊に、Cが、本件目撃事実を事件後三年以上経って供述するに至った経過、供述状況には多くの疑問点があって不自然である。結局、Cの供述は信用できないといわざるを得ない。》(差戻し審判決文)

 Aさんの供述について
 《A証言は、主尋問において検察官が主張する目撃事実が出ているが、その供述の出方、反対尋問でのAの供述状況に照らすと、右証言はその信用性を疑わしめる状況があるといわざるを得ず、また、捜査段階も含めたAの目撃供述については、他の日の出来事として供述している疑いがあり、また、その後の供述内容には、捜査官の影響や看過できない変遷や疑問点がみられるのであって、信用できないといわざるを得ない。》(差し戻し審判決文)

 Eさんの供述について。
 《Eの供述については、E証言では検察官の主張を根拠付ける証言は出なかったこと、Eの捜査段階での供述では、全体としてEが真に記憶を喚起して供述しているのか疑問であること、被告人を二回見たとの供述は、具体性、迫真性に欠けるなど信用できないこと、被告人を見たとの供述は、同様に信用しがたいものではあるが、ある程度一貫していることや被告人の位置などからすると、本件事件当夜に青葉寮にs.を捜しに来た被告人を見た記憶がEにあり、その記憶が明確でないため、被告人を見た旨の右供述になった可能性があること、Cを見たとの供述は、不自然であって信用できないことが指摘できるのであり、結局、検察官が主張するEの供述内容は信用できないといわざるを得ない。》(差戻し審判決文)
 
 園児証言の総論的評価として、差戻し審判決は次のように述べている。
 《1、当直の保母や指導員等の捜索の際、園児の誰一人としてその後の目撃供述に関連する事実を述べてないこと。
  2、園児に対する口止め事実の主張自体が罪証隠滅工作のものとして評価できないこと。
  3、園児らが最初に目撃事実を供述したのはいずれも捜査官に対してであること。
  4、各園児供述には、お互いの関わりに関するものがほとんどなく、また、当直の保母や指導員の供述による裏付けが全くないこと。
 以上のように、各園児供述には、お互いの関わりに関するものがなく、また、当直職員の供述による裏付けがないのであり、このことは、各園児供述の信用性に疑問を抱かせるものであるといわざるを得ない。》



2-5、 自白は真実ではない

山田さんの「ウソの自白」にいたる経過は、1-4項で述べた。自白調書を見るとき、書かれた文字面だけを見ていては、真実は発見できない。自白に至る山田さんの心理状態をも読みとらなければならない。山田さんの供述の中に繰り返し出てくる、自分が担当していた園児・m.さんの悲惨な死への嘆きと悲しみ、そして結果への責任感、を読みとらなければならないであろう。警察の取調官はこの「責任感」の強さを利用・悪用して自白を誘導し、検察は「s.殺害の動機」に利用して虚構のストーリーを描いた。
 はたして裁判において、判事たちはこの山田さんの「ウソの自白」から真実を読みとれたのであろうか。以下、「自白」調書を引用しつつ、判決では以下のような認定をおこなっている。

 《私は、今いろいろ考えておりますが、気持が動揺して、正確なことはっきり思い出しません。19日夜、園長先生が帰られてから、青葉寮のトイレを借りに行ったと申しておりましたが、この正面玄関から入るとすぐ子供達が気が付いて、山田先生や、悦子先生やという筈です。そういうことから考えてみると、私は青葉寮のトイレを借りに正面玄関から入っておらないことが判りました。ほかの場所から入ったことについては思い出そうといくらあせっても思い出しません。この15分間ぐらいの記憶は、どうしても思い出せないのです。その時間ごろ、ちょうどs.君が連れ出されたころになりますが、いろいろのことを考えると、私が無意識のあいだに、s.君を殺ってしまったような気がいたします。
子供達は清純で天真爛漫です。嘘をいうとは思いません。私がs.君を連れ出したのを見ている子供があれば、それは本当のことだと思います。そういうことから考えて、私が何時の間にか殺ってしまったと思うのです。私は意識がはっきりしておれば、若しs.を殺っておれば、その事実をありのままにお話したいと思いますが、そのことがどうしても思い出しません。私は過去に物忘れをしたりして、または突飛な行動をしたりして、人に笑われたような記憶もありません。また病院に入院したこともありません。》  (1974.4.14警察官調書)
 《自白と否認の交錯状況の概要は以下の通りである。上記供述後、4月17日夜になってはじめて犯行を認める供述をしたが、「m.ちゃんとs.君をマンホールに落として殺したのは本当に私に間違いありません」ということしか供述しておらず、それ以上の犯行の具体的内容や動機等に関する供述が一切ない概括的なものであり、さらに、その後の自白内容とは異なり、m.殺害をも認める供述になっている。
 翌18日の員面(警察官調書)では、青葉寮に侵入した状況とs.に声をかけて非常口から出た状況についての供述であり、しかも、その内容は粗筋だけのものであるうえに、「憶えておりません」との供述や、「うすぼんやりと憶えていますが」、「はっきり断言できませんが」というあいまいな表現での供述となっている。さらに、この4月18日の朝には前日の自白をくつがえして否認に転じ、それが再び自白するに至った際のものであるのに、それらの経緯やその理由等の供述が一切記載されていない。
 その次の4月19日の自白調書では、犯行動機となる17日のm.に関することを中心に供述し、s.殺害に関する事実関係については、18日の員面と同様に粗筋だけの供述にとどまっているが、あいまいな表現はなくなり、すべてが断片的な供述になっている。また、この4月19日の午前中にも前日の自白をくつがえして否認に転じ、それがまたも自白するに至っている。しかも、それまで供述を拒んでいた動機についても供述するに至った際のものであるのに、「いろいろのことを思い出しましたので、お話をします」とあるだけで、それらの経緯やその理由等の供述が一切記載されていない。
 そして、4月20日の員面では、犯行の動機を供述し、19日の午後7時30分以降の出来事についてやや詳しく供述するに至っているが、青葉寮へ行ってからの出来事については「思います」との表現が多くなり、あいまいな表現になっているうえ、浄化槽での場面については「なにしろ恐ろしいことをしたのですし、この辺の詳しい事情についてははっきり思い出すことは出来ません」と供述している。
 最後の4月21日員面では、みかんに関連する事実と「さくら」の部屋のAさんに関する事実について供述しているが、やはり「思います」とかのあいまいな表現になっている。
 このように、五通の自白調書の内容は概括的、断片的であり、しかも、あいまいな表現が多く、さらに、否認していた者が自白するに至った際に通常供述するであろうところの自白をするに至った理由、犯行の動機や迫真性のある具体的事実に関する供述等がないのである》
 
 《被告人には自白調書があるが、それは逮捕当時からのものではなく、しかも、最初の自白をしてからも、短時日のうちに自白と否認を繰り返し、最初の自白をしてから6日目には否認に転じ、以後は一貫して否認している状況であり、その自白内容も、概括的、断片的で、あいまいな表現が多く、さらに、否認していた者が自白するに至った際に通常供述するであろうところの自白をするに至った理由、犯行の動機や迫真性のある具体的事実に関する供述等がないのであり、自白調書といっても極めて信用性の乏しい者である。検察官は、自白内容及び自白状況から被告人の自白に信用性がある旨主張するが、それは積極的に被告人の自白に信用性を与えるものとはいえなかったり、理由がないものであり、被告人が弁解する自白するに至った経緯については一概に否定できないものがあることにも照らすと、被告人の自白に信用性を認めることはできないといわざるをえない。》(差し戻し審判決文より)

 

 2-6、 物的証拠―繊維の相互付着

 甲山事件には山田さんが犯人に結びつくような客観的な、物的証拠というものは無いと言っていい。検察の主張通りの犯行があったとしたら、ドアの取っ手などの指紋や、土足で侵入したという女子棟の部屋や廊下の足跡、浄化槽付近の足跡、マンホールの蓋の指紋、s.の靴下の土の分析、といった証拠が出てきて当然である。さらにs.君を浄化槽に投げ入れたとするなら、その汚水の飛沫が山田さんコートに付くはずだが、(現場実験では汚水飛沫が飛び散ることが確認されている)これらの証拠は全く出されていない。
 早くから「学園内部の者の犯行」として捜査を行ったのだとしたら、この、直接証拠が無いということは、捜査の不手際というよりも、逆に山田さんが犯人ではないということを示しているのではないか。

 検察の出してきた証拠のなかで、唯一、物的証拠と呼べるものに、「繊維鑑定」がある。「非常口を出た後、s.を抱き上げて浄化槽に投げ入れるまでの間に、山田の来ていた黒色コートとs.の青色セーターのそれぞれの繊維片が、それぞれ相手の着衣に付着した」(検察官冒頭陳述)という、相互の服の繊維片を発見したというのである。そして、それら繊維の「同一性鑑定」を証拠として出してきた。と同時に検察は、「s.殺害の犯行時以外に、相互の繊維が付着する機会はなかった」と主張してきた。
 裁判においてこの検察側の鑑定人は、「それぞれの繊維片はそれぞれの服の繊維と、きわめて色も質も酷似している」ことを述べた。ところが反対尋問で、「試料が少なく、100%同一とは言い切れない」、「両人の着衣はごく一般に市販された繊維・染料を素材としているので、両人以外の他の着衣のものである可能性は否定できない」と、鑑定の不確かさと限界を認めた。
 さらに裁判の過程で3つの問題が浮上してきた。一つは、それぞれの着衣には当然、数多くの繊維片が付着しているはずである。警察はその繊維片の中から、肉眼で、相手の繊維片と思われるものだけを採取し、鑑定にまわしている。全ての付着繊維を鑑定すべきであって、これはきわめて恣意的な方法であった。二つ目は、付着繊維の採取方法が妥当であるかどうかだ。着衣にビニオテープを圧着して採取したとするが、付着繊維と同時に着衣そのものの繊維をも採取してしまう可能性がある。警察に、それらを厳密に弁別する能力とシステムが備わっていたか否か、疑問である。三番目の問題は、それぞれの着衣の証拠保全・管理の杜撰さである。s.君を浄化槽から引き上げてから、汚物を落とすため着衣は丹念に水で洗い流された。また、捜査官がs.君のセーターを元園児たちに見せるために持ち歩いたり、山田さんのコートを自宅まで持ち帰った警察官もいる。鑑定に出されたのは、こうしたことの後である。
 そしてもう一つの大きな問題。たとえ相互の付着繊維片の同一性が認められても、それが付着する機会が犯行時以外には絶対にあり得ないことが証明されなければ、証拠にはならない。検察は「山田のコートは事件の2年前に購入したもで、s.殺害の19日は非番であったためにこのコートを着ていた。施設内で園児の介護・指導の仕事の時は決まったユニフォームを着ており、被害園児と接触する機会は犯行時以外にない」と言うのである。
 ゆきずりの犯罪事件ならば、犯行時以外に加害者と被害者の接触する機会はないと考えてもいいだろう。しかし、こうした収容施設の場合、私服で園児と関わらないということは不可能である。福祉施設が園児達にとって生活の場であり、それを支える職員は当然、園児と私的にも関わらざるを得ない。事実、山田さんは幾度も、園児を自分のアパートによんで食事したり、宿泊させたりしているのである。
 この「繊維の相互付着」は科学的な鑑定に値しないのみならず、収容施設という現場での園児と職員のあり方を無視した立論であり、決定性を欠いた証拠でしかない。

 二つの無罪判決において、この繊維の問題を次のように判示している。
「これらの着衣が捜査官によって持ち出される機会がかなりあったことがうかがわれる。これら着衣から、鑑定資料の繊維片が摘出されたのは、事件から7か月後であることも考慮すると、この間これらの着衣が何らかの形で接触した可能性は否定できず、鑑定資料としての価値に疑問を抱かざるを得ない。」
「そもそも、着衣に他の着衣の繊維がどのような場合にどのような形で付着するかについては、証拠上何ら明確なっていない。しかも、付着していたという繊維は、s.のセーターに一本、ズボンに一本、被告人のコートに二本という僅かな繊維片である。鑑定内容も『非常に酷似する』ないし『類似する』というものであり、状況証拠としての意味は極めて小さいといわざるを得ない」




 2-7、 虚構の殺人罪 ― 真実への模索

 74年3月17日、m.さんはおやつの後から夕食までの間に、浄化槽に転落して死亡したことは間違いのない事実である。しかし、このm.転落に関して、当初なんの目撃供述もなかった。ただ一つ、山田さんの「自白」の中に、犯行動機の1コマとして、きわめて不自然な転落目撃が語られたのみである。
 事件から3年の間、ほとんど闇の中に埋もれ、それ故に捜査官もあえて聞き出そうとしなかったm.さんの転落事件の様子が、Eさんの口から、絞り出されるように語られ始めた。77年6月から、捜査官の前で語りだしたEさんは、その後の4通の供述書で序々に自分の関与を深める供述をし、80年5月の法廷での証言でほぼ内容が確定した。
 「おやつの後、私とs.、m.、F(園児男)、G(園児女・24歳)の5人で浄化槽の近くで遊んでいた。マンホールの蓋は私が開けた。ちょっと蓋を開け、それから横の方に動かして全部開けた。私がm.の手を引っ張ったら落ちた。足から落ちた。中の水が上にちょっと飛んできた。しっこ、汚いものが入っている。m.は中でバタバタと動いていた。髪の毛と服がちょっと見えた。マンホールの蓋は私が閉めた。その場に山田先生はいなかった。」

 この供述は事実であろうか。もし事実ならば、この甲山事件そのものを根底から覆してしまう。
 このEさんの供述は、捜査官の予想も、期待もしていなかったものであった。これまで見てきた園児の「新供述」は、いずれも捜査官の仮説に沿ったものに形成され、そこには誘導の働いた可能性が非常に強く示唆されていた。ところがEさんのそれは、むしろ警察・検察の筋書きに反する供述内容であり、その意味では誘導の働く余地はなかったと言えるのではないか。
 また、他の園児供述はいずれも単なる「目撃供述」であるのに対して、m.さんの転落についてのEさんの供述は、自分自身の行動が深く絡んだ、「行動供述」である。視覚的な記憶は曖昧さが多く、それだけに誘導の入り込む余地が大きい。それに対して自分の行動が関与し、その場面に主体的に関わった肉体的記憶の場合、曖昧性は少ない。その行動の記憶において、自分にとっての意味性を失うことはないからである。
 このE供述には、行動供述ゆえの「供述の迫真性」を見ることができる。検察官は園児Cの目撃供述について、「C供述は事実を体験した者にしか出来ない供述の迫真性があり、複雑であるがゆえに、作話ではありえない」と主張する。しかしながら、そこには大きな違いがある。C君の供述はいくら活劇的で複雑に構成されていても、その全ての素材は、彼の日常生活の中に存在している。その日常的な素材を組み合わせることは、C君の能力を越えたものではなかった。
 ところがEさんの場合はまったく異なる。「証人の構成能力を越えた供述は真実である」(A・Trunkel『証言の中の真実』)を引き合いに出すまでもなく、マンホールの蓋の開け方、汚水の飛沫、浄化槽の中の様子など、現実に経験した者でしかできない描写が見られる。また、こうした事柄が捜査官によって、示唆・誘導が行われる可能性が全く存在しない以上、このE供述は事実と見ていいだろう。
 この供述は彼女にとってよそ事ではない。この転落事故の責任の、すくなくとも一部は、Eさん自身の行動が関わっている。それだけに、このことを他人に告白することは、彼女にとって不利益であり、苦痛であったはずである。他の園児供述と異なり、3年間もこのことに口を閉ざしていた十分な理由があると言うよう。

 このE供述の意味するところは大きい。山田さんがm.転落を見ていた、とする検察の「s.殺害の動機」の筋書きは、これによって完全に崩れ去ったと言えよう。
 その他、胃の内容物から、m.さんの死亡は食後2〜3時間とされている。正午の昼食時間を基点にすれば、死亡時刻は3時前後ということになり、Eさんの供述には符合するが、夕食の直前に落ちたとする検察のストーリーに合わない。
 しかしそれだけではない。浄化槽の上で子供たちが日常的に遊んでいたことが、園児の証言や職員の日誌記録にも見られる。事実、二人の溺死体を引き上げ、浄化槽の内部をさらったところ、石ころ、つめ切り、カギ、ボルト、下着など、子どもたちが投げこんで遊んだ物がたくさん見つかった。園児たちは浄化槽で、しかもマンホールの蓋を開けて遊んでいた事実が証明されたのだ。
 警察は、「マンホールの蓋は重くて、園児たちには開けられない」「相次いで二人の園児が同じ場所で死亡し、蓋が閉じられていたから殺人事件だ」という思いこみから、この事件をスタートさせた。17日のm.事件が「転落事故」であったことが明確になった以上、このスタートの根本が崩れたと言える。いまだ、19日の「s.死亡事件」の真相は謎である。しかし、17日に引き続く転落事故の可能性を否定することは出来ない。「連続殺人事件」という、この甲山事件そのものが虚構であったと言えるのではないだろうか。




 2-8 三つの無罪判決

 この甲山裁判は20数年という歳月をかけて、幾つかの裁判所で幾つかの判決、或いは決定を経てきた。
被告たちが起訴されたのが1976年3月。神戸地裁で9年半の審理の後、1985年10月、完全な無罪判決が出された。
 それにもかかわらず検察は大阪高裁へ控訴し、1990年3月大阪高裁は審理のやり直しを命ずる「差し戻し判決」を下した。この判決を不当・不服として弁護団は最高裁判所へ上告、最高裁は口頭弁論を開くこともなく、1992年4月、たった数行の「上告棄却決定」をくだした。この「決定」によって裁判は二審大阪高裁判決の命ずるとおり、再び神戸地裁での審理をやり直すこととなった。
 この差し戻し審は1993年2月に始まり、5年間、70回の公判を経て、1998年3月再び、2度目の完全な無罪判決を勝ち取った。ところが検察は世論の批判を押し切って、この無罪判決に対しても2度目の控訴を強行した。
 1999年1月に始まった第2次の大阪高裁の控訴審は、わずか2ヶ月、5回の公判で審理を終えた。
 判決の予定は、山田さんが9月29日、荒木さんが10月22日、多田さんが10月29日と決まった。今回の大阪高裁の判決は、必ずや3度目の無罪判決が出されるであろうことを期待している。
 この甲山裁判はその長いプロセスのなかで、刑事司法の制度自体に対して、多くの問題が顕現してきた。次の章でも触れるように、被疑者の取り調べと代用監獄の問題、「自白」偏重の捜査の問題、検察の手持ち証拠の開示の問題、裁判のあまりの長期化による司法、刑罰の実効性の喪失の問題、被疑者・被告の「推定無罪」の原則とマスコミを含めた社会的な人権意識の欠如の問題、等々である。
 ここでは二つ、具体的な問題を提示したい。1999年3月、第2次の控訴審の結審にあたって、弁護団の最終弁論が行われ、古高主任弁護人は裁判所に対して、次のようにしめくくっている。それは、冤罪事件の被害者・被告を救済する制度的な補償を設けるべきであること。そしてもう一点、長期裁判の主原因たる検察官の上訴権に対して、禁止もしくは制限を法制度的に設けるべきである、と具体的な提言を行っている。そして大阪高裁は、憲法の理念に基づき、この提言についての意見(立法審査権)を判決の中に盛り込むことを要求したのである。この秋に出される甲山裁判の判決において、「無罪」のみならず、これらの諸点について裁判所がどのような判断を示すかと言う点も、大きな関心事となるのである。そうした意味でも、判決に注目してほしい。
 山田さん、荒木さん、多田さんという、名もない一市民の人権が侵害され、歪められた20数年の歴史が「冤罪・甲山事件」である。この小さな事件が日本の司法制度を震撼させ、ひいては人権をみずからの手によって勝ち取ることの社会的な意味を示したと言えるであろう。最終的な無罪判決と、この裁判の提起した数々の成果について、日本のみならず、世界の共有財産とならんことを希望する。  この甲山裁判は23数年という歳月をかけて、幾つかの裁判所で幾つかの判決、或いは決定を経てきた。
 被告たちが起訴されたのが1976年3月。神戸地裁で9年半の審理の後、1985年10月、完全な無罪判決が出された。
 それにもかかわらず検察は大阪高裁へ控訴し、1990年3月大阪高裁は審理のやり直しを命ずる「差し戻し判決」を下した。この判決を不当・不服として弁護団は最高裁判所へ上告、最高裁は口頭弁論を開くこともなく1992年4月、たった数行の「上告棄却決定」をくだした。この「決定」によって裁判は二審大阪高裁判決の命ずるとおり、再び神戸地裁での審理をやり直すこととなった。
 この差し戻し審は1993年2月に始まり、5年間、70回の公判を経て、1998年3月再び、2度目の完全な無罪判決を勝ち取った。ところが検察は世論の批判を押し切って、この無罪判決に対しても2度目の控訴を強行した。
 1999年1月に始まった第2次の大阪高裁の控訴審は、わずか2ヶ月、5回の公判で審理を終えた。判決は山田さんが9月29日、荒木さんが10月22日、多田さんが10月29日、それぞれに3度目の完全な無罪判決がなされた。さすがの検察も最高裁への上告を断念し、3人の無罪判決は確定し、長い裁判もやっとその幕を下ろした。
 この甲山裁判はその長いプロセスのなかで、刑事司法の制度自体に多くの問題があることを顕現させてきた。次の章でも触れるように、被疑者の取り調べと代用監獄の問題、「自白」偏重の捜査の問題、検察の手持ち証拠の開示の問題、裁判のあまりの長期化による司法、刑罰の実効性喪失の問題、被疑者・被告の「推定無罪」の原則とマスコミ報道を含めた社会的な人権意識の欠如の問題、等々である。
 ここでは二つ、具体的な問題を提示したい。1999年3月、第2次の控訴審の結審にあたって弁護団の最終弁論が行われ、古高主任弁護人は裁判所に対して、次のように締めくくっている。それは、冤罪事件の被害者・被告を救済する制度的な補償を設けるべきであること。そしてもう一点、長期裁判の主原因たる検察官の上訴権に対して、禁止もしくは制限を法制度的に設けるべきである、と具体的な提言を行っている。
 裁判の長期化がむしろ法制度に問題があり、無罪判決後の国家賠償が十分に機能していない現状は、被疑者・被告にさらなる苦しみを与える。また、そうした冤罪被害の悲惨やその犯罪性を、社会全体の問題としないかぎり、冤罪事件を根絶させることはできないだろう。
 山田さん、荒木さん、多田さんという、名もない一市民の人権が侵害され、歪められた20数年の歴史が「冤罪・甲山事件」である。この小さな事件が日本の司法制度を震撼させ、ひいては人権をみずからの手によって勝ち取ることの社会的な意味を示したと言える。この裁判の提起した数々の成果と問題は、私たちにたゆまぬ闘いの方向を示したのではないだろうか。この一つの事件が、その教訓が、社会の共有財産とならんことを希望する。




    第3章 「甲山事件・裁判」から見た日本の刑事司法



 3-1、冤罪の背景 ― 捜査、裁判と報道の問題点

 どうして無実の人が逮捕され、また裁判にかけられるのか。
 日本における根本的な問題は、人権を擁護することを含めて、<お上>による社会の治安・秩序の独占的支配にあるであろう。市民の自己防衛権は皆無にひとしく、犯罪に対する警察権はすべて警察の専権として、社会的に認知されている。こうした社会に対して民衆の参加意識の希薄さは、警察署長や検事が市民の投票によって選ばれるアメリカの社会とは大きな隔たりがある。それに加えて、個人の権利・尊厳よりは、社会的・集団的利益を優先するという社会的風土と、警察権行使の底流にある「必罰主義」や「糾問主義」といったものが、往々にして行き過ぎた権力行使を生み出しているのでる。
 このように日本では、冤罪を生むもっとも大きな背景に、人権という概念が定着していない未成熟な社会がある。まず、被疑者に対する人権=人間的諸権利が実行されていないことが上げられる。アメリカにおける逮捕時の被疑者の諸権利を告げる「ミランダ告知」のような制度は日本には無い。弁護士が立ち会うことのない密室で取り調べが行われ、その調書が「証拠」としてまかり通る。現在、日弁連などが、起訴前の被疑者にも国選弁護人が付けられるという法制化を目指している。しかし弁護人にまで接見禁止指定を行える現在の検察制度がある限り、被疑者の人権が守られているとは言い難い。
 捜査においても往々、当初抱いた仮説に固執したまま突っ走る。それも捜査官の意図や仮説に沿った被疑者の自白を取ることに専念する。加えて、事件関係者が間違った目撃者にされてしまう。そうした例は枚挙にいとまがない。ほとんどの冤罪事件は「嘘の自白」から始まると言っていいだろう。この「自白」を得るために、安易な逮捕が行われ、「代用監獄」(3-2項で詳説)で厳しい尋問を受ける。代用監獄では、逮捕された被疑者は四六時中警察の監視下に置かれ、警察の都合のままに長時間の取り調べが行われる。そして、その自白調書が、裁判において検察の有罪立証の有力な証拠となる。だからいっそう、警察・検察は自白を取ることを目的とした捜査に偏って行くのである。捜査における「自白偏重」の問題は、現代の日本においても「証拠の王」と言われるほど、証拠の中核をなしているのだ。
 
 また、起訴された後も、「無罪推定」という刑事訴訟法の原則は実現されていない。検察官は日本における有罪率の高さを誇りとし、裁判官も、検察の公訴提起に間違いはないだろうといった暗黙の了解から、審理を開始する。裁判官の中には、弁護人や被告人は言い逃れの嘘をつくもの、という観念があるように見える。マスコミを含めた社会的な評価・判断もおおむね、被疑者や被告を「有罪推定」としてとらえているのが現状である。
裁判官に弁護士経験を踏ませる制度はなく、裁判官と検察官との交流が頻繁に行われる現在のシステムの中では、両者の密接な親和感・法曹一体感は当然な成り行きと言えるだろう。しかし、これが誤判・冤罪の温床になっていることも確かなことである。
裁判が開始されても、被告の制度的な不利益は続き、冤罪を晴らす方法はせばめられている。一番重要な問題は「証拠開示」であろう。法律上、公僕としての検察官は「実体的真実の追究」を使命としている。そうであるならば、捜査の過程で収集されたすべての証拠を開陳する義務があるはずである。ところが実体は、検察にとって都合のいい証拠、つまり有罪にするための積極証拠しか出してこない。被告の無実を示すような都合の悪い証拠は、その存在すら明らかにはしない。いやむしろ、隠すといった方が正確であろう。弁護人が証拠の開示を要求しても、検察官はにべもなくはねつける。
 カナダにおいては、一つの冤罪事件を教訓として、裁判開始前に全ての証拠の開示を検察に義務づけている。甲山裁判の場合、弁護側が証拠の開示を要求したところ、検察官は「弁護人の証拠あさりだ」とまで言ってのけた。裁判所も、ほとんどの場合開示命令は出さない。証拠収集においても、早期から、公権力を用いた捜査を行う検察と、弁護人の無力にも思える地道な反証とでは、絶対的な力の差がある。裁判所はこのことを無視し、検察側弁護側の「当事者主義」という<平等>を持ち出して、検察を庇護するのである。
 刑事司法の原則的法諺である「99人の犯人を逃しても、1人の無辜を罰してはならない」という理念は、残念ながら日本では存在していないのである。
 
 被疑者に対する断定的な「犯人視」は、警察・検察内部だけの問題ではない。マスコミ報道やその影響下にある社会全般において、この「犯人視」「有罪視」は徹底していると言っていいだろう。冤罪発生におけるマスコミの加担は、過去も、そして現在も例外なく起こり続けている。
 日本では、一度警察に逮捕されたり、ましてや起訴されるとなると、社会的に「有罪」の烙印を押されてしまう。そうした風土・風潮に乗り、むしろ助長しているのがマスコミである。警察は記者会見の場で、自分たちが逮捕した被疑者がいかに「真犯人」であるかを発表をする。その警察発表を、マスコミはほとんど疑うことなくメディアに乗せる。独自取材の努力はなされず、逆に警察発表に疑義を挟むような報道をすると警察当局からにらまれる。そうなると公式発表以外に、他社に抜きんでたスクープを警察からリークしてもらえなくなってしまう。警察の秘密主義と情報の独占主義が、マスコミと警察との馴れ合いの病根であるのは確かだ。自己権力化したマスコミは、一人ひとりの人権から物事を見るといった、ジャーナリズムの公権力の監視機能という側面を放棄してしまったのではないだろうか。



 3-2、代用監獄

 近年、日本の代用監獄の問題が、国連の規約人権委員会でも議題となっている。
 日本の刑事訴訟法では、警察官が犯罪の容疑ありとして被疑者を現行犯や逮捕令状で逮捕すると、48時間以内にその身柄を釈放するか、検察官に送るかしなければならない。事件の送致を受けた検察官は、引き続き身柄拘束の必要があると考える時は、更に24時間以内に裁判官に勾留請求をしなければならないとされている。そして、裁判官が必要と認めて勾留決定すると10日間の勾留が認められ、更に請求によって10日間勾留延長できる。しかもこの勾留及び勾留延長が常態化しているのが現状で、したがって、通常の犯罪の場合、被疑者の身柄拘束から起訴まで、最大限23日間拘束されることになるのである。
 身柄が拘束されている間、本来の建前では、逮捕されている期間は警察の留置場に留置され、検察官への送致を経て、裁判官の勾留決定が出た後は、法務省所管の拘置所に留置されることになっている。しかし、日本の捜査実務では、逮捕された被疑者のほとんどは捜査の便宜などの理由により、送検、勾留決定後も引き続き警察署の留置場に留置されたままになる。その法律的根拠は1908年に制定された監獄法1条3項の「警察官署二付属スル留置場ハ之ヲ監獄ニ代用スルコトヲ得」という規定にある。つまり、留置場を拘置所の代用に使うことができる、というのが「代用監獄」である。

 捜査機関が国内外から厳しく批判を浴びているにもかかわらず、代用監獄に固執する理由は、被疑者の身柄を捜査当局の管理する留置場で拘束し、就寝を含めて四六時中、物理的・心理的支配下におき、厳しく取り調べ、自白を得て事件を解明する、という効率的で安直な捜査方法を維持したいためである。
 他方、拘置所での勾留の場合、警察は被疑者を取り調べる度に、拘置所長に対して取り調べの許可、身柄移送の許可を申請しなければならず、警察の都合による長時間の取り調べはやり難くなる。
 このように代用監獄を利用した取り調べでは、連日長時間、しかも外部との連絡を絶ったうえで、被疑者を肉体的にも精神的にも疲労困憊させ、自白を強要するという取り調べ中心の捜査が横行する。そして、弁護人との接見(面会)交通権や黙秘権などの権利侵害や、強要された虚偽自白による誤判=冤罪の温床となるのである。
 山田さんは逮捕後、兵庫県警察本部の地下にある四畳半(約7u)ほどの広さの取り調べ室に連れていかれ、以来、釈放されるまでの22日間、連日、そこで長時間の取り調べを受けた。
 取り調べには常に3人の警察官が当たり、狭い取り調べ室で、山田さんを三方から取り囲むようにして行われる。取り調べは1日の休みもなく、連日午前9時前後から10時間前後行われ、最も遅い時には午後11時30分まで行われたことが記録に残されている。休憩、食事なども取り調べ室内で、捜査官の同席する中で行われており、山田さんにとっては、たえず緊張を強いられるという状態であった。
 他方、捜査官は、弁護人との接見は徹底的にこれを妨害した。弁護人が山田さんの留置場所を問い合わせても、当初は教えず、申し出があっても接見させず、捜査官にとって取り調べに影響のない時間帯に、わずか10分から30分ほどの接見しか認めなかった。虚偽の自白を強要されていった背景には、代用監獄における不十分な弁護人との「接見交通権」が指摘できるのである。



 3-3、長期裁判と検察上訴

 日本国憲法の37条には「被告人は、公平な裁判所の、迅速な公開裁判を受ける権利を有する」とある。
甲山裁判は78年6月神戸地裁での審理に始まり、大阪高等裁判所、最高裁判所、二度目の神戸地裁、そして二度目の大阪高等裁判所で現在も判決を待つ状態にある。すでに21年を経過した訳だ。メーデー事件、八海事件を越えて、日本の刑事裁判史上最も長い刑事裁判となった。この甲山裁判は、もはや憲法に定められた「迅速な裁判をうける権利」に違反していることは間違いないことである。
 山田さんへの検察官の求刑は懲役13年、殺人罪の時効は15年、それらをも超えた長期裁判に、はたして裁判を行う意味、刑罰としての意味が存在するのであろうか。

 何故このような違法状態が継続しているのかについて、幾つかの理由が考えられる。
 甲山事件に即して言えば、大阪高等裁判所の差し戻し判決がその理由の一つであろう。大阪高裁は差し戻しの判決をせず、自ら事実調べをして判断すべきであった。
 しかし長期裁判の主たる原因は、高等裁判所や最高裁判所への検察の上訴権を認めている制度に問題がある。これこそが日本における長期裁判の最大の原因なのである。
 
 検察・警察は大量の捜査員を投入し、強制捜査権という公権力をもちいて捜査、証拠の収集を行い、有罪立証の確信を持って公訴提起=起訴を行うのである。それに比べて被告人は、起訴されてからあわてて弁護人を依頼し、無罪の、反対証拠を収集する。そうした大変な努力の末に、やっと勝ち得た無罪判決なのである。この絶対的な力量の差を無視して、検察にも被告と同じ控訴権・上訴権を認めることは、あまりに不公平と言わなくてはならない。つまり、無罪となった被告人がもう一度、上級審において防御活動を余儀なくさせられる、というのは、被告人にとって耐え難い苦痛と負担、恐怖を意味するのである。
 一方で、日本国憲法は第39条<刑法の不遡及・一事不再理>で、『何人も、実行の時に適法であった行為または既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。』と、二重危険の禁止を規定した条項を設けている。この条文の解釈についてはさまざまな学説がとなえられるが、少なくとも「同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない」という箇所に関しては二重危険の禁止を言ったものと解するのが自然であろう。そのことは、「和文日本国憲法」のもととなった「英文日本国憲法」の条文をみればいっそう明らかである。
 
日本国憲法第39条の起草は1945年12月6日の「ラウエルレポート提案」 ―No ex post facto criminal law shall be valid. An accused … shall not be placed in jeopardy twice for the same offense.(事後処罰法は無効とする。被告者は、同一の犯罪につき二重の危険にさらされることはない。)―にはじまり、GHQ第1試案から第3試案を経て、1946年2月12日の「マッカーサー草案」に至った。
 その英文日本国憲法では--No person shall be held climinally liable for an act which was lawful at the time it was committed or of which he has been acquintted, nor shall he be placed in double jeopardy.(何人も、実行の時に適法であった行為又は刑事訴追から放免された行為については、刑事上の責任を問われてはならない。また二重の危険の状態におかれてはならない。) と明確に二重危険の禁止が謳われている。ところが和文日本国憲法では『何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。』と、二重危険の概念をあいまいにし、翻訳される際に、《一事不再理》の概念にすりかわってしまったのである。

 1950年9月27日、憲法制定後初の39条後段の意味を問う上告審の、大法廷判決が言いわたされた。判決は言う、「元来一事不再理の原則は、何人も同じ犯行について、二度以上罪の有無に関する裁判を受ける危険に曝されるべきものではないという、根本思想に基づくことは言うをまたぬ。そして、その危険とは、同一の事件においては、訴訟手続の開始から終末に至るまでの一つの継続的状態と見るを相当とする。されば、一審の手続も控訴審の手続もまた、上告審のそれも同じ事件においては、継続せる一つの危険の各部分たるにすぎないのである。従って同じ事件においては、いかなる段階においても唯一の危険があるのみであって、そこには二重の危険(ダブル、ジェパーディ)ないしは二度危険(トワイス、ジェパーディ)というものは存在しない。それ故に、下級審における無罪または有罪判決に対し、検察官が上訴をなし有罪又はより重き刑の判決を求めることは、被告人を二重の危険に曝すものでもなく、従ってまた憲法39条に違反して重ねて刑事上の責任を問うものでもないと言わなければならぬ。」
 この判決が、憲法39条は二重危険禁止にも通ずる思想を備えているとしながら、その危険とは裁判の開始から確定判決までの一連のもので、控訴審であれ、上告審であれ、一審からの一つの危険が継続しているだけだという「危険継続論」を採用し、これが判例化されて今日に至っているのである。
 いずれにしても、日本の司法は憲法施行から1年2ヶ月後、刑事訴訟法に検察官上訴を許す条文を残すことになった。上訴制度の目的が被告人の救済にあるという視点に立つならば、検察官控訴が許されるべきでないことは言うまでもない。日本と同じ大陸法のドイツでさえ、殺人事件のような重罪事件は3人の職業裁判官と2人の参審員で構成される「陪審裁判」が行われ、その判決に対してはいっさい控訴できないと聞く。そうであるならば、英米法、大陸法を問わず世界では検察官控訴は制限されているのであって、日本はこの点において立ち遅れていると言わざるをえない。
 日本国憲法第39条は、二重危険の禁止というすぐれた思想を備えているのである。世界に誇るべきこの憲法を、解釈論で骨抜きにする愚はもうやめにして、検察官上訴を許している今の刑事訴訟法を、本来の憲法の理念にかなうものに改めるべきであろう。そのことが、間違った裁判の早期の是正と、被告たちの一日も早い人権回復へとつながるのである。

以上




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